民事法情報研究会だよりNo.5(平成26年4月)

 桜花の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。  さて、当法人は成立後2年目の事業年度を迎えました。初年度の決算等は、早めに取り掛かったこともあり、大方の作業を終わり、これを審議するための通常理事会の招集を行ったところです。今後6月に開催の定時会員総会に向けて準備を進めてまいります。  ところで、当法人は非営利型の一般社団法人ですが、均等割の法人住民税を納付する必要がありますので、今後の事務処理の簡素化を考え、東京都新宿都税事務所に電子申告を行いました。初めての手続きは戸惑いも多いものの、やってみると案外簡単で、どこにも出かけずに2日目には電子納付も終わりました。いまや行政の電子化が各方面で相当進んでいることを実感した次第です。  本号では、佐々木理事の「最初の一着・最後の一着」と本間透会員からご寄稿いただいた「福島の今」を掲載いたします。(NN)

 
  最初の一着・最後の一着(理事 佐々木 暁)  この時節、街角で、電車の中で、見るからに新社会人と思われる真新しい背広を着て、緊張感漂う面持ちで歩いている若者を見かけます。おそらくは、この春に晴れて就職し、夢ある社会人としての一歩を踏み出した若者でしょう。  思えば、私が高校を卒業して就職した昭和41年4月1日(札幌法務局民事行政部登記課事務員)時点では、背広は着ていませんでした。叔父から就職祝いにもらった背広はあったのですが、いわゆるお下がりで、とても大きくて、流行にもかなり後れておりました。1年余り学生服と坊主頭で通勤しておりました(仕事中は事務服があり助かりました。)。あまり想像しないで下さい。若くか細く凛々しい私を(笑)・・・  私が最初に自分で背広を手に入れたのは、昭和42年3月のボーナスの時だったと記憶しております。当時の私は女性用のジーンズでも着用できる位に細身でありましたので、いわゆるブランコ物で十分満足でした。それから2着目を手に入れるまでは相当時間を要した気がします。  あれから47年、経済的問題・体型的問題を乗り越えながら、一体何着の背広に袖を通してきたのだろう。  平成19年3月、広島局で法務局生活を終わることとなり、退職記念とこれまでの公務員としての自分へのご褒美として、広島一のデパートで、今迄にない程に少し高い(私の中では)背広を新調しました。これが「最後の一着」と我が家の財務大臣に手を合わせて。  あれからまた7年余り、最後の一着が何着になったことか。「これは私が着ているのではなく、公証人が公証事務を執り行ううえで、品位?を維持するために着用しているもので、最後の一着とは別のものである」と言わなくてもいい言い訳をしながら。 人間何かのケジメを着ける時若しくは何かの願い事をする時に、ついついこれが「最後だから」と言ってしまうらしいのですが、これは私だけでしょうか。国会議員の選挙の際の「最後のお願い」に似てなくもない気がしますが。  「今夜はこれが最後の一杯」、「禁煙前の最後の一本」、「最後のゴルフクラブ」、「最後のカメラ」、「最後の釣竿」、「最後の新車」等々・・・・。身に覚えのある会員の皆様もいらっしゃるかと。  そしてこの度、公証人としての任期も残り少なくなったところで、退任後は背広を着る機会もめっきり減ることだろうと推測し、残りの任期と相談しながら、財務大臣の鋭い視線を感じながらも、こりもせず、これぞ「最後の一着」を新調しました。果たして「最後の一着」となりますか。  愛車は2年前に「最後の新車」として購入しました。間もなく車検が近づいております。皆様ならどうしますか。退任後は自由になる時間も増えますし、そのためにはしっかりと動き廻れる足が必要と考えるのですが。「ほんとうの?最後の一台」が。  天の声曰く、「最後の一着は、もう「黒」だけあればよいのでは。しかも夏・冬兼用で。どうせ感覚も鈍ってくるでしょうから」と。でも、せめて今しばらくは、たとえ礼服は黒でも、白いネクタイをする機会が多くなることを願って、「最後の一本とならない一本」の白い寿紋様のネクタイを新調したところです。   福島の今(本間 透)  今から3年前の平成23年3月11日(金)午後2時46分、三陸沖を震源としたマグニチュード9の観測史上最大の地震による東日本大震災が発生し、岩手、宮城、福島の東北地方太平洋沿岸では、地震と津波により未曾有の被害を受けました。特に、福島県では、この震災で、東京電力福島第一原子力発電所(以下「福島第一原発」といいます。)において、我が国では過去にない深刻な事故と事態が発生したことにより、原発地域の住民はもとより、県内全体でも重大な影響を受け、これが世界では、「フクシマ」として有名になりました。この原発事故による計り知れない問題については、東京電力は当然のこと、国を始めとして多くの関係機関が莫大な経費と労力を投じて対応しているところです。  震災発生直後から旧知の皆様に私の安否等について御心配いただき、また折にふれて原発事故の影響等をお尋ねいただきました。その都度、説明させていただきましたが、断片的ではなかなか詳しい状況が伝わらないことから、この場をお借りして、私事が中心となりますが、改めて震災発生時からこれまでの経緯と福島の現状を紹介させていただきます。 Ⅰ 震災について ○ 3月11日(金)  震災発生時、私は、行政書士会いわき支部がいわき駅前の複合ビル(ラトブといい、店舗、図書館、商工会議所等が入居する10階建の建物)の6階の大講堂において開催した市民公開講座(午後1時30分開始、参加者は、高齢者が主で約200人)において、「老後を安心に」というテーマで講師を務めており、1時間程講演をして任意後見に関するDVDを見てもらっていたところ、地震が発生しました。  地震は、3度にわたり強さが増し(震度6強、延べ3分10秒)、自力では立っていられない状態で、私は、講堂の奥に居たため、すぐに出られなかったので、近くの音声等の制御室に避難しました。このビルは、いわきでは最新の建物で、免震構造のせいか地震による揺れが私がこれまで経験したことがないもので、講堂内は、天井から可動式の照明の鉄枠が落下するとともに、スプリンクラーが壊れてその水があちこちから滝のように落下し、瞬く間に床は水浸しになり、深さは、足の踝まで達しました。机と椅子は、ぐちゃぐちゃに散乱してまさに足の踏み場もなくなっていました。  揺れが収まりつつあったので、私は、制御室から出て避難しようと講堂に踏み出したところ、老いた女性が逃げ遅れて机と照明の鉄枠に挟まれて動けなくなっているのを発見し、講堂の出口付近にいた行政書士会の方々を呼んで、その女性を救出し、講堂からやっとロビーに出ることができました。講堂のあるフロアで避難誘導していたビルの管理職員にこの女性を引き渡し、非常階段から屋外に出ました。後日談ですが、この女性は、講堂から救出した時点では意識がありましたが、当時としては止むを得ない状況ながら救急車や病院の手配が遅れて亡くなられたとのことでした。  いわき駅前は、建物外に避難した沢山の人で混雑し、余震が引き続いていたため、ほとんどの人がしゃがんでいました。妻が私の講演を聞きに来ていましたので、無事避難したかどうか確認するため、携帯電話を何度もかけ、メールも送信しましたが、繋がりませんでした。駅近くの自宅マンションに帰りましたが、妻は帰宅しておらず、自宅と駅前を何度も往復している中、奇跡的に妻からの携帯電話が繋がり、自宅マンション前で出会うことができました。  その後、妻と共に車で公証役場に向い、役場が入居しているビルの玄関にいた書記の無事を確認し、直ちに書記を帰宅させた後、役場事務室内の状況を確認したところ、パソコン・キャビネット等は、位置がずれただけで倒壊していませんでしたが、書庫内の帳簿等は、全て書棚から落下していました。役場が入居しているビルは、築40年以上ですが、建築当時、地盤が弱かったことから徹底した耐震工事をしたとのことで、建物自体は、損壊がありませんでしたが、敷地内の地盤が沈下し、地面と玄関階段とに約30cmの落差が生じました。  役場内の後片付けを翌日行うこととし、自宅マンションに戻りました。中の状況は、台所の食器棚の一部から飛び出した食器が破損していたり、家財道具の一部が転倒・移動していただけで、一番恐れていた妻が製作した陶器の陳列棚が大丈夫で、一つも破損していなかったのは驚きでした。この棚も含めて全ての家具等に転倒防止策と滑り止めをしていたのが効を奏したものと思われます。ただ、前日入れ替えたバスタブの水が多く残っていたことから、地震の揺れで洗面所などに溢れ出していましたが、これが後でとても役に立ちました。  この日は、水道は出ていましたが停電となり、暗い中、蝋燭と懐中電灯を頼りに片付けをして夕食を取りました。余震が絶え間なく続いて不安なので、着替えることなく、直ぐに避難できるよう、暖かくない炬燵に入って横になりました。 ○ 3月12日(土)  停電は解消しましたが、断水になっていました。昨日出ていた水は、マンションの貯水タンクに残っていたもので、気づくのが遅く、近くのスーパーに水を買い行きましたが、沢山の人が買出しに来ており、時既に遅しで、水も含めて必要な物を買うことができませんでした。とりあえず飲み水を確保するため、コンビニでロックアイスを買って当座をしのぐこととしました。洗面やトイレの水は、バスタブに残っていた水を活用することができ、大いに助かりましたので、これ以降、我が家では、常にバスタブに水を張っています。  携帯電話や固定電話では、私達の安否について子供達と連絡がとれないでいたところ、私のパソコンに長男(東京・世田谷在住)からメールがあり、ようやく連絡がとれました。臨月の長女(千葉・柏在住)のことが心配なので、息子に安否を確認してもらったところ、お互いに無事が確認できました。この後、他の親族にもインターネットによるメールで連絡することができ、インターネットの効用は、とても大きいことを実感した次第です。  午後から公証役場に行き、事務室及び書庫の片付けをし、書庫内のずれた書棚の位置を直すとともに、余震に備えて補強しながら散逸した帳簿等を確認して格納しました。  食事は、買い置きの食料品で間に合わせ、洗い物を出さないため、食器にサランラップを敷いて取りました  テレビには、東北各地の太平洋沿岸の津波による凄まじい状況が映し出され、言葉で言い表せないような映像に目が釘付けになるだけでした。  ※ 後で分かったことですが、この日、15時36分、福島第一原発の第1号機において核燃料の溶解による水素爆発がありました。 ○ 3月13日(日)  地元のラジオ放送で市が給水を行うこととその場所を知り、遅まきながら給水を受けるためのポリタンクを求めて、あちこちのスーパーやホームセンターに行きましたが、どこも水を入れるのに適した容器は売り切れで、窮余の策として、公証役場のごみ容器3個(1個30ℓ)の内側をビニール袋で覆い、役場近くの公園の給水場で給水を受けることができました。そこでは、給水を受けるための長蛇の列ができ、中には一人で沢山の容器を持って来て給水に長時間を要しトラブルになる場面もありましたが、手漕ぎのポンプを学生たちがボランティアで交代しながら動かしてくれ、助かりました。それでも給水の順番が来るのに約1時間待ちました。  市の広報車が「原発事故に伴う爆発のため、放射能が拡散しているので、できる限り外出を控え、どうしても外出する際は、外気に触れないよう帽子やマスクをするよう」アナウンスしながら巡回しました。さらに、市が原子力災害時用の放射性ヨウ素に対する予防薬として備蓄していた安定ヨウ素剤を配布するとの情報も入りました。 ○ 3月14日(月)  公証役場に出勤し、法務局や日公連等の関係機関で連絡の取れる所には状況を報告するとともに、今後の対応等について協議しました。当然のことながらその時点で予定されていた嘱託は、全部取り止めとなりました。  書記も出勤しましたが、当分仕事もなく、ガソリンが不足して車での通勤が困難なことから、しばらく自宅待機することとして、帰宅させました。  長男からインターネットでメールがあり、長女が無事娘を出産したとのことで、妻は、前々から生れたらすぐ長女の処へ行くこととしていましたが、高速道路、電車、バスとも、通行止めあるいは運休で身動きが取れないでいたところ、長男が仕事を終えてから東京から車で国道6号線を通って妻を迎えに来てくれることになりました。  ※ この日の11時1分、第3号機で水素爆発が発生しました。 ○ 3月15日(火)  長男夫婦が約6時間かけて明け方いわきに到着し、仮眠してから妻を乗せて長女のいる柏にとんぼ帰りしました。家族の思いやりや行動力に感心した次第です。  その際、長男から、東京では原発の爆発が大ニュースになり、大変なことになっているので、私も避難した方がいいと言われましたが、勝手に逃げ出すわけにもいかないので、自宅待機して様子を見ることにしました。  市の広報のせいか、市内は人通りが絶え、まさにゴーストタウンと化しました。原発事故に伴う風評被害もあり(いわき市の北部の一部だけが福島第一原発から30km圏内に入るにもかかわらず、いわき市全体がこの圏内と誤解されました。)、食糧品等の生活物資やガソリンがいわき市に供給されなくなり、断水も引き続き、日常生活の維持が困難となりました。市は、各公民館で被災者以外の市民に対しても飲料水と食糧を配給し始めました。  そこで、福島地方法務局と協議し、緊急避難的に公証役場の業務を一時休止することとし、その旨を役場に掲示した上、柏の長女夫婦宅に避難することとしました。  ※ この日の6時14分、第4号機が爆発により一部損傷しました。 ○ 3月18日(金)  16,17日は、自宅待機し、常磐自動車道が復旧開通したので(車のガソリンは、半分残っていました。)、長女の友人(柏在住)の母親を乗せて柏に避難しました。途中のいわき駅前の高速バス乗り場では、大きな荷物を持った人の長蛇の列がありました。高速道は、開通したものの、所々うねっていたり、片側通行規制がなされていました。  長女宅で初孫と初対面となり、いろいろと大変な中、大きな喜びと励みになりました。  柏でもガソリンが供給不足で、2時間待って10リットル入れ、翌日早朝から1時間待ってやっと満タンにすることができました。この後、ガソリンの残量が半分近くになったら常に満タンにするようにしています。  柏市の水道水から、基準値以下であるものの、放射性物質が検出されたため、乳幼児のいる家庭に通知があり、この通知書を持参すれば、1日20リットルを限度に給水してくれることとなり、以後、いわきに戻るまで、この給水への対応が私の日課となりました。 ○ 3月29日(火)  いわきの状況をインターネットで確認したところ、私の居住地域の断水が解消し、生活物資も供給されるようになったので、妻と共にいわきに戻り、翌日から公証役場の業務も再開しました。 ○ 4月11日(月)  これまでも度々余震が続いていたところ、午後5時17分、役場にいたときに震度6弱の余震がありました。また停電と断水も生じましたが、翌日解消されました。  自宅に帰る途中でも余震があり、車中での地震は初めてで、ゴンドラの中で揺れているような感じがして、電柱と電線の揺れが重なり不気味でした。信号が止まり、大渋滞の中、交差点を1台ずつ譲り合いながら通行する様に感激してしまいました。  大震災から丁度1か月の大きな余震は、せっかく復旧し始めた矢先のことで、被災地では特に精神的なダメージが大きかったと思われます。 ○ その後  公証役場が入居している建物は、市の社会福祉協議会が入っていることから、いわき市内の被災地救援のためのボランティアセンターとなり、4月の連休前から全国各地から大勢の人が訪れ、毎朝・夕混雑していましたが、9月末にはその役目を終えました。  5月の連休明けから、市内の人通りと車が増え始め、駅前のビジネスホテル等が満杯となり、営業不振で休業していたホテルも再開しました。これは、原発事故対応等のため、東電関連の企業の従業員が全国から集まり、様々な面でキャパシティがあるいわきを拠点としているためとのことでした。毎朝・夕には、従業員の人達がホテル前に集まり、コンビニで弁当を買って迎えのバスで福島第一原発(通称「フクイチ」又は「F1」と言われています。)に赴き、作業を終えてホテルに戻った後、夕食等のため飲食店を多くの人が利用していることから、特に駅前の飲食店街は、新規の居酒屋が開店するなど賑わっています。この状況は、今でも変りありません。  福島第一原発から20km圏内と圏外でも北西の一部地域が居住制限区域等に指定されたことにより、現在、県内の会津地方や県外に避難していたそれらの地域の住民が、同じ浜通りで放射線量が低く、気候風土も似ているいわき市(人口約33万人)に流入しています。その数は約2万4000人にのぼり、特に、いわき市の平地域には、様々な面でこれを受け入れられる余地があったことから、資力のある人は、仮設住宅に入らずに賃貸住宅に入居したり、ニュウータウンの物件を購入したりして、今では市内の賃貸物件と宅地・建物の売り物件が出尽くしたと言われています。また、震災で更地になったまとまった土地には、コンビニやホテルが建ち、新築マンションも計画されています。  これらにより街が活気づき、経済効果もありますが、一方では、人口増加によるごみ処理、医療機関の混雑や医療費の負担の問題が生じ、避難住民の自治体のいわゆる「仮の町」構想(役場所在地をいわき市に置き、避難住民への支援等を行いながら、その帰還を図ろうとするものです。)への対応の必要があります。いわき市では、できる限りその構想に協力して復興住宅を建設するなどしながらも、市独自の将来構想や財政事情もあって対応に苦慮しているようです。  また、同じように仮設住宅に入居していても、原発地域でない津波による被災者と原発地域の避難者とでは、補償金や損害賠償金が大きく異なることから、両者間でのいわゆる「やっかみ」的な軋轢により、心無い落書きなどトラブルが生じています。どちらも自分のせいではなく、だれも悪いわけではないので、やるせない気持ちになります。  福島県の昨年の選挙で、郡山、いわき、福島の三大市の現職市長が新人に敗れました。これは、行政に対する住民の震災復興・原発事故対応への不満や新たな首長に対する期待等が反映された結果と思われます。  県内では、震災の復旧・復興に当たり、原発地域のみならず様々な地域で原発事故が大きな障害となり、津波による瓦礫の撤去もできない地域があるなど、他県とは異なる問題を抱えていることから、道半ばと言わざるを得ません。  いわきでは、「がんばっぺ!いわき」を合言葉にして復旧・復興に取り組んでおり、特に、いわきの観光のシンボルである「スパリゾート・ハワイアンズ」では、フラガールの全国キャラバンなどもあり、施設内に新たなホテルもオープンし、利用客が震災前以上に増えたとのことです。  ※ 福島県の太平洋岸(160㎞)における津波は、5m~21m(推測)に達し、福島第一原発では、14メートルでした。   福島県の震災・原発事故による被災状況(平成26年2月28日現在)    死者:1607人(いわき市310人)    行方不明者:207人(いわき市37人)    震災関連死:1664人    避難者数:13万3584人(県内8万5589人、県外4万7995人)    仮設住宅入居者:2万8509人 Ⅱ 原発事故について ○ 福島第一原発の事故発生直後の経緯   3月11日   14:46 地震により1~3号機が自動停止   15:42 1~3号機で全ての電源が喪失   16:36 1、2号機で非常用炉心冷却装置による注水が不能   19:03 政府が原子力緊急事態宣言を発令   21:23 総理大臣が半径3km圏内の避難及び3km~10km圏内の屋内退避指示を発令  3月12日   05:44 半径10km圏内の避難指示発令   10:17 1号機でベントを開始    15:36 1号機で水素爆発が発生   18:25 半径20km圏内の避難指示発令   19:04 1号機への海水注入を開始     3月13日   05:10 3号機で冷却機能が喪失    3月14日   11:01 3号機で水素爆発が発生   13:25 2号機で冷却機能が喪失  3月15日   06:14 4号機が爆発により一部損傷   11:00 半径20km~30km圏内の屋内退避指示を発令  3月16日   05:45 4号機の建屋4階部分で火災発生   3月17日   09:48 3号機でヘリにより使用済燃料プールへの散水を開始  3月25日   11:46 内閣官房長官が半径20km~30km圏内の住民の自主 避難を促す。  3月30日 東京電力が1~4号機の廃炉を表明  4月 2日 2号機取水口付近から高濃度汚染水の海洋流出を確認  4月12日 事故の深刻度が国際評価尺度で最悪のレベル7とされる。  4月22日   00:00 半径20km圏内を立入り禁止の警戒区域に設定、圏外でも計画的避難区域、緊急時避難準備区域を設定   09:44 半径20km~30km圏内の屋内退避指示を解除 ○ 福島第一原発の現状等    1号機:炉心溶解、建屋水素爆発、原子炉建屋上部の瓦礫撤去のため建屋カバー解体へ   2号機:炉心溶解、原子炉建屋内の放射線量が高いため、遠隔操作のロボットによる調査中   3号機:炉心溶解、建屋水素爆発、原子炉建屋上部の瓦礫撤去が完了、核燃料取り出し用の建屋カバー設置へ    4号機:建屋水素爆発、使用済核燃料プールから燃料移送開始   5・6号機:2014.1.31付けで廃止を決定し、廃炉に向けた研究施設として利用  今後、4号機については、2014年末に核燃料移送を完了し、1~3号機については、2015年から順次、プールから使用済核燃料の取り出しを開始、2020年から原子炉内の溶解燃料の取り出しを開始、それらを了した後、全号機の施設を解体し、2040~50年頃廃炉を完了する予定です。  福島第一原発では、サッカーJリーグのJヴィレッジを拠点として毎日約3000人の作業員が、高濃度の放射線量の中、これらの作業等に従事していますが、汚染水の流出等の様々の問題や事態が発生し、その度に東京電力の対応が非難され、果たして予定どおり原発事故の収束に向うのか心配です。 ○ 放射性物質、汚染水の問題  原子炉建屋の水素爆発や格納容器の破損を防ぐため蒸気を意図的に外部に出すベントにより、放射性物質が大量に放出されました。当時の原子力安全委員会によれば、その量は、甲状腺被曝に関係するヨウ素131が13万テラベクレル、肉や野菜などの汚染で問題となるセシウム137が1万1000テラベクレル(ヨウ素131に換算すると44万テラベクレル)に達すると試算されましたが、匂いも色もない極小粒子で、単位が理解できないことから、正直なところ、量的なイメージや具体的な危険性が計りかねます。多くの人々、特に幼い子供を抱える家族が、それが故に不安になり過剰な意識を持ってしまうのも止むを得ないものと思います。  この放射性物質は、福島県では、当時の風で北西方向に運ばれ、不適切な情報管理・提供、連絡体制の不備から、原発地域の住民は、その方向に避難してしまい、混乱する中で病院に残された多くの高齢者が死亡するなどの悲劇が生じました。15日には、大気に漂う放射性物質が北風に乗って関東に運ばれ、雨によって地表に落下し、局所的に放射線量が高いホットスポットができました。  放射線量は、今ではかなり減少しているものの、注意を怠らないため、福島県内全域で放射線量を常時測定し、地元の新聞紙上に毎日数値を掲載しています。  また、原子炉を冷却するため常時注水している高濃度の汚染水と1日約400トンの地下水が原子炉建屋に流入していることによる汚染水の処理とともに、これが海へ流出することが問題となっています。東京電力の場当たり的な対応もあり、政府としては、国が関与していくことになりました。この処理策と防止策が急務となり、汚染水から放射性物質を取り除く設備の増設、汚染水を溜めるタンク群(現在1000基)の敷地の確保、タンクの不具合による汚染水漏れ、地下水の流入を食い止める凍土遮水壁の設置等のため、多大の時間と予算を費やすことになりますが、その進捗と効果は、不透明と言わざるを得ません。 ○ 避難状況等  原発事故により住民の避難等を余儀なくされた地域は、11市町村にお よび、現在、放射線量の状況に応じて、事故後6年間は戻ることができない「帰還困難区域」(年間被曝放射線量50ミリシーベルト超)、除染や社会基盤整備などを進めて数年内に帰還を目指す「居住制限区域」(同線量50ミリシーベルト以下20ミリシーベルト超)、早期帰還を目標とする「避難指示解除準備区域」(同線量20ミリシーベルト以下)に区分されています。  ※ 20ミリシーベルトは、国際的な許容基準とのことです。  原発事故による県外への避難者が相次ぎ、住民票を県内に残したままのケースを含め現在も約5万人(46都道府県すべてに及ぶ。)が福島を離れていることから、200万人を超えていた福島県の人口は、約195万人に減少しました。  この避難は、期間が長期化するにつれ、家族と地域の分断化をもたらしています。家族については、これまで一緒に生活していたのが仕事や居住スペースの関係でバラバラにならざるを得ず、引いては家族間の対立まで生じています。また、地域については、帰還を目指す人と諦める人とが明らかに分かれ、これまでのような自治体として維持していけるのかが問われています。  帰還を促進するためには、除染が欠かせませんが、年間被曝放射線量を1ミリシーベルトとする基準をクリアするには、長期的目標としながらも、どこまで行うか、人員の確保などの課題が多く、なかなか捗りません。また、除染により生じた大量の汚染土や廃棄物を最長30年間保管する中間貯蔵施設の建設予定地の選定も難航し、除染が捗らない一因となっています。  除染のみならず、生活基盤の整備が不可欠ですが、荒れた家屋や農地を元に戻すことには、行政による推進は勿論のこと個人的にも多大の気力と労力を要します。  ※ 1ミリシーベルトは、我が国の自然被曝放射線量の全国平均0.99ミリシーベルトによるもので、国際的には、世界の自然被曝放射線量の平均が2.4ミリシーベルトであることから、厳しすぎるとの見解があります。 ○ 風評被害  放射線量が事故直後に比べて大幅に低下しましたが、低線量とは言えそのリスクが多くの人を不安にさせ、健康影響について科学的知見が定まっていないこともあり、原発事故当初は、その不安等が増幅して、放射線量が極めて低い地域なのに福島に行かないとか福島で作った農作物や福島の漁港で水揚げされた魚介類は食べないという事態になり、福島の観光や農漁業は大打撃を受けました。  今では、県内で収穫された米を始めとする農作物は、流通する前に農協等で放射性物質の有無を検査し、放射性セシウムの濃度が国の規制値(1kg当たり100ベクレル)以下であることを確認の上(ほとんどが検出されていない。)、出荷しているので、これまでのように福島というだけで売れない又は売値が下がることは、かなり解消されるようになりました。見方によっては、全部検査済の物を出荷しているので、福島県産の物が一番安全と言えるかもしれません。  県内の観光地も福島を応援しようとする人達が積極的に訪れてくれ、観光客が戻りつつあります。昨年、研修同期会を東北で開催することになっていたところ、福島でやることになり、飯坂温泉に全国から集まっていただき嬉しく思いました。  漁業は、汚染水の海への流出が問題となり、漁ができない状況でしたが、昨年から試験操業を始め、放射性セシウムが国の規制値を下回る魚介類が増え、県漁連は、規制値より厳しい独自の基準(50ベクレル以下)を設け、水揚げした魚介類ごとに検査して出荷しています。市場の信頼感も回復しつつありますが、中には基準を上回る魚もあり、特にいわき沖にその例が多く、「いわき七浜」と言われる優れた漁港と漁場がありながら、そこで獲れるめひかりや柳下かれいなどの美味しい近海物が食べられないのが残念です。  風評被害の解消に当たっては、放射性物質等に対する意識を変えるための「心の除染」が必要と唱える方もいます。 ○ 原発について思うこと  福島第一原発の事故については、各方面でその原因等の調査・検証がなされましたが、未だ溶解した原子炉の核燃料の状態が確認できず、廃炉に向けた作業も予定どおり行われるかどうか計り知れません。  政府は、新たにできた原子力規制委員会の検討結果と地域住民の賛同を得て休止している原発の再稼動を行う方針ですが、本当に安全を確実なものとし、それが万全に担保される態勢でなければ再稼動すべきでないと思います。  国民生活や経済活動の維持のため、安定した電力の確保が必要なことは分かりますが、一方、原発事故により一夜にして普通の生活を奪われ、何万という人々が居住している所から避難を余儀なくされるだけでなく、拡散する放射性物質による影響を考えると、再稼動に慎重な意見にならざるを得ません。  福島で原発事故により大変な思いと苦労をされている方々を目の当たりにしていると、人間が作った装置でありながら、自然災害により人間がコントロールできなくなるような装置は、利用すべきでないとの思いが強まります。 Ⅲ 公証業務について  私は、震災前の平成21年7月からいわき公証役場で公証業務を執り行っていますが、平成23年の震災直後の状況では、これまでどおりいわきで公証業務を続けていくことができないのではないかと覚悟しました。通常であれば嘱託が多い3月は10日間しか勤務できず、4月は過去最小の嘱託件数でした。  しかし、5月頃から徐々に嘱託が増え始め、平成23年の嘱託件数は、前年比約10%減にとどまり、平成24年は前年を上回り、平成25年は過去10年で最多の嘱託件数となりました。  平成24年6月には、事実実験公正証書作成のため、福島第一原発の敷地内に赴き、全身防護服と全面マスクを着用して線量計が高濃度を示す中、所要の調査を行うなど、大変貴重な経験をしました。  前述したようにいわき市の人口増加とともに、震災等の復旧・復興のための予算と事業の需要が膨らんでいることが公証業務の増加に繋がっています。特に、事業の許認可や補助金のため、新たに会社を立ち上げて事業の受け皿になろうとする動きが加速し、これに伴い定款の認証が増加しています。その事業目的は、復旧・復興の動向を反映して産業廃棄物、土木・建築、放射線・除染、介護に関するものが多くなっています。また、人口の増加に伴い遺言や任意後見、各種契約の公正証書作成が増えています。  最近では、原発事故による東京電力の財物補償の関係で、相続登記未了の不動産に係る損害賠償契約を公正証書で作成するなど、福島県ならではの嘱託があり、原発事故による損害賠償請求権に関することを盛り込んだ遺言公正証書の作成もあります。  公証業務に関する相談が増え、それに直結しない様々な相談もありますが、できる限り相談者や嘱託人の親身になり、懇切丁寧な対応に心がけながら、少しでも地域住民の皆様のお役に立てればと思っております。 (福島県いわき市在住、平成26年3月11日記)  ]]>

民事法情報研究会だよりNo.4(平成26年2月)

 余寒厳しき折柄、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。  さて、当法人成立初年度もあと1か月余を残すだけとなり、そろそろ本事業年度の決算をし、次期年度の計画を検討する時期となりました。今期は理事一同不慣れの中で、手探りでの法人運営でしたが、次期年度からは各地域担当の理事5名を増員するなど、徐々に体制を整備し、活動の充実を図っていきたいと考えております。今後とも会員の皆様のご支援・ご協力をお願いいたします。  本号では、小林理事の「キョウイクとキョウヨウの生活」と、会員の近況を紹介する一環として、高渕秀嘉会員からご寄稿いただいた随想「碁とスペイン語が出会うところ」を掲載いたします。(NN) ******************************************************************************************* キョウイクとキョウヨウの生活(理事 小林健二)  間もなく現役生活ともおさらばできそうだ。仕事から解放される日が来ると心積もりはしてきたつもりではあるが、いざ目前になると、縛られない世界に入っていくことにいささか戸惑いを感じている。勿論、これまで、家内任せにしてきた親の介護、二の次にしてきた田舎の家と墓の管理等は当然に本業になってくることは分かっているが、以前は、せめて開放された世界に飛び込むわけであり、第二の人生これからと大上段に、あれこれ考えたものである。  しかしながら、今では、身体のあちらこちらが悲鳴をあげているようであり、段々その気力も衰え、まず言い訳をしたくなる自分に気づく。仕事と飲むこと以外に何もしてこなかった者に、その付けが回ってきたということであろうか。  これまでも、来るべきときに備えて、皆さんがどんなことをして、あるいはどんな思いで、過されているのか、それを参考にすることが一番と思い、暇を見つけては、「老後を如何に生きるか」というようなセミナーに参加したり、「田舎暮らし」、「老年の品格」、「死ぬという大仕事」等老後の生き方を題材にした本を読んだり、一応情報収集に努めてみたが、なるほどと感じられるようなものは何もなく、どれも看板倒れであった。覚えていることといえば、「絵でも、写真でも良いが、社会との係わりを持つことが大切である。」くらいである。      ところで、退職して失うものは、「居場所と生きがい」、得るものは「自由と時間」といわれている。いずれにしても、仕事からの解放であり、それ程深刻な話ではないと思っていたが、どうやってこれからを過していくかということは、案外楽になるようで、そうでもないことに気づく。解き放たれるということは、一見素晴らしい世界に身をおくことに見えるが、なんと難しいことであろうか。取りあえずは、地域デビューを果たし、そこで、何か見つけることから始めることになるのかなというところに落ち着きかけていた。  こんなことを気にしながらの年明けに、あまり気に止めていなかった年賀状が、今年は、俄然と興味を引くものとなった。そこには、現役を退いた後の生活状況がびっしりと記載されているものが数多くある。皆さんもおそらく同じような年賀状を受け取られたのではないかと思うが、そのパワーに圧倒される。大学院進学、講演会活動、執筆活動、各種資格取得と凄い。中には、外国で英会話学校に入学し、お正月はその国で過す予定というものもあり、そこまでやるのかと、その向上心と行動力に圧倒される。いずれにしても、年賀状からは、第二、第三の人生を、実に生き生きと活動されている様子が伺え、うらやましい限りである。自らリセットし、全く新しい人生に踏み出すパワーはどこから出てくるのであろうか。私も、見習いたいが、そこまでの自信はない。  ただ、一番、納得したのは、「キョウイク(教育ではない、今日行くところがある。)」と「キョウヨウ(教養ではない、今日用事がある。)」で日々を送っているというのであった。この用語は、新聞のコラムに出ていたと記憶しているが、当面、これでいくことになるのだろうか。  さて、昨年発足した本会の初めての総会が無事に終了した。発足後の経緯は、総会の席上、野口会長が説明されたとおりであるが、この団体の活動内容は、まだまだこれからであり、今後に委ねられている。OBが半数を占めている状況を踏まえると、少なくとも退職した者の生きがいにつながる企画は最低限必要であろう。「私は、こんな充実した素晴らしい毎日を送っている。」と発表してもらえる方が多くいらっしゃるはずである。何かの機会に、是非紹介していただきたいものである。   随想「碁とスペイン語が出会うところ」(高渕秀嘉) 1 はじめに   私は平成15年2月1日、それまで10年間勤めさせていただいた掛川公証役場公証人を退職した。あれから丁度11年。この長い、しかし時にはとても短いようにも感じられ月日を振り返ると、私の場合、趣味の囲碁と公証人時代に始めたスペイン語の勉強、この2つを軸に経過して来たように思える。  碁については語るべき事は少ない。覚えてから半世紀以上にもなるが、その間、師匠に付いたことも専門書でしっかり勉強したこともない。対局を楽しむだけの御多分に漏れないザル碁で、退職後も一向に上達しない純粋の趣味である。  一方の「公証人時代に始めたスペイン語」とは何か。これも暇な公証役場で時間を持て余し始めた趣味道楽の類だろうと誤解され易い。実は、公証役場のちょっとした接遇を考える中で出会った外国語である。そしてこの言葉の学習は、公証人退職後も法務行政に関係する私のボランティア活動を可能にし、最後には、囲碁という私の趣味をボランティア活動の場に導いてくれた。  以下、一寸変わった挿話として読み捨てていただければ幸である。 2 公証役場でスペイン語に出会う  静岡県西部には浜松市を中心に、ブラジル(ポルトガル語圏)その他の中南米諸国(スペイン語圏)から働くために来日した日系外国人が多数定住している。掛川市も例外ではない。公証役場は彼らの訪問を時々受ける。帰国後に本国で二重に課税されることを避けるために、勤務先から交付を受けた所得税の源泉徴収票について、帰国前に、公証人の認証を受けることが主な目的である。来訪者は比較的みな若く、公証役場は初めてに違いない。例外なく緊張した面持ちで事務室に入ってくる。彼等にせめて挨拶程度の言葉だけでも、その母国語で当方から声を掛けてみたらどうだろうか。ある日ふとそう思い付いた。早速簡単なスペイン語会話入門書を購入し、恐る恐る試してみた。「オラ」(今日は)。来客者は破顔一笑、たちまち緊張がほぐれる様子が見て取れた。感動した。挨拶の言葉から少し進めて簡単な質問のフレーズを次の来客に試してみる。今度は微笑と驚きの表情。このような反応の日々の積重ねに後押しされる感じで、私は毎週1回午後6時開講の初級スペイン語講座(NHK文化センター浜松教室)に通い始めた。公証人を拝命して5年目、仕事にも多少慣れた平成10年のことである。  スペイン語は我々日本人にとって発音し易い言葉であることと、勉強が進むに従い来訪者とより複雑な会話ができる喜びを知り、上記の講座には、出張遺言の場合以外は欠かさず熱心に通った。御蔭で勉強を始めてから4年目に、スペイン語技能検定試験3級に合格することができた(文科省認定。6級に始まり1級まである。3級は英検の準1級程度と言われている)。  スペイン語の勉強は、公証実務そのものにも少し反映させることができた。近くの磐田市に本社を置くヤマハ発動機が持ち込む中南米向けの外国文(スペイン語)私署証書認証については和訳の参考添付を不要とし、又公証人の日本語の認証文に慣行的に併記する英語の訳文は、スペイン語に切り替えた。 3 公証人退職後の翻訳ボランティア  スペイン語の勉強は公証人退職後も続いた。続ける必要もあった。なぜか。退職前年の平成14年、設立間もない「掛川国際交流センター」というNPO法人が発足に当たり、外国語通訳・翻訳ボランティアを公募したが、私はこれに応募して受け入れられたからである。私が引き受けた内容は「市民から依頼のあった日本の戸籍、婚姻証明書等の法律文書のスペイン語訳又は英訳。逆にスペイン語又は英語の出生証明書(婚姻要件具備証明)等の法律文書の和訳」であった。この分野では法務省・法務局出身の私以上の適任者はこの街にはいない筈という秘めた自負心もあった。退職後の私に実際に委託された翻訳案件は、上記のような言わば高度の法律文書だけではなく、市行政の各セクションから外国人個人宛の各種通知・督促文や一般的な広報文書のスペイン語訳も多かった。  この掛川国際交流センター(略称KIC)は、外国籍市民を対象に、日本語教育や日本社会への適応のための各種支援・相談業務を主な事業目的として、周知の「特定非営利活動促進法」に基づき設立された法人である。市からの財政的補助もあり、その事務所は掛川市役所庁舎内に置かれている。  私の翻訳ボランティア活動は、平成15年から20年頃まで高水準で続いたが、その後私に対する翻訳依頼は漸減した。背景には、在日期間も長期になり高度な日本語も読み書きできる外国人が増加した結果、その中から優秀な時給の翻訳・通訳(各言語毎に)アルバイターを市当局が長期に雇用するようになった事情がある。 4 「囲碁国際交流の会」― 碁とスペイン語の出会い  こうして私がスペイン語学習を続ける意味や意欲を失いかけていた時期の平成20年、大変驚いたが幸せな「事件」が起きた。スペイン語と趣味の碁の双方を同時に生かすことができるボランティア団体を知り、これに加入できたのである。  団体の名は、これも国際交流にかかわるNPO法人の「囲碁国際交流の会」。このような団体があることを私に教えてくれたのは、国際協力機構(JICA)のシニア派遣ボランティアで、囲碁の普及のためチリーで前年まで活動され掛川市に帰ってきた方である。  さて、この「囲碁国際交流の会」は、主にラテンアメリカ諸国の市民・学生に対し,囲碁の交流及び普及に関する事業を行い,日本の伝統文化の普及と国際親善に寄与することを目的」(同法人定款)として、平成18年に設立された。主にラテンアメリカ諸国なかんずくスペイン語圏における囲碁普及のボランティア活動を目的としてきたところに特色がある。会のスペイン語名はSociedad de Intercambio Internacional de GO(略称SIIG)。会員数・現在約100名・退職者が多い。事務所所在地・埼玉県ふじみ野市、会の名誉顧問として数名の日本棋院及び関西棋院高段者を擁する。年会費5千円・入会金なし。HP:http://igokokusai.web.fc2.com/  設立後現在まで、中南米諸国を主にしつつも、隣の中国を含め13か国に計20回、囲碁対局を中心にした文化交流団を毎年派遣している(多くの場合JICAから若干の助成金が交付されている)。  私も、このNPO法人に加入した平成20年には、早速キューバ派遣団に妻と共に参加。妻は囲碁対局場の傍で開設の日本の折り紙教室のお手伝いをした(他に習字、茶道教室など)。初めての社会主義国訪問であり様々なことを深く考えさせられる旅行となった。その後もメキシコ次いでアルゼンチン・チリーへの派遣団に参加。日本人に友好的な中南米の人達との様々な交流は勿論であるが、公式日程を終えた後のテオチワカンやイグアスの滝観光、アルゼンチンからチリーへ向かう長距離バスのアンデス越えなども、生涯忘れ得ない思い出となった。  ここで誤解のないように付け加えて置きたいのは、この会の入会には、スペイン語の素養は必要ないということである。世界共通ルールの囲碁(GO)というゲームを楽しみながらの集団的な交流が中心である。碁の指導など改まったことを行う場面では、同行の専門棋士や特定の高段会員が大盤などを使って通訳付きで行う。極論すれば最低限、対局開始前と終了後に軽く頭を下げるか握手するだけで足りる。もし対局後の検討を相手が望む場合は、盤上の石を無言で動かしたり置き変えたりで相当程度可能である。言葉は知っていれば好ましいけど必要条件ではない。ちなみに、スペイン語の「できる」人は、約100名の会員中10数名程度。通訳が必要であれば、この人達にお願いすればよい。私の場合は通訳なしで大方通じているらしいということで個人的に喜んでいる訳である。会員の棋力も10級から7段まで幅広く分布している。決して碁のエリート集団でもない。「碁を楽しみながら旅行社丸投げでない海外旅行もしてみたい」という方は入会資格ありである。碁好きの各位におかれても一度検討されてみたらいかがでしょうか。 5 おわりに 異分野の人達との触合い  このNPO法人「囲碁国際交流の会」に入会して早くも5年が過ぎた。会員は夫々、これまでの人生で養われた様々な識見、知識、技能などをお持ちである。私にとっては、このような法務分野以外の人達から色々な新しい刺激を受けた貴重な5年間であった。日本は、譬えは悪いが、尻尾の隅々まで餡子の詰まった美味しい鯛焼のように、どの周縁地域や分野にも人材が豊に存在する社会であることを知った。長年のスペイン語の勉強が少し役に立ったという個人的な喜びとともに、日本の底力の一つのあり方を改めて誇らしく感じた次第であった。  「一つのことを長くやって来て良かった」。御依頼を受けたこの拙文を書き終えて、今年喜寿を迎えた者が呟いた独り言である。  碁の上達も願いながら最後に蛇足の一句    「あと一段階(きざはし)上れ喜寿の春」]]>

民事法情報研究会だよりNo.3(平成25年12月)

 師走の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。  さて、当法人成立後初めての会員総会・セミナー・懇親会が、12月7日、70余名の会員のご出席をいただいて開催されました。会員総会の議事録は当法人のホームページの活動報告に掲載しておりますので、ご参照ください。セミナーでは現在の成年後見制度の発足から深く関わってこられた小池信行会員が「成年後見制度の現状と問題点」について講演されました。大変参考になる内容の濃い講演ですので、録音したものを書面にして近々全会員に配付する予定です。  なお、今号では、小畑理事の「随想」と、アララギ派の歌人でもある皆川二郎会員が東北アララギ会の歌誌「群山」平成9年1月号に寄稿された記事を掲載いたします。(NN)

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 随想(理事 小畑和裕) 1 公証人を退任してから4か月が経過しました。現役のころは、毎朝5時に起床し、8時半には役場に出勤しました。お陰様で多くの人たちのご指導、ご協力を得て8年3か月間を1日も休むことなく、終えることができました。ありがとうございました。公証事務のうち、法律的な事務は言うまでもないことですが、自営業者としての事務はどなたもそうでありましょうが、全く初めての事務であり戸惑うことも多くありました。さて、現時点で会員の皆様、特に現役の公証人である会員の皆様に何か参考になる事柄はないかと考えた結果、公証人を退任する際の事務手続きなら少しはお話できると思いますので、私の拙い経験の一端を恥を忍んで披露したいと思います。 2 「終わりよければすべてよし。」という言葉がありますが、自営業者としての事務のうち、退任をする手続きについては、特にそのためのマニュアルもなく、今となれば後任者に多大の迷惑をかけていることと思い、申し訳なく思っています。この事務は、大きく分けて、公証役場の①内部的な事務と②外部的な事務に分けることができると思います。  内部的な事務としては、後任の公証人への引き継ぎ事務があります。私の場合には、スムーズに引き継ぎを行うつもりでしたが、うまく行うことができませんでした。また、詳細な引継書を作成すべきでしたが、雑なものになって申し訳なかったと反省しています。一方、書記には、あらかじめ、3か月前に退任の日を告げました。書記の都合もありますので、後任者に対して、同人を引き続き任用するかどうかを確認し、その結果を知らせました。また、顧問税理士についても、退任の旨を告げ、後任者の意向も聞き、対応しました。私の場合は、8月1日退任でしたので、書記の所得税の計算等の事務がありましたので、3か月前くらいには、退任する旨告知しました。書記が雇用保険、厚生年金等に加入している場合には、事業主の変更手続きがそれぞれの官公署で必要になります。  外部的な事務についていえば、電子定款認証に使用する電子証明書等の返還等の事務については、所属法務局が一切を行ってくれますので、その指示に従うことになります。退任発令日の1か月前くらいに、法務局の直接の担当者に挨拶してお願いしたほうが良いと思います。具体的な手続きは、それぞれの時期に、法務局から通知がありました。退任の発令を法務局で受ける際に、既に交付を受けている電子証明書3枚を持参して返納し、法務局では返納された証明書に新たに証明番号を付し、新任の公証人に交付することになります。  次に、役場の賃貸借関係があります。後任者が、引き続き賃貸借を継続するかどうかの意思を確認したうえ、可能な限り早めに、担当者に連絡をしたほうが良いと思います。特に家賃の徴収を管理会社が行っている場合には、オーナーとの連絡及び手続きに時間がかかる場合もあります。私の場合、入居しているビルのオーナーが当初から3人も変わっていて、契約書の作成も日々の事務に追われて、ルーズであったため、敷金返還債務などが適正に引き継がれているかも不安でした。早めに対応するに越したことはありません。一番困ったのは、電話機、コピー機、パソコン、電子認証の機器等の移転手続きでした。特に電話機については、任命当初は、近くのNTTのサービスステーションに行き、簡単に手続きが終わったため、のんびりしていましたが、その後、光電話を入れNTT以外の会社が参入していたり、サービスステーションもなくなり、後任者に随分迷惑をおかけしました。電話料金、コピー料、リース料などの請求書は、手続きの連絡先を確認する必要があるため、3、4か月前ころからしっかり保存しておく必要があります(料金の徴収と、移転の手続きは会社が異なる場合もあります。)。また、料金請求日の〆の都合上、後任者に迷惑をかけることにもなります。  なお、当然ですが公証人の自営業の廃業の届が必要です(顧問税理士がいる場合には同人が行います。)。公証人のほとんどの方が中小企業共済金を積み立てておられると思いますが、この積立金を受領する際には、廃業届の写しが必要になります。余談ですが、この積立金を分割により受領するか、一括で受領するかについては、よく考える必要があります(分割だと毎年の所得になり、税申告の問題があります。)。 3 以上拙い経験を述べましたが、要は早めにかつ後任者と十分に意見交換を行うことが必要だと思います。
小畑和裕 第2回日本語文章能力検定協会「心に響く三行ラブレター」より *           もし天国で僕を見つけても    どうか知らんぷりでいてほしい。    今度も、僕からプロポーズしたいから。
  野口栄一郎氏のこと(皆川二郎)《東北アララギ会「群山」平成9年1月号通巻597号掲載》  野口栄一郎氏は、平成7年10月30日死去されたが、主に東北各地の判事として活躍、退職後は、横浜の自宅で生活されていた。古くからの「群山(むらやま)」会員として活躍した人であるが、私自身は直接存じ上げない。  たまたま今年の春、同じ職場の上司として本省から着任された野口尚彦氏の父君であることを知り、数々の思い出話などを聞くことができた。尚彦氏が帰省された際に、父の書斎から当時のはがきなどを発見されて、記念に持ち帰られたのを拝見することができた。この機会に氏に対する追悼の意味も込めて紹介することにした。  氏が「群山」に作品を発表されていたのは、昭和23年からであるが、私が「群山」に入会した昭和58年当時も作品Ⅰの上位で発表されており、平成4年9月号を最後に出詠されていない。  尚彦氏の話によると、氏が山形県酒田市の裁判所に勤務されていたころは、平成6年に死去された岸田隆氏らと時々栄一郎氏の宿舎において、小歌会を開いていたことを記憶しているとのことであった。  ところで、氏は生前に歌集を刊行しておられないので、40数年分の「群山」から秀歌を抽出するのに大変な労力を要する。はがきをいただいた時期、すなわち昭和35年から40年代は、酒田にいて精力的に発表されているので、その中から抽出することとした。 ① 昭和23年10月号、十月集、其三に、「葛の花」6首がある。   高杉をわたる風あり山かげの径に葛の花むらさきに散る ② 昭和35年5月号に「ああ坂本忠一氏」と題する「自鳴鐘」を発表しているが、氏は昭和27年2月弘前の裁判所に勤務したときに坂本氏を知り、弘前アララギ会に入会して活動していたが、昭和32年5月酒田の裁判所に転勤した後、坂本氏の死去を知って寄稿したものである。   青森県西津軽郡車力村坂本忠一ありて知りゐき ③ 昭和36年1月号、群山作品「納沙布岬」と題する39首がある。   根室国納沙布岬のうへに立ち見ゆる島々わが国にあらぬ   納沙布の岬に近く蒲公英の花のむしろに揚雲雀啼く  この時期は、歌集評や作品評などにも活躍されており、作品には北海道を旅しての秀歌が多い。 ④ 昭和37年1月号、群山作品「富士五湖」16首がある。   白樺の林ことごとく落葉して幹しろじろと風に吹かるる ⑤ 昭和37年8月号、群山作品「脳溢血」30首がある。   いかならむめぐりあはせか法廷に罪裁きつつ脳溢血す   血圧の高まりにつつ眠られぬ夜半をきこゆる遠き海鳴り   子の捥ぎて来りし見れば裏山の(たま)(づき)熟れて色づきにけり ⑥ 昭和38年8月号、群山作品「上高地」20首がある。   梓川の峪深くして残雪にタカネザクラのくれなゐ映ゆる   梓川のみなもとの空さへぎりてくろがねのごとし穂高ケ岳は ⑦ 昭和39年3月号、群山作品「飛島」19首がある。   わが船の舳先(へさき)はるけき(うな)さかに飛島低くよこたはる見ゆ   黒潮のかそけくここに流れゐてタブノキ椿くろく繁茂す ⑧ はがきは、昭和38年11月19日付けであり、氏が200号記念大会に出席した後日、扇畑忠雄からのものであり、次のように書かれている。  「こんどの大会にはるばるご出席いただき大へんありがたく存じます。予想外の盛会にてただただ喜んで居ります。さぞお疲れだったでしょう。さて会が終って会場を片づけていましたら「ノート」1冊忘れものがありました。名前がないので失礼ながら中をひらいてみましたところ、どうも貴兄のものではないかと思われますので一応御連絡いたします。もしそうでしたら早速お送りいたします。ノートの表紙には「作歌(55)」とあります。右迄」  扇畑先生の人柄と、大事にはがきを持っておられた栄一郎氏の思いを知るような気がします。氏は、昭和39年5月に酒田から下田に転勤されました。 ⑨ 昭和40年8月号に、次の作品がある。   入り来て今日よりわが子起き臥さむ小さき部屋の真中に坐る  これは、東北大学に子息尚彦氏が入学されたときに仙台に来て詠まれたものである。 ⑩ 昭和40年2月号、自鳴鐘「浜木綿」を寄せている。氏が下田に移ってから、下田の浜木綿の種を酒田アララギ会の岸田隆ほかのメンバーに送ったことが書かれている。  これを受けて、昭和40年12月26日付けで、岸田隆氏から栄一郎氏あてに、寄せ書きされたはがきが送られ、次の4氏の歌がある。   忘年の酒くみ合ひて下田なる君を偲びつ被く雪見つつ 鈴木 孝吉   赴任せし下田にありて最上川の歌尽くることなきアララギを見る 千葉 清   歌会終へ君がことなど語りつつ酒賜はりぬ岸田先生宅 鈴木 敬治   月重ね第六十回の年の暮雪積むフレームに育つ下田浜木綿 岸田 隆 ⑪ 昭和41年11月号、自鳴鐘「小歌会」樋口賢治氏が酒田を訪れた際に、鈴木敬治、岸田隆、鈴木孝吉、斎藤邦明、野口榮一郎の5名が出席、歌会を開いた。   クレーンの下ゆふぐらき水の上を灯をともす船のはやく過ぎゆく 樋口賢治   秋とおもふ風吹きわたり最上川下瀬ノ渡行く船早し 野口栄一郎 ⑫ 平成3年11月号、自鳴鐘「安房保田」を寄せている。  また全国各地の歌碑などの拓本を集めておられ、貴重なものを数多く拝見することができた。判事として、定年まで裁判所に勤務された氏の色紙も拝見したが、そのうちの2首を最後に記し、心からご冥福を祈りたい。   判事となりて三十年余となる今も判決するとき胸騒ぎすも   定年のけふしみじみとおもひけり下田裁判所十三年の恩
皆川二郎 歌集「源流地帯」(平成25年6月)より*            かたくなに吾と暮らすを拒みゐる母ふる里に老い深みつつ    再びの職に就かむと移り来ぬみちのくに入る白河の街    事務室に妻の活けくれしユリの花風入るたびに香り放ちぬ    峠二つ越え来て山間(やまあい)のわが生れたるからむしの里    遠く住む孫の写メール届くたびほつと安らぐ妻の笑顔に    母の名を石に刻みて納めたり落葉散りしくふる里の墓地    心身のいづこか常に病む妻と支え合ひつつ四十年経つ    微かなる稲のさやぎを聞きしとき蛍幾つか光放てり
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民事法情報研究会だよりNo.2(平成25年9月)

 初秋の候、皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。 さて、過日ご案内いたしました臨時総会・セミナー・懇親会につきましては、70余名の会員からご出席の返事をいただいております。今回は会場確保・セミナー講師の都合等から、12月7日の開催といたしましたが、すでに予定された名公会の会合と日程が重なったため、参加できないことになった皆様にはお詫び申し上げます。

なお、会場に若干の余裕がありますので、ご欠席の回報をいただいたあとで出席可能となった場合は、ご連絡ください。(NN)
  退職後の健康管理(副会長 樋口忠美) 1 法務省・法務局OBの親睦、交流・連絡の場とし、あわせて民事法の普及・発展に寄与するため、本年5月31日一般社団法人民事法情報研究会が設立され、図らずもその副会長に任ぜられました。この法人がOBの親睦、交流・連絡の場として少しでもお役に立つよう努力してまいりますので、よろしくお願いします。 ところで、当法人では、その活動状況をお知らせし、また会員の親睦、交流・連絡の一環として、理事の持ち回りで年数回「民事法情報研究会だより」を発行することにしていますが、まだ設立したばかりで、今のところこれといって報告する事柄もありませんので、とりあえず退職後の健康管理について駄文を書いて責めを果たしたいと思います。 2 平成23年6月、柏公証役場の公証人を退職し、ようやく毎日が日曜日の生活になりましたので、結婚してパリに住んでいる娘を訪ね、ついでにパリにアパートを借り、そこを拠点にしてヨーロッパを旅行しようということになりました。 旅行に出発する前に、毎年受けている人間ドックで、「要・胃部の再検査」という指摘がありました。ただこれまでも同様の指摘があって特別問題もなかったこともあり、担当の医師に「近いうちにヨーロッパに旅行する予定があるので、帰国してから再検査を受けたい」と話したところ、「それでいいでしょう」と言ってもらえたので、心おきなく旅行に行くことができました。旅行は10月12日から11月9日までの約1か月で、フランスのほか、イギリス、ベルギー、オーストリア、チェコ、ハンガリー、オランダなどの観光地を夫婦2人だけで珍道中をしながら、楽しく過ごすことができました。 3 こんな旅行をして楽しい気分で帰国し、少し落ち着いた平成23年11月末ころ、病院で再検査を受けたところ、医師は、いとも簡単に「胃がんです、初期だからすぐに手術すれば問題ない」と宣告したのです。私たちの年代の者にとって、「がんの宣告」はいわば「死の宣告」と同義であり、びっくりしましたが、「初期だから問題ない」という言葉を信じて内視鏡による手術を受けました。ところが手術後、「がんの部位を全部取ることができなかった、開腹手術をする必要がある」と言われ、セカンドオピニオンを聞くつもりで別の病院で診察を受けたところ、やはり手術を要すると言われたのです。病院からはいつでも入院できますと言われたのですが、せめてお正月を自宅で静かに過ごしたいと思い、正月明けの平成24年1月中旬に入院し、胃の3分の2を摘出する開腹手術を受けました。幸い初期のがんだったことから他への転移もなく、2週間で退院しました。 すでに術後1年半が過ぎ、薬の服用や抗がん剤による治療もまったくなく、今は6か月に1度の定期検診のみで元気に過ごしております。 4 振り返ってみますと、楽しくヨーロッパ旅行ができたのは、医師が「再検査は旅行から帰ってからでもよい」と言ってくれたからだと思い、ある意味では感謝していますが、この間にがんが進行し、手遅れになっていたらと思うとぞっとします。これからは同じような指摘があったときは先送りせずにすぐに検査や治療を受けるようにしたいと思っているところです。]]>

民事法情報研究会だよりNo.1(平成25年6月)

 向暑の候、皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。  さて、平成22年5月の民事情報センターの突然の解散につきましては、法務省・法務局OBの連絡・交流の場がなくなることを惜しむ声が少なからず聞かれたところであります。そこで、このたび、民事法情報センターの後継としての性格を持たせつつ、会員を広く趣旨に賛同していただける法務省・法務局OB等に拡大して、平成25年5月31日、一般社団法人民事法情報研究会を設立いたしました。  新法人は、当面、事業として従来のように年1回の会員総会と年1回のセミナーを行うほか、将来的には、法務省・法務局OBの有用な知識・経験を活用した事業の実施を検討していく予定です。(NN)   設立趣意書  私たちは、永年にわたり法務省民事局関係機関に勤務して、登記、戸籍、供託、公証等の民事法情報処理の実務を行ってきたところであり、極めて有用な知識・経験を有している。そこで、このような知識・経験を有する者を会員とする一般社団法人を設立し、会員相互の連絡・交流を通じてその知識・経験の一層の集積を図り、民事法情報に関する調査・研究等をすることにより、民事法の普及・発展に寄与することとしたい。  よって、ここに一般社団法人民事法情報研究会の設立を発起する次第である。 平成25年5月21日                設立時社員                    清水  勲   神﨑満治郎   藤谷 定勝   澤脇 達文        坂巻  豊   樋口 忠美   藤原 勇喜   野口 尚彦        小畑 和裕   小林 健二   佐々木 暁   小口 哲男 設立時役員   会長(代表理事)    野口 尚彦   副会長(業務執行理事) 樋口 忠美   業務執行理事      小畑 和裕  小林 健二  佐々木 暁               小口 哲男   監事          坂巻  豊  藤原 勇喜]]>