燈火親しむの候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。 さて、本年度の後期会員セミナーは、12月8日を予定しておりますが、講師は、元広島法務局長で、最高検検事で退官後、公証人(溝ノ口)を務められ、退任後は、日本大学大学院法務研究科教授(刑訴)として教鞭を執られていた会員の加藤康榮先生にお願いしております。講演テーマは未定ですが、本年6月導入され司法取引制度についてお話いただけるものと思います。(NN)
今 日 こ の 頃
このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。
爺爺(GG)力(佐々木 暁)
私の亡父(大正9年生)は、私(昭和22年生)が物心つく頃には、それまでの馬追業(馬そり又は馬車を使って、山奥から伐採した樹木をトラックが入山できるところまで、馬で運び出す仕事)から自動車運送業に転業した。要するに輸送手段を馬から車に替えたのである。 どうやら父は、馬追より戦後急速に普及し始めた自動車を運転する方がカッコ良いと思ったようである。流行り物に敏感だったようでもある。その証拠に父のすぐ上の兄、伯父、甥などは、その後もしばらくは馬追を続けていたからである。何よりも馬の世話をしなくて良いし、馬糞の臭いよりガソリンの臭いの方がまだ良い。車は、まさに時代の先端を走っていたのである。 そんな流行り物好きの父ではあったが、車はとにかく大事にした。最初の車は、くろがね社の三輪車、その後マツダの○ハンドルの三輪車、四輪車と乗り換えて行ったと記憶している。私はいつも父の運転席の隣の助手席にいた。三輪車の時は雨や風がまともに当たった。父はこれらの車の修理、車検の下準備などの一切を一人でやっていた。田舎の国道は舗装されていなくて、いつもパンクしていた。それらの修理も全部自分でしていた・・・否、半分は、3分の1は私もいつの間にか手伝わされていた。小型トラックのタイヤのチューブを取り出すのは容易ではない。空気を入れるのも、やや大きめの空気入れで千回近く押すこととなる。修理工場は遙か隣町である。従って、車庫には修理工場に負けないくらいの工具があった。 父は、今思うと、専門の整備士よりも知識も技量も持ち合わせ、かつ、すべてのことに器用で、何事にも、かっちり・きっちり屋であった。 そのことが家族や周りの人々にとって災いの元でもあった。合わせものはどこまでもピッタリと、真っ直ぐなものはどこまでも真っ直ぐに、結び目はどこまでもキツく、揃えるものはどこまでもキッシリと、弛み、緩み、不揃い等々は一切許されない。OKが出るまで何度でもやり直しである。子供ながらに反骨精神豊かになったことは言うまでもない。が、父の仕事振りを見ていると、それらのことを難なくやっているのである。しっかりとやるだけに悔しかった。 私も成長し、中学生の頃は自転車(スポーツタイプ)、高校生の頃はバイク(ホンダ125CC)をアルバイトで得た報酬で購入して通学の足とした。隣町の学校まで約8㎞の道程を雨の日も風の日も乗った。国道は卒業まで舗装されることはなかった。従って、よくよくパンクした。全部自分で修理したことは言うまでもない。いつの間にか門前の小僧となっていた。パンクはもちろん、ブレーキの故障、チエ―ンの外れ、ライトの故障、バッテリーの充電、プラグの点検・修理等々の簡単なことはお手の物となっていた。 田舎育ち故、家業の手伝いは半強制的であり、近所の家の仕事の手伝いも当たり前の日常であった。そのおかげで大体の仕事のお手伝いはできるようになっていた。仕事は違っても要領や段取りは共通点が多い。おかげで成人となり、社会人、組織人、家庭人となっても、幼少の頃からの経験が大いに役立ち、大抵の修理や作業は自分で手がけることができる。このことだけは、亡き父に感謝している。 私が法務局に入った頃(昭和41年)からしばらくは、人事異動期の引っ越し作業、新営庁舎への移転作業が頻繁にあった。この時の段取りや荷造りは、本務以上に力を発揮したものである。 そして古稀を迎えた今、少しは何かに役立っているのだろうか。家庭内修理はほぼ完璧にこなしていると自負しているが、一番は、自転車修理である。パンクはもとより、ブレーキ、ライト、もろもろの箇所の修理である。 土・日はもちろん普段でも近所に住む孫・子らが壊れた自転車を押してくる。妻や自分の自転車も当然である。爺ちゃんは自転車屋じゃないと言いながらも孫らの直った時の笑顔が見たくて、いつの間にか工具を手にしている。ただ、車に関しては、今の車は、かすり傷程度は何とかごまかせても、その他のことはボンネットを開けてもさっぱり解らない。せいぜいがオイル点検とバッテリーとウオッシャー液の点検位である。下手に触ると故障の原因?になる。パンク修理もタイヤの構造自体がよく解らないので手を出さない。 かくして、団塊世代の筆頭爺爺にとっては、戦後の田舎で生きるための生活の中での小さな知恵や経験が、そして親の背中から授かった生活の知恵が細々と引き継がれて、今は小さな爺爺力となっているような気がする。修理だけではなく、料理、畑仕事、漁師仕事も教えられた。というよりやらされて体が覚えていた。襖張り、障子張りはお手の物である。 孫に対する爺爺力は、自転車修理の他は、野球・卓球・テニス・水泳(太平洋に限る?)・スケートまでは、ぎりぎり発揮できると自分では思っているが・・・日々(年々ではない)下降線上にある。それでもこの夏も、孫にせがまれ、カブトムシ・クワガタの採集に、大いに爺爺力を発揮して見せたものである。しかし、最近、爺爺の心を深く傷つける情報に出会うこととなる。「パンクしない自転車(タイヤ)」の出現である。参りました、残念である。 でも、でもである。孫らは日々成長する。その過程で、いつか心がパンクすることもあろう、傷つくこともあろう。その時は、いつでも心の修理ができる、必要とされる爺爺力を身につけながら、年を重ねていきたいと思うこの頃である。 さて、自慢の限り、背伸びの限り、思いつく限りの爺爺力を掲げてみたものの最早限界が見えている。会友の皆様もどうせ喜寿までもたない爺爺力だから許してやろう、言わせておこうと思ってくださっていることに感謝しながらこの辺で終わりとしたい。 我が身を我が心を古稀の風がゆっくりと流れてゆく・・・・。 さて、会友の皆様はどんな爺爺(GG)力をお持ちでしょうか。
夢受け継いで50年 未来へ羽ばたけ小笠原(佐藤 努)
本年7月、念願であった小笠原諸島を訪島しましたので、ここにご紹介させて頂きます。 1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受託し、日本は、連合国軍最高司令官総司令部、所謂GHQの占領下におかれ、この被占領状態は1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約発効まで続きます。同条約の発効をもって国家としての全権を回復することになりますが、誠に遺憾なことに、日本のすべての領土において主権が回復した訳ではありません。ご承知のとおり奄美群島、小笠原諸島、沖縄県は、引き続きアメリカの施政権下におかれ、奄美群島は講和条約発効翌年の1953年(昭和28年)12月に、小笠原諸島は講和条約発効から何と16年後の1968年(昭和43年)6月に、そして沖縄県はそれより更に4年遅い1972年(昭和47年)5月に、やっと日本復帰が果たせたのです。 沖縄県には、復帰前にも、また復帰後にも私的に幾度となく旅行しましたし、数回出張もさせて頂きました。奄美群島には2003年(平成15年)10月に、奄美大島に出張させて頂く機会がありましたが、偶然にもこの年は奄美群島日本復帰50周年の記念の年に当たり、同年11月には奄美大島で記念式典が開催されています。そして、今回旅行した小笠原諸島も、今年は日本復帰50年目に当たり、6月30日には父島で、7月1日には母島で、それぞれ記念式典が開催されています。因みに、本稿の標題は、小笠原諸島父島に掲げられていた横断幕の標語を借用させて頂きました。 ────────────────────────────── 始めに、旅行中に得た知識も踏まえて、小笠原諸島について若干ご紹介させて頂きます。 小笠原諸島は、父島、母島のほか、今なお海底火山活発な西之島、日本最南端の島である沖ノ鳥島、また最東端の島である南鳥島、更には悲劇的な激戦地となった硫黄島など、大小30余の島々からなり、南北約400キロメートルにも達するとのことです。また、東京都とは言え、東京都心部から小笠原諸島の中心となる父島までは、南南東に約1000キロメートルもあり、東京・鹿児島間が約960キロメートルですので、それより少し遠いことになります。父島の緯度は沖縄とほぼ同じ27度4分、村役場が所在し、小中高等学校が各1校宛あります。面積は23.45平方キロメートル、人口は約2000人、島民が居住しているのは、この父島と母島だけです。7月の気候ですが、最高気温は東京より3度程低く、最低気温は3度程高いとのことですし、降雨量は東京の約3分の1とのことですので、東京より快適な気候とも言えるでしょう。 戦時中、父島には海軍飛行場が建設され、零戦が配備されていたとのことですが、現在の父島に飛行場はありません。飛行場建設は島民の悲願であるものの後述するように世界自然遺産であることもあってか、都との交渉は思うように進展していないようです。従って、小笠原諸島訪島には客船を利用するしかありません。東京・竹芝桟橋と父島・二見港間に定期便「おがさわら丸」が運行しています。原則として6日で1往復、最短で5泊6日の日程となりますが、片道に約25時間を要するため、父島滞在は正味2日間となります。 ところで、2011年(平成23年)小笠原諸島は世界自然遺産に登録されました。これは、小笠原諸島では、海洋性孤島の形成と進化の過程をプレートの沈み込みの初期段階から現在進行中のものまで見ることができること、また、限られた面積の中で独自の種分化が起こり数多くの固有種がみられ、特に陸産貝類や植物、昆虫類においては、今なお進行中の過程を見ることができること(これは「適応放散」と言われ、特にカタツムリのカタマイマイ属が有名です。樹上性、地上性などの生態型により形態変化が見られ、化石種を含めて、過去から現在までの進化系列や種多様性の歴史的変遷を追うことができるとのことです。)、さらに、小さな海洋島(大陸と一度も接したことのない島)でありながら独自の種分化をとげた結果、高い固有種率となっており、世界的に重要な絶滅のおそれのある種の生育・生息地でもあることなどが評価されて登録されたとのことです。小笠原諸島の固有種は、前述のとおり天敵や競争相手の少ない海洋島の中で進化してきたことから、決して強い存在ではなく、外来種の進入に抵抗できず、個体数を減らすことになり(絶滅した種もあるとのことです。)、現在、外来種を持ち込まないようにするだけでなく、既存の外来種の駆除や捕獲対策も実施しています。 ────────────────────────────── 次に、私の旅行をご紹介させて頂きます。今回は、ちょっと贅沢をしてクルーズ客船・飛鳥Ⅱを利用して小笠原諸島父島に行ってきました。5泊6日の行程で、父島には2日間停泊します。旅行初日、夕方に横浜港大桟橋を出航し、2日目は1日中クルージング。船内では、サルサ楽団として世界的に有名なオルケスタ・デ・ラ・ルスのスペシャルステージを楽しみ、また、小笠原諸島が世界自然遺産に登録する際、推薦書を作成された脇山成二氏(一般社団法人自然環境研究センター上席研究員)の講演を拝聴しました。船上での時間に飽きること無く瞬く間に2日目が過ぎ、3日目の早朝には、父島・二見港に入港しました。二見港には全長200メートル以下の船舶しか接岸できないため、錨泊(ブイ係留)となり、飛鳥Ⅱに常備されている救命艇兼用のテンダーボートで上陸することになります。 父島での1日目、早速、遊漁船にて父島の南西約1キロメートルの沖合に浮かぶ南島及びその周辺海域を観光しました。南島の周辺海域は世界自然遺産区域であり、南島自身は国の天然記念物の指定を受け、厳しい上陸制限が課されています。南島への往路、幸運にも海上を飛ぶトビウオや海中を泳ぐウミガメに遭遇し、また、海岸淵には戦時中日本軍が設営したトーチカが見られました。遊漁船の若い船員によれば、このトーチカはアクセスが大変なものの夕日が美しく、恋人達のデートスポットになっているとのことです。南島は0.34平方キロメートルの小さな無人島ですが、周辺には大小、様々な岩礁が隆起し、カルスト地形が海中に沈降した沈水カルスト地形が見られる貴重な区域となっています。南島及びこれらの岩礁には、鋭く尖った岩(「ラピエ」)が幾重にも見られ、また、荒波によって浸食された洞穴があるなど、透明感のある青く美しい海上に幾つもの奇岩が居並ぶと言った絶景に感嘆しました。写真マニアでない私であっても、シャッターを切りまくってしまいました。南島には残念ながら上陸しませんでしたが、同島にある窪地(「ドリーネ」)は扇池と呼ばれ、真っ白な砂浜(この砂浜、アオウミガメの産卵場所とのことです。)に囲まれた美しい水辺と青い海が大地を砕いた洞穴で繋がっていると言う風景は、スタジオジブリ作品「紅の豚」の隠れ家のモデルになったと言われています。 昼食は父島の中心地である大村に戻り、小笠原諸島での食文化の知見を深めるべく、有名な洋辛子を使用した島寿司と、カメの刺身を食べてみました。島寿司は不思議にも何の違和感も無く食べられましたし、またカメの刺身は赤身で臭いも無く、弾力があって美味しいものでした。 午後は、文禄2年(1593年)に創建された大神山神社をお参りしました。宮司さんは研修中のため不在でしたが、居られるときはタコノキ(固有種)の葉細工でできたウミガメのお守りをいただけるそうです。この神社、200段近くある階段を登った高台にあるので、二見港や珊瑚礁による美しい海岸である大村海岸を観望でき、南国の青く清々しい風景を楽しむことができました。 父島2日目は、小笠原諸島における自然、歴史、文化に関する情報を収集すべく、大村海岸沿いに建設された「小笠原ビジターセンター」に行きました。同センターには、戦前・戦後の島民の生活を知る貴重な写真や資料が展示されていたほか、世界自然遺産に関するDVDも放映され、大変勉強になったのですが、残念なことは全て撮影禁止となっていました。 午後は、折角小笠原諸島に来た以上は海水浴を楽しもうと、大村からバスで20分程の小港海岸に行きました(この小港海岸のバス停は、東京都最南端のバス停とのことです。)。小港海岸は白い砂浜が300メートル程続く、波穏やかな開放感のある海岸で、素足でも遊泳できます。海岸には、飛鳥Ⅱに乗船してきた旅行者10名程しかいない上、海水浴を楽しんでいるのは外国人の老夫婦と私と妻の4人程で、プライベートビーチのような、ゆったりとした贅沢な時間を過ごすことができました。岩場でのシュノーケリングでは、南海の色鮮やかな魚は見られなかったもののナマコが居たのには仰天しました。 こうして父島での2日間も終わり、夕方には、係留していた縄を解き、飛鳥Ⅱは帰路に就くのですが、その際、多くの遊漁船等が併走し、南島を案内してくれた若い船員を含む多くの島民の方々の見送りを受けました。お互いに、大声で、別れとお礼の言葉を交わしていると、ほんの一瞬の出会いであったにも拘わらず、いや、それだからこそか一層胸が熱くなってしまいました。 旅行5日目はクルージング。船内では、マスコミでお馴染みの脳科学者・茂木健一郎氏による「脳と自然」と題する講演等が開催され、これまた瞬く間に時は過ぎ、6日目の早朝、横浜港大桟橋に接岸、これにて全行程が終了しました。天候に恵まれたこともあって、殊の外海・空ともに青く、心地よい波音など癒やしの時間・空間を体感でき大変満足な旅行となりました。 日本復帰50年、ますます魅力増す小笠原諸島に、皆様も、是非行かれてみては如何でしょうか。
水戸黄門とAI(安田錦治郎)
昭和から平成に時代が変わる頃、私は法務総合研究所事務局三課で法務局職員を対象とした研修業務に従事していました。当時は研修カリキュラムも余裕があり、研修半ば頃、研修生、教官、事務局担当者が一緒に箱根まで足を運び一泊して親交を深める一大行事がありました。 夕刻になると懇親会が催され、恒例の出し物大会が始まります。ブロック対抗で工夫を凝らした出し物が披露され毎回おおいに盛り上がります。旅館からクレームが寄せられることも少なくありませんでした。教官と事務局担当者も出し物を披露するのですが、水戸黄門の寸劇が恒例となっていました。 シナリオは毎回事務局担当者が書き下ろしていましたが、勧善懲悪のワンパターンストーリーといえども、出演者が毎回入れ替わり、それぞれの個性に合わせた話しを展開させていくため、シナリオ創りは悩みの種でした。 研修三部長は大概チンピラ役で、早々に助けさん、角さんに足蹴にされ切り捨てられ、難しい考査問題を出し研修生からは悪評の教官も悪代官か悪党親分役で、最後は土下座といったいつもどおりの展開となりますが、いかに観客受けするかギリギリまで悩み、結局は旅行前日に徹夜してなんとか書き上げ、新宿発のロマンスカーに乗り込むというのが常でした。 懇親会開催の1時間前に出演者全員が部屋に集まり1回だけリハーサルを行い本番に臨むこととなります。もちろん台詞は覚える時間はありませんからシナリオを手に持ちながらの本番ですが、持ち込んだ芝居道具でにわか役者となった教官の皆さんの姿、そしていつも厳しい教官が足蹴にされるさまは、毎回研修生の皆様には大受けで、にわかシナリオ作家の苦労が報われるときでした。
数分間の寸劇でもシナリオ創りにはずいぶんと苦労したものですが、今話題のAI、すなわち人口知能は、小説や作曲といったこれまで人間の専売特許とされてきた創作分野にもどんどん進出してきているようです。水戸黄門のような筋書きがほぼ決まった勧善懲悪ものは、むしろAIの得意とするところのようです。 2045年には、いよいよ人口知能が人知を超える「シンギュラティー(特異点)」を迎えると言われています。人間の配下の存在であったAIが人間の存在を脅かす存在になってしまうかもしれません。 これまでもSF映画では、AIが兵器をコントロールし、人間を支配するといった作品がいくつかありますが、もっとも現実的で恐怖と考えられているのが、人間の仕事をAIが代替してしまうというものです。多くの人間が失業してしまうのではないか、ということが真剣に議論されています。 単純労働の分野だけでなく、むしろ経営者、医師、会計士、教師、法律家などの高度のコミュニケーション能力と高度な専門性が要求される分野こそAIの進出が加速するといわれています。たとえば、社長業務の内、人事業務といった負担の大きい部分はAIに任せ、人間は会社を左右するような戦略的判断に特化する、といったことを研究開発している企業が既にありますし、弁護士の世界でも、アメリカでは膨大な裁判判例を検索するためにAIを活用することが既に現実となっています。近い将来にAIの裁判官、弁護士、AIの公証人が登場することはないでしょうが、遠い将来はどうなることでしょうか。 AIは、法律がこれまで全く想定しなかった新たな問題を生み出すことになるかもしれません。その一つが、高齢者とAIの問題です。昔、AIBOという犬型ロボットがありましたが、ロボットとしての能力は現在に比べかなり低いものでしたが、長年一緒に接していると愛着がわき最後は供養までしてあげる、といった話を聞いたことがあります。 高齢で配偶者を亡くした人はなかなか話し相手を見つけることが難しく、孤立化していくケースが多いといいますが、これを防ぐために話し相手としてAIが活用されていくだろうといわれています。AIは相手に合わせて話し相手になってくれ、どんなわがままも聞いてくれるわけですから、人間以上に愛着がわいてくることは間違いないでしょう。 2045年頃には、人間とAIとの間で、結婚、離婚、相続といった問題が発生し、法律家の頭を悩ます時代になっているかもしれません。
AIの進出がもはや止まることはないでしょうから、人間は、AIとのつきあい方を真剣に考えないといけない時代が確実にやってきます。判断に間違いがなく、失敗もしない、さらには悩みも抱えないAIが支配する社会よりも、失敗や間違いをし、悩みだらけで弱い人間が支え合う、水戸黄門の物語が成立する社会がこれからも続いていくことを願いますが、はたしてそれが許される時代がくるのでしょうか。












