新年のごあいさつ
新年明けましておめでとうございます。
昨年は、新型コロナウイルス禍で実施できなかった対面での総会、セミナー及び懇親会を6月17日に、セミナー及び懇親会を12月9日にそれぞれ開催することができました。4年ぶりに旧交を温めることができ、楽しい時間を過ごすことができました。セミナーの講師をお引き受けいただきました髙信幸男様及び住田裕子様並びにご参加いただきました会員の皆様に厚くお礼申し上げます。
新型コロナウイルス感染症が感染症法上の5類に移行したとはいえ、感染力が強いものであることに変わりはありませんので、仕事の関係で、対面の行事への出席を控えたい方々がいらっしゃるのはもっともなことと思います。そこで、出席が難しい方のためにも、民事法情報研究会だよりの内容を一層充実させることが重要であると考えています。200人を超える会員の方がおられることに鑑みますと、自分はこのようなところに住んでこのようなことをしていますよ!といったことを、皆さまに知っていただくことにも大きな意味があるものと考えますので、会員の皆様に一度はご寄稿いただきたいと考えています。お近くの担当理事にお声がけいただければと思います。
なお、現在の当協会の理事・監事は、次のとおりとなっています。
会長・業務執行理事 小口 哲男
副会長・業務執行理事 古門 由久
業務執行理事 佐々木 暁
業務執行理事 星野 英敏
業務執行理事 横山 緑
業務執行理事(関東地区担当) 浅井 琢児
理事(北海道・東北地区担当) 小沼 邦彦
理事(東海・北陸地区担当) 多田 衛
理事(近畿地区担当) 大竹 聖一
理事(中国・四国地区担当) 檜垣 明美
理事(九州地区担当) 前田 幸保
監事 西川 優
監事 神尾 衞
上記メンバーで当協会の活動を支えてまいりたいと思います。
本年度は、平成25年5月31日に当研究会が設立されてから10周年に当たりますが、新型コロナウイルス禍で身動きのできない期間が含まれていることから、もう10年も経ったんだと思われた方も多かったように思います。でも、着実に歩みを続けてきていることも事実でありますので、皆さまのご協力を得ながらさらに一歩ずつ進んでいきたいと思います。
最後に、皆様が明るい一年を迎えることができますようお祈りし、新年のごあいさつとさせていただきます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
令和6年正月
一般社団法人民事法情報研究会 会長 小口哲男
今日この頃
このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。
ゆるやかに人とつながる(佐々木 暁) |
「九州在住の研修同期生の彼氏は、今日も元気で、今頃は焼酎のお湯割りで晩酌を楽しんでいるんだろうなあ。本当に旨そうに飲むんだよなあ。」「北海道在住のあの方は、今年も耳かきに似た細い棒で、北の大地を開拓していたのだろうか。豪快な空振りも記憶に残っている。飛距離が年齢に逆らっていると言って嘆いていると風の便りに聞いてはいるが。傘寿も近いのに、春のオープンに向けて体力増強中。」、とか。
こんな想いを巡らしながら過ごした令和5年師走の年賀状作りの一コマである。一人一人一枚ごと、友人・知人と言いながらも一年振りの賀状での再会に想いを巡らしながらの作業となり、さっぱりはかどらない。まあ時間はたっぷりある。これも古くからの友人・知人とのゆるやかでのんびりとした、「付き合い・つながり」の確認作業の一つだと勝手に納得している。
そんな年賀状作りをようやく終えて、無事に郵便局に持ち込んだ。そして、めでたく令和6年新年を迎えることが出来た。
会友の皆様、新年あけましておめでとうございます。皆様には、コロナ禍の中の令和5年新年とはやや違う、少し明るい気持ちで令和6年の新年をお迎えになられたことでしょう。コロナ禍の中の4年間は心の弾まない年の初めでした。今年こそは、今年こそは・・・の想いがようやく少しずつかないつつある。どうぞ本年もよろしくお願い致します。
本年も「研究会だより」編集部からの心温まるお年玉プレゼントとして、新年号4回目となる「今日この頃」欄に寄稿せよとの名誉あるご下命を頂戴した。他に代わって寄稿してあげるという後輩会員もなく(不徳の致すところ)、止む無く老骨にムチ打ったところである。したがって、毎度のことながら文脈自由文法で進みますのでお許しください。
「少しずつ頭が顔に侵蝕されかけているな」、「少ない年金暮らしとぼやいている割には良く肥えているな」、「年の割に歯がやたら白く、生えそろっているな」などと、一人ブツブツ言いながら令和5年の年賀状を読み返しつつ、令和6年の年賀状作りを楽しんでいたが、年賀状一枚一枚にしたためられた短い文面の中の近況や筆跡にゆったりとした長い付き合いの歴史、繋がりが感じられて、何とも言いようのない癒されの時間であった。あの人とはもう何年来の付き合いになるのだろう、50年?高校からだと60年、小学校時代からだと70年、法務局採用時からだと57年余り、年賀状のやり取りだけで、別れてから一度も顔を合わせていない人もいるが、心の中にずっと住みついている気がする。若かりし頃の顔や想い出に浸りながら、こんなゆったりとした年賀状ならではの付き合いもあるんだなと。常日頃から顔を合わせていることだけが付き合い、つながりではなく、顔を合わせなくてもつながりは保てると確信しながらも、日頃のご無沙汰の言い訳にもしている。こんな調子だから年賀状作りははかどらない。親戚筋へのお義理の?年賀状も織り交ぜて何とか完了させている。
私は、性格的にやや欠陥があり、真に友人・知人としてお付き合いを頂くまでには多少の時間を要している。要するに話下手で、話題性に乏しく、人付き合いが下手くそなのである。受け入れて頂くのに時間がかかるのである。付き合いに慎重ということでは無いらしい。自分の事を相手の方に知って貰うのが下手なようである。相手の方の事を知り、理解することは、早くて得意かもしれない。ようやく相思相愛、意思疎通全開となれば、そこからはしつこいほどのお付き合いになっていく予感がするのである。
齢76年の我が人生過程の中には、多くの友人・知人がいてくれる。小学校時代から高校時代、職場関係者(職場を介して繋がりを得た方々)、近隣関係者、親戚筋の方々等々実に多くの人にお付き合いを頂きながら歩いてきた。繋がる糸は、太かったり、細かったり、長短あったり、赤・青・黄色であったり様々なようである。口の悪い?友人が言うには、「お前の場合は、全て「酒」繋がり」だと言うが、「少数・異端説だ」と反論はしている。
このような方々との交友・親交も年を重ねるに連れて、その付き合いの間隔も徐々に遠のきやがていつの間にか年一回の賀状交換会?に変身し、それもついには、高齢に付き今回限りと通告を頂き(敢えて通告するまでもなく、毎年悲しいかな自然減?がある。残念である。)、途絶える。〆は喪中はがきか。これでは何とも寂しい限りのお付き合いである。
さて、ここ数年来のコロナ禍の中、携帯電話の普及の中、人の付き合い方、つながり方も様変わりしてきたように感じる。辛うじて繋がっていた義理的会合、寄り合い、趣味の会、ゴルフコンペ、OB会、県人会等々を通じての付き合い、つながりも、コロナ禍の中、人が集まれないことを理由に、かなり整理・清算・解散という道を結果として選択せざるを得なかったという事象も生じているらしい。そろそろ退会しようか迷っていた方、解散等を考えていた方にとっては、コロナ禍は一つの転機を与えてくれたかもしれない。人との関わり、付き合い、つながりというものを考えてみる機会ではあったかもしれない。
高齢となり、終活の一環として、付き合いの整理、お中元・お歳暮、年賀状の整理も必要になるかも知れないが、頭では理解できそうだが、私としては何処か寂しい。「〇〇会」という名の宴会の整理は少し嬉しいかも。
老若男女問わず人それぞれの人との付き合い方、繋がり方があり、正しい付き合い方、繋がり方などは無く、まさに千差万別であろう。コロナ禍を経て、携帯電話片手にしながらの、人との付き合い方、繋がり方は、形も含め大きく変わったような気がする。真に必要な時にだけ連絡を取り合い、コミュニケーションをとる。合理的ではある。
形だけの会や、辞めたくても抜けられなかった会から自然解放された。唯一コロナの功績かも。こんな中、最近の風潮で、社内忘年会や、社員旅行が見直され、新たな職場内での人の付き合い、つながりが見直されているとか。団塊世代には懐かしいやら、嬉しいやらの複雑な心境である。
色々と訳の分からないことをダラダラと文脈自由文法に則り書き綴ってきたところですが、これがまさに私の今日この頃の生活状況の一幕である。その日その日の風の向き、春夏秋冬の風を感じながら、風の中に友の顔を見つけては、「63円」の便りで、「元気か」と声をかけて、これからもゆるやかにつながって行きたいと思っている。そして、長年(52年)の盟友たる我が家の山の神様とも。
会友の皆様、今年も元気でゆるやかにつながって行きましょう。
(元さいたま・大宮公証センター公証人 佐々木 暁)
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萩 往 還(山﨑秀義) |
萩往還とは、江戸時代に毛利氏の城下町である萩から江戸への参勤交代のために藩主が通る「御成道(おなりみち)」として整備された道で、日本海側の萩と瀬戸内海側の三田尻港(現防府市)をほぼ直線で結ぶ全長約53kmの街道です。その多くは現在も国道や県道として利用されているようですが、険しい山間を通る箇所などは、新たに道が作られ、廃道となった箇所もあったところ、近年その歴史的な価値が見いだされ、後世に伝えるために保存・整備が進められています。
江戸時代に整備された街道としては、いずれも江戸・日本橋を起点とする東海道、中山道、日光街道、奥州街道及び甲州街道の五街道などがあり、五街道の道幅は5間(9m)と定められていたようですが、実際の道幅はおよそ3間から4間(5.4m-7.2m)、箱根峠や鈴鹿峠などの山間部では道幅2間(3.6m)とされていたようです。
萩往還は、中国山地を越えて萩・山口・三田尻を最短で結ぶ重要な道であったことから、長州藩では道幅2間の大道として位置づけ、道筋には人馬の往来に必要な施設として一里塚やお茶屋、通行人を取り締まる口屋などを置き、道の両側には往還松などが植えられていました。
幕末期、長州藩は倒幕を目指して活発な運動を展開しますが、維新の志士達もこの街道を頻繁に往来し、その発端や中心となった高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文、村田蔵六(大村益次郎)などもこの道から時代の先端を駆け抜けたのではないかと思われます。
かえらじと思いさだめし旅なれば、
一入(ひとしお)ぬるる涙松かな
前掲の句は、吉田松陰が安政の大獄に連座し、萩から江戸に送られる途中、萩往還で当時、涙松と呼ばれていた地で読んだ句です。(山口(の一部?)では、吉田松陰を呼び捨てではなく、「松陰先生」と呼称しますが、本稿では、吉田松陰又は松陰と記します。)
「涙松」とは、萩城下を出立後、城下を振り返ることができる最後の見納めの地で、萩往還を往来する人は、ここで松並木の間に見え隠れする萩城下を見返りつつ別れを惜しんで涙し、また萩に帰った時には嬉し涙を流したということから、いつしか「涙松」と呼ばれるようになったところです。
松陰は、安政6年(1859年)に29歳という若さでこの世を去りますが、若くして全国を遊歴し、歩いた距離は13,000kmに及び、その間には、何度となく「涙松」で嬉し涙を流したものと思われます。しかし、安政の大獄に連座し、江戸へ送られる途次、萩の城下を振り返りながら、二度と萩の地を踏むことはないであろうと覚悟した一句です。
萩往還沿線には、吉田松陰関連の物として、涙松のほかにも松陰の短歌句碑や松陰資料館(道の駅萩往還横)などもありますし、江戸時代の歴史を感じる遺物などが数多く整備されています。
前置きが大変長くなりました。山口に居を移して6年、山口市、防府市を中心に公証業務に従事していますが、出張時や休日に「萩往還」と書かれた案内板を市内の各所で目にすることがあり、いつかは歩いてみたいと思っていました。しかしながら、生来の自堕落さから先延ばしにしていたところ、先般(地元法務局主催の遺言に関する講演会を翌日に控え講演原稿の最終確認を行っていた矢先)、中四国担当理事から「今日この頃」の原稿提出の依頼(御指示)がありました。ちょうど良い機会かと思い、歩いてみようと思い立ったものです。
「萩往還」をネットで検索すると、「歴史の道 萩往還」という山口市が開設しているホームページがあります。そこにルートマップが掲載されており、萩の唐樋札場跡から三田尻の英雲荘(三田尻御茶屋)までの行路が6つに区切られています。
10月29日(日)、晴天の下、ルートマップ04「防長国境~大内御堀」間の「天花坂口」から「板堂峠」を経て「国境の碑」までの道、約3kmを歩きました(往復で約6kmです。)。山口市側の天花坂口から板堂峠に向かう場合、ルート上に急坂(上り坂)の「四十二の曲がり」と萩往還で標高が一番高い板堂峠(標高537m)が待ち構えており、萩往還一の難所と言われています。しかし、「歴史の道 萩往還」を肌で感じ、往時の苦労を偲ぶためにトライすることとしました。
右の写真(編注:省略)の後ろに写っている石畳の坂を歩き始めて300mほどで「四十二の曲がり」に差し掛かります。ここからは、急勾配の上り坂がいくつもジグザグに続き、50mも歩かないうちに息が上がります。曲がり角で小休止を繰り返しながら、ゆっくり、ゆっくりと歩を進めるのですが、曲がり角で立ち止まるたびに思わず、俳人種田山頭火(山口県防府市出身)の「分け入っても 分け入っても 青い山」ならぬ、「曲がりても 曲がりても 急な上り坂」と愚痴りたくなります。
「降りてくだされ旦那様」と駕籠かきが唄ったとも言われる箇所ですので、参勤交代で殿様がここを通るときには駕籠を降りて歩いたのかな、などとも想像します。
四十二の曲がり」を過ぎると「六軒茶屋跡」に到着します。ここは、かつて6軒の農家があり、軒先を茶店にして旅人をもてなしていたことから「六軒茶屋」と呼ばれていた場所で、現在は、案内板のほかに四阿(アズマヤ)が建っておりそこで休憩することができるほか、トイレも整備されています。
六軒茶屋跡を過ぎ、「一の坂一里塚」や「一貫石」、「キンチヂミの清水」といった名所を過ぎると、いよいよ萩往還で一番標高の高い「板堂峠」を目指します。六軒茶屋跡からは比較的ゆるやかな勾配の上り坂であった道が、途中の県道を横断して、峠の頂上に近づくにつれ勾配を増し、「さながら坂の上の青い天に輝く一朶の白い雲を目指すが如く」歩くと、やがて「板堂峠」と書かれた道標のある地点に到着です(前ページの写真)。ここまで来れば後は下りで、再度、県道を横断して少し階段を上がると直ぐに「国境の碑」です。
この国境の碑は、高さ2m余りの花崗岩に「南 周防国 吉敷郡 北 長門国 阿武郡 文化5年戊辰11月建立」と彫ってあります(と説明板に書かれています。)。
1808年(文化5年)に建立されたこの国境の碑は、215年の長きにわたってここに存在し、旅ゆく人々を見守り続けたものと思われます。その中には、前掲の長州藩士や坂本龍馬などもいたでしょうし、「今日、私もそこに含まれた」わけです・・・・などと感傷に浸る間もなく、早々と、もと来た道を天花坂口まで戻りました。
行きは1時間半、帰りは1時間の合計2時間半の行程でした。
この日に歩いた距離は、片道約3kmですので、萩往還全長約53kmのほんの一部となります。しかし、普段は何の運動もせず、アパートと職場までの平坦な道(片道約1.5km)を歩くのがせいぜいであった私が、萩往還で一番の難所を往復踏破したことから、萩往還の全行程を歩き通す決心がつきました。
翌週の11月3日(金)文化の日は、萩の「唐樋札場跡」から「涙松跡」を経て「悴坂(かせがざか)一里塚」までの約8.6km(往復約17km)を歩きました。
10月29日、11月3日は、いずれの日も、自宅から出発地点までは自家用車で行ったため、往復する必要がありましたが、以降は、バスを利用することとし、次回に予定している「悴坂(かせがざか)一里塚」から「明木(あきらぎ)」を経て「佐々並市(ささなみいち)」までのコースを歩くべく、バスの時刻表を眺めている「今日この頃」です。
(山口・山口公証役場公証人 山﨑秀義)
今日この頃~法務局退職から公証人任命、そして最近まで (大橋光典) |
令和4年7月1日に千葉地方法務局所属公証人に任命され、松戸公証役場に着任いたしました大橋光典と申します。本稿では、せっかくいただいた機会でもありますので、法務局を退職した令和4年の3月から最近までの状況を振り返り、会友の皆様への御報告とさせていただきたいと思います。
昨年、令和4年3月中旬、公証人選考試験の合格、同年7月1日付けの公証人任命、千葉地方法務局所属公証人浅井琢児先生の後任を命ぜられて松戸市の勤務となる旨の内定をいただきました。選考試験では、うまく答えられたという自信を必ずしも持てておりませんでしたので、試験合格・任命内定の報に接したときはホッとしたというのが偽らざる心境でした。
令和4年3月31日に福岡法務局を無事退職し、晴れて(?) 自由人となった私は、JRの「青春18きっぷ」を活用して4月1日から4日間をかけて、途中格安ホテルに宿泊しながら、15年ぶりの単身生活にピリオドを打つべく自宅のある埼玉県吉川市を目指しました。途中まだ訪れたことのなかった広島平和記念公園や姫路城といった観光名所を訪問したほか、従前の勤務地である大阪法務局や静岡地方法務局、当時の宿舎周辺や思い出の地などを訪問しながら、孤独のグルメを堪能する楽しい退職一人旅になりました。
4月6日には、早速、松戸公証役場を初訪問し、浅井先生に御挨拶して、今後の身の処し方について御相談し、いろいろ貴重なアドバイスを頂戴しました。「公証人になってからは、他の公証役場を訪問する機会は持てないから、他の公証役場、他の公証人の仕事の仕方をできるだけ多く見せてもらいなさい。」という御示唆に基づき、現役の時にお世話になった先輩方を中心にアポを取って訪問させていただきました。諸先輩方には御多忙のところ、訪問を快く受け入れていただき、丁寧に御指導いただきました。また公証人に就いた後も電話で色々と質問させていただき、御示唆いただく機会も多々あり、紙面をお借りして御礼申し上げます。
6月になると、松戸公証役場に詰めて、浅井先生の日常に密着して、細かいところまで実地に教えていただきました。たくさんの事件をスケジュールに従ってどんどん対処していくお姿を拝見して「果たして自分に務まるだろうか」という不安もありました。その一方で、3人の書記さんたちがテキパキと仕事をこなしている様子には安心感もいただきました。浅井先生には公証人に就いてからもしばらくは毎日のように本当につまらない質問をたくさんさせていただきましたが、懇切丁寧に御指導いただき、現在も、折に触れて御指導いただいており、感謝の念に堪えません。
7月1日には、千葉地方法務局で昔の部下でもある星野辰守局長(現上越公証役場公証人)から公証人の任命辞令等を頂戴し、住川洋英千葉公証人会会長などに御挨拶申し上げて、松戸公証役場に着任しました。お祝いのお花などをたくさん先輩方からいただき、いよいよ公証人の仕事が始まる、と身の引き締まる思いでした。
新任公証人を最初に苦しめることになるのが、公証人法第3条の嘱託受諾義務です。すなわち、「公証人ハ正当ノ理由アルニ非サレハ嘱託ヲ拒ムコトヲ得ス」ということです。「私は新人で能力不足ですから、他の公証役場に行ってください。」とはなかなか言えないわけです。ただ、嘱託人であるお客様から見れば、「そういうことなら、早めに言ってください。」ということも実際あり得るわけで、着任直後の7月上旬にお受けした家族信託の事件などについては、もしかしたら事情を話して他の役場に当たっていただくことを促した方が良かったのかもしれません。当時の私は信託の知識はほぼ無いといってよく、まずは信託の入門書を読破し、たまたま信託をテーマとする7月9日の日本公証人連合会(以下「日公連」と言います。)主催の実務研修を受講し、ようやく7月下旬ころに至って、「ここを手直ししてください。」といくつか指摘したところ、「1か月も待たしておいて今頃何ですか、他を当たります。」と御立腹されて仕事を取り上げられるという目にも遭いました。管轄のしっかりとした法務局育ちで、いただいた仕事を他の役場へ任せる、あるいは、一度いただいた仕事を取り上げられるということなどはその時は思いもよらなかったのですが、嘱託人側から見ると、公証役場を替えることにはそれほど抵抗がないことのようであるというのは最近になってようやく認識したところです。現に、追加で書面の提出を求めたり、疎明することを求めたりすると、「他の役場を当たります」と(あるいは、何の断りもなしに)他の役場に嘱託して(当役場への嘱託を事実上取り下げて)しまう嘱託人もいらっしゃいますが、そのようなことを知るのは実務を相当数こなしてからのことでした。
ちなみに、嘱託受諾義務に関しては、日公連編の「新訂公証人法」では、嘱託を拒否できる場合として、「一つは事件数の問題」として、「そこには必然的に事件処理の能力に限度がある。したがって、この能力を超えた事件数の嘱託があったときは、拒否すべき正当な理由があるといえよう。」とされています。嘱託人が求めるスケジュールが、当役場のキャパを超えてしまう場合は「当役場でお受けすると少なくとも○○程度の期間をいただきますが、それでもよろしいですか・・・?」と親切心で申し上げていますが、これは許されるということになります。「もう一つは、特殊な事件や自己の経験のない種類の事件等で能力的な限界を超えると思うような事件の嘱託があった場合である。」とし、「安易に嘱託を拒否することは許され」ないが、「他方、事件処理の不適正を来すことも許されないので、当事者に事情を説明して他の公証人を紹介するなど適切な措置をとることが許される場合もあろう。」とされています。ただ、現実には「能力不足ですので、他を当たって」とはなかなか言えないですよね。嘱託人から仕事を取り上げられない限りは自分にとって荷が重い仕事でも、参考文献を調べて諸先輩の御示唆を賜りながら、何とか踏ん張って対処しているというのが現在の状況です。
公証人任官直前の6月17日から同月19日の3日間に渡ってテレビ会議で受講させていただいた日公連主催の「新任公証人研修」は真に新任の公証人にとっては非常にありがたい研修で、その際いただいたテキストは今でもよく参照する機会のある貴重なものです。その研修の冒頭、公証人の職務の二面性についての説明がされました。すなわち、公務員(法律専門家)としての立場と個人事業主(自営業者)の立場があるので、両者の立場の調和が重要だということです。公証人の職務を遂行するに当たって、法律の専門家として、あるいは公務員として譲れないところは厳として譲りませんが、定款の認証業務などはできるだけ早期に、できれば即日に処理しようと努めておりますし、テレビ電話による定款認証などで遠方から嘱託いただいた方などには「千葉県内での設立の法人があったら、また御用命ください。」といった営業トークも忘れないよう心がけています。こうした営業トークするということは法務省・法務局に勤務していた自分からはおよそ想像すらできかったことです。
8月・9月の夏季は、世間は夏休みの時期ですが、当役場は遺言を中心に意外と事件が多く、大変でした。ただ当初1時間も2時間も要していた定款認証のための確認作業も軌道に乗り、「軌道に乗り」というより「度胸がつき」、何とか常識的な時間で内容を精査することができるようになってきました。この頃には、初めての「執務中止」の事件にも遭遇しました。ある士業者が仲介していた遺言の事件でしたが、戸籍上亡くなっている夫について遺言者が「生きている」と答えたので、認知能力に疑問が生じて、「本日は何月何日ですか」「何曜日ですか」といった問いかけをしたところ、いずれも全く適切に応えられず、「今日は何をするためにここに来ましたか。」と問いかけましたが、いずれも饒舌にお話しするものの要領を得ないために、遺言能力がないものと判断して、執務中止といたしました。 その後も、遺言の公正証書作成事案について、役場で、あるいは、出張先で執務中止の判断をせざるを得ないものにいくつか遭遇しています。士業者等の仲介者が本人から十分に話を聞かずに、財産を受けとる方の話ばかりを聞いていて遺言者本人の遺言能力の把握が不十分なまま持ち込まれたものと推察できる事案もありますが、中には、「1か月前はこんな様子ではなかったのですが・・・」と肩を落とす仲介者もおります。公証人としては、遺言者本人にお会いできたときが全てなのであり、そこでの遺言者の状況を見て判断せざるを得ません。その場で即中止の判断をせずに日延べしてもう一度お話を聞く機会を設けるということもあります。これも二度目の状況は様々で、前と同様に明確な口授ができない場合、前とは打って変って明確な口授ができる場合、いずれの事例も経験いたしました。遺言能力の判断は、公証人として勤めていく上で常に問題意識をもって適切に対処していかなければならない課題の一つですが、なかなか難しいなと日々感じております。
事務処理上の明確な誤りというのも、これまでにいくつか経験しました。失敗談は余りしたくはないわけですが、他人の失敗例は、特に、「ためになる」話題であるとも思いますので、恥を忍んでお話ししたいと思います。幸い、これまでのところ、「公正証書」については明確な誤記や、クレームをいただいたり、裁判で争われたりするといった事態には遭遇しておりません。明確な誤りが発覚したのは株式会社の「定款認証」の事案です。原始定款の認証については、その後、法務局に対する株式会社の設立登記の申請に認証後の定款が添付されますので、その審査に付されます。「法務局から、公証人の誤記証明書の提出を求められました」という、いくつかの事案がありました。そのうち、特に悔いが残っている2事例を紹介したいと思います。いずれも士業者が作成した株式会社の原始定款ですが、一つ目は、商号中に「‘」(アポストロフィの逆の記号、バックアポストロフィと言うようです。)を使用しているのを見逃したもの、二つ目は、目的中に、「保育園、幼稚園及び認定こども園の経営」とあり、「幼稚園の経営」が株式会社の事業目的として適切でないことを見逃したものです。いずれも、知識としてダメであること、認証できないことは認識していただけに見逃してしまったことには悔いが残ります。当該士業者から連絡をいただいたときは、恥ずかしくて申し訳ない、という何とも言えない気持ちになりましたが、誤記証明書に署名して、「二度と同様の誤りはしない」と誓って、気持ちに区切りを付けました。
改めて1年半を振り返りますと、時には、遺言公正証書を作成し終わって、「これで安心して死ねます。先生には大変お世話になり、本当にありがとうございました。」と20歳以上も上の、人生の大先輩方から、もったいないお言葉を頂戴して疲れが吹き飛ぶうれしい瞬間もございましたが、一言で申し上げるとすると、やはり、極めて忙しくて時間的にも精神的にも余裕のない1年半だったということになろうかと思います。法務省・法務局勤務の現役のころの最終盤は、法務局の幹部をさせていただいておりましたので、何か大きな行事でもなければ、コロナ禍でもあり、休日の行事もほとんどなかったわけですし、平日の残業も、部下に迷惑を掛けないよう、できるだけしないように心掛けていました。一方、公証人任官直後は土曜日も日曜日も終日休める日はほとんどなく、取り分け、最初の1か月は丸1日休めたのは腰痛で動けなかった日曜日の1日だけで、あとはほぼフル稼働という状況でした。最近でこそ土日のうちの1日は何とか休めるようにはなってきたものの、平日は、気が付くと夜10時、11時まで残業してしまうことが多く、健康管理の観点からも、この仕事時間を減らして持続可能な執務環境を整えていくことが目下の最大の課題となっています。少しでも時間を確保するために、令和5年8月には、埼玉県吉川市の自宅から役場のある松戸市内に安アパートを借りて夫婦ともども引っ越しました。
そのような多忙を極める中、一服の清涼剤となっているのが、趣味の将棋です。なかなか同好の方と対局するまでの時間は持てないのですが(ちなみに、単身赴任中は、地元の将棋クラブに入って週末の対局を楽しみにしたり、プロ棋士のタイトル戦が行われている現地まで行って大盤解説会に参加したりしていた時期もありました。)、タイトル戦をインターネットで観戦するなどして楽しんでおります。取り分け、最近では、藤井聡太竜王名人(八冠)の大活躍もあって将棋人気の高まりを見せておりますが、この死角がないとも思われる絶対王者を、いったい誰がその一角を崩すのかといった点や、日本将棋連盟の新会長に就任した、こちらもスーパースターの羽生善治九段がどのような新施策を展開するのか、采配を振るうのか、棋士としての成績に影響は出ないのかなど点についても興味が尽きません。将棋に限らず、どちらかというと多趣味な方なのですが、こうした趣味の時間も何とか少しずつ確保していきたいと思っている今日この頃です。
以上、まとまりの無い文章を長々と書き綴ってしまい、大変恐縮しておりますが、1年半程度の経験では公証人の職務を十分に理解することは到底できません。会友の皆様には、今後ともいろいろ教えていただく機会があろうかと思いますが、引き続きの懇切丁寧な御指導をお願いいたしまして、拙稿を終えたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
(千葉・松戸公証役場公証人 大橋光典)
実務の広場
このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。
No.100 確定日付の付与の手続きについて(小口哲男) |
1 確定日付の付与手続は、その役場の総事件数の多寡にもよりますが、公証人が日付の付与を請求さ れた文書に問題がないかについての判断を行い、実際の付与の手続きは書記が行うこととしている役場も多いと思います。
その場合であっても、状況によっては公証人自ら全ての手続きを行わなければならない場面も出てくるものと思います。
そのときに、誤りのない手続きを確保するにはどうしたら良いか不安になる場合もあると思います。
そこで、私が、船橋公証役場において公証人の仕事をしていたときの書記(百武恵子氏)が作成していた「確定日付の手引き」を同氏の了解を得て、別添添付しますので、これを参考にご自分なりにアレンジしていただければと思います。(ご承知のとおり、黒い本「公証実務-解説と文例-」279頁以降が確定日付付与の解説になります。)
2 電子確定日付の付与手続は、電子定款の認証などの電子公証を行う端末(PC)で手続きを行うことになります。
公証人が内容を適切と認め、手数料納付を確認した上で、確定日付の付与を請求された文書に日付情報を付与するとその時点から嘱託人は確定日付が付与された文書をダウンロードすることができるようになりますので、次の点に留意して手続きを行う必要があります。(次の留意事項も前記百武氏のメモを参考にさせていただきました。記してお礼申し上げます。)
(1) 電子確定日付の付与を希望する旨の連絡があったときに、請求時の手続きを円滑に進めるため、あらかじめ当該文書の内容が分かるものをメール又はFAX等で送付してもらい、公証人が確認する。(これは、申請された内容に不備があったときには再申請をしてもらわなければならなくなるため、この手間を省くためのものであり、必ずこの手続きを経なければならないというものではない。)
(2) 内容に問題がなければ、当該電子文書を電子公証システムのサーバーに送信してもらう。(この際、申請者の電子署名は不要であるので、電子公証システムにおいても、他の電子認証と異なり電子署名検証の手続きは省略される。)
(3) 申請された内容に問題がない場合は、手数料を支払っていただく。日付情報付与の手数料は700円(公証人手数料令37条の2)であるが、嘱託人はこの確定日付が付与された電磁的記録の保存を請求することができ、これを行うと紙の確定日付付与(証明されるのは確定日付印が押捺された文書のみ)と異なり、後日、同一の確定日付が付与された電子文書の証明書を入手することができるようになることから、そのための手数料として別途300円(公証人手数料令41条の2)が必要となる。電磁的記録の保存は、電子確定日付申請時に請求する必要があるので、電磁的記録の保存が必要であれば合計1000円の手数料を納付する必要があることを嘱託人に説明する。手数料の支払い方法は、窓口に来庁して行う方法とインターネットバンキング等による方法があるが、窓口に来庁された場合は、支払いを受領次第、公証人が日付情報付与の手続きを行い、嘱託人にこの時点からダウンロードできる旨を伝え、領収書を手交する。インターネットバンキング等による場合は、手数料額を伝えるときに振り込んだ時点で公証役場に連絡するよう伝え、連絡があり次第振込みの事実を確認する。振込みの事実が確認できた時は、直ちに日付情報付与の手続きを行い、嘱託人に連絡して、この時点からダウンロードできることを伝え、別途、領収書を郵送する。(1回限り利用の嘱託人の場合は、手数料の支払いを完了してからでないとダウンロードされたが連絡がつかなくなるといった事態が生じる恐れもありますが、反復継続して利用されている嘱託人の場合は、ある程度信用して手続きを進めることもあり得るものと考えます。)
(4) 私が2016年に処理したものの記録と船橋公証役場で用いた領収書の様式を参考までに添付します。
3 今回は、船橋公証役場において私が行っていたものの説明でしたので、その後、取扱いが変わっている部分もあるかもしれません。参考にできる部分を取り入れてご自分の手引きを必要に応じてお作りいただければと思います。
(元千葉・船橋公証役場公証人 小口哲男)
お詫びと訂正 前号(No.59)において『「本人確認」についての古い思い出』をご寄稿いただきました樋口忠美様の元所属の記載が「元千葉・松戸公証役場公証人」となっていましたが、「元千葉・柏公証役場公証人」の誤りでしたので、心よりお詫びして訂正いたします。 |