民事法情報研究会だよりNo.47(令和2年11月)

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菊の香漂う霜月を迎えましたが、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 皆様ご承知のとおり、去る7月18日に当研究会会長の野口尚彦様がご逝去されたこと等に伴い、本だよりの発行が滞っていたことを、この書面をお借りしてお詫び申し上げます。引き続きのご愛読をよろしくお願いいたします。
 GOTOキャンペーンなど、人々の行き来が活発化する中で、新型コロナウイルスの流行は、いまだに終息の気配を見せない昨今でありますので、まだまだ気持ちを緩めてはならないと思う毎日です。(YF)

今 日 こ の 頃

   このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

野口さんのこと(小畑 和裕)

1  野口さん(当協会前理事長)が亡くなられた。訃報に接したとき、悲しさよりも悔しさで胸が一杯になった。何で、どうして今なのか、神は酷いことをされるものだとの思いが溢れた。かねてから肺に疾患があり、闘病されていることは承知していた。しかし、当協会の業務は普段通りこなされていたし、出会っても病が重く辛いというような気振りは全く感じなかった。また、亡くなる直前まで研究会便りの原稿について協議していたが、いつも通りの様子だった。以前から病気の状態をお聞きしていたが、まさかこんなに早くお亡くなりになるとは想像すらしていなかった。

2  野口さんと初めてお会いしたのは、昭和54年の春だった。当時私は、民事局第五課(現民事第一課)から、4月1日付けで第一課(現総務課)一般予算係に転勤を命ぜられた。当時の予算係は係長3名と係員1名の4名体制だった。野口係長は、同日付けで同じ第一課の法務局係長に昇進され、事務官だった岩倉さん(故人)が係長に昇格、私は岩倉さんの後任に配置換を命ぜられたのだ。その際、野口さんが担当されていた業務の一部を引き継いだ。引き継ぎ資料を見て吃驚した。資料は、精緻を極め、詳しくかつ分かり易かった。完璧だった。予算事務は一年がルーチンワークの単位であるため、月ごとに処理すべき仕事の内容がきちっと一覧表で整理されていたし、予算要求の要点や執行上の留意事項が纏められていた。特に新鮮な驚きだったのは、予算と執行の効果をグラフで表すなど、見事なものだった。余りにも立派な資料なので、この先、予算事務が私に務まるのか不安を覚えるほどだった。幸い、野口さんは隣の部屋におられたので、しょっちゅう伺ってお教えを乞うた。私の愚問に対して優しく、丁寧に教えて頂いた。野口さんの説明は疑問点をきちんと捉え、説得力があるものだった。
   一方、趣味は多趣味だった。岩倉さんが碁敵であった。対局は昼休みを利用して毎日行われた。しかも、1局の所用時間が短く、昼休み中に2局も3局も戦っておられた。勝負が昼休み中につかないときは碁石の配置をそのままにして保管し、勤務時間外に持ち越して戦っておられた。両先輩の対局は毎回大勢の観客を集めた。麻雀も職場の仲間と盛んにされていた。大勝ちされたり、大負けされたりしたという噂は聞いたが、詳細は承知していない。カラオケも上手で、私はいつも野口さんに「いい日旅立ち」をリクエストした。

3  野口さんはその後、松山地方法務局の供託課長に異動された。供託事務を行う傍ら、国立愛媛大学では教鞭をとられてもいた。職員との交流も盛んだった。四国八十八カ所の札所を自家用車でお参りされたとか、得意の囲碁では局内で優勝されたということもお聞きした。松山局勤務を終えて再び民事局に帰ってこられてからは、登記事務のコンピュータ化に尽力された。当時の民事局・法務局の最大の課題は登記事務のコンピュータ化であった。特に、予算要求における最重要の課題は、コンピュータ予算の確保であった。野口さんはこの事務の実質的な責任者であり、中心的・精力的に働いておられた。膨大な資料の作成や関係省庁や多方面に渡ってコンピュータ化制度の必要性等を説明するなど、まさに獅子奮迅、の活躍であった。

4 法務局を退職後も、超繁忙庁の公証人として活躍された。私も公証事務の疑問点について数々の教えを頂いた。公証役場の事務が繁忙であるにも拘わらず、適切で素早い回答を頂くと共に、資料等を送付して頂いた。その後、当協会の初代理事長として活躍されたことは会員の皆様がご存じの通りである。総会や理事会の運営、研究会だよりの編集、納税や登記関係、ホームページの管理等大変な業務を熱心に努められた。これらの仕事はすべてボランテイアとして精力的にこなされた。まだ数ヶ月しか経っていないが、未だに亡くなれたことが信じられない。長い間お世話になったお礼を述べる機会もなく亡くなられてしまった。
今はただ衷心よりお礼を申し述べ、ご冥福をお祈りいたします。
野口さん、ありがとうございました。                了

四万十暮らし(竹中 章)

3年前、神奈川の自宅からJR、私鉄、羽田空港から航空機、高知駅からJR、そして第三セクターの土佐くろしお鉄道と乗り継ぎ、約7時間をかけて四万十市へ到着(乗り継ぎが悪い時間帯を利用してしまったようです。)、首都圏から高知県西端の町まではいかに遠いかを実感した次第です。
1 土佐の小京都 中村
 四万十川流域は平成21年、流域全体が文部科学省の「重要文化的景観」に選定されています。中村は、市街地が四万十川と後川に囲まれ、京都鴨川と東山の地形的に似ており景観に恵まれているだけでなく、歴史的にも室町後期に一条家がこの地に入り町が形成されてきたことから、昔から土佐の小京都と呼ばれています。
 関白一條教房が応仁の乱の戦乱の際、1468年に中村の地に下向し、その後、戦乱が終結してからも京都には帰らず幡多の庄(荘)を直接支配することで京都の本家を再興する道を選んだということのようです。
 高知の西端、四万十・宿毛・土佐清水付近は「幡多地方」と呼ばれています。この付近は中世の頃、「幡多の庄」と呼ばれ、一条家の荘園があったそうです。一條教房が中村までやってきたことについては、諸説あるようですが、戦乱を逃れてきたことには間違いないようです。ただ、戦乱を逃れるためであれば、何も遠方の土佐の西端まで行くことはないと思いますが、一説では、戦乱によって畿内や付近の荘園からの年貢が入らなくなって、苦しい一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっている「幡多の庄」を回復して、荘園としての実績を挙げようとしたとのことです(中村市史より)。
教房、その子房家は、中村の町づくりに励み、鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などがあちこちに残っており、大文字の送り火など、京文化の名残もあります。一昨年(2018年)は、一条家が応仁の乱を機に下向して以来550年を迎えたことから、年間を通じて「土佐の小京都550年祭」が開催されました。

2 四万十の気候
 高知県といえば温暖な気候と思われがちです。
 しかし、当所に赴任してから毎年のことではありますが、今夏も梅雨明け後猛暑に襲われました。平成25年8月には、西土佐地区で41℃台を記録し、それまでの日本の最高気温の記録を塗り替えるなど、観光地として以外でも有名となったところです。今年も、8月に入ってからは3日連続、通算4回も最高気温日本一となるなど、NHKの全国放送などで何回も報道されました。今夏、四万十市内で35℃以上の猛暑日となったのは26日間、かなり耐え難い日々を送ってきました。また、冬は雪はあまり降らないもののことのほか寒く、1月の平均気温は0℃台となっています。
 高知県西南端の土佐清水市は、夏の平均気温は30℃に達しておらず、今年も35度を超えた日は1日しかありません。冬も氷点下に下がることはほとんどなく1月平均気温は5℃台であり、過ごしやすい所のようです。ところが、土佐清水市に隣接しているにも関わらず四万十市は地形のせいでしょうか、冬は寒く、夏は暑く、とても温暖な気候であるとは言い難いところです。ただ、山紫水明の美しい景観に恵まれたところです。

3 新型コロナ禍
 幡多地方には史跡や歴史を感じさせる地域の催し、また、金剛福寺(四国八十八箇所38番札所)、延光寺(同39番札所)、四万十町には岩本寺(同37番札所)、愛媛県愛南町には観自在寺(同40番札所)があります。四国最南端の足摺岬、最後の清流と言われる四万十川の数多くの沈下橋、柏島では沖縄より素晴らしいともいわれる海底まで透き通る海水など、いろんな景色を楽しむことができます。着任以来、時間を見つけては、これらに足を運び、また、途上にある「道の駅」を訪れ地元の物産(主に農産物)を購入するなどして観光を楽しんでいました。
 しかし、新型コロナウイルスの感染の蔓延、特に「幡多地方」においては3月末に最初の感染者が確認されて以後、一気に20人を超える感染者が発生しました。10万人当たりに換算すると30人近くに上り、東京都に匹敵するような状況となりました。今は落ち着いているものの、新型コロナ感染発生以来出歩くことは避け、「幡多地方」から外へ出ることはもちろん、市内から出ることもせず、ほぼ職場と家と間の往復のみとなり、休日は家に籠もる生活となってしまいました。
 役場では受付、打合せテーブルはアクリル板で仕切り、来客にはマスクを着用して対応し、来客後はドアノブ、テーブルなどのアルコール消毒、換気を行い、十分なコロナ対策をしているところです。早く収束することを願っています。

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