民事法情報研究会だよりNo.36(平成30年12月)

歳末の候、会員の皆様におかれましては何かと心せわしい日々をお過ごしのことと存じます。 さて、平成23年3月の東日本大震災発生当時、仙台法務局長をしていた橘田会員(厚木公証人)にそのときの様子を、本号と次号の2回に分けて、寄稿していただきました。災害は忘れた頃にやってくる・・・時が経つと災害の記憶や助け合いの気持ちは薄れがちですが、昨今の次から次に発生する地震・豪雨・台風等の悲惨なニュースを見るにつけ、決して他人事にしてはならないという思いを新たにする今日この頃です。(NN)

今 日 こ の 頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

あの日 それから7年余を経て(その1)(橘田 博)

平成23年3月11日午後2時46分、多くの犠牲者と多くの街を壊滅させ、福島の原発事故の引き金となった、あの日あの時から7年余の歳月が流れました。 今般、本誌編集幹事から、あの時の様子など書いていただけたらとのお話があり、筆をとることにいたしました。 あの日から一月余りは、すべてが無我夢中の中で過ごした日々であり、退職後、当時を記録したデータが引っ越し荷物にまぎれ紛失したことから、曖昧な記憶に基づく回顧になっています。また、とりとめのない話や情緒的な表現が多々登場しますが、寛容な読者の皆様ゆえお許しいただきたくお願いいたします。 この原稿を書き始めようと重い腰を上げたころ、BSNHKの「心旅・2018秋」が始まりました。 毎朝、8時45分から楽しみに視聴している番組です。 今回は、北海道から静岡県までの旅です。その放送の開始直後、北海道胆振東部大地震が発生しました。 地震は、一行が襟裳から帯広に抜け、厚岸に着いた日の夜半に発災し、翌日の行程は、電気、鉄道も止まっているため、中止となった旨、放送は伝えていました。 翌日以降の放送を見ると、その後、旅は続けられ、青森県にわたり、10月中旬には、岩手県、下旬には宮城県を火野正平さんは、走り続けています。 しばらく訪れていない東北の地をテレビで見させていただき、また海岸線の町々の映像を見るたびに、当時のことが昨日のように蘇ってきて、なかなか進まない復興の難しさを感じるとともに、しかしながら、そこに暮らす人々の笑顔に救われる思いをしています。 前書きが長くなりましたが、当時のことを思い返しながら、筆を進めたいと思います。

1 二日前(その前日から) 発災3日前の3月8日、あと数日で、法務局生活にピリオドを打つ最後の職場視察に朝から出かけ、県北の登米支局、気仙沼支局に伺う。気仙沼市にて、いつもの常宿に宿泊。 気仙沼支局において、当時の東海林支局長と地震・津波に備えた防災訓練が話題となり、気仙沼支局が入居する国の港湾合同庁舎では、机上訓練は行っているが、実地訓練は未実施と伺いました。 気仙沼の港周辺の港湾施設の中の中高層ビルは、港湾合同庁舎と県合同庁舎のみであり、付近には缶詰工場など水産加工場が多数あることから、いざというときには、2棟の合同庁舎に避難者が予想されるが、国合同庁舎の出入り口は自動ドアのため、停電により開閉が困難になるので、1階の入居庁に速やかに開けてもらう必要がある等々意見交換をし、できれば実地訓練を行っていくのが管理庁としてベストである旨をお話ししたと記憶しています。 その夜は、支局の皆様と、来るたびにお邪魔する居酒屋「ぴんぽん」さんにて、珍味に舌鼓をうち、楽しい夜をすごしました。 翌日、気仙沼支局から仙台本局への帰途、正午前であったと記憶しています。三陸道を南下中、妻からメールが入り、「今、震度5強の地震があった。どこを走っているか?」とのこと。急ぎ、官用者車備え付けのテレビを見ると、大きな被害はないものの、相当大きな地震のようでありました。私たちは高速道路上(高架ではない)にいたため、気が付かなかったようでした。 東北では、30数年に1度、宮城沖地震が発生すると予測されており、国等の機関の長が集まる月曜会(毎月1度、幹事は持ち回り)においては、必ず地震の話題が出され、参加者も意見交換を行っておりました。私も着任以来、その備えに取り組んでいました。 職場に戻り、地震の様子や庁舎の被害状況等を管内にも照会をし、ほとんど被害がないことを確認しました。 これが宮城県沖地震であったとしても、昔と違い、建物の新営等されたのであるから、大丈夫であろうと、このとき、私自身、都合よく、思いこんでしまった感じがありました。 規模も小さくはありませんでしたが、それほど大きくもありませんでした。それでも震度は5強でしたので、宮城県沖地震が発生したのではないかと思い込んでしまったような気がします。 相当程度地震エネルギーが放出されれば、しばらくは大丈夫かと思い、二日後の大地震について、思いを巡らすことはありませんでした。

2 当日の朝から発災前 当日の朝から発災前にかけての記憶は、あまり鮮明に覚えていませんが、お昼は、奥山技官の案内で、美味しいお蕎麦をいただい後、大河原支局を視察し、大河原公証役場に伺い、前島公証人(当時)にご挨拶し、夕方の会食での再会を約して、大河原から亘理町、岩沼市を経て、名取出張所へ向かう途中でした。 前島公証人、木島公証人(当時古川公証役場公証人)のお二人には、石巻公証役場井上公証人が急逝されたことから、長らく石巻公証役場の代理公証人をお願いしており、夕方、仙台駅前の某所で、お二人に対する御礼とお別れの会食予定でした。 また、会食後、夜半には、当時、東京局総務部長であった西川現所沢公証人と仙台において、一献酌み交わす予定でした。 勤務中ながら、私の気持ちは、早く帰庁し、その準備にと、そちらに傾いていたように思います。

3 発災 亘理町、岩沼市を抜け名取市に入り、国道から法務局に向かう交差点の手前に差し掛かった時、テレビで緊急地震速報がながれ、奥山技官の機転で、交差点を急ぎ抜け、名取出張所へあと数十メートルという地点についたとき、経験のない激しい揺れに襲われ、私たちは官用者の中でしがみついているのが精一杯でした。防いでいても車の天井に頭を何度もぶつけているのが、わかりました。 ゆれる車窓から周りを見ると、車が揺れているせいもあるあったのでしょうが、道路が波を打っているように感じ、横に建つホテルルートインの建物が、右に左に撓るように揺れ、今にも横倒れになるような恐怖感を覚えました。 (名取出張所の事務室内) 少し、揺れが収まり、車外へ出ると、名取出張所から飛び出した人たちが、ある人は街路樹につかまり、ある人は地べたに座りこみ、自分の体を支えるのに必死の状態でした。 当時、名取出張所は、3月下旬の本局への統合を控え、管内から応援職員を派遣し、未済解消に向けて取り組んでいる最中でした。 その中の職員が、「局長、しばらくは車内にいたほうが安全ですよ。」と大きな声で、私たちに車に留まるよう声を張り上げていたのを覚えています。 私としては、とにかく、出張所の中の様子を確認することが大事と思い、中に入りましたが、待合室の記載台はことごとく転倒し、足の踏み場もない状態でした。受付カウンターをはじめ、卓上の端末のほとんどは、落下し、書庫をみれば、これもほとんどの簿冊が落下し、到底、速やかな原状回復は困難なことが確認できました。 名取出張所は、旧バックアップセンターの建物であり、他の施設からみると、強靭に造られた建物であるにも関わらず、これほどのダメージを受けるのかと、大きなショックと他の建物の被害がいかばかりかと、思わず身が震えた記憶があります。 車中のテレビでは、大きな津波が予想される旨、速やかに非難するよう繰り返し伝えておりました。 私としては、本局との連絡がままならない状態の中、とにかく帰庁することを優先し、名取出張所の職員には、速やかに事務所を閉鎖して、最上階へ避難することを指示し、本局への帰途につきました。このときには、津波からの避難を優先するが先と思い、職員には帰宅せず、状況が判明するまで待機すること、併せて、職員個々の単独行動は控え、できる限り情報収集にあたるよう指示し、仙台に向かいました。 (名取から仙台本局まで) 名取出張所を発ったのは、午後3時半過ぎだったと記憶しています。文化会館を回り国道へ出た途端、停電のため信号機が作動せず、大渋滞の中に身を置かざるを得ませんでした。 車窓からは、屋根が大きく壊れ落下している大手電機メーカーの工場、外壁が崩れ落ちている数々のビルが見え、地震エネルギーの凄まじさを感じずにはいられませんでした。 車内テレビでは、自衛隊(若しくは海上保安庁)の航空機が三陸沖に巨大津波が発生し、陸地に向かって押し寄せている様が映し出されました。その時の海側の空は、見たこともない灰色とも黒色ともつかない、濃い群青色に染まっておりました。 私たちは、車の窓を開け、大渋滞に巻き込まれている多くの車に「津波が来るぞー」と山側へ逃げるよう大声で叫びましたが、他の車に届いたどうかわかりません。 仙台に戻るには名取川を越えなければ戻れません。しかし、これは危険と考え、山側へ逃避することにしました。途中、ホームセンターの屋上駐車場に入り、海側を見てみましたが、名取市内までは、相当距離があること、途中高速道路(三陸道東道路)が縦に連なっていることから、幾ばくの安心はありましたが、とにかく山側を通り、八木山を回って仙台市内に戻ることにしました。 幸いにも、同乗者は、名取市在住の石川庶務課長と地理にめっぽう詳しい奥山技官でしたので、道案内に戸惑うことはありませんでした。 帰路の途中、農家の納屋がぺちゃんこに潰れていたり、14条地図を作成した緑ケ丘地区においては、道路が地滑りを起こして迂回を余儀なくされたり等々しながら、渋滞する中、3時間余をかけて、6時半過ぎ仙台本局に到着しました。

4 帰庁 3時間余をかけて到着した本局庁舎は、周囲が停電する中、自家発電を稼働させてひときわ明るく地震がなかったように堂々としておりました。 話はそれますが、本局庁舎新営は仙台局の念願であり、2年余の歳月をかけて、3月14日に落成したばかりでありました。 外観に被害はなく、安堵したのを覚えております。 (安否確認) 庶務課においては、沢藤庶務課長補佐をはじめ多くの職員が、本局、管内支局出張所、ブロック内各局の被害状況、職員及び家族の安否確認に奔走しておりました。 停電の下、安否確認がままならず、頼りは、職員の携帯電話という状況であったと思います。全員無事の報告の度に、安どの声が漏れていました。 しかし、携帯電話の電源も心もとない状況下での、被害状況の確認、安否確認の困難さを実感しました。 戸津統括登記官(現盛岡地方法務局首席登記官)が自家用車を庁内駐車場に持ち込んで来られたので、車載テレビで、沿岸部の被害状況をみていると、気仙沼支局が入居する港湾合同庁舎が周りを火の海に囲まれ、その屋上からは救助を待ちわびる多くの人々が手を振っているのが映し出され、よく見ると、気仙沼支局が所在する2階フロアーは、無残にも大津波の直撃を受けておりました。 気仙沼支局との通信は確保できておらず、ただただ職員の無事を祈ることしかできませんでした。 庶務課、会計課、職員課の職員をはじめ、徹夜での安否確認作業となりました。 (対策本部の立ち上げ) 当日は、人権擁護部長、総務管理官、職員課長、首席登記官をはじめ多くの幹部が、本省等への出張のため不在でありました。 各部課室、各部門から部課長のほか、筆頭の代理者を集め、現在までに収集できた被害状況等、情報の共有化を図るとともに、1日3回(午前8時30分、午後1時、午後5時)の本部会議を行うこととし、当該時間までに収集した情報の共有化、各課室の所掌事務のうち急ぎ取り組まなければならない事項の洗い出し、翌週月曜日からの各所掌事務の復旧の可否、それに向けた取り組み及びその状況を報告することを指示し、毎回の会議においては、報告を受け、私が具体的な指示(短期的なこと、中期的こと)を行う、それを具体的に取り組んでもらい、次の会議において、その取り組み状況の報告を受け、また指示を行うということを繰り返し、徐々にではありますが、数日たち被害の全容と、課題が見えてまいりました。 本来であれば、会議をし、議論することも大事でありますが、今まで誰もが経験のしたことのない事態に遭遇し、また、職員自身が被災者でもあります。会議において各方面の課題を議論すれば、なかなか前向きになれないのが心情かと思い、ここは、とにかく今は私の指示に従い、目鼻が立つまで、頑張ってほしい旨お願いをいたしました。 幹部の皆さん、職員の皆さんの中には、ご親族をこの災害で亡くされた方も少なくなく、心中を察するとおかけする言葉もありませんでしたが、そこを何とか奮い立って頑張っていただき、あの時を乗り越えられたと、感謝の気持ちでいっぱいです。 (気仙沼支局に関する対応) テレビ映像で、気仙沼支局の被災をみて、至急、気仙沼支局の事務停止と本局への事務の委任措置を行うよう、併せて、名取出張所の本局統合も取り急ぎ延期すること(この時点では、官報公告の準備が進んでいたと記憶しています。)を高橋民事行政調査官(現仙台法務局不動産首席登記官)に指示し、本省と緊密な連絡を取るようお願いしました。 気仙沼支局の状況等については、別途記述したいと思います。 (避難者) 話は前後しますが、帰庁し駐車場を経て、1階ロビーに向かうと多くの避難者の方々がいらっしゃいました。災害時の避難所は、近くの小学校が指定されており、当局庁舎は避難所に指定されてはおりませんでしたが、避難所には大勢の避難者がいて入ることができない等々、当局へ来られた方々には様々な理由があったろうと思います。 当局には、避難所に対応する備品が備わっていないこと等から、職員が避難所に移動されるよう説得をしておりましたが、険悪な状況も見られたことから、当局は避難所でないが、現在来られている方は受け入れる、しかし、物資は備蓄していないので満足なものは供給できないこと等を説明し、大会議室へ案内するともに、自家発電の停止を指示しました。 非常灯以外は、明かりがなくなった庁舎は、災害が嘘のように静寂につつまれ、余震の度に、建物のきしむ音のみが響いていました。 避難者への対応は、避難された方が相当数いたことから、その中から代表を決めていただき、当局も担当者を決め、そこを窓口として要望事項を伺い、また、当方が規律ある避難生活をするために従っていただきたいルール等、お互いの信頼を確保する作業から始めました。 幸いにも、仙台局には、宮城沖地震に備え、水、アルファ米、簡易トイレ、携帯コンロ等、職員数に相当する備蓄をしておりました。 発災翌日の土曜日の朝から、避難者への食事を考えなければならず、とりあえず、水とアルファ米を人数分提供すること、石油ストーブ(1個しかなかった)を提供し、お湯を沸かしてポットにためてもらい、それを避難者で飲料してもらう等々の対応を行いました。 (電源の確保) 仙台本局には、真新しい自家発電があり、この地震対応が初の稼働となるとは思いもよりませんでした。 しかしながら、その発電能力は4時間までで、発災直後に2時間ほど使用してしまっており、重油の残量は2時間分しかない状況でした。その電源は、月曜日各種システムの立ち上げ、点検に要することから、各種通信手段確保のために無駄に使用することはできませんでした。 発電機を探したところ、簡易ボンベの発電機があり使用してみましたが、発電量が小さく、携帯電源程度しかないことがわかり、次に灯油発電機を見つけ、それを使用しようとしたところ、ブースターケーブルがない等々いろいろありましたが、当時の堀内会計課長の自家車用ケーブルを拝借して何とか発電にこぎつけ、人権局との電話及びパソコン回線を確保することができました。この間、職員には、ガソリンスタンドへ灯油の買い出しに何度も往復をお願いしまた。 (被災職員家族の本局への避難) これは賛否があると思われますが、私の妻も含め職員の家族も本局庁舎へ避難させることを決めました。その際に、冷蔵庫の中のものはできる限り持参してもらうようお願いをしました。これが、その後の籠城に大いに役に立ちました。 発災の夜は、余震が収まらず、震度4を超える大きなものがたびたび発生し、不安もあり寝付かれぬ夜をみんなで過ごしていました。ただ、長丁場になることが予想されたので、できる限り睡眠をとることをみんなに伝えましたが、一睡もできない人々がほとんどであり、不安な夜を過ごしました。 (窓から見る停電した街並み) 東北の大都市仙台も、一帯が暗闇となり舞う小雪に寒さが一段とつのりました。 窓から見える街並みは、建物の外観が、車が通る際のライトに照らされる際に浮かび上がるだけで、加えて寒さも手伝い、知らず知らずに不安感が押し寄せてくるそんな夜でした。 津波の大きさは、車載テレビで見ているものの、どれだけの被害が出ているのか、翌日以降に次々に明らかになる被害の大きさに想像も及びませんでした。 (以下 次号)

世代間のギャップを考える(尾﨑一雄)

いささか旧聞に属するが、世代間ギャップの現状を特集した新聞記事があり、 「そりゃー大変だ」と思ったり、「自分ならどうする」と、思わず引き込まれた。 まず、「先輩のおどろき」ランキングの第1位は、「友達感覚でなれなれしいときがある。」、「何でもマジですかと返してくる。」、「まじめな話をしている時の受け答えが軽い。」などであり、「新人のおどろき」ランキングの第1位は、「余計なことを言うと変な空気になる。」、「事前の根回しで方向性が決まっている。」、「有給があるのに取ってはいけない暗黙のルールがある。」、「休むときは一人一人に理由を説明しなければならない。」などである。 多くの職場は人的な資源が限られており、限られた人員で最も効率的に機能するようにそれぞれの職責が定まっているが、スマホで人と人が直接つながっていることを実感している世代には、なかなか理解しがたいのかもしれない。 限られた人員で構成されるが故に、他人への思いやり、あるいは「忖度」などが不可欠にならざるを得ないが、幼い頃から大事にされて育ってくると、ある日、「あなたは世界の中心ではない。」と突然言われても、「そんな馬鹿な。」ということになるのかもしれない。 次に、「先輩のおどろき」ランキングの第2位は、「会議で突然指名されても堂々と意見を言う。」、「自分が同じ年の頃はそんなにはきはき答えられなかった。」であるのに対し、「新人のおどろき」ランキングの第2位は、「マニュアルがないことでミスが改善されない。」「いちいち口で説明して非効率」、「文字で見た方が覚えやすいのでやりずらい。」というものである。 先輩としては、好意的に教えてあげているのに、非効率とは何だ、「私たちは教えてさえもらえなかった。」と意気込む人も多いのではないかと思う。 「仕事は盗んで覚えろ」と言われて生きてきた我々としては、マニュアルどおりに繰り返されるコンビニのレジ等の味気ない応対に辟易しているので、「マニュアルにない事態が起こったときも、本当に大丈夫?」といらざる心配をしてしまう。 予算担当から事件担当の部署に異動し、判決の要旨を書くことになったときのこと、何度起案しても、係長から返され、4・5回目に「掲載されているものをよく見ろ。」と教えていただいたが、確かに掲載されているものは数行であるのに対し、私のものは、その3・4倍に及ぶものであった。要は判決の前提となった要件事実を書けば良かったものを、事案の概要を書いていたということになる。 当時は、起案文書を放り投げる怖い先輩も皆無ではなかったことなど、今の若い人からは想像もできないかもしれないが、もちろん四六時中怖いわけではなく、飲みに連れて行って、いろいろアドバイスをしていただくなど、優しい面もあるわけで、そういう環境の中で我々はある意味大事に育てられた。 要は人を育てるための手段・方法の違いということであろうが、今にして思えば、何より情が通っていたというのは間違いのないところである。 「要件事実を書くように」と結論だけを明示し、その通りにやれば効率も上がるし,間違いもないというのは、一見素晴らしい手法のように見えるが、長い目で見たときにはどうであろうか。 長い目などと言っている余裕がないと言ってはばからず、効率のみを追求する組織には人も育たず、将来がないように思えるが、いかがであろうか。 「先輩のおどろき」ランキングの第3位は、「トラブルが発生して大変なときに休みを取る。」、「男同士で月1回行く飲み会に誘ったら、きっぱり断った。」などであるのに対し、「新人のおどろき」第3位は、「大きな地震があったが出勤した。」、「台風直撃でも定時に出勤した。」というものである。 いずれもプライベートに関わるものであるが、私の出張所勤務時代を思い出すと、少なくとも週に2・3回は近くの立ち飲み屋、居酒屋などに出かけており、安月給の新人がお金を払うことは、まずなかった。 大げさに言えば、職場の人間関係や、仕事の進め方を理解する場としては、時間中(当時は乙号担当で、一日中、倉庫と閲覧席との間を行ったり来たりしていた。)より、アフター5の方が、大事だったような気がする。 私が係員、係長の時代は、各職場に旅行会があり、給料から天引きされて、年1回近くの温泉地などに出かけたものであった。 関西であれば、白浜温泉など紀伊半島の温泉地、また、芦原温泉など北陸温泉郷がその主な候補地で、電車に乗るなり飲み始め、到着する頃にはすっかりできあがっていて、降りるのはイヤと駄々をこね、幹事を困らせた先輩も今では懐かしい思い出になっている。 こういう飲み会・旅行の場を通じて日頃じっくり話す機会のない職員間・組織のコミュニケーションが図られていたように思う。 できの悪い私などは、係長の前に座らされ、お説教されるのはいつものことで、当時口癖のようになっていた「絶対・・・・・・」についても、世の中に絶対というものはないから、軽々しく口にしてはいけないと指導を受け、その後、気を付けるようになった。 いつの頃からか、旅行会が食事会になったことを覚えているが、今は月1回の飲み会も難しくなっているようで、寂しい限りである。 台風時の出勤なども幾度となく経験したが、公務という仕事の性格からか、皆、普段と同じように対応していたような気がしている。 以下4位以下6位までを見てみると次のとおりである。 「先輩のおどろき」ランキングの第4位は、「覇気がなく平均で満足している感じがする。」、同第5位は、「1から10まで伝えないと理解しない。」「先輩の仕事ぶりを盗もうという姿勢がない。」、同第6位は、「何の努力や工夫もなくできないと平気でいう。」、これに対して、「新人のおどろき」ランキングの第4位は、「飲みに誘われない。」、同第5位は、「残業が美徳と思っている先輩が多く、ちっとも効率を考えて仕事をしない。」、「低賃金だったので、残業代で稼ぐために定時過ぎまで残る先輩がかなりいた。」、同第6位は、「個人の直感的な対応が最終的な対応策になることが多い。」、「長く仕事をしているのに説明が下手だったり、機器が使いこなせていなかったりする。」というものである。 「俺たちが若い頃は、・・・」という言い古された慣用句を待つまでもなく、世代間のギャップはいつの時代にもあったが、情報化が進展し、ありとあらゆる情報が簡単なキィ操作で入手できるようになった今日、それも違った様相を呈しているような気がしてならない。 仕事を進めるに当たって、先輩の経験と実績の重みが昔ほど重要視されなくなってきたのかも知れないが、実際には、経験と実績に裏打ちされたものでなければ使い物にならないような気がするのは、私だけだろうか。 ここまで書いてきて、今から50年ほど前、「珍しい事件だから、記載例をあげる。」と言って、先輩から手刷りの登記記載例を分けていただいたことをふと思い出した。 今、法務局では新規採用が再開され、職場には20代の職員が増えていると聞く、先輩と後輩を繋ぐ絆はどうなっているのか、気になるところである。

主夫、調停委員になる(星野英敏)

―調停委員になる― 昨年9月に公証人を退任後、早く一人前の主夫となれるようにと考えていたところ、認知症予防のためにも何か仕事をしてはどうかという勧めを受けたこともあり、調停委員であれば主夫とも両立可能なことから、自宅から近い家庭裁判所支部の家事調停委員になることにしました。 自宅から一番近い家庭裁判所支部に出向き、家事調停委員になりたい旨を告げると、家事調停委員の任期は2年で、更新はあるけれども70歳になると更新はされないので、私の場合既に66歳でしたから、更新は1回のみで、最長でも4年間ということでした。 70歳近くの方は、任期が短くなってしまうことから、採用が難しくなるようです。 それでも、面接試験を受けた結果採用となり、今年の4月1日付けで家事調停委員の任命を受けることになったのですが、突発的な事情により今年の1月末から5月いっぱいまでは半田公証役場の公証人を勤めなければならないこととなったので、裁判所の方はそれまで待ってもらうこととしました。 6月からは裁判所に行くことができるようになったので、最初に2日間、午前・午後の2期日ずつ先輩調停委員が実際に調停を行っているところを見学させていただき、その後は、ベテランの家事調停委員とのペアで調停を進めることとなりました。 最初のうちは、事件の配分もあまりなかったので、週に1日か2日裁判所に行く程度でしたが、次第に事件の配分が増え、新規事件のほかに継続して2回目、3回目となる事件もあることから、毎週3日は午前と午後に期日が入るという状況になりました。 また、10月からは、家事以外に、地方裁判所の民事事件と簡易裁判所の調停委員にも任命され(そのための面接試験も別途受けました。)、平日はほぼ毎日裁判所に行くことになってきました。

―主夫の朝は大変― 主夫の仕事もあまり手を抜くわけにはいきませんので、特に朝の時間配分が大変です。 毎朝5時ころには起きて薪ストーブに火をつけ(寒い時期のみですが)、みそ汁を作り、猫たちに餌をやり、洗濯をして干し、ラジオ体操をし(腰痛予防のために始めましたが、もう5~6年続けています。)、ふとんを上げ、ゴミの日にはゴミを出し、というところで、朝食(おかずは妻が作ってくれます。)を食べて出勤となってしまいます。 午前中に期日が入っていない日には、朝のうちに掃除機かけもできるのですが、これをサボると部屋の中を猫の毛のかたまりが漂い始めてしまいます。 何よりも、主夫の一番の悩みは、水仕事による手荒れです。 いつの間にか指にひび割れができ、水がしみて痛くなりますので、炊事用手袋や洗濯掃除用手袋のお世話になったり、色々な塗り薬やハンドクリームなどを試してみていますが、思うようには効果がありません。 また、地元の町内会長も引き受けてしまったことから、土日の半分くらいは町内会の行事等でとられてしまい、平日手抜きをした掃除などの穴埋めも難しく、子供たちと遊ぶ時間もなかなか取れません(だんだん子供たちも遊んでくれなくなってきました。)。

―通勤― 下の子が生まれ、それまでのアパートが手狭になってきたことから、西尾市内に家を建ててしまいましたが、アパートも家も、その当時の勤務先であった西尾駅前から徒歩約20分のところを選びました。 健康維持のため、徒歩通勤と考えたことによるのですが、片道30分ではくじけてしまいそうですし、あまり短いのでは意味がないということで、この距離にしました。 現在は、家から駅まで徒歩約20分、駅から電車約40分で裁判所支部の最寄駅、そこからまた徒歩約20分ということになりますが、暑さの酷い時期や悪天候の際には、裁判所支部の最寄駅からはバスを使うこともあります。

―調停委員会― 調停委員は、兼務の制限はないので、別に本業としての仕事を持っている方も多く、弁護士や司法書士、税理士、不動産鑑定士などの専門家もいて、その専門知識が生かされています。 民事や簡易裁判所の事件では、女性の調停委員が少ないことから、男性の調停委員2名と担当裁判官による調停委員会が多くなりますが、家事調停の場合は、原則として女性の家事調停委員と男性の家事調停委員各1名と担当裁判官の3名で調停委員会を組織します。 担当裁判官は、同時に複数の調停委員会を持っていますので、通常の調停の進行は2名の調停委員で行い、随時裁判官と相談しながら進めて、成立時等必要な時には裁判官に出席してもらいます。 本業が忙しい調停委員は、月に1,2回しか調停委員としての仕事ができないという方もおいでになりますので、日常的に裁判所に来ている調停委員は、退職者や主婦(夫)が多くなります。

―調停― 調停は、裁判官が判断を示すというものではなく、当事者間の話し合いによる合意を目指す制度ですが、そもそも当事者どうしでの話し合いがうまくいかないことから調停を利用しているので、双方の当事者を直接話し合わせても非難の応酬となってしまうことが多く、調停委員が間に入って交互に各当事者の話を聞きながら進めていくことになります。 なお、最初に各当事者に調停制度について説明しますが、金銭の支払いについて合意が成立した場合、確定判決と同じ効力を持つことから、強制執行の対象となることも注意しておきます。 離婚等の場合、「相手の方が悪い」という点だけ双方の意見が一致して、真っ向から対立することが多いのですが、それぞれの言い分を十分に聞き、信頼関係を築いてから法制度の考え方を説明し、あなたの気持ちは良くわかるけれども法的には直接それを通すことは難しいので、この点は譲る代わりにこのような方向で合意を目指してはどうかというような提案をしていくことになります。 中には、とにかく早く離婚したいという一心で、支払い不可能と思われる法外な給付を提案したり、相手方の無茶な申し入れに合意しようとしたりということもありますが、すぐに破綻してしまうことにならないか、子供の今後の生活は本当に大丈夫なのかなどの観点から再考を促したり、納得のいかないまま合意を急いではいけませんなどと注意をすることもあります。 また、相手や子供の気持ちを察するよりも、自分の主張に固執する当事者がおり、離婚に当たって子供の親権をどちらが取るかで深刻な争いになることもあります(大岡裁きのように、双方に子供の手を引っ張らせるというわけにはいきません。)。 このような場合、父親も母親もどちらも好きなのにその二人が争っていることで心を痛めている子供の気持ちを察するように促すと、気持ちが動く場合もあり、このような時に調停委員としてのやりがいを感じます。 離婚に関する事件では、双方とも外国人で、それもそれぞれ国籍が違うという場合もあります。 そのような場合は、法の適用に関する通則法や扶養義務の準拠法に関する法律によって適用する法を定め、外国法が適用される場合には関係する外国法を書記官に調べてもらって判断することになりますが、そもそも親権や監護権というような概念自体が日本とは異なっているのではないかと思われる場合もあります。

―算定表― 家事調停では、別居中の夫婦の婚姻費用や子の養育費が問題となることが多く、家庭裁判所のホームページで公開されている「養育費・婚姻費用の算定表」がその目安として使われています。 この算定表は、「新版 証書の作成と文例 家事関係編〔改訂版〕」34ページ以下及び85ページ以下にも掲載されているので、公証人の皆様はご存知と思いますが、その考え方の詳細については、別途実務の広場等でご説明したいと思います。 ここでは、養育費等の算定表で、子の年齢により0~14歳の表と15~19歳の表とに分かれている理由についてだけ指摘しておきます。 これは、公立の中学校までの平均的学費と公立の高等学校の平均的学費の差に基づくもので、本来は、子が高等学校に進学する時点で、適用される算定表が切り替わるのです。 したがって、0~14歳の表に基づいて養育費等の額を定める場合には、「進学に伴う特別な費用については別途協議する」というような条項が必要となりますので、公正証書作成相談の場合にも、別途協議するという条項の追加を助言していただきたいと思います。

―婚姻費用又は養育費に関する合意― 調停では、できるだけ当事者の合意を尊重することから、審判や裁判による裁判官の判断よりは合意の効力が認められる幅は広くなりますが、算定表の目安よりも大幅に低い金額で当事者が合意する場合、子供の将来の生活に支障がないかという観点から再考を促すことになりますし、大幅に高い金額となる場合には、本当に支障なく支払えるのか、破綻してしまうことにならないのか確認することとなります。 また、婚姻費用も養育費も、直面する生活費の問題ですから、その解決は早急にしなければなりませんし、すぐに合意できない場合には、暫定的な支払いを促すことになります。 最終的な金額が決まっていない段階でも、暫定的に一定の金額を支払ってもらい、後日金額が決まった時に、不足していた場合には未払い分の追加支払いということになりますし、過剰だった場合には清算となりますが、支払う側としても暫定的に一部でも支払っておけば、後日の追加未払い分は少なくなりますし、支払いを受ける側としても当面の生活費が確保できることで、双方の利益につながります。

―日々反省― 期日が終わると、もっとこのように説明した方が良かったのではないかとか、あの当事者はこんなことを考えていたのではないかなど、日々反省と新たな気付きの連続で、確かに認知症予防には効果がありそうです(そうは言っても、確実に認知症が進行していることを自覚せざるを得ない毎日です。)。 公証人経験者が調停委員となるには、最初に述べたとおり、年齢的な問題がありますが、可能であれば退職後の認知症予防のための選択肢の一つとして考えてみてはいかがでしょうか。 また、戸籍や登記、訟務、人権などの経験が役立つ仕事で、司法書士等の業務と両立させることも可能ですので、機会がありましたら、後輩の法務局退職者にも声をかけていただければと思います。 ただし、報酬は、週3~4日出勤したとして、月額10万円程度です。

実 務 の 広 場

このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.65 甲・乙共有地の乙の持分に甲が賃借権を設定したいという事例について

本件については,本紙No.29(平成29年10月)において,3つの事例に絞って検討を試みたもののうち,事例1について再掲するものである。 原稿掲載後いくつかの意見をいただいた。説明不足の感も否めないので,改めて以下のとおり文案を修正して紹介したい。 記載が重複する部分も多いと思うが,書直しなのでご容赦願いたい。また,本稿の内容については,引用文以外筆者の個人的見解であることを,あらかじめお断りしておきたい。 事例1 甲・乙共有地の乙の持分に甲が賃借権を設定したいという事例 概要:甲は,ある事業目的で,乙単独所有地(A地)と甲・乙共有地(B地)を乙から借り受けて一体として使用したい。賃料は,A地とB地(乙持分)併せて金〇〇万円と決めた。この内容で不動産賃貸借契約公正証書を作成して欲しい。 検討:このような事案は、実例としては、ありそうな気がする。例えば、親兄弟で共同相続したB土地全体を、共同相続人の一人が賃貸用駐車場用地として使用し、他の2名には賃料相当額を支払うといった場合などである。 本事例は、法律的には、甲・乙共有のB地について、乙持分を甲が乙から借りるべく、甲・乙間で賃貸借契約を締結することができるかという問題である。 甲・乙共有地に第三者である丙が賃借権を設定できることについては,異論はないであろう。 しかし、甲又は乙の共有持分の全部又はその一部に賃借権の設定ができるかということについては、肯定論もあるようであるが、実務は否定的に運用されていると思われる。なぜなら、賃貸借について、民法601条は、「賃貸借は、当事者の一方がある物の使用及び収益を相手方にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うことを約することによって、その効力を生ずる」と規定し、賃貸借の成立要件の一つとして「物の使用・・・を約すこと」を掲げている。すなわち、対象が物であることを前提としており、土地であれば当該土地が対象物となり、共有持分権という権利を対象としていないからである。また、民法249条は、「各共有者は、共有物の全部について、その持分に応じた使用をすることができる」とし、「持分に応じた使用」とはしているものの、(共有)物の全部の使用を前提としている。そうすると、乙の持分に賃借権を設定することはできないことになる。登記実務においても、共有持分についての賃借権設定登記を否定している(昭和37年3月26日民甲844号通達・登記研究320-63ページ参照、昭和48年10月13日民三7694号回答)。 それでは、甲がB地全部をある程度長期間使用したい場合、どのような契約を結ぶことができるのかということであるが、大別して以下の3つの方法が考えられる。 ①  共有物を現物分割し、分筆して乙所有部分として特定した箇所を甲が賃借する方法 この方法は、甲及び乙が合意しなければできないし、本問では、甲・乙共有のまま甲が使用することを前提としているので、本問の回答にはならない。 ②  貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約を締結する方法 この方法は、甲が貸主であるとともに借主になることから、借地借家法15条のような自己借地権の規定がない限り、また、混同の原則により難しいという意見がある。 ③ 甲・乙間において、その共有するB土地を甲のみが使用することについての,共有土地の使用に関する合意契約のような契約を締結する方法 債権については、物権法定主義のような縛りはないから、このような契約も可能と考える。 以下において、②、③の説について、共有持分の賃貸借という観点から若干検討してみたい。 まず、共有物の賃貸借が、共有物の変更、管理、保存(民法251条,252条)のいずれに該当するかという問題がある。多少見解の相違もあるようであるが、短期賃貸借はともかく、長期間の賃貸借の場合は、共有物の変更として共有者全員の同意が必要と解されている。したがって、本事例のようにB地を賃貸用駐車場としてある程度長期間にわたり賃貸借する場合も、共有物の変更に当たり、共有者全員の同意が必要と解される。 本事例の場合、乙の同意が得られれば、B地を賃貸借契約の対象とすることには何ら問題がない。ただ、借主がB土地の共有者の一人である甲であっても問題がないかということである。 まず、前記②は、貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約ができないかという問題提起である。この場合、甲は貸主と借主の双方の立場にあるが、貸主は、甲だけではなく甲及び乙であり、しかもその対象は、甲の共有持分権ではなく甲及び乙の共有地という物であることから、単に甲が甲の土地を借りるということではなく、この意味において自己の所有地に自ら権利を設定する混同には必ずしも該当しないと理解することで差し支えないのではないかというものである。 しかし,この意見については,前記②のとおりの問題が指摘される。 ところで、借地借家法第15条(自己借地権)は,借地権設定者が他の者とともに借地権者となれる旨の規定であるが、この法改正(新設)の理由として以下のとおり説明されている。 「建物が区分所有建物である場合あるいは共有にかかる建物である場合には、建物所有者のなかに土地所有者である者とない者が混在するという状況がしばしば生ずる。この場合に建物を建てるための占有権原として借地権を設定しようとしても、現行法体系のもとでは認められない。土地所有者が自らを権利者とする借地権をその所有地に設定することが混同の原則により許されていない(民法179条1項,520条)ということがその基本にある。しかし、法律上、土地と建物とを別個の所有権の対象とし、建物を所有する権利として典型的に借地権を認めておきながら、しばしば生ずる土地所有者が建物所有者の一人であるという状況に対応した借地権を認めないのは不都合である。そこで、新法15条1項では、このような不便を解消するため、他人と共に借地権者となる場合に限り、自己を借地権者として借地権を設定することを認めることとした。」(寺田逸郎・新借地借家法の解説(4)NBL494号28ページ) 私がこの問題を取り上げたのは、借地権者が複数の場合には、自己借地権を創設するという借地借家法の改正により問題解決が図られたが、その逆、すなわち、(借地借家法の適用の有無にかかわらず)共有地を当該共有者の一部の者が使用する場合について、しばしば生ずる問題であるにもかかわらず、法規上明確な方策が示されてないように思われたことによるものである。 この点については、前記、借地借家法の解説(4)において、「借地権者となる者に借地権設定者でない者がいない場合、たとえばA・Bが所有する土地をAだけが使用するような場合には、15条の規定による借地権の設定が認められることはない。この場合には、共有者間の土地利用の合意という形で占有権原が存在するのである」と説明されている。(NBL494号29ページ) これは、建物の共同所有を目的とする借地権設定については、建物共有事例の不都合を救済するため法15条のような規定を設ける必要があるものの、共有土地の利用にあっては、共有者間の土地利用の合意ということで対応することで足り、特別な規定は必要ないことを前提としたものと解される。 そうであるならば、②の考え方に対する前述の疑問は解消されたことになるが、「貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約」とするよりも、「甲及び乙の共有地を甲が利用する合意契約」とするのが、より的を得た契約であると思われる。 そうすると、このことを明らかにした③の考え方が相当であると思われるが、これには、次の3つの説があり、契約を締結する場合、かかる議論に留意する必要があるとされる(齋藤理・宮城栄司、共有・分有土地上に存在する建物に係る土地利用権について(上)、ARES不動産証券化ジャーナルVol.10,120ページ以下)。 ア:共有者間における共有物利用に関する合意と考える見解 イ:甲を一方当事者とし、甲及び乙を他方当事者とする土地利用の設定契約 と考える見解 ウ:乙の土地共有持分について甲に利用権を設定する合意と考える見解 これらの考え方は、前記②で説明したとおり、共有土地の利用は、「共有者間の土地利用の合意という形で占有権原が存在するのである。」との解説に沿った考え方であり、上記ア、イ、ウは、説明の仕方の相違に過ぎず、いずれの説が正しいということではなく、いずれの考え方によったとしても、具体的な契約方法に変わりはないものと思われる。 それでは、この考えによるとしても、甲が乙に対して、一定額の利用料を支払うということになれば、そのことを決めなければならず、そうなると、合意内容といっても賃貸借契約と同様の内容の契約となってしまうこととなろう。 (結論) 以上のことを踏まえて、本件の契約内容をいかにすべきか考えるに、「共有者間の土地利用の合意」というのは、「甲及び乙の共有地(B地)を甲が単独で利用することに甲と乙が合意し、その利用期間は〇年、利用対価は毎月金〇円、支払時期は月末まで等」を定めることになるものと思われる。 そうであるならば、契約書は「甲乙間における共有物利用の合意」とし、共有地(B地)を甲が単独で使用することに甲及び乙が合意した旨と利用対価等を記載し、公正証書とすることが最も相当な方法であろう。 しかしながら、結局のところ、上記の合意内容は、甲・乙共有地の乙持分に甲が賃借権を設定するのと実質的には同様の結果となるものであり、当事者の意に沿うものであると考えるがいかがであろうか。 (由良卓郎)

No.66 地方自治体と市中銀行が発起人となって株式会社を設立することの可否について(質問箱より)

【質 問】 今般、地方自治体と市中銀行が発起人となって株式会社を設立したいとの相談がありました。 当職といたしましては、昭和42・1・21法規委協議結果(新訂法規委員会協議結果要録(362ページ))を踏まえて、地方自治体については、当該地方自治体の長の会社の発起人となることが地方自治体の目的の範囲内である理由を付した証明書の添付があれば、発起人となることは、可能であると考えます。 一方、昭和42・1・21法規委協議結果(新訂法規委員会協議結果要録(365ページ))においては、市中銀行等が観光開発会社の発起人になることについては、消極とされています。 しかし、現在、産官学連携による地産地消の推進等、地域の活性化が図られているところ、市中銀行が発起人となることについても可能であると考えますが、いささか疑義がありますので照会させていただきます。 併せて、相談時における設立予定の会社の目的は、次のとおりです。当職といたしましては、この内容では、営利事業を行う法人と何ら変わりなく、私人の営業と競争的に営利事業を行うと解される(前掲、新訂法規委員会協議結果要録(363ページ))ので、許可できないと考えますが、一方で、この協議結果は50年以上も前のものであり、特に官民が一体となって地域の活性化を図ることが普及している現在の社会経済に適応していないのではないかとも考えられますので、併せてご教示願います。 (設立予定の会社の目的) 第 条 当会社は、次の事業を営むことを目的とする。 1 発電事業及びその管理・運営並びに電気の売電に関する事業 2 インターネット及び情報サービスに関する事業 3 各種イベントの企画及び運営に関する事業 4 各種研修、教育、セミナー等の企画及び運営に関する事業 5 企業向けの相談窓口に関する事業 6 人材派遣及び雇用支援に関する事業 7 コンサルティングに関する事業 8 不動産、動産管理及びリースに関する事業 9 広告及び宣伝に関する事業 10 食品等販売に関する事業 11 上記各号に附帯する一切の事業

【質問箱委員会回答】 1 法人の行為能力について 法人は、民法第34条に定められているとおり、「定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し義務を負う」ことから、その目的の範囲外の行為はできません。 したがって、新設株式会社の発起人としての権利義務を有することができるかどうかは、新設株式会社の目的が、発起人となる法人の目的の範囲内のものであるかどうかで判断されることとなります。 その判断基準について、判例は、営利法人の場合「定款に記載された目的自体に包含されない行為であっても目的遂行に必要な行為は、社団の目的の範囲に属するものと解すべきであり、その目的遂行に必要かどうかは、問題となっている行為が、会社の定款記載の目的に現実に必要かどうかの基準によるべきでなく、定款の記載自体から観察して、客観的・抽象的に必要となり得るかどうかの基準に従って決すべきものである。」(最判昭和27.2.15)と、非営利法人の場合「法人の行為が法人の目的の範囲内に属するかどうかは、その行為が法人としての活動上必要な行為であり得るかどうかを客観的・抽象的に観察して判断すべきである。」(最判昭和44.4.3)と示しています。 また、具体的な目的の範囲の判断においては、非営利法人より営利法人の方が、比較的広く認められているようにも思われます(他人の債務引き受けに関する大判昭和10.4.13と大判昭和16.3.25等)。 2 地方公共団体の目的について 前記1の観点から、地方公共団体の目的について検討してみますと、地方公共団体は、地方自治法第1条の2第1項の「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」という規定を基本とし、同法第2条で規定されている自治事務及び法定受託事務を行うものとされていますが、自治事務については定款等その目的を個別具体的に記載したものは存在しません。 このようなことから、地方自治体が特定の新設株式会社の発起人となり得るかどうかについては、それが当該地方自治体の目的の範囲内である理由を付した当該地方自治体の長の証明書によって個別に判断せざるを得ないものと考えられます。 なお、御意見のとおり、地方自治体の目的は、社会経済情勢の変化に応じて変化していくものと考えられますので、地方自治体の目的の範囲外であることが明らかでない限りは、定款の認証を拒むことはできないものと考えます。 おって、地方自治体が発起人となった株式会社が、単に営利を目的として民業を圧迫するようなことをするのは好ましくないと思われますが、定款認証の際に公証人がこの点をチェックしなければならないものではなく、実際に新設株式会社が営業を開始してから、地域住民によってチェックされるべきものと考えます。 3 銀行の目的について 銀行は、株式会社(営利法人)であり(銀行法第4条の2)、その目的は登記されていますので、当該銀行が新設株式会社の発起人となれるかどうかについては、現に登記されている当該銀行の目的の記載自体から観察して、客観的・抽象的に必要となり得るかどうかを判断することになります。 そして、この判断においては、銀行法第1条第1項の「この法律は、銀行の業務の公共性にかんがみ、信用を維持し、預金者等の保護を確保するとともに金融の円滑を図るため、銀行の業務の健全かつ適切な運営を期し、もって国民経済の健全な発展に資することを目的とする。」という規定や、銀行が子会社とすることのできる会社(銀行法第16条の2)及び銀行持株会社が子会社とすることのできる会社(銀行法第52条の23)に関する規定が手掛かりになるものと思われますが、銀行等が子会社とすることのできる子会社対象会社には、社会経済情勢の変化に応じて、いわゆるベンチャー企業等が追加されています。 具体的に当該銀行の目的を確認する必要はありますが、このようなことを前提に、質問箱検討委員の間でも見解が分かれたところです。 一つは、一定の融資先の支援等は銀行の目的に含まれるものの、自ら起業するという前提でご質問の新設会社の目的を見る限り、金融取引で構成された銀行の目的の範囲を超え、また、その目的に関連しているとも言えないのではないかという見解です。 他方は、現在の社会経済情勢を踏まえると、市中銀行が出資して発起人となり、様々な事業を活性化させることも広い意味で銀行の目的と考えて、ご質問の新設会社の目的5、7等がこれに該当するものと考えて差し支えないのではないかという見解です。 質問箱検討委員の間でも見解の分かれているところですので、当該銀行の目的を確認し、不明確なところがあれば嘱託人から説明を求めるなどして、各公証人において判断していただくこととなります。 なお、銀行の出資比率が50%を超えたり、出資比率は少なくても役員を送り込むなど財務及び事業の方針の決定を支配している場合(会社法施行規則第3条第1項)に該当しますと、会社法第2条第3号にいう「子会社」となり、銀行法第16条の2に限定列挙された子会社対象会社であるかどうかも確認しなければなりませんので、銀行の目的の範囲内と判断する場合には、念のためこの点にもご注意願います。

]]>