残暑の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。 さて、去る6月16日の前期セミナーでは76名の会員が参加して、元法務省人権擁護局長で弁護士の吉戒修一先生から「裁判、行政、企業における人権」についてご講演をいただきました。現在、講演録の冊子の作成中ですが、でき次第皆様にお送りいたします。(NN)
今 日 こ の 頃
このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。
成年後見制度低迷の原因・後見人選任のミスマッチ ミスマッチのない選任システムを構築しよう! (NPO法人高齢者・障害者安心サポートネット理事長 森 山 彰)
1 利用低迷の原因 我国の成年後見制度は、創設後18年を経過したにもかかわらず、その利用率は、現在おおよそ認知症高齢者約460万人、知的、精神障害者約340万人と推定される中で、平成29年末現在、制度の利用者数は約21万人、その利用率は2.6%程度で、極めて低迷していると言わざるを得ない。 そこで、この利用促進を図るため、平成28年4月「成年後見制度利用促進法」が制定された。次いで、翌29年3月、促進法で明らかにされた利用促進の「基本理念」や「基本方針」に関する施策を総合的かつ計画的に推進するため、「基本計画」が策定されたことは、周知のとおりである。 なぜ利用が低迷しているのか、この基本計画の冒頭に鋭い分析がある。簡潔に要約すると、「後見人に対する地域住民のニーズは、意思決定支援・身上保護重視の後見であるにもかかわらず、家庭裁判所では、財産管理重視の観点から第三者専門家を後見人に選任、ビジネスライクの後見を行ってきたため、利用者のニーズが充たされず、成年後見制度のメリットや素晴らしさが実感されていない。」と指摘し、その主要な原因が選任のミスマッチの積み重ねに求めている。
2 家庭裁判所における選任のやり方 その一般的な具体例を示そう。ここに登場するA女は、子供に恵まれず、長年連れ添った夫にも先立たれて、たまたま近くに住む姪B子の手助けで、細々と生活する独居高齢者である。常々A女はB子に対し、「もし、私が認知になったら、必ずあなたが後見人になって面倒を見てね」と頼み、B子もこれを快諾していた。やがて、A女に認知症状が出て、判断能力の診断をしてもらった結果、「成年後見」相当と出た。そこで、B子は約束に従い、自らを後見人候補として後見開始の審判申立てを行った。 ところで、家庭裁判所では、調査の冒頭、必ず次のような説明がある。「誰を後見人に選任するかは、裁判所の裁量に委ねられているから、後見人選任の審判がでれば、それに不満でも、即時抗告はできない。だからと言って、取下げを願い出ても、家裁の許可を得なければ、それもできない。」 この説明で、大抵の申立人や候補者は、圧倒されて萎縮してしまう。説明の態度は柔和でも、内容は、まったく威圧的である。 それでも、B子は、A女の後見人就任は本人の意思で、A女とは強い信頼関係で結ばれ、生活支援のノウハウも熟知しているので、「適任者は、自分以外にいる筈はない。」と確信していた。しかし、実際に選任されたのは、見ず知らずの専門家Ⅽだった。B子は泣き寝入りするしかなかったが,A女も、後見人Cと信頼関係が築けず、不満だらけの多い生活を送ることになった。 上記のような家裁の後見人選任の取扱いは、もちろん民法や家事事件手続 法に法的根拠があるから、違法ではない。しかし、仮に家裁が本人の自己決定権を尊重し、本人の身上保護を重視する観点から後見人を選任していたら、おそらくB子が選任されていたと思われる。そうだとすれば、選任権の乱用の疑念は残る。 仄聞するところ、このような家裁の選任のやり方は、全国津々浦々で行われているようである。ちなみに、制度創設当初の親族と第三者専門職における後見人の選任比率は、前者が9割で、後者が1割にも満たなかったのに対し、28年には、親族が3割弱に減少、専門職が7割を超えるまでに急増した。この急増の原因が、このような一方的で、威圧的な選任のやり方にあるとしたら、誠に嘆かわしいと言わざるを得ない。と同時に、この選任のやり方が、おそらく家庭裁判所に対する不信感を増幅し、延いては成年後見制度の信用失墜の原因になっていると判断せざるを得ない。
3 ミスマッチの防止策 この度の利用促進法における後見の担い手は、地域連携ネットワークに支援された市民後見人である。そこで、基本計画では、市区町村等一定の地域ごとに、権利擁護の地域連携ネットワークを構築し、そのネットワークが家裁に対し的確な情報を提供して、適切な後見人が選任されるよう支援する仕組みを作る計画である。そのため、検討すべき施策として、①.地域連携ネットワークと家裁との連携の強化、②.市民後見人候補者名簿の整備、③.市民後見人の研修、育成、活用等様々な施策を提案しているが、しかし、この程度の施策では、これまでの柔軟さを欠く家裁の態度から推測して、満足できる成果は期待できないのではないかと危惧される。 やはり、家裁の後見人選任のやり方が、「選任のミスマッチ」の元凶であることを十分認識してもらい、この点は踏み込んだ改善が必要だと思う。 第1の改善点は、地域連携ネットワークやしかるべき団体が、本人との適応性を調査し、後見人候補を推薦したときは、家裁はその推薦を尊重して、被推薦者を後見人に選任する仕組みにすべきである。そうなれば、家裁の裁量の幅が狭まって、身上保護重視のニーズが強い高齢者・障害者に対して、身上保護に殆ど関心を持たない特定分野の専門家を威圧的に押し付けるようなミスマッチは、激減するだろう。 第2の改善点は、現在における後見人選任のミスマッチの状況を見ると、後見人の選任基準を定めた民法843条4項の規定は、有って無きが如く、無視されている印象がある。しかし、このような規定がある以上、家裁が申立による後見人候補者と異なる後見人を選任したときは、そのような事案だけでも、選任基準の妥当性等について即時抗告ができるように改正すべきではないかと考える。 このような改正で、選任における家裁の強引で一方的な裁量が抑制され、即時抗告した者にも、選任理由が明確になるので、そのメリットは大きいと思う。
4 おわりに 成年後見制度利用促進法及びそれを受けた「基本計画」が策定され、33年度までの基本計画の工程表まで明らかにされたが、何と言っても、成年後見制度の運用主体は、家裁である。また、その手続を規律するのは、「家事事件手続法」である。したがって、プログラム法である利用促進法に盛られた基本理念や基本施策が、現実に具体化するかどうかは、制度の中枢に位置する家裁の取組み如何にかかっていることは、明白である。 他方では、促進法に盛られた基本理念や基本施策が、国民の賛同と支持を得ていることも事実であるから、家裁は、成年後見制度が超高齢社会で果たす役割を十分に理解して、率先垂範してその実現に努めることは、家裁に対する国民の信頼性向上に大いに寄与することになると思う。この面での家庭裁判所の積極的なリーダーシップを心から期待したい。
参考 民法843条4項 成年後見人を選任するには、成年被後見人の心身の状態並びに生活及び財産の状況、成年後見人となるべき者の職業及び経歴並びに成年被後見人との利害関係の有無(成年後見人となる者が法人であるときは、その事業の種類及び内容並びにその法人及びその代表者との利害関係の有無)、成年被後見人の意見その他一切の事情を考慮しなければならない。
吉﨑さんのこと(小畑和裕)
吉﨑さんが亡くなった。彼は現役の公証人であり、余りにも早く逝ってしまった。訃報を聞いて驚愕した。悲しさよりも、何故だという気持ちや、彼を襲った病魔に対する怒り、悔しさの感情が先に立った。数か月が経た今もその死を受け容れられない。悲しくやるせない気持ちを解消する方法がなく鬱々とした毎日だ。思えば、彼との付き合いは長い。初めて会ったのは、30年余りも前だ。昭和61年4月から民事局第一課登記情報管理室で予算事務を共にして以来だ。厚生管理官室で活躍していた彼は、抜擢されて当時繁忙を極めていた予算係に異動してきたのだ。その頃の民事局・法務局は、世紀の大事業である登記事務のコンピュータ化に組織をあげて取り組んでいた。その事業の財政的基盤を支えるため登記特別会計制度は創設された。特別会計を所管することは、法務省や、関係省庁である大蔵省主計局司法警察係にとっても初めてのことであり、先例も経験もなくすべてが手探りだった。予算係は、登記特別会計の歳入・歳出予算の概算要求、獲得した予算の執行事務に加えて、毎月の手数料の収入予測に基づく資金の運用管理も重要な仕事だった。特に、6月、12月のボーナス時期には膨大な資金が必要になり、そのやり繰りには苦労が多かった。 また、登記特別会計が創設されたことにより、民事局・法務局が所管する予算も登記事務を中心とする登記特別会計予算と戸籍等を中心とする一般会計予算に分かれた。それにより、職員の所属や人件費、物件費、施設費なども二分して管理することになった。予算事務は複雑かつ困難化した。当然のことながら増員もなく、事務処理は繁忙を極めていた。そんな時に彼は新人として赴任して来たのだった。当時、「花の予算」という言葉があった。予算係が花形だという意味があるのかどうか不明だが、花(桜)の咲く頃がのんびりできる時期だという経験則があった。その時期に彼がひたすら予算書の読み込みをしていたことを思い出す。彼は明るく元気で気力・体力ともに充実していた。付き合いも良く、仕事も前向きで頑張り屋だった。特に彼の功績としていまも忘れられないのは、事務処理に初めてワープロを導入したことだ。というのも、当時は大蔵省に提出する予算の概算要求書は、各担当者ごとに手書きしていた。そのため、要求書に訂正や変更が出ると、全てのページを書き換える必要があり、大変な労力を要した。また、書き手の個性が出て、大蔵省の担当官から書かれている字が読みにくいとして清書して再提出するように求められたこともあった。そこで彼は、ワープロの活用を提案したのだ。ワープロはその当時まだ一般化されてはいなかったので、他の職員はその効果について半信半疑だった。しかし、彼は熱心にワープロの利便性を説き、実現した。出来上がった要求書はきれいで読みやすく、かつ訂正や変更にも簡単に対応できた。また、データや書式を保存しておけば、翌年度も利用できるという効果もあった。事務処理の合理化にもつながり良いことずくめだった。みな賞賛した。ただし、ワープロで要求書を作成したことが初めてなので、大蔵省主計局の担当官に対する説明で変換ミスを指摘され、平身低頭したことも一再ならずあったが。二年目以降の事務処理の合理化に大いに貢献したことは言うまでもない。コンピュータ化が進展するに伴い繁忙の度合いは益々進み、定時に退庁できることは殆どなく、土・日の出勤もごく普通のことだった。大晦日に予算速報を中央郵便局に持参し、全国の法務局に発送して、有楽町で年越しそばを食べて解散するのが通常だった。そんな時、彼がいつも嫌な顔をせず世話役を引き受けてくれた。懐かしい思い出だ。 古稀を過ぎても、老いていくということの意味がまだ何一つ分からない。ただ、彼の死を通じて一つだけ実感したことがある。ここ数年の間に、民事局で指導を受けた清水、藤谷両先輩を始め多くの人たちが亡くなられた。そして今また、彼が亡くなった。老いるとは多くの人々との別れを経験しながら生きるということなのかなと思う。「ハナニアラシノタトヘモアルゾ サヨナラ ダケガ人生ダ ― 井伏鱒二」 今はひたすら彼のご冥福を祈っている。
再登板(本間 透)
プロ野球が開幕して、スポーツニュースで贔屓のチームの勝敗結果が気になるところですが、日本では、中日の松坂投手の復活やソフトバンクの柳田選手の打率4割達成などが話題になり、アメリカでは、エンゼルスの大谷選手が投打二刀流で大活躍し、日米の野球ファンが興奮しています。 これとは全く次元が異なりますが、私は、一端リタイアした身でありながら、本年4月2日から公証人として野球で言えば再登板することとなりました。この経緯等を以下に述べます。 本年3月初旬に法務省の後輩の栄転の内報に接し、送別会の案内を木更津公証役場の吉﨑公証人(以下「吉﨑さん」といいます。)にメールしたところ、都合が悪くて出席できないとのことでした。ところが、数日して吉﨑さんが再手術するため入院したことが判明しましたので、吉﨑さんの病状を気にしていたこところ、3月20日に千葉地方法務局総務課長から自宅に電話があり、吉﨑さんの入院が長引きそうなので、4月から木更津公証役場の代理公証人をしてもらいたい旨の依頼がありました。私と吉﨑さんとは、法務省民事局で登記特別会計発足時の予算係で一緒に仕事をして以来公私にわたり長いお付き合いがあったことから、他ならぬ吉﨑さんのためならと思い、その依頼を受けました。その上で、吉﨑さんに「私が4月から貴殿の代理で木更津公証役場に行くので、治療に専念してじっくり養生してください。」とメールしたところ、「感謝します。早く復帰できるよう頑張ります。」と返信がありました。 代理公証人の発令は、4月2日とのことで、それに必要な書類について千葉地方法務局から取りあえず電話連絡があり、大至急必要書類を用意し、後日送付された書面を作成して同局に送付しました。 3月31日に吉﨑さんの病状が思わしくないとの連絡があったので、私は、4月1日の午後に吉﨑さんが入院している中野の警察病院に見舞いに行きました。 吉﨑さんは、3月20日に予定していた再手術ができず、ベッドから起き上がるのが困難な様子でしたが、私が「明日から吉﨑さんの代理で木更津公証役場に行くので、役場のことは心配しないで早く良くなってください。」と言ったところ、私の手を握って「本間さんに任せることができ、ありがたく安心しました。くれぐれもよろしくお願いします。」とおっしゃいました。 4月2日に千葉地方法務局に赴き、着任したばかりの三橋局長から、法務大臣からの公証人に任ずる辞令と木更津公証役場の代理公証人に任ずる辞令をいただくとともに、局長からの代理期間に関する辞令をいただいた後、木更津公証役場に赴きました。私の公証人の職印と確定日付印は、前任地で使用していたものを保管していましたので、証書作成と確定日付の交付には即対応できましたが、電子定款の認証に必要な電子証明書(カード)は、新たに発行され、19日から使用可能となりました。 それから10日後、吉﨑さんの訃報に接し、生前の何事にもエネルギッシュな吉﨑さんを思いうかべ、あまりにも早い逝去に愕然としました。私としては、少しでも吉﨑さんの霊に報いるためにも木更津公証役場の業務を滞りなく遂行しようと決意した次第です。 4月12日に千葉地方法務局の総務課長から電話があり、12日付けで法務大臣から吉﨑公証人の後任を命ずる辞令が発せられる旨伝達され、後日、同日付で法務大臣からの木更津公証役場の公証人に任ずる辞令をいただきました。そこで、私が4月下旬以降に予定していた平日の旅行等を全部キャンセルするとともに、吉﨑さんの通夜・告別式後、木更津公証役場での今後の業務遂行・役場運営について、改めて書記と打ち合わせました。これに伴い、各種事務機器等に関する契約や各種公共料金における契約者の名義変更の手続も行いました。4月25日に吉﨑さんの奥様が木更津公証役場に来られ、各種支払いに関する書類や経理・労務関係の帳簿等を引き継ぎました。 4月26日に千葉地方法務局長から電話があり、私の任期については、おそらく来年になると思われるが後任者が決まるまでお願いしたいとのことで、ショートリリーフの予定がロングリリーフになり、本格的に1年9か月ぶりに公証人として公証業務を行い、10年ぶりに電車通勤することになりました。 公証業務については、書記が優秀で仕事熱心なこともあり、あまりブランクを感じることなく遂行しております。通勤は、乗り換えに要する時間や電車の混み具合を考慮して往路と復路を変え、3回乗り換えてドア・ツウ・ドア片道2時間の道程です。このような生活は、脳の活性化と足腰の鍛錬になるものと考え、日々精進しております。 さて、毎年、現職の公証人が病で亡くなったり、長期療養を余儀なくされていますが、私も法務局の退職間際に初期胃がんが発見されたことから、その当時の最新の施術方法である内視鏡手術により、その部分の粘膜を電子メスで切除しました(入院期間1週間)。その後、いわき公証役場の公証人就任後2年目にその切除した胃壁に穿孔が生じたことから、あまりの痛みに耐えかねて妻に救急車を呼んでもらいました。救急病院での検査の結果、胃の内容物が腹部に充満して、このままだと腹膜炎になり命にかかわる状態であると医師に言われ、即手術となりました(その日は、私の満60歳の誕生日でした。)。開腹手術の結果、胃がんの前歴があることから、胃の3分の2と回りのリンパ節も切除されました。麻酔から目が覚めたら、集中治療室のベッドに固定され、二日間は面会謝絶でした。それから1か月入院し、退院後、食事制限に慣れ体力を回復するため、1か月自宅療養しました。 この2か月のいわき公証役場の業務は、相馬公証役場の当時の小原公証人に週2~3回来ていただき、代理公証人として対応していただきました。こうして私自身も被代理公証人の経験があり、代理公証人制度のありがたさを本当に痛感し、おかげで療養に専念することができ、病後の早期回復を図ることができました。 両方の立場を経験した私としては、現職の公証人が病気療養を余儀なくされた場合は、代理公証人制度等をもっと柔軟かつ機動的に運用できるような仕組にしていただき、安心して気兼ねなく療養できるようになればと願ってやみません。 (平成30年6月1日記)
静岡まつり大御所花見行列に参加して(板谷浩禎)
静岡市では、毎年4月初旬(今年は3月31日、4月1日)に静岡まつりが二日間にわたって開催されます。 静岡まつりは、「大御所・家康公が、大名・旗本などを引き連れて花見をした」という故事に倣い、駿府の街・静岡だけができる大御所の花見行列をメインに、桜の咲く頃のお祭りとして昭和32年に始まりました。この祭りも今年で第62回を数え「市民が参加するお祭り」となり、今年は二日間とも天候も良く桜も満開となり絶好の花見日和で静岡市中心街は多くの人々で賑わいました。 このように、静岡まつりは桜の咲く頃の静岡市の一大イベントですが、そもそも、なぜに私がその祭りに参加することになったのかというと、それは、これまで私が住んでいる地区(静岡市の東部)は静岡まつりへの関心度が低いため、静岡市と静岡まつり実行委員会が静岡まつりをより一層盛り上げるために、私共の自治会連合会に協力要請があったことによるものです。私は、法務局を退職と同時に自治会役員を10数年間務め現在に至っておりますが、その「お努め」に対するご褒美なのかどうかわかりませんが、約5千世帯の地区代表として大御所・家康公の行列奉行・彦坂光正の役柄で馬に乗り大御所花見行列に指名されることになりました。 さて、行列奉行という大役を引き受けたものの馬に乗るのは初めてであり、かつ、行列時間が約2時間と長時間であること、更には実行委員会から「過去には多くの見物客に驚いて馬が暴れ落馬したこともある」との事例を聞き少し不安を覚えましたが、大御所の行列奉行として静岡まつりに参加するという貴重な体験は、今後ないかもしれないと思い参加を決意しました。 私のように馬乗りの初心者には、2日間(1回の所要時間15分)の練習時間が与えられます。初心者にとって2回の練習は、大変貴重でありました。その効果もあり、本番は予想していたよりも堂々とした乗馬ぶり(?)であると自画自賛したところです。後から聞いた話ですが、11名の乗馬者の中から彦坂光正に一番大人しい馬を当ててくれるという静岡市実行委員会の配慮があったようです。 静岡市は、我が国の人口が少子高齢化・人口減少社会に突入した中で、人口減少対策は当然のこととして交流人口の増加にも力を注いでいます。私共の自治会連合会も静岡市と協調して「活気ある街づくり」に知恵を出していけたらと考えています。外国人を含めた多くの観光客が静岡空港や清水港、東名・新東名高速道路を利用して、来年の駿府の街・静岡まつり大御所花見まつりを盛り上げてくれたらと願っています。

※ 彦坂光正 江戸初期の駿府町奉行、今川義元の家臣の子として徳川家康に仕え、天正12年の長久手の戦で戦功をあげた。家康の駿府引退後は、駿府町奉行を務めた(朝日日本歴史人物事典から抽出引用した)。
遺言で家族の絆を取り戻した話(斎藤和博)
ある日、80歳代のご婦人が、遺言の相談でやってきた。いつものように、公証人室の中にご婦人を導き入れ、私の名前を名乗った後、受付用紙に住所、氏名、生年月日等を記載してもらい、具体的な相談内容に入っていく。 家族関係は、夫は、既に亡くなっており、子どもは長男と二男の二人だけ。私の内心では、そんなに難しい案件ではないなと思いながら、話を進めていく。 すると、長男は、大学進学とともに家を出て、その後、就職もし、結婚もしているが、長男が家を出た後、長男との交流が全くない状況だという。夫の葬儀にも来ないし、その時は、二男の手助けを得ながら夫の葬儀を行ったという。自分も高齢になったので、この際、遺言書を作成したいと考えているが、どのように考えて行けばいいのか分からないので、教えて欲しいというのが相談の趣旨であった。 そこで、「まずは、自分の財産を「不動産」と「預貯金」の大きく二つに分けて考えて、不動産はどのように相続させるのか?預貯金はどのように分配するのか?というように考えてみてはいかがですか。ただし、不動産の場合には、相続人二人の共有関係にすると相続の後に様々な問題が発生する可能性もあるので、なるべくならば、不動産の場合は一人の人に相続させた方がいいと思いますが、不動産については、どのように相続させたいと考えていますか?」と尋ねると、しばらく間があった後、「不動産は、やはり長男に相続させたいと思います。でも、いらないと言われたらどうしよう?…。」という答えが返ってきた。そして、「それでは、預貯金は、どのようにしたいですか?」と尋ねると、「二人に分けてあげたいと思います。どのように分ければいいかは、まだ、わかりません。」いう答えが返ってきたので、とりあえず、聞き取った内容を、【遺言内容(未定)】のタイトルを付して「1 不動産は長男に…。2 預貯金は、二人に(割合は未定)…。」と書いたメモを本人に渡し、「よく考えて、遺言の内容が固まったら、また来てください。」と話し、その日は終了した。 そのご婦人は車の免許を持っていない。近くに待機している車や自転車も見当たらなかったので、タクシーを呼びましょうかと声をかけたら、「いいえ、大丈夫です。歩いて帰りますから。」との一言。(唖然!)そのご婦人の入居しているケアハウスは、公証役場から8km以上はある。車なら15分程度だが、徒歩では2時間ほどはかかる距離。常日頃、何でも車を使って用を済ます私にとっては衝撃的な一言であった。聞けば、亡くなったご主人が介護のために施設に入居した際には、毎日、自宅から夫のいる施設まで歩いて通っていたとのこと。そのような日々を過ごしているうちに、ご婦人自身も体調を崩され、福祉関係者の勧めもあって、夫とは別の現在のケアハウスに入居したとのことでしたが、歩くことは苦になりませんとさらりと言われた。 その後、2か月くらい後に再度来庁され、「長男に電話で遺言の話をしたら、『俺は、一切財産はいらない。』と言われてしまいました。」とのこと。「それでは、不動産は二男に相続させることにしましょうか?…。預貯金はどうしますか?」と尋ねると「預貯金は、いくらもないけれども、私としては長男にも分けてあげたい。」という答えであった。 そこで、【遺言内容(未定)】のタイトルはそのままに先に渡した遺言内容を修正したメモを渡し、2回目の面談は終了した。当然、その日も徒歩で帰られた。 3回目の面談では、ご婦人は、「2回目の面談でもらったメモの内容を、長男、二男に伝えたところ、長男は、『俺は、お金もいらないから、弟に多くやってくれ。』という返事で、二男は、『不動産は自分が相続したい。』と言ってくれたので、不動産は二男に、預貯金は、長男に○分の●、二男に○分の△の割合で決めました。」とのことであった。よくよく聞いてみると、自宅は、現在、二男が住んでいてアトリエとして使っているということなので、落ち着くべきところに落ち着いたなと感じた。あとは、長男が、母の気持をくんで預貯金を受け取ってくれるか?という一抹の不安だけ。 いよいよ遺言公正証書作成日を迎え、滞りなく遺言公正証書は完成!。しばし雑談をしていると、ご婦人から、「先日、仏教でいうところのお盆の催しがあり、その席に、長男も出席してくれて、久しぶりに親子3人の時を過ごすことができました。」と、遺言書作成のいくつかの過程を経て、永らく交流の無かった家族の絆が戻ったことを、とても喜んで語ってくれた。そして、とびっきりの清々しい笑顔で、証人の車に同乗して帰路につかれた。 このご婦人の笑顔を励みに、残りの公証人の任期を全うしたいと思っている。
