民事法情報研究会だよりNo.5(平成26年4月)

 桜花の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。  さて、当法人は成立後2年目の事業年度を迎えました。初年度の決算等は、早めに取り掛かったこともあり、大方の作業を終わり、これを審議するための通常理事会の招集を行ったところです。今後6月に開催の定時会員総会に向けて準備を進めてまいります。  ところで、当法人は非営利型の一般社団法人ですが、均等割の法人住民税を納付する必要がありますので、今後の事務処理の簡素化を考え、東京都新宿都税事務所に電子申告を行いました。初めての手続きは戸惑いも多いものの、やってみると案外簡単で、どこにも出かけずに2日目には電子納付も終わりました。いまや行政の電子化が各方面で相当進んでいることを実感した次第です。  本号では、佐々木理事の「最初の一着・最後の一着」と本間透会員からご寄稿いただいた「福島の今」を掲載いたします。(NN)

 
  最初の一着・最後の一着(理事 佐々木 暁)  この時節、街角で、電車の中で、見るからに新社会人と思われる真新しい背広を着て、緊張感漂う面持ちで歩いている若者を見かけます。おそらくは、この春に晴れて就職し、夢ある社会人としての一歩を踏み出した若者でしょう。  思えば、私が高校を卒業して就職した昭和41年4月1日(札幌法務局民事行政部登記課事務員)時点では、背広は着ていませんでした。叔父から就職祝いにもらった背広はあったのですが、いわゆるお下がりで、とても大きくて、流行にもかなり後れておりました。1年余り学生服と坊主頭で通勤しておりました(仕事中は事務服があり助かりました。)。あまり想像しないで下さい。若くか細く凛々しい私を(笑)・・・  私が最初に自分で背広を手に入れたのは、昭和42年3月のボーナスの時だったと記憶しております。当時の私は女性用のジーンズでも着用できる位に細身でありましたので、いわゆるブランコ物で十分満足でした。それから2着目を手に入れるまでは相当時間を要した気がします。  あれから47年、経済的問題・体型的問題を乗り越えながら、一体何着の背広に袖を通してきたのだろう。  平成19年3月、広島局で法務局生活を終わることとなり、退職記念とこれまでの公務員としての自分へのご褒美として、広島一のデパートで、今迄にない程に少し高い(私の中では)背広を新調しました。これが「最後の一着」と我が家の財務大臣に手を合わせて。  あれからまた7年余り、最後の一着が何着になったことか。「これは私が着ているのではなく、公証人が公証事務を執り行ううえで、品位?を維持するために着用しているもので、最後の一着とは別のものである」と言わなくてもいい言い訳をしながら。 人間何かのケジメを着ける時若しくは何かの願い事をする時に、ついついこれが「最後だから」と言ってしまうらしいのですが、これは私だけでしょうか。国会議員の選挙の際の「最後のお願い」に似てなくもない気がしますが。  「今夜はこれが最後の一杯」、「禁煙前の最後の一本」、「最後のゴルフクラブ」、「最後のカメラ」、「最後の釣竿」、「最後の新車」等々・・・・。身に覚えのある会員の皆様もいらっしゃるかと。  そしてこの度、公証人としての任期も残り少なくなったところで、退任後は背広を着る機会もめっきり減ることだろうと推測し、残りの任期と相談しながら、財務大臣の鋭い視線を感じながらも、こりもせず、これぞ「最後の一着」を新調しました。果たして「最後の一着」となりますか。  愛車は2年前に「最後の新車」として購入しました。間もなく車検が近づいております。皆様ならどうしますか。退任後は自由になる時間も増えますし、そのためにはしっかりと動き廻れる足が必要と考えるのですが。「ほんとうの?最後の一台」が。  天の声曰く、「最後の一着は、もう「黒」だけあればよいのでは。しかも夏・冬兼用で。どうせ感覚も鈍ってくるでしょうから」と。でも、せめて今しばらくは、たとえ礼服は黒でも、白いネクタイをする機会が多くなることを願って、「最後の一本とならない一本」の白い寿紋様のネクタイを新調したところです。   福島の今(本間 透)  今から3年前の平成23年3月11日(金)午後2時46分、三陸沖を震源としたマグニチュード9の観測史上最大の地震による東日本大震災が発生し、岩手、宮城、福島の東北地方太平洋沿岸では、地震と津波により未曾有の被害を受けました。特に、福島県では、この震災で、東京電力福島第一原子力発電所(以下「福島第一原発」といいます。)において、我が国では過去にない深刻な事故と事態が発生したことにより、原発地域の住民はもとより、県内全体でも重大な影響を受け、これが世界では、「フクシマ」として有名になりました。この原発事故による計り知れない問題については、東京電力は当然のこと、国を始めとして多くの関係機関が莫大な経費と労力を投じて対応しているところです。  震災発生直後から旧知の皆様に私の安否等について御心配いただき、また折にふれて原発事故の影響等をお尋ねいただきました。その都度、説明させていただきましたが、断片的ではなかなか詳しい状況が伝わらないことから、この場をお借りして、私事が中心となりますが、改めて震災発生時からこれまでの経緯と福島の現状を紹介させていただきます。 Ⅰ 震災について ○ 3月11日(金)  震災発生時、私は、行政書士会いわき支部がいわき駅前の複合ビル(ラトブといい、店舗、図書館、商工会議所等が入居する10階建の建物)の6階の大講堂において開催した市民公開講座(午後1時30分開始、参加者は、高齢者が主で約200人)において、「老後を安心に」というテーマで講師を務めており、1時間程講演をして任意後見に関するDVDを見てもらっていたところ、地震が発生しました。  地震は、3度にわたり強さが増し(震度6強、延べ3分10秒)、自力では立っていられない状態で、私は、講堂の奥に居たため、すぐに出られなかったので、近くの音声等の制御室に避難しました。このビルは、いわきでは最新の建物で、免震構造のせいか地震による揺れが私がこれまで経験したことがないもので、講堂内は、天井から可動式の照明の鉄枠が落下するとともに、スプリンクラーが壊れてその水があちこちから滝のように落下し、瞬く間に床は水浸しになり、深さは、足の踝まで達しました。机と椅子は、ぐちゃぐちゃに散乱してまさに足の踏み場もなくなっていました。  揺れが収まりつつあったので、私は、制御室から出て避難しようと講堂に踏み出したところ、老いた女性が逃げ遅れて机と照明の鉄枠に挟まれて動けなくなっているのを発見し、講堂の出口付近にいた行政書士会の方々を呼んで、その女性を救出し、講堂からやっとロビーに出ることができました。講堂のあるフロアで避難誘導していたビルの管理職員にこの女性を引き渡し、非常階段から屋外に出ました。後日談ですが、この女性は、講堂から救出した時点では意識がありましたが、当時としては止むを得ない状況ながら救急車や病院の手配が遅れて亡くなられたとのことでした。  いわき駅前は、建物外に避難した沢山の人で混雑し、余震が引き続いていたため、ほとんどの人がしゃがんでいました。妻が私の講演を聞きに来ていましたので、無事避難したかどうか確認するため、携帯電話を何度もかけ、メールも送信しましたが、繋がりませんでした。駅近くの自宅マンションに帰りましたが、妻は帰宅しておらず、自宅と駅前を何度も往復している中、奇跡的に妻からの携帯電話が繋がり、自宅マンション前で出会うことができました。  その後、妻と共に車で公証役場に向い、役場が入居しているビルの玄関にいた書記の無事を確認し、直ちに書記を帰宅させた後、役場事務室内の状況を確認したところ、パソコン・キャビネット等は、位置がずれただけで倒壊していませんでしたが、書庫内の帳簿等は、全て書棚から落下していました。役場が入居しているビルは、築40年以上ですが、建築当時、地盤が弱かったことから徹底した耐震工事をしたとのことで、建物自体は、損壊がありませんでしたが、敷地内の地盤が沈下し、地面と玄関階段とに約30cmの落差が生じました。  役場内の後片付けを翌日行うこととし、自宅マンションに戻りました。中の状況は、台所の食器棚の一部から飛び出した食器が破損していたり、家財道具の一部が転倒・移動していただけで、一番恐れていた妻が製作した陶器の陳列棚が大丈夫で、一つも破損していなかったのは驚きでした。この棚も含めて全ての家具等に転倒防止策と滑り止めをしていたのが効を奏したものと思われます。ただ、前日入れ替えたバスタブの水が多く残っていたことから、地震の揺れで洗面所などに溢れ出していましたが、これが後でとても役に立ちました。  この日は、水道は出ていましたが停電となり、暗い中、蝋燭と懐中電灯を頼りに片付けをして夕食を取りました。余震が絶え間なく続いて不安なので、着替えることなく、直ぐに避難できるよう、暖かくない炬燵に入って横になりました。 ○ 3月12日(土)  停電は解消しましたが、断水になっていました。昨日出ていた水は、マンションの貯水タンクに残っていたもので、気づくのが遅く、近くのスーパーに水を買い行きましたが、沢山の人が買出しに来ており、時既に遅しで、水も含めて必要な物を買うことができませんでした。とりあえず飲み水を確保するため、コンビニでロックアイスを買って当座をしのぐこととしました。洗面やトイレの水は、バスタブに残っていた水を活用することができ、大いに助かりましたので、これ以降、我が家では、常にバスタブに水を張っています。  携帯電話や固定電話では、私達の安否について子供達と連絡がとれないでいたところ、私のパソコンに長男(東京・世田谷在住)からメールがあり、ようやく連絡がとれました。臨月の長女(千葉・柏在住)のことが心配なので、息子に安否を確認してもらったところ、お互いに無事が確認できました。この後、他の親族にもインターネットによるメールで連絡することができ、インターネットの効用は、とても大きいことを実感した次第です。  午後から公証役場に行き、事務室及び書庫の片付けをし、書庫内のずれた書棚の位置を直すとともに、余震に備えて補強しながら散逸した帳簿等を確認して格納しました。  食事は、買い置きの食料品で間に合わせ、洗い物を出さないため、食器にサランラップを敷いて取りました  テレビには、東北各地の太平洋沿岸の津波による凄まじい状況が映し出され、言葉で言い表せないような映像に目が釘付けになるだけでした。  ※ 後で分かったことですが、この日、15時36分、福島第一原発の第1号機において核燃料の溶解による水素爆発がありました。 ○ 3月13日(日)  地元のラジオ放送で市が給水を行うこととその場所を知り、遅まきながら給水を受けるためのポリタンクを求めて、あちこちのスーパーやホームセンターに行きましたが、どこも水を入れるのに適した容器は売り切れで、窮余の策として、公証役場のごみ容器3個(1個30ℓ)の内側をビニール袋で覆い、役場近くの公園の給水場で給水を受けることができました。そこでは、給水を受けるための長蛇の列ができ、中には一人で沢山の容器を持って来て給水に長時間を要しトラブルになる場面もありましたが、手漕ぎのポンプを学生たちがボランティアで交代しながら動かしてくれ、助かりました。それでも給水の順番が来るのに約1時間待ちました。  市の広報車が「原発事故に伴う爆発のため、放射能が拡散しているので、できる限り外出を控え、どうしても外出する際は、外気に触れないよう帽子やマスクをするよう」アナウンスしながら巡回しました。さらに、市が原子力災害時用の放射性ヨウ素に対する予防薬として備蓄していた安定ヨウ素剤を配布するとの情報も入りました。 ○ 3月14日(月)  公証役場に出勤し、法務局や日公連等の関係機関で連絡の取れる所には状況を報告するとともに、今後の対応等について協議しました。当然のことながらその時点で予定されていた嘱託は、全部取り止めとなりました。  書記も出勤しましたが、当分仕事もなく、ガソリンが不足して車での通勤が困難なことから、しばらく自宅待機することとして、帰宅させました。  長男からインターネットでメールがあり、長女が無事娘を出産したとのことで、妻は、前々から生れたらすぐ長女の処へ行くこととしていましたが、高速道路、電車、バスとも、通行止めあるいは運休で身動きが取れないでいたところ、長男が仕事を終えてから東京から車で国道6号線を通って妻を迎えに来てくれることになりました。  ※ この日の11時1分、第3号機で水素爆発が発生しました。 ○ 3月15日(火)  長男夫婦が約6時間かけて明け方いわきに到着し、仮眠してから妻を乗せて長女のいる柏にとんぼ帰りしました。家族の思いやりや行動力に感心した次第です。  その際、長男から、東京では原発の爆発が大ニュースになり、大変なことになっているので、私も避難した方がいいと言われましたが、勝手に逃げ出すわけにもいかないので、自宅待機して様子を見ることにしました。  市の広報のせいか、市内は人通りが絶え、まさにゴーストタウンと化しました。原発事故に伴う風評被害もあり(いわき市の北部の一部だけが福島第一原発から30km圏内に入るにもかかわらず、いわき市全体がこの圏内と誤解されました。)、食糧品等の生活物資やガソリンがいわき市に供給されなくなり、断水も引き続き、日常生活の維持が困難となりました。市は、各公民館で被災者以外の市民に対しても飲料水と食糧を配給し始めました。  そこで、福島地方法務局と協議し、緊急避難的に公証役場の業務を一時休止することとし、その旨を役場に掲示した上、柏の長女夫婦宅に避難することとしました。  ※ この日の6時14分、第4号機が爆発により一部損傷しました。 ○ 3月18日(金)  16,17日は、自宅待機し、常磐自動車道が復旧開通したので(車のガソリンは、半分残っていました。)、長女の友人(柏在住)の母親を乗せて柏に避難しました。途中のいわき駅前の高速バス乗り場では、大きな荷物を持った人の長蛇の列がありました。高速道は、開通したものの、所々うねっていたり、片側通行規制がなされていました。  長女宅で初孫と初対面となり、いろいろと大変な中、大きな喜びと励みになりました。  柏でもガソリンが供給不足で、2時間待って10リットル入れ、翌日早朝から1時間待ってやっと満タンにすることができました。この後、ガソリンの残量が半分近くになったら常に満タンにするようにしています。  柏市の水道水から、基準値以下であるものの、放射性物質が検出されたため、乳幼児のいる家庭に通知があり、この通知書を持参すれば、1日20リットルを限度に給水してくれることとなり、以後、いわきに戻るまで、この給水への対応が私の日課となりました。 ○ 3月29日(火)  いわきの状況をインターネットで確認したところ、私の居住地域の断水が解消し、生活物資も供給されるようになったので、妻と共にいわきに戻り、翌日から公証役場の業務も再開しました。 ○ 4月11日(月)  これまでも度々余震が続いていたところ、午後5時17分、役場にいたときに震度6弱の余震がありました。また停電と断水も生じましたが、翌日解消されました。  自宅に帰る途中でも余震があり、車中での地震は初めてで、ゴンドラの中で揺れているような感じがして、電柱と電線の揺れが重なり不気味でした。信号が止まり、大渋滞の中、交差点を1台ずつ譲り合いながら通行する様に感激してしまいました。  大震災から丁度1か月の大きな余震は、せっかく復旧し始めた矢先のことで、被災地では特に精神的なダメージが大きかったと思われます。 ○ その後  公証役場が入居している建物は、市の社会福祉協議会が入っていることから、いわき市内の被災地救援のためのボランティアセンターとなり、4月の連休前から全国各地から大勢の人が訪れ、毎朝・夕混雑していましたが、9月末にはその役目を終えました。  5月の連休明けから、市内の人通りと車が増え始め、駅前のビジネスホテル等が満杯となり、営業不振で休業していたホテルも再開しました。これは、原発事故対応等のため、東電関連の企業の従業員が全国から集まり、様々な面でキャパシティがあるいわきを拠点としているためとのことでした。毎朝・夕には、従業員の人達がホテル前に集まり、コンビニで弁当を買って迎えのバスで福島第一原発(通称「フクイチ」又は「F1」と言われています。)に赴き、作業を終えてホテルに戻った後、夕食等のため飲食店を多くの人が利用していることから、特に駅前の飲食店街は、新規の居酒屋が開店するなど賑わっています。この状況は、今でも変りありません。  福島第一原発から20km圏内と圏外でも北西の一部地域が居住制限区域等に指定されたことにより、現在、県内の会津地方や県外に避難していたそれらの地域の住民が、同じ浜通りで放射線量が低く、気候風土も似ているいわき市(人口約33万人)に流入しています。その数は約2万4000人にのぼり、特に、いわき市の平地域には、様々な面でこれを受け入れられる余地があったことから、資力のある人は、仮設住宅に入らずに賃貸住宅に入居したり、ニュウータウンの物件を購入したりして、今では市内の賃貸物件と宅地・建物の売り物件が出尽くしたと言われています。また、震災で更地になったまとまった土地には、コンビニやホテルが建ち、新築マンションも計画されています。  これらにより街が活気づき、経済効果もありますが、一方では、人口増加によるごみ処理、医療機関の混雑や医療費の負担の問題が生じ、避難住民の自治体のいわゆる「仮の町」構想(役場所在地をいわき市に置き、避難住民への支援等を行いながら、その帰還を図ろうとするものです。)への対応の必要があります。いわき市では、できる限りその構想に協力して復興住宅を建設するなどしながらも、市独自の将来構想や財政事情もあって対応に苦慮しているようです。  また、同じように仮設住宅に入居していても、原発地域でない津波による被災者と原発地域の避難者とでは、補償金や損害賠償金が大きく異なることから、両者間でのいわゆる「やっかみ」的な軋轢により、心無い落書きなどトラブルが生じています。どちらも自分のせいではなく、だれも悪いわけではないので、やるせない気持ちになります。  福島県の昨年の選挙で、郡山、いわき、福島の三大市の現職市長が新人に敗れました。これは、行政に対する住民の震災復興・原発事故対応への不満や新たな首長に対する期待等が反映された結果と思われます。  県内では、震災の復旧・復興に当たり、原発地域のみならず様々な地域で原発事故が大きな障害となり、津波による瓦礫の撤去もできない地域があるなど、他県とは異なる問題を抱えていることから、道半ばと言わざるを得ません。  いわきでは、「がんばっぺ!いわき」を合言葉にして復旧・復興に取り組んでおり、特に、いわきの観光のシンボルである「スパリゾート・ハワイアンズ」では、フラガールの全国キャラバンなどもあり、施設内に新たなホテルもオープンし、利用客が震災前以上に増えたとのことです。  ※ 福島県の太平洋岸(160㎞)における津波は、5m~21m(推測)に達し、福島第一原発では、14メートルでした。   福島県の震災・原発事故による被災状況(平成26年2月28日現在)    死者:1607人(いわき市310人)    行方不明者:207人(いわき市37人)    震災関連死:1664人    避難者数:13万3584人(県内8万5589人、県外4万7995人)    仮設住宅入居者:2万8509人 Ⅱ 原発事故について ○ 福島第一原発の事故発生直後の経緯   3月11日   14:46 地震により1~3号機が自動停止   15:42 1~3号機で全ての電源が喪失   16:36 1、2号機で非常用炉心冷却装置による注水が不能   19:03 政府が原子力緊急事態宣言を発令   21:23 総理大臣が半径3km圏内の避難及び3km~10km圏内の屋内退避指示を発令  3月12日   05:44 半径10km圏内の避難指示発令   10:17 1号機でベントを開始    15:36 1号機で水素爆発が発生   18:25 半径20km圏内の避難指示発令   19:04 1号機への海水注入を開始     3月13日   05:10 3号機で冷却機能が喪失    3月14日   11:01 3号機で水素爆発が発生   13:25 2号機で冷却機能が喪失  3月15日   06:14 4号機が爆発により一部損傷   11:00 半径20km~30km圏内の屋内退避指示を発令  3月16日   05:45 4号機の建屋4階部分で火災発生   3月17日   09:48 3号機でヘリにより使用済燃料プールへの散水を開始  3月25日   11:46 内閣官房長官が半径20km~30km圏内の住民の自主 避難を促す。  3月30日 東京電力が1~4号機の廃炉を表明  4月 2日 2号機取水口付近から高濃度汚染水の海洋流出を確認  4月12日 事故の深刻度が国際評価尺度で最悪のレベル7とされる。  4月22日   00:00 半径20km圏内を立入り禁止の警戒区域に設定、圏外でも計画的避難区域、緊急時避難準備区域を設定   09:44 半径20km~30km圏内の屋内退避指示を解除 ○ 福島第一原発の現状等    1号機:炉心溶解、建屋水素爆発、原子炉建屋上部の瓦礫撤去のため建屋カバー解体へ   2号機:炉心溶解、原子炉建屋内の放射線量が高いため、遠隔操作のロボットによる調査中   3号機:炉心溶解、建屋水素爆発、原子炉建屋上部の瓦礫撤去が完了、核燃料取り出し用の建屋カバー設置へ    4号機:建屋水素爆発、使用済核燃料プールから燃料移送開始   5・6号機:2014.1.31付けで廃止を決定し、廃炉に向けた研究施設として利用  今後、4号機については、2014年末に核燃料移送を完了し、1~3号機については、2015年から順次、プールから使用済核燃料の取り出しを開始、2020年から原子炉内の溶解燃料の取り出しを開始、それらを了した後、全号機の施設を解体し、2040~50年頃廃炉を完了する予定です。  福島第一原発では、サッカーJリーグのJヴィレッジを拠点として毎日約3000人の作業員が、高濃度の放射線量の中、これらの作業等に従事していますが、汚染水の流出等の様々の問題や事態が発生し、その度に東京電力の対応が非難され、果たして予定どおり原発事故の収束に向うのか心配です。 ○ 放射性物質、汚染水の問題  原子炉建屋の水素爆発や格納容器の破損を防ぐため蒸気を意図的に外部に出すベントにより、放射性物質が大量に放出されました。当時の原子力安全委員会によれば、その量は、甲状腺被曝に関係するヨウ素131が13万テラベクレル、肉や野菜などの汚染で問題となるセシウム137が1万1000テラベクレル(ヨウ素131に換算すると44万テラベクレル)に達すると試算されましたが、匂いも色もない極小粒子で、単位が理解できないことから、正直なところ、量的なイメージや具体的な危険性が計りかねます。多くの人々、特に幼い子供を抱える家族が、それが故に不安になり過剰な意識を持ってしまうのも止むを得ないものと思います。  この放射性物質は、福島県では、当時の風で北西方向に運ばれ、不適切な情報管理・提供、連絡体制の不備から、原発地域の住民は、その方向に避難してしまい、混乱する中で病院に残された多くの高齢者が死亡するなどの悲劇が生じました。15日には、大気に漂う放射性物質が北風に乗って関東に運ばれ、雨によって地表に落下し、局所的に放射線量が高いホットスポットができました。  放射線量は、今ではかなり減少しているものの、注意を怠らないため、福島県内全域で放射線量を常時測定し、地元の新聞紙上に毎日数値を掲載しています。  また、原子炉を冷却するため常時注水している高濃度の汚染水と1日約400トンの地下水が原子炉建屋に流入していることによる汚染水の処理とともに、これが海へ流出することが問題となっています。東京電力の場当たり的な対応もあり、政府としては、国が関与していくことになりました。この処理策と防止策が急務となり、汚染水から放射性物質を取り除く設備の増設、汚染水を溜めるタンク群(現在1000基)の敷地の確保、タンクの不具合による汚染水漏れ、地下水の流入を食い止める凍土遮水壁の設置等のため、多大の時間と予算を費やすことになりますが、その進捗と効果は、不透明と言わざるを得ません。 ○ 避難状況等  原発事故により住民の避難等を余儀なくされた地域は、11市町村にお よび、現在、放射線量の状況に応じて、事故後6年間は戻ることができない「帰還困難区域」(年間被曝放射線量50ミリシーベルト超)、除染や社会基盤整備などを進めて数年内に帰還を目指す「居住制限区域」(同線量50ミリシーベルト以下20ミリシーベルト超)、早期帰還を目標とする「避難指示解除準備区域」(同線量20ミリシーベルト以下)に区分されています。  ※ 20ミリシーベルトは、国際的な許容基準とのことです。  原発事故による県外への避難者が相次ぎ、住民票を県内に残したままのケースを含め現在も約5万人(46都道府県すべてに及ぶ。)が福島を離れていることから、200万人を超えていた福島県の人口は、約195万人に減少しました。  この避難は、期間が長期化するにつれ、家族と地域の分断化をもたらしています。家族については、これまで一緒に生活していたのが仕事や居住スペースの関係でバラバラにならざるを得ず、引いては家族間の対立まで生じています。また、地域については、帰還を目指す人と諦める人とが明らかに分かれ、これまでのような自治体として維持していけるのかが問われています。  帰還を促進するためには、除染が欠かせませんが、年間被曝放射線量を1ミリシーベルトとする基準をクリアするには、長期的目標としながらも、どこまで行うか、人員の確保などの課題が多く、なかなか捗りません。また、除染により生じた大量の汚染土や廃棄物を最長30年間保管する中間貯蔵施設の建設予定地の選定も難航し、除染が捗らない一因となっています。  除染のみならず、生活基盤の整備が不可欠ですが、荒れた家屋や農地を元に戻すことには、行政による推進は勿論のこと個人的にも多大の気力と労力を要します。  ※ 1ミリシーベルトは、我が国の自然被曝放射線量の全国平均0.99ミリシーベルトによるもので、国際的には、世界の自然被曝放射線量の平均が2.4ミリシーベルトであることから、厳しすぎるとの見解があります。 ○ 風評被害  放射線量が事故直後に比べて大幅に低下しましたが、低線量とは言えそのリスクが多くの人を不安にさせ、健康影響について科学的知見が定まっていないこともあり、原発事故当初は、その不安等が増幅して、放射線量が極めて低い地域なのに福島に行かないとか福島で作った農作物や福島の漁港で水揚げされた魚介類は食べないという事態になり、福島の観光や農漁業は大打撃を受けました。  今では、県内で収穫された米を始めとする農作物は、流通する前に農協等で放射性物質の有無を検査し、放射性セシウムの濃度が国の規制値(1kg当たり100ベクレル)以下であることを確認の上(ほとんどが検出されていない。)、出荷しているので、これまでのように福島というだけで売れない又は売値が下がることは、かなり解消されるようになりました。見方によっては、全部検査済の物を出荷しているので、福島県産の物が一番安全と言えるかもしれません。  県内の観光地も福島を応援しようとする人達が積極的に訪れてくれ、観光客が戻りつつあります。昨年、研修同期会を東北で開催することになっていたところ、福島でやることになり、飯坂温泉に全国から集まっていただき嬉しく思いました。  漁業は、汚染水の海への流出が問題となり、漁ができない状況でしたが、昨年から試験操業を始め、放射性セシウムが国の規制値を下回る魚介類が増え、県漁連は、規制値より厳しい独自の基準(50ベクレル以下)を設け、水揚げした魚介類ごとに検査して出荷しています。市場の信頼感も回復しつつありますが、中には基準を上回る魚もあり、特にいわき沖にその例が多く、「いわき七浜」と言われる優れた漁港と漁場がありながら、そこで獲れるめひかりや柳下かれいなどの美味しい近海物が食べられないのが残念です。  風評被害の解消に当たっては、放射性物質等に対する意識を変えるための「心の除染」が必要と唱える方もいます。 ○ 原発について思うこと  福島第一原発の事故については、各方面でその原因等の調査・検証がなされましたが、未だ溶解した原子炉の核燃料の状態が確認できず、廃炉に向けた作業も予定どおり行われるかどうか計り知れません。  政府は、新たにできた原子力規制委員会の検討結果と地域住民の賛同を得て休止している原発の再稼動を行う方針ですが、本当に安全を確実なものとし、それが万全に担保される態勢でなければ再稼動すべきでないと思います。  国民生活や経済活動の維持のため、安定した電力の確保が必要なことは分かりますが、一方、原発事故により一夜にして普通の生活を奪われ、何万という人々が居住している所から避難を余儀なくされるだけでなく、拡散する放射性物質による影響を考えると、再稼動に慎重な意見にならざるを得ません。  福島で原発事故により大変な思いと苦労をされている方々を目の当たりにしていると、人間が作った装置でありながら、自然災害により人間がコントロールできなくなるような装置は、利用すべきでないとの思いが強まります。 Ⅲ 公証業務について  私は、震災前の平成21年7月からいわき公証役場で公証業務を執り行っていますが、平成23年の震災直後の状況では、これまでどおりいわきで公証業務を続けていくことができないのではないかと覚悟しました。通常であれば嘱託が多い3月は10日間しか勤務できず、4月は過去最小の嘱託件数でした。  しかし、5月頃から徐々に嘱託が増え始め、平成23年の嘱託件数は、前年比約10%減にとどまり、平成24年は前年を上回り、平成25年は過去10年で最多の嘱託件数となりました。  平成24年6月には、事実実験公正証書作成のため、福島第一原発の敷地内に赴き、全身防護服と全面マスクを着用して線量計が高濃度を示す中、所要の調査を行うなど、大変貴重な経験をしました。  前述したようにいわき市の人口増加とともに、震災等の復旧・復興のための予算と事業の需要が膨らんでいることが公証業務の増加に繋がっています。特に、事業の許認可や補助金のため、新たに会社を立ち上げて事業の受け皿になろうとする動きが加速し、これに伴い定款の認証が増加しています。その事業目的は、復旧・復興の動向を反映して産業廃棄物、土木・建築、放射線・除染、介護に関するものが多くなっています。また、人口の増加に伴い遺言や任意後見、各種契約の公正証書作成が増えています。  最近では、原発事故による東京電力の財物補償の関係で、相続登記未了の不動産に係る損害賠償契約を公正証書で作成するなど、福島県ならではの嘱託があり、原発事故による損害賠償請求権に関することを盛り込んだ遺言公正証書の作成もあります。  公証業務に関する相談が増え、それに直結しない様々な相談もありますが、できる限り相談者や嘱託人の親身になり、懇切丁寧な対応に心がけながら、少しでも地域住民の皆様のお役に立てればと思っております。 (福島県いわき市在住、平成26年3月11日記)  ]]>