民事法情報研究会だよりNo.64(令和7年1月)

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   新年のごあいさつ
 新年明けましておめでとうございます。
 昨年は、総会・セミナー及び懇親会を6月15日(土)に、セミナー及び懇親会を12月14日(土)にそれぞれ開催いたしました。セミナーの講師をお引き受けいただきました早川智様及び後藤博様並びにご参加いただきました会員の皆様に厚くお礼申し上げます。
そもそも、当研究会が設立されましたのは、法務局を退官された後の全国的な交流の場が少ないことに鑑み、そのような場を提供しようということにありました。また、せっかく皆さんにお集まりいただきますので、ご関心のある話をお聞きいただければということでセミナーも開催しています。そのような趣旨に鑑みますと、出席者が少ない傾向にあることは残念に思われます。6月の会員総会・セミナー・懇親会を第3土曜日に、12月のセミナー・懇親会を第2土曜日に固定していますのも、他の行事と重なることを避けるためでありますので、他の行事を検討されますときにご配慮いただきますと幸いです。
 ただ、遠隔地から来られるのが困難であることは理解できるところでありますが、これから更に年齢を重ねていきますと、一層遠隔地に旅行することは困難となるものと思います。動けるうちにということで今後のご出席をご検討いただきますようお願いいたします。
出席が難しい方のためにという趣旨を込めて、民事法情報研究会だよりを発行しています。日頃お会いできない方の近況を綴った文に接することができますのも、会員であればこそでありますので、少なくとも一度は筆をお執りいただきたく思います。もちろん、何度もお書きいただけることは望外の喜びですので、複数回のご投稿をお待ちしています。お近くの担当理事を中心にサポートさせていただきます。
現在の当研究会の理事・監事は、次のとおりとなっています。
会長・業務執行理事      小口 哲男
副会長・業務執行理事     古門 由久
業務執行理事         佐々木 暁
業務執行理事         横山 緑
業務執行理事         檜垣 明美
業務執行理事(関東地区担当) 余田 武裕
理事(北海道・東北地区担当) 山家 史朗
理事(東海・北陸地区担当)  安田 錦治郎
理事(近畿地区担当)     大竹 聖一
理事(中国・四国地区担当)  久保井 浩美
理事(九州地区担当)     前田 幸保
監事             西川 優
監事             神尾 衞
 上記メンバーにお気軽にお声がけいただきたいと思います。
 最後に、皆様が明るい一年を迎えることができますようお祈りし、新年のごあいさつとさせていただきます。
 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
令和7年正月
        一般社団法人民事法情報研究会会長  小 口 哲男


 

今日この頃

 このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

字は心の鏡(佐々木 暁)

 2025年(令和7年)巳年が明け、会員の皆様には、新たなお気持ちで新しい年をお迎えになられたことでしょう。新年あけましておめでとうございます。初詣には、少ない年金の小遣いの中から、私としては思いっきりのお賽銭を投げ入れて、「今年も健康で無事に一年間過ごせますように」と、一番先に我が身の大事を祈願して、続いて、妻や子・孫らの無病息災を真心をもって?祈願するのが、新年の慣わしです。決して、宝くじの当選や、競馬の大穴狙いが着ますようになどとはお願いしません。会員の皆様におかれましては、先ずは良き伴侶の健康長寿を願い、合わせて子や孫の健康安全を祈り、最後に我が身の健康を祈願されておられることでしょう。
 今年も一月号の「今日この頃」の五回目の担当を編集部のご厚意により仰せつかり、7億円の宝くじに当選したかのような喜びを胸に、遅々として進まぬ筆をクルクル回しては、溜息をついている次第です。
 巳年の「巳」は、古代中国では、「探求心と情熱」を表し、執念深いと言われる蛇ですが、助けてくれた人には恩返しを行うと言われているようです。
 さて、私と言えば、今年の日本の政治・経済、社会生活、そして世界の情勢は何処に向かっていくのだと、新聞・テレビに向かって、一人ブツブツ文句を言いながら過ごす一年になりそうな予感の中の正月を過ごしています。
 お正月と言えば、年賀状ですが、会員の皆様もお屠蘇を飲みながら、ゆっくりと拝見されたことでしょう。この年齢になると、年賀状のご辞退・ご遠慮、加えてラインやメールでの新年のあいさつが増えて、更には郵便料金の値上げにより、めっきり枚数が減ってきました。頂いた年賀状もパソコンか印刷された文字のものが大半となり、直筆・肉筆の年賀状が少なくなり、寂しい思いをしています。
 私の場合は、年賀状はもとより、手紙や葉書は、全て手書き・直筆です。パソコンが苦手だからというものではなく(少しはあるものの)、字が上手いから(むしろ下手かも)というものでも勿論ありません。
「名は体を表す」という言葉がありますが、最近では、「字は体を表す」、とか「字は人を表す」、「字は心を表す」、と言われているようです。やや大げさに言えば、自分の事を表現するために、自分であることを確認してもらうために直筆にこだわっているのかもしれません。
 文字は、人柄やその人の持つ教養までも表し、筆跡は、その人の性格を表し、内面の特性を読み取ることができるとも言われているようです。
 その日の体調で、字体(筆跡)が崩れていたり、角ばっていたり、流れていたりすることがままあります。友人・知人からの便りが、直筆であれば、何時もの精神状態か、今日は何かあったのか、少しばかり筆跡が揺れているな、などと相手方の心情も併せて読み取ることが出来るかも知れません。手紙の文面や字体・筆跡から、何か嬉しいこと、良い事があったなとか、何か悩みがあるなとか、気持ちが沈んでいるなとか、何かに怒っているな、とかに気付くことがあります。パソコン文字や携帯メールでは、気付きにくいかもしれない。
 嘗て一昔前、民事局において、予算・施設・増員等を含めてすべての要求作業に携わったことがありました。要求書の作成に全く経験のない私にとっては、過去の要求資料を取り出し参考とすることから始まりました。それは素人の私にとってまさにバイブルそのものでした。資料のバインダー・ファイルの背表紙には、担当者であった先輩の直筆で「〇〇に関する要求書」「昭和〇〇年度予算要求資料」等々記載され、整然とスチールロッカーに並べられていました。その背表紙の字体・筆跡を見て、この資料は、〇〇先輩の作成した何年頃の〇〇に関する要求資料だということが一見して分かったものです。勿論、ワープロもパソコンも無い時代です。したがって、要求書の中身は全て担当者の手書き、直筆で書かれています。2Bの柔らかい鉛筆で書かれた要求書の文字に込められた先輩の熱い思いが伝わり、その笑顔とともに蘇るような気がしたものでした。暑い夏の日の旧三宿寮の作業部屋の中で、何度も何度も消しては書いてを繰り返したであろう痕跡が窺え、先輩のご苦労に感謝しながら、私の要求資料の参考にさせてもらいました。勿論、先輩の作成した要求書の文字に手を合わせて。
 先に「字は体を表す」と書きましたが、今でも直筆の筆跡に接する度に友人・知人、先輩の名と笑顔が懐かしく浮かび上がって、自然に気持ちも和らぎます。
 今は天国にいる私の法務局採用時の同期生だった彼もまた自体が性格をよく表していた一人でした。字は決して上手いとは言えない。しかし、一字一句はしっかりと自己主張していて、真面目が羽織袴を着て歩いているような字であり文章でした。仕事ぶりもまさに字体通りの堅実なものでした。しかし、一旦アルコールが入ると、がらりと変わり羽織袴は脱ぎ捨てられ、真面目も何処かに消え去るのでした。「字は体を表す」が少し揺らいだ瞬間でした。「字は読めれば良いのだ」が彼の主張でした。確かに。
 最近は、文章そのものを書く機会もないに等しく、たまに不幸にも交通事故のように「今日この頃」に当選の憂き目に逢うぐらいであります。ましてや、直筆のまま世に出ることはありません。直筆は専ら、私的な手紙や葉書になります。
 文字・筆跡には、書く人の性格やその時の感情が表れ、何とも言えない情感に浸され、笑顔が浮かんだり、泣き顔、怒り顔、苦渋の顔が見えてきます。
 人によっては、使う道具によっても全く違う筆跡になることがあります。書道八段と言う友人の筆字は素晴らしいと称賛しつつ、万年筆で書かれたハガキの字を読むのに苦労したことがあり、同一人物かと疑ったことさえあります。日本語の漢字・ひらがなは、書く人の感情を表現する最高の言語だと改めて感じた次第です。
 戦国武将同士の書簡のやり取りや著名な文豪諸氏同士の書簡・手紙の類が時代を経て発見され、新聞等で報道されることがありますが、その内容はもちろんですが、本人直筆の筆跡にも大いに興味が湧くところです。戦いの駆け引き、作家同士の借金の申し入れ、恋の駆け引き等々も面白い。
 と、あれこれ話はとりとめのないところに飛んでしまいましたが、お正月の祝い酒を飲みながら、頂いた年賀状を拝見しつつ、なんとパソコン文字の多いことかと嘆きながら、たまに出てくる直筆文字に感動しながら、差出人の笑顔を思い出しては盃を満たしている今日この頃の喜寿を迎えた老人の感傷的戯言のオンパレードを会員の皆様の寛大なるお心でお許しください。
 本年もよろしくお願いいたします。
                   (さいたま・大宮公証センター元公証人 佐々木 暁)

竹山道雄と名著「ビルマの竪琴」をめぐって(川上富次)

1 竹山道雄といえば多くの人が反射的に「ビルマの竪琴」を思い浮かべます。
  昭和22年から23年にかけ出版され、当時国民的作家といわれる程多くの読者を獲得しました。
 その後、昭和31年には市川崑(日活)監督、俳優三国連太郎、安井昌二等により映画化され、ヴエネツィア映画祭でサン・ジョルジョ賞を授けられています。
 この映画により一層名声を高めました。
 ところで、竹山道雄とはいかなる人か、その人物像となると意外に知られていません。
 実は、誌友の皆様には、多方面でなじみの深い香川保一先生(以降「先生」)が生前「竹山道雄は私の恩師です。」といわれていたことが耳底に残っています。
 一高で教鞭をとっておられた竹山道雄、37歳。青雲の志に燃えて一高の門をくぐられた先生が19歳。お二方の出合いがいかに親炙に浴されたものであったか。先生が昭和18年の学徒出陣で、いよいよ海軍の任務につきますと伺った際、餞の言葉は「死ぬなよ」だったと承っています。
 竹山道雄は数多くの論文、著作集を残し昭和58年菊池寛賞を受賞、日本芸術院会員となりますが翌59年6月15日、肝硬変のため東京厚生年金病院で逝去されました。
 享年80歳でした。

2 第一話 うたう部隊 -抽出引用―
 『ほんとうにわれわれはよく歌をうたいました。嬉しいときでも、つらいときでも、歌をうたいました。いつ戦闘がはじまるかもしれない、そして死ぬかも分からない、せめて生きているうちにこれだけは立派にしあげて、胸一杯にうたっておきたい―、そんな気がしていたかもしれません。隊の者はみな心からうちこんで練習をしました。それも、なるべく深みのあるすぐれた歌をうたいたがりました。
― 中略 ―
 「まて!」と隊長は大きな声で叫びました。「あの歌をきけ!」
 森の中の歌声はたちまち二つ三つと数を増し、ついにはあちらからもこちらからもそれに和しました。そしてそれは「はにゅうの宿」の節を英語で「ホーム・ホーム・スイート・スイート・ホーム」とうたっているのです。
 われわれは顔を見あわせました。これはどうしたということだろう?森の中にいるのは、われわれの命をねらうおそろしい敵ではなかったのだろうか?村の人々だったのだろうか?そんならこんな心配をするのではなかった。そう思うと、にわかにほっとしました。そうして、武器を下におきました。
 森の端の方では、別の一団の声が「庭の千草」の節をうたっています。しかし、それも「………ザ・ラースト・ローズ・オブ・サンマ―……」と英語です。
 森の中は歌の声で一杯になりました。とおくの川の崖の陰からも、合唱がおこりました。われわれもそれに合わせてうたいました。
 月が出ていました。涼しげな青い光が、あたりを一面にそめています。樹々のあいだは、ガラスの柱を幾本も立てたようになっていました。その中を、森から広場へ、人影がばらばらと走り出てきました。
 よく見ると、それはイギリス兵でした。
 かれらはいくつもの塊となって合唱しています。思いをこめて「スイート・ホーム」や「ザ・ラースト・ローズ」をうたっているのです。「はにゅうの宿」も「庭の千草」も、日本人がこれがむかしから日本の歌だと思っていますが、もともとはイギリスの古い歌の節なのです。ことに「はにゅうの宿」はイギリス人が自慢をするかれらの家庭の楽しみをうたったものなので、すべてのイギリス人は、これをきくと、自分たちが幼かった頃のこと、母親のこと、故郷のことを思うのです。それが、こんなビルマの山の中で、危険きわまりないと思っていた敵を包囲していたときに、その敵がしきりにうたっているのをきいたのですから、何ともいえない異様な感動をうけたのです。
 こうなるともう敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。イギリス兵とわれわれとは、いつのまにかいっしょになって合唱しました。両方から兵隊が出ていって、手を握りました。ついには、広場の中央に火をたいて、それをかこんで、われらの隊長の指揮でいっしょにこれらの曲をうたいました。
 一人の背の高いインド兵が、ポケットから家族の写真を出して、うたいながら焚き火の光でながめていました。彼は頭を白い布で巻いて、黒い頬髭を生やして、堂々とした威厳のある様子をしていましたが、目は実にやさしくて羊のようでした。彼はその写真をわれわれにも見せました。写真には、奥さんと二人の子供が椰子の木の下に笑ってうつっていました。この人はカルカッタの商人だということでした。
 一人の何国人だかよく分からない兵隊は、われわれにも家族の写真を見せろ、といいました。一人の戦友が日本のお婆さんの写真を出すと、彼はそれを頬にあてて、接吻をしました。
 一人の血色のいいイギリス兵が「イフ・ア・ボディ・ミタ・ボディ……」とうたいました。それと同じ節を、一人の日本兵が「夕空はれて……」とうたいました。すると、そのイギリス兵は日本兵と肩を組んで、あたりを大股に歩きました。日本兵は「ああ、わがはらから、たれとあそぶ」と声をはりあげました。ここで、またあたらしい合唱がはじまりました。
 水島はさまざまな合いの手を入れて、これに伴奏しました。これはイギリス兵からも非常な喝采をうけました。彼が焚き火の炎に半面をてらされながら弾いている顔を見ると、頬には涙がながれていました。それを見て、どこの国の兵隊も涙をながしていっしょにうたいました。
 この夜、われわれはもう三日前に停戦になっていたことを知りました。イギリス軍はあくまでも凶悪だとおもっていたわれわれにそれを知らせる法もなく、残敵掃蕩のためには、ことによったら殲滅もやむをえない、と思っていたのでした。われわれは武器をすてました。』

3 「ビルマの竪琴」は、第一話 うたう部隊 第二話 青い鸚哥 第三話 僧の手紙の三つの話から成り立っています。
 著者は一番書きたかったのはこの中の第三話だと述べておられます。
 僧の手紙は、部隊を離脱してビルマ僧となり、手造りの竪琴を弾きながら多くの戦跡をめぐり歩いた水島上等兵が隊長にあて「あの無数の無名の戦死者たちの骨が私を呼んでいます。私が行くのをまっています。私はこの呼び声に応えなくてはなりません」とビルマに残留して、野ざらしのまま残されている多くの白骨を埋葬して供養し、一生を盡すと決意しましたと書き綴っているのです。
 著者は、戦時中から、遠い異国に屍をさらしている人々のことに心を傷め続けていました。
 若い教え子がどこかの地で野ざらしになっているかと思えば堪えられない心境でした。
 葬儀に行くと柩は空で剣だけが置かれていたり、見なれた姿の写真のみが飾られていたり「知られず柩におさめられず、葬いの鐘も鳴らされず」―バイロン―戦争の原因とか責任とかはさて置き、国のため、家族のため総てを捧げて勇戦・散華した人達が放置された儘でよいのでしょうか。
 筆路は変わりますが、戦没者遺骨収集の会によりますと未だ112万柱の遺骨が残されているようです。
 平成28年になってやっと「戦没者遺骨収集推進法」が成立、国の責務として令和11年まで集中実施と報道されています。相手国の事情や予算上の問題等隘路も多々あり、一朝一夕には進まないと思いますが、国家の事業として最後まで続けて欲しいと念じています。
 平成25年硫黄島を訪問した安倍晋三元首相は、滑走路の下にも多数の遺骨が埋もれている可能性の示唆を受けると、滑走路にひざまづき手を合わせて冥福を祈られたと仄聞しています。

「国の為重きつとめを果し得て 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
 硫黄島総指揮官栗林忠道の辞世の句           鎮魂 

付記1 文中映画に係る記述は、公証人連合会会友永井敬一氏の教えを頂きました。感謝を込めて記します。
付記2 底本 竹山道雄 少年少女日本文学館16巻「ビルマの竪琴」講談社刊 今は新潮社文庫に収録
                      (さいたま・東松山公証役場元公証人 川上富次)

光輝幸齢(本間 透)

 私は今年の7月に75歳を迎え、めでたく「後期高齢者」になりました。何故めでたいのかというと、近くに住む孫娘が「後期高齢者」についてネットで調べたところ、それを「光輝幸齢者」と当て字をして「光り輝く幸いな年齢の人」と捉えることもできると教えてくれたからです。それほどではないにしても、年相応に物忘れやできないことが増えていますが、今のところ行動が制限される持病がなく、やりたいことを十分に楽しんでいることから、改めてポジティブな気持ちで年を重ねていこうと思いました。
 ところで、2025年には、日本の総人口の5分の1が75歳以上になるという超高齢社会を迎え、その3分の1が介護の必要な状態になるとの予測がなされています。まさしく自分がその真っ只中に居ることから、そうならないようにして、健康寿命を保っていかなければと痛感している次第です。そのためには、「フレイル予防」が欠かせないとされ、フレイル(虚弱)とは、健康な状態と要介護状態との間のことで、その予防を怠ると当然早く要介護状態になってしまう恐れが増すことになります。
 期せずして、私が住む千葉県柏市の東京大学の柏キャンパスに「高齢社会総合研究機構」があり、2012年から柏市と共催で抽出された65歳以上の住民を対象に「栄養とからだの健康増進調査研究」が行われ、2021年に私がその対象になり、フレイル予防のための調査に応じました。さらに今年の10月にその追跡調査が同機構において行われました。
 調査の内容としては、事前に記載した食事・運動・社会参加に関する詳細にわたる項目のアンケートを提出し、①問診・採血(当日の健康状態のチェック)②身体測定(身長、体重、腹囲、四肢周囲径、両手両足の筋肉量)③もの忘れ(認知機能に関する聞き取り)④運動機能(動きの俊敏さ、立ち回り、体のパワーバランスなど筋力と歩行の状態)⑤口の健康度(歯科医師等による口腔内の状態と機能のチェック)⑥飲み込む力(専用の機器による食べ物や水の飲み込む力のチェック)⑦表情(真顔、笑顔を会話しながら撮影)⑧話し方・声のはり測定(2パターンの短い文章を3回読む)⑨飲料容器の開け閉めの力(開け閉めする際の握力や指先の力)について行われました。これらの調査研究の詳細な結果は、後日個別に通知されるとともに統計的に処理されたものは、学術的な会議や学術雑誌への論文で公表されるとのことでした。
 上記の調査による私の速報レポートとして、握力、ふくらはぎ周囲径、五回椅子立ち上がり、滑舌に関しては、いずれも基準値を上回っていました。また、アンケート調査による健康長寿に必要な三大要素である栄養(毎日3食食べ、硬いものが噛める)・運動(歩行又は同等の身体活動を1日1時間以上行う)・社会参加(家族・友人や社会とのつながり)に関しても標準をクリアしていました。
 栄養に関しては、妻のおかげで「さかな・あぶら・にく・ぎゅうにゅう・やさい・かいそう・いも・たまご・だいず・くだもの」→「さあにぎやか(に)いただく」というバランスの良い食事がとれています。歯は全部自分のもので硬い物でも難なく食べられ、これを保つために3か月ごとに歯科検診を受けています。
 運動に関しては、毎週平日のゴルフで片道約50Km運転し、適度の運動と気分転換が図られ、ゴルフ以外の日は、保育園に通う孫のお迎えと遊び相手になっていることで、注意力が養われるとともに足腰の鍛錬に繋がっていると思われます。
 社会参加に関しては、法務局の現職当時や公証人当時のつながりでコロナ禍を乗り越えて再開された本研究会を始めとする各種OB会(本省民事局、官房人事課、官房会計課、五か所の法務局)、ゴルフ同好会、公証人を辞した方々との親睦会に出席するなど、お誘いがあれば積極的に参加するようにしています。また、今年から自宅マンションの管理組合の理事長になり、大規模修繕を控えて大変な思いをしながら頑張っています。
 誌友の皆さんにおかれてもフレイル予防に努めていただき、できるだけ長く健康寿命を保っていただくよう願っています。
                      (福島・いわき公証役場元公証人 本間 透)

戸籍事務の改変(青木 惺)

 最近における戸籍事務の取扱いについて、数次にわたり大きく改正されています。その改正の原因も戸籍事務本来の取扱い上の要請や使命に基づく改正ではなく、他の国家事務の遂行に当たって戸籍を利用する、いわゆる他の行政機関との情報の連携(特にマイナンバー法との連携)の対象に戸籍が利用されることになって戸籍事務が大きく改正される結果となり、さらに令和6年3月1日から法務大臣の使用に係る電子計算機と市町村長の使用に係る電子計算機を電気通信回線で接続した電子情報処理組織により戸籍事務が取り扱われることとなった結果、戸籍事務の取扱いが大きく変わりました。その改正の例をいくつか紹介することとします。

第1 戸籍及び除籍の副本について
 従来、戸籍及び除籍の副本は、市町村から管轄法務局若しくは地方法務局又はその支局に送付し、保存されていたが、今後は磁気ディスクをもって調整された戸籍及び除籍の副本は、市町村から法務大臣に送信されることとなり、法務大臣が戸籍関係情報を作成するために利用することができるとともに、法務大臣がその情報を保存することとされた。

第2 本籍地以外の市町村に対する戸籍証明書等の交付請求

 1 従来、戸籍に関する証明書は本籍地の市町村においてのみ請求することができたが、戸籍等が磁気ディスクで調整されているときは、戸籍に記載されている者又はその配偶者、直系尊属若しくは直系卑属は、いずれの市町村に対しても請求できる、いわゆる広域交付が認められた。
 2 公用請求についても、当該市町村の機関がするものに限り、当該市町村の長に対してもすることができることとなった。したがって、広域交付における公用請求は、当該公用請求から交付までの手続きが同一市町村内で完結する場合に限り、当該市町村の長に対してすることができる。
 3 上記1、2の広域交付によって戸籍証明書等を交付したときは、当該市町村長は、本籍地の市町村長に対してその旨の情報を提供することとされている。
 4 行政機関から戸籍証明書等の提出を求められた場合、市町村窓口で「戸籍電子証明書提供用識別符号」の発行を受け、これを行政機関に提供し、行政機関が戸籍電子証明書の内容を確認することになるので、戸籍証明書の提出は不要となる。
 5 戸籍の記載内容は、市町村長が法務大臣保管に係る副本で確認できることから、転籍、分籍の届出に戸籍謄本の提出は不要とされた。

第3 届書等情報の取扱いについて
 戸籍の届書等の情報については、従来は届書等を受理した市町村長から関係市町村長へ届書等を送付する方法がとられていたが、これら「届書情報」は、法務大臣に提供し、法務大臣から関係市町村長に通知されることとなった。したがって、届書等は従来のように法務局へ送付する必要はなくなった。したがって、副本も届書も法務局で保管することはなくなった。

第4 オンラインシステムによる戸籍事務の取扱
(1)戸籍法第118条第1項の電子情報処理組織と戸籍謄本等の交付請求をする者の使用にかかる電子計算機とを電気通信回線で接続した電子情報処理組織を使用して戸籍証明書のオンライン交付請求が可能となった。
(2)戸籍の届出についても、オンラインで届出できることとなった。
(注)オンラインによる戸籍事務の取扱は、現在のところ市町村側にその受入れ体制が整備されていないので、わずか数か所(10か所にも満たない)の市町村で実施されているのみであり、全面的な実現は相当先のこととなるものと思われる。

第5 氏名の振り仮名の法制化
 行政手続きにおける特定の個人を識別するための番号の利用に関する法律等(いわゆるマイナンバー法)の一部改正に伴い戸籍法の一部が改正されることとなった。その内容は、戸籍の記載事項について、現行の氏名に加えて、新たにその読み方として振り仮名を追加するとともに、これに関する諸手続きを整備するものである。この取扱いの施行は令和7年5月26日からとされている。その内容は次のとおりである。
 1 戸籍、戸籍の届書及び棄児発見調書の記載事項として氏名の振り仮名が追加された。その氏名の振り仮名の読み方は、「氏名として用いられる文字の読み方として一般に認められているもの」でなければならないとされている。したがって、子の出生届の際には、一般の読み方と認められる振り仮名を付して届け出ることになる。したがって、今後は「キラキラネーム」の命名に制限がかけられる可能性はあると思われる。
 2 氏又は名を変更しようとするときは、氏又は名及びそれらの振り仮名を変更することについて家庭裁判所の許可を得て、その許可を得た氏又は名及びそれらの振り仮名を届け出なければならない。
 3 氏名の振り仮名の変更
   やむを得ない事由により氏の振り仮名を変更しようとするときは、戸籍の筆頭に記載した者及びその配偶者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならないとし、正当な事由によって名の振り仮名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得てその旨を届け出なければならないとされている。
4 現に戸籍に記載されている者に係る氏名の振り仮名の収集についての経過措置
  (1)氏名の振り仮名の届出は、令和7年5月26日の施行後、1年以内にすることができる。具体的には、本籍地市町村長から市町村が保有する情報等を参考にして、例えば「あなたの氏名の振り仮名は〇〇〇〇〇でよいか」の確認の通知がなされる予定である。
(2)(1)について届出がなければ、本籍地の市町村長は管轄法務局長等の許可を得て施行の日から1年を経過した日に通知した振り仮名を記載することになる。
(3)① 氏の振り仮名の届出人は、戸籍の筆頭者であり、筆頭者が除籍されている場合は、その配偶者、その配偶者も除籍されている時は、その子が届出人となる。
   ② 名の振り仮名の届出人は、戸籍に記載されている者それぞれが届出人となる。
   ③ 届出するところは本籍地又は所在地の市町村となるが、窓口への出頭のみならず郵送も可能であるとされている。
   ④ 一般に認められている読み方と異なる読み方を現に使用している場合には、その読み方が通用していることを証明する書面(例えば、旅券(パスポート)や預金通帳など)を提出する必要がある。

 以上、戸籍事務の改正の概略を紹介しましたが、戸籍事務がすべてコンピュータ化されていくことについて、紙の戸籍に愛着を持ち、淋しい思いがしているのは私だけでしょうか?
 なお、電子情報処理組織で取り扱いできない紙戸籍はまだ存在していますし、戸籍法も紙戸籍を基本とする規定がそのままになっていることから、電子情報処理組織による取扱規程との併存が非常に複雑な状況にあり、混乱を生じる要因となっているように思われます。
                      (甲府・大月公証役場元公証人 青木 惺)

私の心臓が止まった日(林 淳司)

 令和3年7月1日に京都の宇治に公証人として就任し、3年余りが経過しました。この3年余りの間で業務にも慣れてきたところですが、まだまだ事務処理に追われる日々を過ごしております。この度は、着任後、ちょうど1週間を経過した日の出来事につきまして、誌友の皆様の健康管理への警笛又は一助になればと思い、その経緯を投稿いたします。
 令和3年7月8日(金)、私の心拍が一度停止した日です。心筋梗塞のためカテーテル手術の最中、心拍が停止しました。
 これまで、私は人間ドックを毎年受けており、心臓に関する指摘を受けたことがありませんでした。ただ、若い頃から脂っこいものが好きで、よく食べる方でしたので、40代の頃から高血圧を指摘され、悪玉コレステロールの値も高くなっていました。50代には糖尿病との診断を受けました。法務局を退職する頃には、HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)が8くらいになっていました。食事制限を医師から指導されていたにもかかわらず、あまり気にすることもなく、自由に食べていました。家族にも注意されていましたが、症状がもっと重くなったら、気を付ければいいか、くらいに考えていました。
 しかしながら、心筋梗塞は突然やって来ました。
 自分では気付いていなかったのですが、心筋梗塞の兆候は現れていたようです。同年6月22日(火)某公証役場にて、公証事務の指導を受けた際のことです。業務終了後、軽く一杯とのことでお酒を飲んでいると、左側の肩甲骨から左腕にかけて、重く、だるく、どうしようもないくらい気分が悪くなりました。その時は、お酒に酔ったせいで気分が悪いのかと思っていました。私は、元々お酒に弱く、その日もそんなに飲んでいませんでしたが、コロナ禍でしばらくお酒を飲んでいなかったので、極端にお酒に弱くなったのかと思いました。居酒屋を出て駅まで何とか歩いてたどり着き、電車に乗り座っていたところ、スーッと楽になりました。苦しかったのは、30分くらいで、酔いが覚めたのだと思いました。その1週間後くらいに、今度は夜中に目が覚めて、同じような症状が起こりました。その日、お酒は飲んでいませんでした。さらに、7月1日(木)宇治公証役場に着任し2~3日後、出勤直後に同じ症状が起こりました。
 7月8日(金)、翌日からの東京での新任公証人研修のため、21時頃、前泊するホテルに入りました。しばらくするとまた、左側の肩甲骨と腕がだるくなってきましたので、ホテルのフロントにマッサージを頼みました。マッサージの方が来るまでに、どんどんだるさがきつくなってきて、もうじっとしていられないくらいになっていました。次第に胸も苦しくなってきました。マッサージの方が到着し、左側の肩甲骨の辺りを揉んでもらったのですが、症状は一向に改善せず、夏だというのに震えが来るような寒さが襲ってきました。悪寒はどんどん増し、もうどうしようもなくなってきたので、マッサージの方に部屋の外に出てもらい熱いシャワーを浴びましたが、いくらシャワーを浴びても悪寒は止まりませんでした。様子がおかしいと察したマッサージの方がフロントに連絡し、フロントの方が室内に入ってこられ、そのまま私は救急車で運ばれました。
 コロナ禍ではありましたが、運良くホテルから車で5分くらいのところにある東京慈恵会医科大学附属病院で受け入れてもらいました。病院では、コロナの検査を始めとした種々の検査を受けた後、すぐにカテーテル治療を行うこととなりました。カテーテル治療は部分麻酔ですので、意識はあり、医師の先生方の話も聞こえます。カテーテル治療も終盤に差し掛かった頃、ある先生が「これ以上細い血管は困難なので、カテーテル治療はここまでとします。」とおっしゃられたので、私は無事治療が終わったのだと思いました。そうするとある先生が「心拍停止です!」と大きな声をあげられ、手術室がざわつくのがわかりました。まさにテレビドラマの一場面のようでした。心拍が停止しても、耳も聞こえ、意識もありました。私は、「え?おれ、こんな簡単に死ぬんや」と思い、その後、寝落ちするようにスーッと意識を失いました。次の瞬間、ドーンという衝撃で目が覚めました。後になって気付いたのですが、胸の辺りに黒い痕が残っていましたので、おそらく電気ショックで目覚めたのだと思います。心拍停止している間、死の世界に一歩足を踏み入れたのだと思いますが、三途の川もお花畑も何も見ませんでした。「心停止」による脳への酸素供給が4分途絶えると、心拍再開後も脳障害が生じるそうです。私の場合、後遺症が残っていないので、停止時間が短かったのだと思います。
 心臓には3本の太い血管があり、私の場合、その真ん中の血管が詰まり、心臓の真ん中の一部分が壊死したようです。リハビリを慎重にやらないと、心臓の左右の動きに真ん中の部分が耐えられなくなり、心臓が破裂したり裂けたりすると言われましたので、7月24日(土)退院する日まで、毎日慎重にリハビリを行いました。余談ではありますが、入院中、東京オリンピックが開催されており、病室の窓からブルーインパルスの飛行を見ることができました。単調な入院生活の中、気持ちが明るくなる出来事でした。
 以上、長くなりましたが、心筋梗塞発症の経緯につきまして、順を追って書かせていただきました。心筋梗塞というと強い胸痛をイメージしますが、私のように心臓から離れた場所に痛み等を生じる場合がありますので、皆様もお気を付けください。
 振り返りますと、つくづく私は運が良かったのだと思います。発症した場所が出張先の東京のホテルであり、ホテル近くに東京慈恵会医科大学附属病院という急性期及び重症の虚血性心疾患を中心に診療を行うCCU (coronary care unit)を有している病院があったことです。退院後に、自宅近くの兵庫医科大学病院を受診した際には、「東京慈恵会医科大学附属病院で迅速かつ最良の処置がされており、最新のステント(注)が使用されています。本当に運が良かったですね。」と言われました。当時は、役場まで車で通勤しておりましたので、もし、帰宅する途中の、高速道路上の車の中で発症していたらどうなっていたのだろうと背筋が凍る思いです。また、マッサージの方が適切な判断をしてくださったことにも感謝しなければなりません。この方がいなかったら、私はホテルの浴室で意識を失い、そのまま死んでいたかもしれません。
 本当に、生かしていただいたことに感謝の思いでいっぱいで、人生観も変わりました。今では、心臓の壊死したと思われた部分も奇跡的に動いていますし、HbA1cも正常値である6くらいになっています。日々、塩分やカロリーに配慮した食事をし、週に一度の心臓リハビリを欠かさず、常に健康であることを意識しています。
 失っていたとしてもおかしくない命ですので、これからも公証事務を通じて社会に貢献し、有意義に生きていきたいと考えております。

(注)体内の管状の部分を内側から広げるために使用する器具(体に害の少ない金属でできた網目状の筒)。心筋梗塞などの治療においては、冠動脈の狭くなった部分を押し広げるために、先端に小さなバルーン(風船)を取り付けたカテーテルという医療用の細いチューブを使用するが、このときにバルーンにステントを取り付けておくと、ステントが血管の壁を内側から押さえるような形で固定されるため、血管が再び詰まる危険性を軽減することができる。
                        (京都・宇治公証役場公証人 林 淳司)

八戸は元気です(山家 史朗)

 近況報告を兼ねて、以下に記します。
 令和5年7月に青森地方法務局所属の八戸公証役場公証人に任命され1年半が過ぎました。同じ東北地方の宮城県出身ですが、青森県での勤務は初めてになります。
 公証役場がある八戸市は、十数年前に、息子が高校のウエイトリフティングの東北大会に出場したときに、会場だった八戸市体育館に初めて訪れて以来となりました。当時は、まさか将来、ここ八戸市に住むことになるなどとは全く考えていませんでした。東北大会での息子の成績は、優勝でしたので、八戸に何か縁起の良さを勝手に感じています。
 さて、八戸市は、現在、人口約22万人で青森県では青森市に次ぐ第2位の人口です。しかし、ピーク時には約25万人だった八戸市の人口も、年々減少しており、更には、着任する前年の令和4年に八戸市内にあった百貨店三春屋や市内唯一の映画館があった商業ビルチーノはちのへが次々に閉店し、メイン通りはその他に閉店した地元のお店も散見され人通りも少なく閑散としていて、町に言いようのないさみしさを感じました。その年の3月まで、大阪法務局に勤務し、天王寺駅、あべのハルカス近くの宿舎に住んでいたこともあり、大阪の賑わいとのギャップに気持ちが沈みました。
 しかし、着任して1か月、この静かな八戸市が一変しました。今までどこにこのエネルギーを隠していたのか。
 それが、以下に紹介する八戸市の2大祭りです。
◎八戸三社大祭
 〇期日 7月31日~8月4日まで
 〇歴史 1720年(江戸時代中期)、凶作を危惧していた八戸の有力者たちが法霊大明神に好天と豊作を祈願、成就のお礼として翌年長者山虚空蔵堂(現在の新羅神社)まで法霊神の渡御を行ったのが始まりと言われている。その後明治時代に入り、法霊神社はおがみ神社に改称。1884年長者山新羅神社が加わり二社祭に。1889年神明宮が加わり三社による行列となる。時代の流れと共に日程や名称などの変更を繰り返し歴史と伝統を受け継いできている。2004年「八戸三社大祭の山車行事」として国重要無形民俗文化財に指定され、2016年に八戸三社大祭を含む全国33の「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録され日本を代表する祭りのひとつとなっている。
 2020年に300年の節目を迎え、コロナ禍を乗り越え2023年から通常に戻り、盛大に開催されている。
 〇山車行列について
   三社ごとの神社行列と山車が合同運行。
   神社行列では、稚児行列、氏子行列、鉾、旗、神楽、駒踊、笹の葉踊など。
   山車は、歴史や文化(歌舞伎など)、八戸にまつわるものなどを題材に工夫を凝らしたつくりとなっている。中心街を練り歩く様子は、まるで豪華絢爛な時代絵巻のよう。
 〇日程 7月31日  前夜祭
    8月 1日  出発式 お通り(15時から18時)
    8月 2日  騎馬打毬 徒打毬 中日山車合同運行(18時から21時)
    8月 3日  お還り(15時から19時)
    8月 4日  後夜祭

◎八戸えんぶり
 〇期日 2月17日~2月20日まで
 〇歴史 豊作を祈願する「田遊び」や「田植え踊り」などから発展したともいわれる。北奥羽地方の春を呼び豊作を願う伝統芸能であり、国重要無形民俗文化財に指定。えぶり(田をならす農具)を手に持って舞ったことから「えんぶり」という名がついたといわれている。
 鎌倉時代初期からで800年以上の歴史があるといわれているが、起源ははっきりしない。明治に数年途絶えたとされたが、旧藩士大澤多門が1881年に長者山新羅神社の豊年祈願祭に位置付けることで再興した。
 〇えんぶりについて
 「太夫」(3人あるいは5人編成の烏帽子をかぶった舞手)が『摺り』と呼ばれる舞で種まきや稲作の動作を表現し大地に豊穣の祈りを捧げる。合間にはえびす舞や大黒舞。エンコエンコなど子どもを中心とした「祝福芸」も披露される。
 えんぶりには、『ながえんぶり』、『どうさいえんぶり』がある。ながえんぶりは、歌や振り付けがゆったりとしており優雅に舞う。藤九郎と呼ばれる主役の太夫は、鳴子他の太夫は鍬台を持つ。藤九郎の烏帽子には、赤いボタンの花や白いウツギの花がついている。どうさいえんぶりは、摺りもテンポも速く棒の先に金具がついたジャンギを持ち勇壮華麗に舞う。烏帽子は、前髪と呼ばれる五色の房がついている。
 〇日程
  2月17日
  奉納:長者山新羅神社にえんぶり組が集結し、本殿の前でえんぶりの摺りを奉納する行列。神社行列の神輿とえんぶり組がお囃子を響かせながら中心街を目指す。
  一斉摺り:メインイベント。三日町、十三日町など五か所で行われる。
  17日から20日
   市内各所に披露する場が設けられている。
  お庭えんぶり:更上閣(明治時代に実業家東山家の邸宅として建築。現在は、国の登録有形文化財)の大広間からえんぶりをみて楽しむことができる。
 かがり火えんぶり:かがり火に照らされた市庁前市民広場で勇壮なえんぶりをみられる。午後6時、7時、8時に。
 ※市内各所でステージ発表、写真展、展示、ワークショップ、茶席、えんぶり着付けなどさまざまな体験もできる。

 以上紹介したこの2つのお祭りのいいところは、子どもから若者から高齢者まで、共に協力して準備し、数日前から町中に練習であろう笛・太鼓などが鳴り響き、本番では共に舞い踊り、地域一つ一つが一体となるところです。特に感じたのは、子どもたちが元気で、大人と子どもが継続的に伝統文化を伝えながらコミュニケーションを図っていることです。八戸市の将来は安泰と感じる瞬間でした。
 八戸はまだまだ元気です。
 私は、現在、日々日々仕事で悩むところはありますが、これらの2大祭りに影響を受け、何とか元気を取り戻し、2年目の業務をこなしています。残りの任期を健康に過ごしたいです。
 最後に、八戸公証役場の事件等の状況を紹介しますと、八戸公証役場の事件は、前年と比べて、定款認証件数、任意後見契約公正証書が約5%増と微増ですが、遺言公正証書が約20%増です。遺言公正証書が大幅に増加しているのは、令和6年4月からスタートした相続登記の義務化が原因かと感じています。相続登記が義務になったので残された者が困らないように遺言書を作っておきたいと来庁される方が増えています。10万円の過料も気になっているみたいです。また、遺言や任意後見のテーマでの講演会や講義の依頼も増えており、八戸市内の高齢者向けの大学や福祉協議会、複数の老人会からの依頼のほかに、八戸市以外の市町村からの講義依頼も来ています。終活への関心が高まっていることが感じられます。
 今後も民事法情報研究会誌の記事を参考に、そして、誌友の皆様のお力添えをいただきながら、業務を遂行していく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。 
                        (青森・八戸公証役場公証人 山家史朗)

津波対策のため役場を移転しました(本田法夫)

1 はじめに
 令和5年5月15日(月)、釧路公証人合同役場は、旧事務所であった釧路市末広町七丁目2番地 金森ビル1階から、釧路市錦町5番地3 三ッ輪ビル4階(新事務所)に移転しました。その主な理由は、津波による災害対応のためです。以下、私の経験が参考になれば幸いです。

2 移転検討の経緯
 (1) 海抜2メートル
 私は、令和元年7月1日に当役場の公証人となりました。就任に当たり、前任の先生から、事務室、什器、事務機器、参考図書等を含め役場ごと全てを引き継がせていただきました。
 旧事務所は、1室が11.7坪(36.68平方メートル)の隣り合う102号室及び103号室の2室を借り受け(計23.4坪、73.36平方メートル)、間の壁を3分の1取り払い、102号室全部と103号室の3分の1をL字型の事務室兼調印室とし、103号室は、残りの3分の2のところに新たな仕切り壁を設け、書庫兼図書室として使用していました。作成した公正証書は、全てこの1階・103号室の書庫に保管しておりました。
 旧事務所が入る金森ビルは、釧路市のいわゆる繁華街にある3階建の建物で、建物の前には、「ここは海抜2メートルです」との掲示がされています。
 釧路市の中央には、屈斜路湖(くっしゃろこ)を源流とし、日本最大の湿原である釧路湿原(くしろしつげん)を通って流れる釧路川(くしろがわ)の河口があります。その河口から1キロメートル位上流に弊舞橋(ぬさまいばし)という有名な橋が架かっており、その南側が南大通(みなみおおどおり)、北側が北大通(きたおおどおり)となっております。この北大通の周辺がいわゆる釧路市の繁華街で、釧路市の市街地は、この北大通を中心とする繁華街から、その北側にある釧路湿原までの間となっています。
 戦前・戦後まもなくは漁業を中心とした南大通が街の中心でした。商業は海の近くの平地で、住居・行政の中心は、その東南にある海抜20メートルを超える高台でという状況でした。その名残として、裁判所、検察庁、刑務所などの機関は今も高台にあります。釧路市の高台は、北海道の土地の象徴である縦・横の道路がしっかり区画されている地域とはほど遠く、昔からのいわゆる里道を増幅した曲がりくねった道をそのまま使用しており、とても分かりにくい区画となっています。さらに、平地がほとんどないことから、ビルを建築するのは困難な地域です。
 昭和30年頃からは、弊舞橋から北に向かい(釧路駅もその途中にあります。)、釧路湿原を開拓し整地されたのが今の釧路市街地です。湿原を埋め立てているため、釧路市街地のほとんどが海抜4メートル以下の地域となっており、繁華街はほとんどが海抜2メートルとなっています。繁華街は、釧路港(海)から1キロメートル位しか離れておらず、また、釧路川に隣接している状況です。

 (2) 津波の心配
ア 法務局での経験
 平成23年3月11日の東日本大震災が発生したとき、私は、山形地方法務局の首席登記官として勤務していました。山形市から、仙台法務局気仙沼支局が津波被害にあった姿をみることとなりました。
 気仙沼支局か入居していた合同庁舎は、5階建で、法務局は、2階部分と3階部分を使用し、法務局が合庁管理庁となっていました。
 大津波は、2階部分を超え3階部分にまで入り込み、2階の登記書庫にあった800冊を超える登記簿冊を飲み込んで流出させてしまいました。
 気仙沼支局は、公証人法第8条支局に指定されており、支局長が公正証書を作成し、保管していました。支局長室も2階にあったことから、やはり、保管していた遺言公正証書を含む公正証書等が流出してしまい、滅失してしまいました。
イ 釧路市での津波浸水想定
 令和3年7月19日、北海道庁から、「北海道太平洋沿岸における津波浸水想定」が公表されました。太平洋沿岸で最大クラスの津波が発生した場合想定される津波高は、釧路市繁華街で、5メートル以上10メートル未満とされました。
 東日本大震災のときの気仙沼湾における第1波の津波高が9.69メートルですので、気仙沼支局が受けた津波と同じくらいの津波が想定されます。
ウ 旧事務所管理事務所への聞き取り
 旧事務所の所有会社は、函館市の観光地・函館ベイエリアのランドマークとして有名な「金森赤レンガ倉庫」を経営する、函館市本店の金森商船株式会社の釧路出張所です。3階建建物の2階に事務所があります。
 担当者に「この建物での津波対策は」と聞くと、「玄関シャッターを閉め、避難指定建物に逃げるしかありません。」との答えでした。
 東日本大震災のときも、釧路市沿岸には大津波警報が出されたそうです。管理事務所担当者は、前任の先生に、事務所から逃げるよう要請したそうですが、前任の先生は、事務所の入り口扉の鉄製シャッター(建物の玄関シャッターとは別にあり、公証役場のためだけに後付けしたもの)を閉め、事務所内で待機したそうです。津波は、釧路川両岸に浸水し、100戸に及ぶ床上浸水被害はあったものの、金森ビルまでは来なかったということでした。
エ これらのことから、津波対策のためには、事務所を移転するしかないと考えるようになりました。
 とりあえずの対策として、金森ビルの3階の空き室を無償で借り受け、キャビネを設置して、遺言公正証書と長期保存公正証書を保管する対策を取りました。金森ビルには、エレベーターが設置されておらず、必要の都度、階段を利用しての運搬となりました。

3 移転先の検討
 (1) 高台か繁華街か
ア 高台への移転の検討
 津波対策のみを考えると、まず高台への移転を考えました。裁判所、検察庁、北海道釧路総合振興局などの役所もありますし、複数の弁護士事務所もあります。
 しかし、高台にある役所は、昔のまま残っている役所で、現在は、税務署、北海道開発局、市役所、警察署など主な役所は、高台から北大通の周辺のいわゆる繁華街に移転しております。釧路地方法務局も、高台の裁判所の隣から、北海道開発局の入る10階建の合同庁舎に移転しました。銀行等金融機関、保険会社の入るビルは、軒並み繁華街に集中しております。
 また、高台は、上記のとおり、細い道が連なり、地理が分かりにくく、入居できそうなビルが存在しないのが実情でした。 
イ 繁華街への移転の検討
 高台への移転は現実的でないと考え、旧事務所の近隣で事務所を探すこととしました。そして、次の条件を基準とすることとしました。
➀ 気仙沼支局の被害を参考に、4階以上に入居する。
② 高齢者が多い嘱託人の利便性を考え、エレベーターがあり、駐車場が隣接し、立体駐車場でないこと。
③ 旧事務所と同じ程度の床面積で賃料が上がらないこと。
  旧事務所の賃料は、駐車場借料も含め、1月17万円で、冬期間は、駐車場の除雪費用が回数に応じ1月1万円以上加算されていました。
 (2) 繁華街での物件探し
ア 個人での物件探し
 まずは、私個人で、昼休みに散歩しながら、街中のビルを見渡し、インターネット情報も利用し、物件探しをしました。
 物件を探し出すと、①、②の条件に合うものが数件ありましたが、いずれも③の条件を満たすものではありませんでした。
 なかなか物件を決められない日々がしばらく続くこととなりました。
イ 転機
 話がそれますが、私は、公正証書遺言の証人を斡旋して欲しいとの要望を受けたときの証人として、前任の先生のときから依頼している法務局OBの職員ご夫婦(奥様も元職員でした。)に、引き続き、お願いしていました。このご夫婦は、札幌市に自宅マンションはあるものの、転勤で訪れた釧路市が気に入り、一軒家を借りて住まわれ、退職後は、法務局の登記相談員を担当していただき、その後証人を引き受けてくださっておりました。ご夫婦ともに仕事はしておらず、とても依頼しやすい状況でした。
 ところが、令和3年の9月初旬のある日、このご夫婦から、娘が住む札幌のマンションに転居することとした。転居時期は、令和4年10月で、証人は今月末で辞めたいと話がありました。
 この年の春先に、ご主人が体調を崩され、2週間ほど休まれましたが、その後は元気に証人を再開していただいたので、とても驚くとともに、困った状況となりました。
 もう一組ご夫婦で証人をお願いできる法務局OB職員の方がおりましたが(このご夫婦も前任の先生のときから証人を依頼している方でした。)、年齢が85歳を超えており、コロナ禍もあって、この時期はほとんど依頼しておりませんでした。
 事務所の移転よりも、緊急に対処しなければならない案件となりました。
 ご夫婦で依頼を受けてくれる法務局OBの職員を探そうと思い、釧路地方法務局のOB会の会長に連絡しましたが、釧路市内にはめぼしい方がいないということでした。
 私は、福島県出身で、釧路市内には知人もなく、どのようにして探したら良いか分かりませんでした。
 そこで、私が、平成24年度・25年度と釧路地方法務局の総務課長として勤務した際に、乙号の民間委託の入札案件や司法書士の懲戒事件でお世話になった、当時の釧路司法書士会会長のA司法書士に誰か知り合いに適任の人はいないか相談しました。
 A司法書士は、釧路市内で90年以上司法書士をしてきた家の三代目の方で、数年前まで、旧事務所の目の前のビルで司法書士をされてきた方でした。土地家屋調査士も兼業し、旧事務所近隣の情報も詳しいと思われ相談した次第です。
 事情を話したところ、A司法書士から、自分と息子でやってあげるよとの思わぬ返事がありました。息子さんは、土地家屋調査士の資格を持ちながら、父親の司法書士の補助者をしており、もう一人の補助者と3人で業務を行っていました。
 思わぬ形で、証人不在の問題が一気に解決しました。
 さらに、A司法書士の事務所は、新事務所となる三ッ輪ビルの3階にありました。
 三ッ輪ビルは、旧事務所の金森ビルよりも200メートルほど釧路港に近づくものの、同じ海抜2メートルで、釧路市役所の目の前にあり、所有者が、釧路市で最大のグループ企業の三ッ輪グループ傘下の会社でした。5階建の建物で、建物の設備も申し分なく、駐車場もビルの前に確保されており、個人的には、とても利用しやすいビルと考えておりました。
 A司法書士に証人を依頼する事件が増加し、会う機会が増え、いろんな話をできるような関係が生まれました。
 令和4年に入り、私も公証人4年目を迎える年となり、任期の半分が近づいていました。
 そろそろ、事務所の移転も決着を付けなければならないと思い、A司法書士に、実は、津波災害対策のため、4階以上のビルに転居することを考えている旨相談しました。
 すると、A司法書士は三ッ輪ビルのオーナーの知り合いで、三ッ輪ビルに空きがあること、ビルのオーナーが法曹関係の事業所など堅い業種の入居を希望していることを教えてくれ、賃料も相談に乗ると言ってるからと三ッ輪ビルの担当者との面会を仲介してくれました。
ウ 決定
 三ッ輪ビル担当者と会い、事務所を移転したい理由、賃料もあまり出せないことなどを伝えると、是非入居してもらいたい、賃料は相談にのるとの回答をいただきました。
 実際に、ビルの空き部屋を見せてもらうと、4階の釧路港(津波が押し寄せてくる海側)と反対側の東端の部屋とその隣接する北東角の部屋の2部屋が空いており、東端の部屋を事務室に、北東角の部屋を書庫兼図書室に使用するとうまくいきそうです。三ッ輪ビルの費用で、二つの部屋をつなぐドアも新設してくれるというのです。
 賃料も、駐車場借料も入れ、公表価格では約20万円のところを、約4割安くしていただけることとなり、入居することを決定しました。
 令和4年9月のことでした。

4 転居時期の決定・引越準備
 監督を受ける釧路地方法務局にも報告しなければと、事務所の移転を考えている旨連絡すると、認可の上申をし認可が下りるまで、約3か月みてくださいとのお話しでした。
 道東の冬の期間は長いため、11月からまだ雪の降る可能性のある5月のゴールデンウイークまでの引越は困難と考え、令和5年の5月のゴールデンウイーク明けの5月13日(土)に移転し、5月15日(月)から新事務所での事務をスタートさせることとしました。
 そして、その間に、過去から積み残してある書類、古くて使わなくなった参考資料や図書を、毎週一回整理し、廃棄しました。

5 引越
 令和5年5月13日(土)、雨も降らず、朝から行った引越作業は、午後2時には終了しました。
 当日及び翌日曜日中に、新しく設置したキャビネ6台に保存中の全ての公正証書を保管することができました。
 新しく設置した本棚6台には、その後数日間掛けて図書を備付け、一連の引越は完了しました。

6 事務所移転の効果
 (1) 津波対策
 第1の効果は、5階建の4階、それも海と反対側の角部屋に入居したことにより、津波災害への不安がなくなりました。100%の対応とは言えないかもしれませんが、今できる最善の対策が行えたと思っています。
 お預かりした公正証書を安全に保管できる体制ができ、安心感が生まれました。
 (2) 場所が分かりやすい
 三ッ輪ビルは、釧路市役所のすぐ前に立つビルで繁華街の中心にあること、三ッ輪グループのビルであること、地下に過去にミシュランガイド北海道に掲載されたことのある料亭が入っていること等により、釧路市民は、ほぼその場所を知っているようです。ビルの名前を言っただけで、分かりましたとの返事があります。釧路市以外の方も、釧路市役所の前ですと説明すると理解してもらえます。場所の説明が、とてもし易くなりました。
 旧事務所のときは、同じ繁華街にありましたが、近隣にめぼしい建物がなく、「近くまで来ているのですが、場所が分かりません。」との電話をもらうことが多く、ビルを出て探しに行くことが多くありました。
 (3) 明るく静かな事務所
 新事務所は、東向きの窓があり、午前中は太陽の陽が差し込み、4階であることから、車の走る音もあまり聞こえません。
 旧事務所は、北向きの窓しかなく、一年中陽が差し込むことがない事務所でした。来訪するお客様に、事務所が明るくなりましたねの言葉をいただくことが多くなりました。また、1階であり、ビルが十字路の角にあったことから、車が必ず一時停止し発車することになり、トラック等その音が大きく聞こえるところでした。
 (4) 駐車場が利用しやすい
 旧事務所のときの駐車場は、金森ビルが十字路の東南の角にあり、駐車場は、十字路を挟んで北東の角にあったことから、駐車場から2回車道を渡る必要があり不便でした。
 雪が降り道路が凍結したときには、駐車場から事務所に来る間に、滑って転んでしまうことも度々ありました。
 新事務所の駐車場は、建物に隣接して設置されており、そのままビルに入ることができ便利になったこと、駐車場管理人がおり、案内してくれるなど安心感があることなど、利用しやすいと好評です。
 (5) 冬が暖かい
 新事務所は、全館をまかなう空調による暖房で、部屋が4階でもあり、冬でも暖かく仕事ができるようになりました。
 旧事務所は、各部屋ごとにガス空調機が1台設置されており、また、部屋は1階で北向きであり、床下は土の地面が露出し、ガス空調機の設定温度を高めてもなかなか暖まらないとても寒い部屋でした。

7 終わりに
 就任したときから心配していた事務所移転を、なんとか無事終えることができました。
 移転に要した費用は、➀旧事務所の原状回復費用50万円、②新たな書庫に設置した公正証書用キャビネ6台、図書用本棚6台の費用65万円、③事務所用本箱等什器費用22万円、④引越作業費用20万円、⑤インターネット回線、電話機移転費用15万円など総額180万円を超え思ったよりも多くの費用がかかりました。また、引越準備や後片付けなどの作業を私と書記の二人で行ったため、大変な作業ではありました。
 新事務所は、事務室兼調印室が旧事務所のときより狭くなりましたが、現在の事務量では問題なさそうです。かえって、効果も多く移転して良かったなと感じております。
 私も書記も、とても仕事をし易い環境になったと思っております。
 私の任期も後半に入りましたが、新事務所で、地域の皆さんに、公証役場に相談して良かったなと思っていただけるよう努めてまいりたいと思います。
                        (釧路・釧路公証人合同役場公証人 本田法夫)

実務の広場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.104 電子確定日付について(川本浩二)

1  はじめに
 宇和島公証役場(以下「当役場」という。)は、電子確定日付センターの一つに指定され、これまでに約13,300件(昨年8月末日時点)を処理している。
こうした実情から、実務の広場として「電子確定日付」について投稿してほしいとの依頼がきた。
会員の皆様は、電子公証システムを使用して、既に電子定款の認証を数多く処理されているはずである。電子定款の認証も電子確定日付の付与も同じ電子公証制度として運用しているので、電子公証制度の仕組みを理解していれば、ここで電子確定日付の付与に関して特別な説明をする必要はないこととなる。

ところが、「電子確定日付の付与のことは今一つ分からない。」という公証人の声をしばしば耳にする。今でも、嘱託人から「某公証役場に電話したところ、うちの役場では電子確定日付は扱っていないので、センターに相談してほしいと言われたので、こちらに電話しました。」という言葉を耳にする。
 そこで、今回は、電子確定日付センターが指定された経緯、運用の実際、上記のような言葉を耳にする原因等について、推測を交えて述べることとする。

2  電子確定日付センターの指定
 電子公証制度は、平成12年4月「公証制度に基礎を置く電子公証制度」が創設され、平成14年1月15日から本格運用が開始された。その内容は、電子私署証書の認証、電子定款の認証、電磁的記録に対する確定日付(日付情報)の付与及び認証を受けた情報・確定日付の付与された情報の保存、内容の証明である。
 なお、残る公正証書の作成の電子化については、ご承知のとおり、令和7年上期からスタートすることとなっている。
 ところで、理由は判然としないが、平成の後期頃から電子確定日付の付与の申請件数が伸び、一度に数十件、100件、200件等の大量の電子確定日付の付与の嘱託がされる事案が増加してきた。大都市の繁忙な公証役場にこのような数の嘱託が一度にあると、迅速な対応が困難となる。他方、電子確定日付は管轄がないため、全国どこの公証役場においても対応できる。
 そこで、令和の時代になった頃から、業務量的に迅速な対応が可能である地方の公証役場を選定し、それらの拠点において、迅速な公証サービスの提供と、利用者の利便の向上を図ることとして、令和2年7月13日付け総括理事依頼「電子確定日付センターの運用開始について」が策定され、同通知に添付された「電子確定日付センターの試行について」(以下「運用要領」という。)に基づき全国6か所の公証役場が「電子確定日付センター」に指定された。
 具体的には、①武生公証役場(福井)、②宇和島公証役場(愛媛)、③古川公証役場(仙台)④笠岡公証役場(岡山)、⑤苫小牧公証役場(札幌)、⑥大牟田公証役場(福岡)である。
 そして、電子確定日付センターとしての運用が試行的に開始されたのは、令和2年8月3日からである。

3  運用開始後の状況
 (1) 嘱託件数の動向
 上記のとおり令和2年8月から運用が試行的に開始されたが、電子確定日付の付与の嘱託が出始めたのは9月からであった。徐々に件数は増え、多い月は400件超(最高数は528件)であったが、最近は、200件から300件とやや低迷している。
 なお、当役場に対する令和2年8月から令和6年8月までの申請状況は、下表(編注:省略)のとおりである。
⑵  嘱託事件の管理方法
 申請があった都度、下表の「電子確定日付付与申請一覧」にデータを入力して、1か月単位で管理している。
 嘱託人の商号・氏名等は、記号で特定し、登簿管理番号については、セルの書式設定を工夫し、下4桁又は下5桁の数字を入力すればよいこととしている。また、嘱託件数を入力すると、手数料が自動計算されるとともに、末尾の登簿管理番号が自動で表示されるように設定している。
 この「電子確定日付付与申請一覧」をベースに、嘱託人ごとに、1か月分の取扱事件を取りまとめた「ご請求明細書」を月末又は翌月の初営業日に作成し、それをPDF化して嘱託人の担当者宛てに電子メールで送信している。
⑶  手数料の取扱い
 手数料は、原則として、処理する前又は処理後直ちに納付させるのが一般的であるが、運用要領においては、嘱託人の意向を尊重し、1か月分をまとめての清算も可能としている。
 基本的には、処理後、当役場の預金口座に手数料を振り込んでもらうこととしているが、毎月一定数を嘱託してくる嘱託人に対しては、⑵のとおり、1か月分を取りまとめた「ご請求明細書」を作成し、翌月末日までに先月分の手数料を一括して預金口座に振り込んでもらうこととしている。
⑷  領収書の取扱い
 手数料が預金口座に振り込まれたら、振り込まれた日付をもって作成した「計算書兼領収書」(以下「領収書」という。)を作成(別紙として「取扱明細書」を添付している。)し、これをPDF化して担当者宛てにメールで送信している。

4  電子確定日付の対象となる文書
 電子確定日付の対象となる電子文書は、PDF形式、TXT形式、XML形式で作成されたものである。
 1文書のファイルサイズは10メガバイト以下でなければならない。
 また、ファイル名は、31文字(全角の場合は15文字)以内とする必要がある。
 電子署名は必須ではなく、電子文書には空白があっても差し支えない。

5  却下することはあるか
 却下する事例もある。その事例は次のものが多く、そのほとんどは担当者のうっかりミスに過ぎないものである。①以外は却下事由に該当しないが、便宜上却下している。違法性や無効になる疑いのある内容による却下事案は、今のところない。
①  添付された電子文書の作成日が申請日の後日となっているもの。
②  エクセルで作成した表をPDF化している場合に、表の一部が「#######」と表示されているもの。
③  電子文書の情報の保存は申請しない嘱託人であるにもかからず保存の申請をしてきたもの。
④  作成した文書の一部が欠けていると思われる電子文書であるもの。

6  私署証書の原本が紙で作成されている場合
 例えば、第三債務者が作成する債権譲渡承諾書が紙で作成されている場合に、当該承諾書をPDF化した電子文書に対して電子確定日付の付与を申請されたときに、当該申請に応じてよいかとの点に関して、次のような見解がある。
 まず、令和2年6月24日付け総括理事通知「電子確定日付の対象物の作成者等の明示の要否について」(以下「令和2年通知」という。)であるが、これによれば、「嘱託人が飽くまでもそのような状態(PDFに電子署名はもとより、署名も記名押印もない状態)で電子確定日付の付与を求めるのであれば、公証人としては、嘱託を拒否することはできず、補正をさせることなく、電子確定日付を付与することにな」るとある。
 この通知の趣旨によれば、私署証書の原本が紙で作成されていて、それをPDF化した電子文書であっても、電子確定日付を付与して差し支えないということになる。
 次に、電子署名がされている私文書である電子文書(PDF)をプリントアウトしたもの(電子署名は、記名の右側に可視化されている。)への確定日付の付与の可否について、会報(令和3年7月号59ページ)は、「本件承諾書面は、電磁的記録をプリントアウトしたものであって、電子文書でない通常の文書であり、また、記名の横に印刷されている電子署名がされていることが分かるマークも、電子署名そのものではなく、紙に印刷されたものであり、名義人の印鑑によって捺印されたものでもないから、押印にも当たらない。そうすると、本件承諾書面は、署名又は記名押印のされた文書ではなく、これを私署証書ということはできないから、これに確定日付を付与することはできない。」とある。
 後者は、電子文書をプリントアウトした紙について確定日付の付与の申請があった場合は、プリントアウトしたのみの紙は私署証書に当たらないから、確定日付は付与できないということになるが、プリントアウトした紙を再度PDF化して電子確定日付の付与を申請すれば、前者(通知)の見解に基づき、電子確定日付は付与できるということになる。
 ところで、紙で作成した私署証書をコピーし、そのコピーした文書に対して確定日付の付与の申請があった場合はどうかというと、「コピーでは、原本に確定日附効が及ばないのではないかという意見が多かった。」や「コピーの場合もそのままでは付与できない。」(公証78号79ページ以下)。」という見解が示されている。そのため、コピーした文書に確定日付を付与する場合は、当該コピー文書に署名又は記名押印を求めている。
 このように、私署証書の原本が紙で作成されている場合の電子確定日付の取扱いに関してはモヤモヤとしたものがある。
 ちなみに、当役場においては、債権譲渡の第三債務者が紙で作成した債権譲渡承諾書をPDF化した電子文書に電子確定日付の付与に関して相談があった場合は、当該PDFファイルに対して、担当者において、①原本の写しである旨、②日付、③担当者の氏名及び印影を付すよう案内している。もっとも、この処理により債権譲渡の第三者対抗要件が具備されているといえるかどうかは明言できないが、当役場において現在処理しているケースは、グループ企業内の会社間の債権譲渡であるため、実際に債権譲渡の対抗要件を争う場面は想定されないとして、このような方法で処理している。
 なお、東京公証人会は、紙の債権譲渡承諾書をPDF化した電子文書に確定日付を付与することには否定的である(会報令和4年6月号23ページ)が、本部は、第三者対抗要件を備えるためには有効な方法ではないと説明するのが望ましいとした上、申請があれば、確定日付を付与して差し支えないとの見解を示している(令和4年度第3回電子公証委員会議事録)。

7  なぜ「電子確定日付は分からない」という声が多いのか
 ⑴  日付情報付与後の活用方法が判然としない
 電子公証といえば「電子定款」は馴染みが深いであろう。電子定款は馴染みがあるのに、同じ電子公証の一つである電子確定日付は「分からない」という声が多いのであろうか。
 電子定款の場合、認証した電子定款とともに、電子定款を出力した「同一情報」(いわゆる「謄本」)を提供するのであるが、電子定款の認証の嘱託を求めてくるものは司法書士、行政書士等の資格者代理人がほとんどであって、かつ、認証後の電子定款を添付して会社等の法人の設立をする場合は、法務局職員が当該定款(電子文書)を確認するし、金融機関に対しては、設立後の会社等の登記事項証明書等のほかに定款の提出を求められた場合は、定款の謄本を提出すれば足りることから、電子定款の認証を終えてしまったら、一件落着という気分になれる。しかも、法人設立後、定款の提出を求められた場合は、一般的には、認証を受けた電子定款を印刷し、それに当該法人の代表者が定款である旨記載して提出すれば足りるのであるから、認証後の電子定款の利用方法も明確である。
 しかし、電子確定日付の場合、申請された電子文書に日付情報を付与するのみで処理が完結する。定款のように当該電子文書を印刷して謄本として提供するわけではないし、確定日付が付与された電子文書の活用方法が判然としない。このため、なんとなく後味が悪い。
⑵  照会が多い
 また、申請してくる者(会社等)は、資格者代理人ではない一般の者が多い。このため、電子確定日付に関する質問が多く寄せられる。
 例えば、①電子確定日付の付与を申請する手順、②電子確定日付の仕組みと活用方法(文書作成日が争点となった場合に、確定日付が付与されていることをどのようにして第三者に証明できるのかなど)、③情報の同一性に関する証明とは何か、④同一情報の提供を申請する場合の方法などである。
 つまり、電子定款の場合、嘱託人や提出先が限られているため、電子公証制度に関する質問はほとんどないが、電子確定日付の場合は、不特定多数の者から電子公証制度に関する質問がある。そのため、「電子確定日付はよく分からない。」という声につながるのだと思う。
 しかし、繰り返しだが、電子定款も電子確定日付も全く同じ理屈で処理しているのであり、電子確定日付だけ特別な処理をしているわけではない。

8  電子確定日付の申請を受けたがらない理由
 ⑴  誰からどんな文書が届くか分からない
 確定日付の付与は、御存知のとおり、単に日付を確定するものに過ぎず、その行為の性質上、文書成立の真否、内容の真実性、有効性を何ら証明するものではない。しかし、公証人の印章が押捺されていることにより、この制度について十分な知識がない者や法制の異なる外国においては、文書の内容について公証人が何らかの認証を与え、あるいは記載されている内容が有効なものと認めて確定日付を付与したと誤解されるおそれがある。この点に着目して、意図的に、内容が違法、無効な文書について確定日付の付与を求める事案が発生している。現に、従来から、確定日付の付与に関する不審事案が発生しており、その都度、各役場に対して注意喚起されている。
 電子確定日付の付与は、全国どの公証人に対しても請求できる(すなわち、嘱託人が公証役場に出向く必要がないし、嘱託人の本人確認もしない。)ことから、このような仕組みを悪用し、意図的に、違法、無効な内容が記載されている電子文書について、システムを用いて確定日付の付与を申請してくるのではないかと心配される。
 実際、「12,000,000.00ポンド」という高い金額が記載されている英文で記載された文書について確定日付が付与できるかとの相談を受けたことがある。そのときは、知り合いに無償で翻訳してもらったところ、違法性が認められる内容ではないことが確認できた。しかし、結果的に、確定日付の付与の申請はなかったと記憶している。今回は大事に至らなかったが、電子公証制度を悪用して、違法、無効な内容が記載されている電子文書について確定日付の付与が申請されるのではないかとの不安がある。
 こうしたことも、電子確定日付は扱いたくないという気持ちにさせているのではないかと想像する。
 なお、近時は、外国文で作成された文書であっても、Googleの翻訳機能を使用すれば瞬時に翻訳できるので、活用してみたらよいと思う。
 ⑵  説明が大変
 上述のとおり、電子確定日付の付与を求めようとするに当たり、企業の担当者からの質問が多くある。担当者は、電子確定日付の仕組みや申請用総合ソフトの操作方法、手数料の納付方法などを確認し、上司に報告する必要があるからである。
 今はそんなに苦労していないが、公証人になって間もない時期に、これらの質問を受けたときは、なかなか辛いものがあった。

(主な質問)
①  日付情報の付与の申請をする手順(申請人側の手順)
※  ⅰ)電子文書の作成方法、ⅱ)電子署名の付与の要否、ⅲ)申請用総合ソフトのインストール方法、ⅳ)その操作方法(申請から電子公文書の保存まで)
②  手数料の納付方法
③  電子公文書の中身の説明(ハッシュ値、xmlファイルのことなど)
④  確定日付が電磁的に付与されていることを第三者に証明する方法
⑤  債権譲渡通知の対抗力を得るための方法
⑥  確定日付制度そのもの
⑦  情報の同一性に関する証明の申請方法、利用方法
⑧  同一情報の提供を申請する方法、利用方法
⑨  複数の部署の各担当者から日付情報の付与を申請する場合の留意事項
⑩  情報の保存の意義
⑪  日付情報が付与された電子公文書の保管方法
⑫  日付情報を付与することが可能な電子文書

⑶  どう理解すればよいか判然としない
 ある者から、「キャラクターをパソコン上でデザインしたので、そのキャラクターが表示されているパソコン画面をハードコピーして作成した画像データ(以下「キャラクター画像」という。)について電子確定日付を付与してほしい。」との依頼があった。
 この画像データが私署証書としての要件を満たすかどうかの点は判然としない。一般的にキャラクター自体に著作権はないが、当該キャラクターを小説や漫画、アニメ、ゲーム、ポスターなど具体的な形で表現すれば著作権があることとなる。ある者がいうキャラクターが著作権の対象となり得るかどうかは、公証役場では判断しづらいので、嘱託人が、著作権があるものとして確定日付の付与を依頼したいとのことであれば、私文書には該当しないとして拒否することはできないと考える。
 ところで、確定日付の対象となる文書については、「図面または写真自体は、意見、観念等を表示しているとは言えませんので、それ自体に確定日付を付することはできません。しかし、例えば、写真を台紙に貼って割印し、台紙に撮影の日時場所等のデータを記入した証明文を記載して記名押印する方法で私署証書とした場合には、これに確定日付を付与することができます。」と説明されている(日公連HPから)。
 この説明からすると、キャラクター画像のみを印刷した紙を持参されても、作成日時や作成者の表示もないので、確定日付は付与できないこととなる。
 一方、令和2年通知は、「電子確定日付を付与するに当たっては、ファイル形式の対象物に、作成日はもとより、作成者が明示されていなくても、その補正をさせなければならないものではないことが確認されました(作成日の明示については、それが電子確定日付付与の要件でないことは明らかであると思われます。)。」とある。
 そうすると、(令和2年通知によれば)キャラクター画像(電子文書)に電子確定日付の付与申請があった場合は、拒否することはできないと思われる。
 センターがこのような悩みを持っているというような情報に接すると、電子確定日付はできるだけ避けたいとの気持ちになるのだと思う。

⑷  手数料が安い
 確定日付の手数料は1件当たり700円である。これは電子確定日付も同じである。
 確定日付を付与したら、領収書を作成して嘱託人に渡すのだが、電子確定日付の場合は、役場に嘱託人が来るわけではないので、嘱託人宛てに領収書を郵送しなければならない。しかも、その費用(封筒代、切手代)は、役場側で負担することとされているので、もし、1件だけ申請があった場合は、700円の手数料から110円の切手代を役場が負担することとなる。会社によっては、請求書も必要というところもある。この場合、700円の手数料は、実質480円の所得にしかならないこととなる。
 電子確定日付の付与の処理はそんなに手間はかからないが、作成した領収書を郵送しなければならない手間が増える上、郵送料も負担しなければならないとなると、電子確定日付はできるだけ避けたいという気持ちになるのも理解できる。
 このため、当役場は、嘱託人の理解を得て、請求書及び領収書のいずれもPDF化して電子メールで担当者宛てに送信している。

9  電子確定日付の付与の課題
 ⑴  債権譲渡承諾書と第三者対抗要件
 電子公証制度が開始するに当たり、電子確定日付の付与は、債権譲渡手続の電子化に資するといわれており、民間企業が行うタイムスタンプと比較して証拠としての取扱いの面で絶対的に利用者にとって有利となることをアピールしていく必要があると言われ、運用が開始すると、電子確定日付は飛躍的に増加すると予想されていた。
 しかし、債権譲渡の第三者対抗要件を備えるためには、例えば、下記のような取扱いがされた場合とされているため、実際は利用しづらいのである。(参考:会報令和3年12月34ページ)
 X社が有する売掛債権をZ社に譲渡することについて、債務者であるY社が承諾した旨の債権譲渡承諾書を作成しX社に提出した後、司法書士が、当該債権譲渡承諾書をPDF化した上、これを添付した債権譲渡承諾書の写しの作成に関する報告書を作成し、これに電子署名を付して日付情報の付与申請した場合、当該債権譲渡承諾書に確定日付が付されたと解することができる。
 ⑵  電子ファイルを裁判の証拠として扱う場合
 裁判の証拠として電子ファイル(電子データ)を扱う場合、電子データを電磁的記録媒体に記録し、証拠として提出する場合は、当該ファイルのメタデータを含めてファイルが改ざんされていないかを確認するため、当該ファイルが作成された時点や証拠保全された時点のハッシュ値の提供を受け、当該ファイルのハッシュ値と比較してチェックしなければならない。
 御存知のとおり、この検証は、法務省提供の申請用総合ソフトを用いて行うのであるが、数百から数千件に上る電子公証ファイル(公文書)を一ファイルずつ確認するのかという疑問がある。
 ⑶  電子確定日付情報の保存期間
 令和2年7月31日付け総括理事通知「電子確定日付情報の長期保存について」が発出され、電子確定日付情報の保存期間について50年とされた。
 ここにいう電子確定日付情報とは具体的に何を指しているか判然としないが、おそらく電子確定日付が付与された公文書(日付情報が付与されたフォルダ)と思われる。この情報は、電子公証システムにおいて保存していると思われるが、指定公証人においても当該情報を保存しなければならない(平成13年3月1日付け法務省令第24号「指定公証人の行う電磁的記録に関する事務に関する省令」第22条)。
 ちなみに、本部に対し、「電子公証システムが電子確定日付情報を保存しているのだから、指定公証人側は、わざわざ保存する必要はないのではないか。」と質問したが、それに対する回答は、「省令で定まっている以上、各指定公証人も情報の複製を作成して保存する必要がある。」と回答された。
 上記省令第22条第1項は、「(略)の規定により保存した情報を記録した電磁的記録媒体の複製を作成しなければならない。」とあるから、電子公証システムにより処理した「署名済フォルダ」にあるデータの複製を作成しなければならない。そのため、電子公証システム端末に外部記憶媒体(外部HDD又はSSD)を取り付けて、定期的に署名済フォルダに格納されたデータをバックアップしなければならないということになる(平成27年2月20日付け電子公証委員会配布資料「電子公証における主な過誤事例」ケース11参照)。
 複製したデータを50年間保存するということは簡単なことではない。HDD、USBメモリ、SDカード、SSDは長期保存に向いていないし、DVDやブルーレイディスク(BD)などの光ディスクであっても10年程度といわれているからである。
 さらに、電子定款の場合は、認証した電子定款の保存の申請がセットになっているが、電子確定日付情報の場合は、当役場に対しては保存の申請はほとんどない(ほとんどの申請について、保存もセットに申請してくるセンターもあるらしい。)。では、保存の申請がなかった電子確定日付を付与した場合、「署名済フォルダ」に格納された当該ファイル(フォルダ)は削除してよいのかとの疑問があるが、この点も判然としない。

10  電子確定日付の展望
 ここまでの説明だと、電子確定日付制度には夢がないように受け止められるかも知れない。
 もし、仮に、毎月300件の電子確定日付の付与の申請があるとすると、それたけで21万円の収入となる。これだけの収入があると、書記1名分の給与の支払いは十分賄える。
 ところで、300件の申請が、300の嘱託人から1件ずつされたらとても大変な作業となるが、1の嘱託人から300件申請されたら楽勝である。
 その理由は、企業からの申請される確定日付の対象となる電子文書はほとんど統一された様式になっていて、違法性とか無効となる疑いのある内容が含まれていない。そのため、文書の内容を一つずつ詳細に確認する必要性は乏しく、確認作業が容易である。そして、請求書と領収書を1通ずつ作成すれば足りるからである。
 電子確定日付は、嘱託人が日付情報の付与申請を行った日付が付与(注)され、指定公証人が処理した日の日付が付与されるものではない。そのため、申請日の翌日又は翌営業日に処理をしたとしても、付与される日付が変わることはない。このため、公証人としては、慌てて処理する必要がない。このことは、電子確定日付のメリットと考えられる。
 債権譲渡の第三者対抗要件に関する問題点が解消されれば、電子確定日付の付与の申請は一気に増加すると思われる。
 (注)電子確定日付は、法務省のオンラインシステムを経由して電子公証センターのサーバーに申請情報が届く。正確には、この電子公証センターに到達した時点の日付が付与されるので、午後5時前後に申請した場合は、翌日に電子公証センターのサーバーに申請情報が届く場合がある。このような場合は、申請した日の翌日又は翌営業日の日付となる。

11  終わりに
 電子確定日付に関するエピソードを一つ紹介する。
 ある大手企業(R社)のことであるが、R社に就職した新人に対し、「業務改善」の課題が与えられた。新人の中に「サキ」という者がいた。サキさんは、総務部に配属され、毎月、多数の書類を公証役場に持参して確定日付の付与を申請していた。サキさんは、確定日付を得るために、会社と公証役場を往復しなければならないことを面倒臭いと思っていた。そんな中、サキさんは、「電子確定日付」の存在を知った。
 そこで、サキさんは、確定日付の申請をオンラインでできるようになれば業務の効率化が図れるはずだとして、当役場に照会してきた。サキさんは、上司の理解を得るために次々と質問してきた。これに対し、その都度詳しく説明した。このようなやり取りを重ねた後、R社は、毎月、一定数の電子確定日付の付与申請をするようになった。
 その後、サキさんは、「業務改善」に係る「成果発表」として、電子確定日付への移行を発表したところ、高く評価されたとのことである。
 サキさんは、当職に感謝の気持ちを伝えたいとして、わざわざ東京から松山までやってきた。 
                     (松山・宇和島公証役場公証人 川本浩二)

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