向暑の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
例年より大幅に早く梅雨明け宣言が出され、真夏日や猛暑日が連続して観測されるなど、今年の夏は暑くなりそうですので、体調の維持に十分ご留意願います。(YF)
今日この頃
このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。
私と運動(松尾泰三)
昭和48年夏。場所は和歌山県橋本市立橋本中央中学校の野球グラウンド。夏の中学校野球大会(いわゆる中体連)の郡内予選2回戦。1点リードで迎えた6回裏相手方の攻撃。ツーアウト満塁。バッターの打った打球は平凡なショートゴロ。遊撃手はそのボールを慎重にキャッチし、一塁に送球。しかし、肩に力が入ったのか、一塁手の手前でショートバウンド後逸。ボールは転々と外野のファールグラウンドへ。走者が一掃し、その試合は逆転負け。そう、その遊撃手はもうお分かりでしょうが、私です。
三年生の夏、苦しくも楽しかった3年間の野球部生活が終了した。「もう二度と野球はやりたくない!」、「二度と団体スポーツはやりたくない!」と強く感じた(ただし、昭和62年に本省に転勤し、本省内レクリエーション野球大会に参加したとき、エラーして当然との雰囲気の中で、参加者みんなが協力し盛り上がる体験を得て、団体スポーツとしての野球の楽しさを改めて実感させていただいた。)。
「団体スポーツはしない。」、「野球はしない。」との思いから、高校で陸上部に入部した。確かに駅伝、リレー競技は別にして、基本的には個人競技であり、野球のような細かな技術は求められない。いかに人よりも早く走るかという、極めてシンプルな競技に思えた。しかし、陸上部監督は、箱根駅伝の経験があり、10000メートル走の県内記録を持った副担任で、練習は非常に厳しかった。長距離走の練習には付いて行けず、また、短距離走としての脚力も十分ではなかった。競技では、長距離走、短距離走の出場ではなく、中距離走(主に800メートル、400メートル)に参加したが、インターハイ、国体の県内予選では、一度も第一次予選を通過することができなかった(中距離走には、長距離走と短距離走の両方の能力が備わっていないとできない難しい競技であることを実感した。)。「相手と競い合う苦しいスポーツはやりたくない!」と強く感じた。
その後、陸上部を退部して以降、法務局に採用されてからも特に運動らしい運動はしなかった。むしろ、マジック(民事法情報研究会だより№40 MY HOBBY参照)やイラストといった文化系の趣味を楽しんだ。
昭和59年4月。局内では鉄人ランナーと言われていた先輩と同じ係となった。穏やかな口調で、いつも前向きな話をされていた。その先輩から、結果的に走る楽しさを教えていただいた。最初は、誘いを拒否していたが、何度も誘われ、それではと歩くような速さでジョギングを始めたのが、時々昼休みに大阪城公園を走っているうちに毎日走ることとなり、いつのまにか公園内周回コースの自己記録更新を目的とした走り方になっていた。相手と競い合う苦しいスポーツはやらないはずであったのが、記録更新が刺激となり、時には昼休みの限られた時間内に、実業団チームに交じって1500メートル走のインターバル3本といった練習を行っていた。休日には、各地でのマラソン大会に参加し、自己記録を更新することに喜びを感じていた。
昭和62年4月に本省に転勤して以降も、昼休みに皇居の周回コースを走っていた。民事局で勤務していた頃、直属の上司であった総括補佐官が笑いながら「松尾君、かく汗が違うのではないか。」と言われた(このコメントは使えると思い、その後、何人かの後輩に対して使わせていただいた。)。しかし、その後、繁忙を理由として怠け心が芽生え、徐々に走る機会が少なくなり、自己記録更新を狙う意欲もなくなっていた。
転機は平成21年4月の奈良局への転勤であった。休日は、奈良公園内を自由に走り回り、若草山山頂や、平城宮跡、山辺の道へも走りに行った。走る意欲が戻ってきて、観光を兼ねた新たな走り方を実感することができた。しかし、その頃からか、徐々に膝に痛みが出始め、医者の判断は「軟骨のすり減り」とのことであった。
平成29年度に職場の駅伝大会に参加し、無理をしたのが原因で膝の痛みが増し、ジョギングすらできない状態となった。翌年度の髙松では、ジョギングが無理であればウオーキングに切り替えるしかないと、宿舎近くの栗林公園内を数多く歩いたが、膝の回復には至らず、ウオーキング中でも膝の痛みが消えることがなかった。
退職後、朝のラジオ体操と、軟骨近くの筋肉を鍛える目的で、椅子に座り足首に重りを巻いた状態で膝を交互に伸ばす運動を毎日継続して行った。2年ほど過ぎた頃、ようやくウオーキングでの膝の痛みは解消し、わずかの距離ではあるが、ジョギングもできるようになってきた。
今は、小山市内でいくつかのウオーキングコースを設定し、休日はもとより、平日も歩く機会を作っている。「団体スポーツはやりたくない!」とか「相手と競い合う苦しいスポーツはやりたくない!」と感じていた頃は、今思えば体力が有り余っていて、体力の衰えなんか全く念頭になかったのだろう。確かに満足なジョギングができないことに多少寂しい思いもあるが、「一人で」、「誰とも競い合うことなく」、「楽しくのんびりと」ウオーキングをすることができている。これからも、自分の体調に合った運動を見つけ出し、いかに健康年齢を延ばしていくかを考えている今日この頃である。
(松尾泰三)
銚子あれこれ(岩本尚文)
昨年の秋から銚子で生活を始めて1年も経っていませんが、日々の生活を書き連ねたいと思います。
1 強い風
意外に思われるかもしれませんが、テレビの天気予報を見ていますと、銚子の夏は都心より3~4℃涼しく、反対に、冬は3~4℃暖かい予想気温となることが多いようです。この点、銚子は住みやすい所かな、と思われます。
ただ、風が強いのには閉口します。昨年10月1日、大型で非常に強い台風16号が接近し、朝の全国ニュースでは「ここ八丈島では最大瞬間風速40メートルに達しています」と実況中継されていました。しかし、銚子は41.8メートルの暴風雨でした。
その日は、遺言の作成が午前と午後に1件ずつ予定されていました。16号は避難指示も必至、と予想されていましたから、前日の9月30日に、遺言者に延期の確認をしたところ、午前の予定者は「台風の中を高齢者は役場まで行けそうにありません」、一方、午後の予定者は「明日の天気を見てから決めます」という返事でした。ひるんだ私は、台風の銚子最接近は翌1日午後と聞いていたので、作成するにしてもキャンセルで空いた午前に変更を打診したところ、幸い了解を得ることができました。ところが、その案件は出張遺言だったことを思い出し、再び気落ちしたものの、台風の状況次第で遺言者が翻意してくれることを期待することにしました。
翌朝、台風の威力は増しており、関東では屋根の飛散や倒木が発生、航空機や船舶は欠航、停電も相次ぎました。出発前に改めて確認の電話を入れたところ、やはり「今日お願いします」。覚悟を決めて豪雨の中を車に乗り込み、一路、老人ホームに向かいました。運転中、空からの雨と道路からの水しぶきがウドンのようになってフロントガラスを叩き付けます。ワイパーは全く利きません。ハンドルを握る両手は痺れました。ようやく到着し、手続きを終えた後には遺言者家族から感謝され、えも言われぬ充実感を得ることができましたが、同時に、開けた車のドアが横殴りの雨のために閉まらない、という貴重な経験も得ることになった往復74キロの出張でした。
銚子は外洋に突出して周囲に高い山がないためか、年間の3分の1は風速10メートルの風が吹いているそうです。銚子沖やキャベツ畑(ちなみに春キャベツの生産量は日本一)に多くの風車が設置され、風力発電が営まれている様子は、引っ越してきた当初はやや違和感を覚えましたが、ECOやSDGsの面でヨーロッパでは標準となりつつあるようで、いずれは日本各地でも当たり前の景観になるのかもしれません。
銚子に来てから3か月の間に、ビニール傘2本と折り畳み傘1本がおちょこになって使えなくなりました。これに懲りた今は、耐風性の傘(強風を受けるとすぐおちょこになり骨を折らずにすむ傘)を愛用しています。
2 銚子電鉄
市内と犬吠埼を結ぶ銚子電鉄(通称銚電)は、レトロ感溢れる様子から全国の鉄道マニアに親しまれ、休日には撮り鉄の姿もよく見かけます。ただし、レトロには訳があって、経営難でリニューアルする財源がない、というのが実情のようです。車輌は他社のお下がり、全長6.4キロの短めな沿線に10ある駅舎は概ね老朽化、自宅近くの仲ノ町駅舎に至っては築100年です。
コロナ禍と相俟って銚電の赤字は今も予断が許されないようですが、どうやって経営を維持しているのでしょうか。実は、売上の7割は副業収入で、有名なところでは「ぬれ煎餅」や、味ではなく経営が「まずい棒」を販売しています。先日、仲ノ町駅を覗いたところ、赤ボールペンと赤色シートが袋詰めされて「赤字が消える暗記セット」として販売されていたので、私も銚電の赤字を消したい思いで購入しました。
もはや何でもありの銚電は、笠上黒生(かさがみくろはえ)駅の名前を髪毛黒生(かみのけくろはえ)としてシャンプーメーカーに売り、昨年は映画「電車を止めるな!~のろいの6.4㎞~」を製作して、収益の増加を図りました。先日も歌手のきゃりーぱみゅぱみゅを招いてコラボ企画が実施され、観音駅がピンク色に染まった様子が報道されました。
今年のGWに鎌倉へ出掛けてきました。街を走る江ノ電は、銚電と同じ単線で、路線距離、駅数、車輌の外観、そして沿線の様子、どれを取ってもさほど変わりはありません(と思いたいです)。銚電には、これからもユニークな活動を元気に展開して、江ノ電を目指してもらいたいものです。皆さんも銚電に乗車して、一番の人気区間「緑のトンネル」を満喫してみてはいかがでしょうか(あっという間に通過するので瞬き厳禁)。
3 地名の由来
初めてJR銚子駅に降り立ち、大通りを少し歩いた時のことです。目の前に水面と沢山の漁船が見えて来たので、てっきり太平洋かと思いましたが利根川でした。川沿いに「銚子漁港」の看板が見えたのは、川のすぐ先が太平洋だからでしょう。
国内最大の流域面積を誇る利根川は、なぜか河口付近の幅は狭くなっていて、川の流れが海に注ぐ様子は、あたかも酒器の銚子の口から酒が注がれるように見えます。そこで、銚子という地名になった、と言われています。これは当地に限ることではなく、川の出口が狭くなっている場所は銚子と付く地名が多いようです。もっとも、今は居酒屋でお銚子を注文すると徳利が出て来ますが、これは酒を注ぐという機能が同じだから、とのことです。
巧打篠塚(元巨人)、豪腕土屋(元中日~ロッテ)を擁して高校野球で優勝した銚子商業の活躍(昭和49年)や、視聴率が55パーセントを超えた朝ドラ「澪つくし」の放映(昭和60年)で、銚子の名は全国で認知されていると思っていましたが、先日、テレビ番組で出演者が「千葉県のちょうし」の漢字を「頂子」や「調子」とフリップに書いたときは、前につんのめりそうになりました。
4 千葉市の次!?
コロナがなかなか終息しません。毎朝、新聞で県内の状況をチェックしていますが、市町村ごとに感染者数を掲載する一覧表に銚子市は千葉市の次に掲げられています。なぜ、県庁所在地の次に記載されているのでしょうか。
単に市町村コードの順番にすぎない、という考えは置いといて、その理由を江戸 時代まで遡って調べたところ、当時の銚子は、現在の千葉県東部から茨城県南部一帯の社会経済の中心地であったことが浮かび上がってきました。
以前は江戸湾(東京湾)に流れていた利根川が、徳川家康によって現在のような太平洋に注ぎ込む流れに移されたのをきっかけに、銚子がクローズアップされました。当時の経済の中心は米でしたから、全国各地で生産される米を、いかに早く大量に江戸まで運ぶか、これが大きな問題とされていたのです。そこで、江戸と銚子を結ぶ利根川水運路が整備され、さらに、東北の天領米は銚子経由で江戸に輸送するとされたことで、銚子は、江戸と東北を結ぶ一大物流拠点として大いに発展したようです。
その後、鉄道や自動車の発達で利根水運は役割を終え、銚子の繁栄も一旦は終止符を打ちますが、それからは醤油醸造が隆盛しました。また、銚子漁港は今も全国一の水揚げ量を誇っています。銚子に県内で最初の商工会議所ができたのも頷けるところです。
なお、市内の飲食店には必ずと言っていいほどヤマサとヒゲタの醤油が両方置かれており、キッコーマンはあまりお見かけしません。
銚子のスーパーには新鮮な魚が豊富に並んでいます。魚料理の経験はほとんどありませんでしたが、今では鰯の蒲焼きやメヒカリの唐揚げに挑戦して、美味しく頂いています。風光明媚な土地で生活できることを幸せに思いながら、今日も執務に励みたいと思います。(岩本尚文)
北(見)の国から(髙橋 誠)
公証人に任命され、1年8か月が過ぎようとしていますが、いまだにあたふたし、諸先輩や同期の皆様の教えをいただきながら業務を遂行している毎日です。そんな折、原稿の依頼をいただきましたが、知識も乏しくまた本誌に掲載できるような事案や経験もないことからお断りしようとも思いましたが、気軽な近況報告でよいからとのことでしたので、お引き受けした次第です。ということで、皆様には気軽に読み飛ばしていただければと思います。
1 北見のご紹介
北見公証役場が所在する北見市は、北海道の道東と呼ばれる地方にあります。最寄りの法務局は釧路地方法務局北見支局となります。支局の管轄区域を公証人の職務エリア(公証人の職務執行区域という意味ではありません。)とすれば、支局の管轄市町村数は2市11町あり、管轄内住民登録人口は令和4年3月31日現在で、234,690人。うち北見市が約11万4千人、網走市が約3万3千人です。管轄総面積は7,785.28平方キロメートルあり、静岡県とほぼ同じ広さがあります。また、 北見市の東西に延びる道路の距離は約110キロメートルで、これは東京駅から箱根までの距離に相当します。このように、職務エリアが広大かつ公共交通機関の便もよいとはいえないこともあり、出張の際には自家用車を使用していますが、片道1時間以上となることもあります。
気候は、一日の中でも寒暖の差が大きく、1年を通して1日の気温差が20度を超えることもあります。真夏には30度を超える日も多くあります。冬期間は、晴れる日が多く、積雪量は私の自宅のある山形市と同じくらいですが、放射冷却現象のため、連日氷点下20度を下回ります。子供の頃何かで見た記憶で厳寒の中で湿らせたタオルを振り回したら聖火のトーチのように立ち上がったことを思い出し、厳冬期の早朝に湿ったタオルを振り回したところタオルがトーチ状になり感動しました。この体験は、網走市にあるオホーツク流氷館で1年中体験できます。職場へは、出張案件がない限り徒歩通勤(約18分ほど)をしていますが、真冬の通勤は、冷気が額や頬に痛いように突き刺さり、涙目になっています。道路は積雪路ありアイスバーンありで、車で出張した際にスリップを経験したことから、前輪駆動車から四輪駆動車に替えました。その際、車のディーラーのセールスの方の話ですが、こちらでは二輪駆動の需要はほとんどないとのことでした。
産業として、生産量日本一のタマネギのほかビート(てん菜)、ジャガイモ、小麦、小豆などの畑作、乳牛・肉牛の肥育。漁業ではホタテや鮭・鱒・毛ガニ・牡蠣・ウニなどがあげられます。また、北見は戦前世界の7割を生産したハッカで栄えた町です。現在はハッカの生産はわずかとなっていますが、当役場の近くにハッカ記念館とハッカ蒸留所(下の写真、編注:省略)があり、北見におけるハッカ生産の歴史の紹介とハッカオイルやハッカオイルを使用したハンドクリームなどの製品を販売しており、ハンドクリームは制作体験もできます。
食として、北見市は焼肉の町として売り出しています。人口当たりの焼肉店が北海道No.1ということで、確かに焼肉店の数は多いです。そのほか、ジャガイモのお菓子の「ほがじゃ」やポテトチップスを作っている湖池屋、カーリングのロコソラーレがもぐもぐタイムで食べていた「赤いサイロ」(ちなみにロコソラーレは北見市の常呂(ところ)地区のチームです。市内には、カーリング場が何か所かあり、カーリングの体験もできます。)。サロマ湖でとれるホタテ、ホタテの入ったあんかけ焼きそばや干し貝柱ラーメン、オホーツク海の毛ガニなどおいしいものがたくさんありますが、私の一押しは、日本一の生産量を誇る名産のタマネギを使った「たまコロ」、タマネギを使ったコロッケです。このコロッケはジャガイモを一切使わず、甘くなるまで炒めたタマネギとツナ・ニンジン・マヨネーズを餡としたコロッケで、タマネギの甘さと旨みがギュッと詰まったイッピンで、2016年の「全国コロッケフェスティバル」で優勝しています。
2 公証役場移転
私は、令和2年8月から勤務をしておりますが、役場(以下「旧役場」という。)の入っているビルが都市再開発計画(計画期間令和4年度~)地区に入っており、そのため、前任の先生までの事務所の賃貸借契約期間は3年でしたが、私が結んだ賃貸借契約期間は、令和4年10月末までの2年3か月というものでした。そこで、移転先を探すことが着任当初からの懸案でした。旧役場は北見駅から徒歩5分ほどのところにありましたが、カーナビの案内では役場駐車場の入口がない道路からの進入を案内することもあり、所在地の問合せの回答に時間を要することもありました。そこで、役場所在地の案内も容易で、公共交通機関等の便もよいところを候補と考えていました。その頃、北見市役所の一部機関が北見駅すぐ横にある以前「東急百貨店」が入居していたビル(ビル名称:まちきた大通ビル パラボ。以下「パラボ」という。)の4階・5階を仮庁舎として使用しており、市役所新営庁舎は、パラボの西側に2階部分で渡り廊下(スカイウォークと言っています。)によりパラボとつながる形で建設中でした。市役所がパラボから退居後のフロアに当役場が入居できたらなと考えていたときに、令和2年9月の市議会だより(市広報とともに各戸配布)に市役所の新営庁舎での業務開始(令和3年1月)後に、市役所退居後のパラボの利活用に関する質疑応答が掲載されていました。市の回答は、「フロアに民間テナント誘致を考えているが、新型コロナ感染症の影響拡大などで新規出店を控える動きが見られることから、テナント誘致は難しいと判断し、今後は公共的施設の配置を軸として検討したい。」とのことでした(なお、パラボのビル所有者は北見市で、株式会社まちづくり北見が管理運営をしています。)。これを読んですぐ(令和2年9月1日)に市役所の担当部署に当役場入居の可能性について打診したところ、9月16日に回答があり、パラボへの民間の入居希望状況や市の機関の入居計画が現時点では固まっていないので、役場移転時期が近くなったら再度連絡をいただきたいとのことでした。そこで、令和3年中の移転を考慮し、令和3年度になってから市の担当者に再度入居について照会しました。その結果、令和3年4月8日に市役所担当者から入居意思に変わりがないかの確認があり、4月19日、パラボの管理会社に電話をするよう連絡がありました。翌20日はパラボが休業日であったことから、管理会社には21日に連絡したところ、入居オーケーとの回答でした。市役所が退居した後ですので、入居スペースの現状確認の上、内装のリフォームや書庫の設置、室内レイアウトの検討、電話回線の引き込み、引越業者の選定、旧役場の原状回復手続、挨拶状や広報関係、各種ゴム印や封筒などの消耗品の発注、法務局への移転認可申請、日公連への連絡、電子公証システム移設手続など諸々のスケジュールを策定し、令和3年12月4日(土)に引越、6日(月)から新役場での業務開始となりました。引越当日は思わぬアクシンデントもありましたが、6日朝に電子公証システムの疎通が確認できたときはホッとしました。
写真手前(編注:省略)の赤地にParaboと白文字で書いてある看板の付いているビルの5階に当役場があり、同フロアには北見市雇用・就業サポートセンターや民生委員児童委員協議会、北見市消費生活センターなど公的機関が多く入居しています。地下1階から3階までは食料品・衣料品・服飾雑貨等のテナント、4階が新型コロナワクチンの集団接種会場、6階がレストラン街です。
写真(編注:省略)奥の白いビルが北見市役所で、壁にはロコソラーレの北京オリンピック銀メダル獲得のお祝い懸垂幕が下がっています。移転後の役場は、駅から徒歩2分、バス停はビルの目の前(9月からバスの車内広告で、「パラボ5階 北見公証役場へお越しの方は、こちらでお降りになると便利です。」とのアナウンスを流すことにしています。)です。役場所在地の問合せにも、「パラボ」あるいは「旧東急百貨店」と伝えれば事足り、案内する手間が随分と省力されました。また、駐車場も広くなり市役所も隣ですので、便利になったとのお話しを嘱託人の方からいただいております。
新型コロナ感染症の心配はまだ続いてはおりますが、北海道はこれから夏の観光シーズンを迎えます。知床観光船の痛ましい事故はありましたが、世界自然遺産「知床」もあります。私は、まだヒグマには出会ったことがありませんが、エゾシカ、エゾリス、キタキツネには何度か出会っています。誌友の皆様、機会がございましたら道東観光にもお越しください。(髙橋 誠)
公証役場移転に要した6年間(田畑恵一)
1 はじめに
昨年5月に当役場を移転してから早1年が経過しました。
移転後の事務所は、伊那市の中心街に位置し、JR伊那北駅から徒歩5分と立地条件に恵まれ、さらに、交通が不便な地方都市にあって、市内循環バスの停留所が目の前にあり約10分間隔で運行されていて、非常に利便性が高いものとなっています。また、国道を隔てた反対側には、金融機関の支店が3店舗もあり、コンビニエンスストア、ファミリーレストランや飲食店が軒を並べていて、お客様に限らず当役場に勤務する職員にとっても大変よい環境にあります。
着任以来、長年の懸案であった役場の移転に際し、関係者各位の理解と協力により実現できたことに、心から感謝しているところです。
そこで、役場移転に要した6年間の経緯と現状や課題などについてお話しさせていただきたいと思います。今後、役場の移転を計画されている方の参考になれば幸甚です。
2 入居建物について
当役場が入居した「福祉まちづくリセンター」は、伊那市が所有する建物ですが、主に高齢者や生活困窮者、障害者の権利擁護など、「福祉の総合相談と支援」を行うため、市の「福祉相談課」と「伊那市社会福祉協議会」がここで業務を行い、隣接する保健センターの「伊那市子ども相談室」との連携体制の強化を図る目的から新築されたものです。建物全体がバリアフリー化されており、また、市民が気軽に交流のできるスペースや貸館として、研修室等が8室整備され、情報・交流コーナーや軽食・喫茶コーナーもあります。地元産の木材をふんだんに使ってあり、温かみと安らぎのある雰囲気とともに、ペレットストーブ、木製家具を置<ことで、木のぬくもりに触れることができる施設となっています。 さらに、LED照明の使用や太陽光発電施設と蓄電池が備え付けられ、二酸化炭素の排出軽減と緊急時の電源確保もされています。駐車場は約100台の駐車が可能となっています。
竣工は、昨年3月31日を予定していましたが、実際に全ての工事が完了したのは4月中頃でした。総工費約10億3000万円、鉄骨造、3階建、延床面積2504.32㎡で、当役場は3階に入居しています。
3 旧役場の状況
旧役場は平成3年4月から使用が開始され、当職を含め4人の公証人が30年にわたり使用してきました。
当職は、平成27年6月に当役場に着任しましたが、退職後2か月という短期間での着任であったため、事務引継のための様々な手続に忙殺され、事務所の移転は全く念頭にありませんでした。着任前に勉強のためお邪魔した複数の先輩公証人の方々から、伊那公証役場は高齢者や障害のあるお客様にとって非常に不便で利用しづらく、プライバシーが守られない事務室との指摘を受けるとともに、速やかに移転を考えるべきとのご意見をいただきました。
確かに、先輩方のご指摘どおり、築50年ほど経過した建物の2階に事務所があり、エレベーターがなく、また、約45度の急角度の階段を上り下りしてもらうため、常に転落の危険性があったことから当職が付き添っている状況でした。さらに、障害のある方にとっては、階段を利用することは不可能であり証書作成の障害となっていました。そこで、同ビルのオーナーに対して1階にある空き室(旧寿司チェーン店の調理室)をお借りできないかと相談したところ、利用する予定もないこと及び入居希望者があった場合は速やかに退去することを条件に快く承諾してもらい無償でお借りすることができました。無償とはいえ事務室として利用するためには一部改造する必要があり、多少の出費はありましたが車椅子に乗ったままで入室ができ、危険な階段を利用しなくてもよくなったことから、お客様の評判は上々でした。
2階事務室内については、台所、トイレを含め50㎡と決して広くないため、1階の別室を確保するまでの間は、待合室もなく、パーテーションで区切られた場所で相談・証書作成を行わざるを得ず、プライバシー確保に大変苦慮していました。また、書庫とは名ばかりで、パネルで仕切った簡易なもので、およそ耐火構造とはなっていませんでした。さらに、2階部分がせり出している構造になっていたため、支柱のない部分が沈下し床が傾斜している状況にありました。
駐車場に関しては、入居している事務所の共用として3台程度しかなく、駐車スペースが少ないとの苦情や、隣の空き地に無断駐車し管理者からお叱りを受けることがしばしばありました。
4 移転の経緯
着任から半年後、仕事にもある程度なれてきたことから本格的に物件探しをすることを決意し、不動産業者、司法書士、行政書士、建築会社、設計会社等に情報の提供をお願いするとともに、知人を通じて商工会議所にも直接出向いて交渉を行うなど、空き時間を利用しては市内の空き店舗を見て回りました。
伊那市の中心街は天竜川(別名、暴れ天竜)の両岸に形成されたもので、過去には堤防の決壊による水害が度々発生し、幾度となく避難命令が発せられており、利用者及び職員の安全確保、重要な帳簿類の管理が確実にできることが要求されます。そのためには、2階以上の堅牢な建物に移転する必要があり、さらに、エレベーターが完備されている必要がありました。その間、各方面から様々な情報をいただき現場に赴きましたが、条件に合う物件は見つかりませんでした。
移転先を探し始めて約1年後、司法書士を通じて、社会福祉協議会の入居している市所有の建物(旧市営病院跡)が老朽化により建て替えられるとの情報がもたらされたため、早速、市長にアポを取り、新築建物に当役場を入居させていただきたい旨のお願いをしました。当職からの要望に対して、大変ありがたいことに、弁護士会、司法書士会、行政書士会が三者の連名による陳情書を市長に対して提出いただけることとなり、市議会議員からの働きかけもいただきました。
要望から半年間、市からの連絡が全く無かったため関係者に聞いたところ、予算不足により新築はせず耐震工事を行う方針に変更されたとの情報を受け、役場移転の夢は潰えたかに思われたところ、平成29年6月頃、耐震工事は不可能との判断がなされ、新築することに決定されたとの朗報が舞い込んできました。
しかしながら、市関係以外の機関が入居するためには市議会の承認が必要であり、当役場以外の希望する機関については反対の声が出たとのことでしたが、当役場の入居については反対する意見はなかったとのことでした。
5 建築に当たっての要望事項
平成30年7月から設計に入り、平成31年3月に設計案が示されましたが、入居予定の3階には当役場以外の入居はなく、研修室、書庫、更衣室のみでしたが、当役場の位置はエレベーターから25メートルも離れた隅に配置され、階下は調理室となっていたため、お客様の利便と防火上の観点から配置場所の変更を強くお願いしたところ、エレベーターのすぐ脇に変更してもうことができました。また、事務室の面積についても拡張のお願いをしたところ、約62㎡を確保することができました。
新事務室内のレイアウト・仕様については、当職による自由設計が認められ、工事は市の予算で実施してもらえることになり、次の要望を提出させてもらいました。
①床はバリアフリーを基本とし、OAフロア(フリーアクセス)にすること、②防音・採光に配慮した相談・証書作成室を設けること、③書庫は防火仕様とし、耐火扉にすること、④事務室が狭いことから、書庫を除くドアはスライド式にすること、⑤電話回線は2回線取り出せる仕様とすること、⑥事務室入り口について、設計段階では車椅子での出入り及び機器搬入に支障があるため、最低でも1200mmとすること等をお願いしたところ、全ての要望をかなえてもらいました。
6 移転作業
移転時の作業をスムーズに行うためには荷物を極力少なくする必要がありました。そこで事前作業として保存簿との突合作業を実施し、保存期限を過ぎた帳簿類や不要物品の廃棄作業を行いました。
具体的な移転手続に当たっては、直前に移転を経験された先輩公証人からご指導をいただきました。
反省すべき点として、移転に合わせて電話回線をADSL回線(2回線分割)から光回線に変更したため、本来2回線設置すべきところ、1回線のみを設置するというミスを犯してしまい、移転当初は電子認証が行えず、近くの公証人にお願いする事態となり、お客様には多大な迷惑をかけてしまいました。また、パソコン・コピー機等の精密機械の移設、設置については、納入業者にお願いしましたが、祝祭日は完全休業するとのことであったため、旧役場での業務終了後に機器の移送のみをしてもらい、新役場における各種機器の設置、配線作業は自ら行わざるを得ず大変な苦労をしたところです。
なお、参考までに、移転に伴う手続の概略は次のとおりです。
伊那公証役場事務所移転作業計画一覧 (編注:省略)
7 新役場の状況
移転後の事務室は3階ではありますが、エレベーターを降りてから事務所入り口まで2メートル余りで、お客様に負担をかけることもなく大変わかりやすい配置となっています。
事務室内に独立した相談室・証書作成室を設けたことから、プライバシーの確保という問題も解決することができました。
本建物は、コロナウイルスの渦中に新築されたこともあり、ウイルス感染対策として24時間換気システムが導入されており、利用者、職員ともに安心して相談、対応ができています。何より、厳寒の中、窓を開けての換気が少なくてすむことから大変助かっています。また、書庫を除く全ての床をOAフロア(フリーアクセス)にしてもらったことから、新たな機器の設置やレイアウトの変更など、将来に向けた柔軟な対応ができるものとなっています。
なお、役場案内板については、市において作成してもらいましたが、景観条例による制約から文字が小さく、お客様から全くわからないとの意見をいただいたため、市の許可を得て事務所の窓ガラスに公証役場の表示をさせてもらいましたが、根本的な解決には至っていないことから、今後、市との協議を継続していくこととしています。
8 お客様の声
移転に際しては、市町村の広報誌、地元新聞、タウン誌等に掲載するなどの広報を行うとともに、旧役場に移転先の張り紙もしましたが、知らなかったというお客様も多く、中には、「旧役場に行ったところ、もぬけの殻であった。夜逃げでもしたのかと思った。」などと冗談交じりの厳しいご意見もいただき、より一層の周知を図る必要性を感じています。
事務所に関しては、「以前は駐車できず困っていたが、駐車場も広く利用しやすくなった。」「事務室も明るく広くなった。」「エレベーターから近く大変ありがたい。」「個室が用意され相談しやすくなった。」「市福祉課と社会福祉協議会もあり、福祉関係の相談も一度にできてありがたい。」などのご意見をいただき、様々な苦労はありましたが、「移転して本当によかった」としみじみ感じています。
9 終わりに
新しい事務所は、お客様の利便向上とプライバシーの確保を図るという目標が一定程度達成できたものと考えます。今後も、満足することなくお客様の声に耳を傾け、さらなる改善に取り組んでいきたいと思います。
昨今、経済界や政界からは公証人に対する厳しい視線が向けられており、公証事務を取り巻く環境もますます厳しくなりつつあります。今後とも、相談しやすく、懇切丁寧で迅速な対応を心がけ、親しまれ、信頼される公証人・公証役場を目指して頑張っていきたいと考えています。
最後に、このたびの役場移転に際しては、様々な方からご支援・ご協力をいただきました。本誌をお借りして、厚く御礼申し上げます。(田畑恵一)
新城での日々(境野智子)
新城公証役場に赴任して3年目の春を迎えています。
3年目になりましたが、まだ日々悩みながら事件に向き合っている状況です。
1年目は、会議等で、先輩の皆様にお会いする機会も得ましたが、程なくコロナ禍となり、なかなかお会いする機会もなく、残念です。
緊急事態宣言が発令された2020年のゴールデンウィーク期間は、帰省もできず、なんてつまらないものになるのかと期間が始まる前は落胆しました。県の要請どおり、どこにも出かけず、ずっとマンションで過ごしましたが、本や食材等を十分用意して、好きな時間に好きなことができるというのは、外に出なくても楽しく過ごせるのだと思いがけず快適でした。その後の緊急事態や蔓延防止の時もマンションこもり生活で過ごしていますが、狭いベランダに椅子を出して本を読むと日のひかりで本も読みやすく、これも新しい発見でした。
新城市は、愛知県でも静岡県寄りに位置しています。新東名高速道路の新城インターがあるので、東名高速道路だけのときより、大変便利になったようです。
そんな新城市で出会えたことがいくつかありますので、つらつらと書かせていただきます。
大家さんと知り合ったこと
新城公証役場は開設以来、同じ大家さん(女性、現在90歳以上)で、現在もお世話になっておりますが、知り合いのいない私にとても親切にしてくださり、赴任当時は、帰りの遅い私を心配してくれ、いろいろな面で助けられました。今でも折に触れ声を掛けていただき、「1週間に1回は顔見ないと元気出ないよ。」と言ってくれ、いつも仲良くしていただいています。
大家さんは、役場のすぐ裏に住んでいて、お庭には池や手入れが行き届いた樹木があり、訪ねるたびに池で泳ぐ鯉や樹木の花々に癒やされています。同じ敷地内にいる大家さんの娘さんにも良くしていただき、開設時にいただいた胡蝶蘭は、花が落ちた後も自宅に持ち帰りしっかりと管理していただいたことから、3年目も花を咲かせてもらったので今でも飾ってもらっています。
レーダーセンサーアシスト運転
コロナ禍前は、帰省先である群馬県に帰るときには新幹線を利用していましたが、コロナ禍後は、自動車で新東名から東名、圏央道、関越と高速道路を走り帰省しています。アシスト運転は使用したことがなかったのですが、高速道路を運転するときは便利と教えていただき実践することにしました。確かに、速度を決めアクセルを踏まなくてもよいので疲れの軽減ができ、助かっています。富士山や素晴らしい景色も楽しみつつ、高速道路はトンネルが多く、ラジオを聴いていても途中で電波が途切れてしまうので、スマートフォンをセットしておいて、音楽や聴きたいラジオ番組を選択して聴き、いろいろなサービスエリアで買い物をしたりしてドライブを楽しんでいますが、それまであまり車の運転は好きでなかった私の新たな楽しみのひとつになりました。
新城産のお茶に出会えたこと
お隣の方からお茶をいただき、その際に「このお茶は、新城市でお茶畑からお茶までにして作っているお茶屋さんだからとてもおいしいよ。」と教えていただきました。群馬県生まれの私は、お茶畑には縁がなく、摘み立てのお茶とはどんなお味かしら?と楽しみにいただくととても美味しく、感激しました。
いただいたお茶が飲み終わったので、早速、購入しようと電話すると、お店はやっておらず、農協での販売とのことで、「農協に買いに行きますね。」というと、「そちらに届けますよ。」と親切なお言葉で、届けていただきました。それ以来、そのお茶をいただいています。紅茶も作っていてこれもまたとても美味しいのです。新城市のお茶生産量は愛知県1位で、ほかにもお茶屋さんがあるので、これからいろいろいただいてみようと思っています。
歴史上につながり?
天正3年(1575年)に、三河国長篠城をめぐり、織田信長、徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍勢が戦った長篠の戦いがあり、長篠城主で奥平貞昌の決死の働きによって、勝利し、この戦いの勝利後、奥平家は新城の地に移り城を築き、新城城主として新城の町の礎を築いたそうですが、この奥平氏は、1375年に上野国(現在の群馬県)から新城地区である作手というところに居を構えたそうです。奥平貞昌は、家康の長女亀姫を妻として、新城市で5人の子供を育てたそうです。奥平家のふるさとが、群馬県吉井町下奥平(現在の群馬県高崎市)であり、また、奥平信昌(貞昌)は、天正18年(1590年)家康の関東入国と同時に上州宮崎(現在の群馬県富岡市)に移ったとのことで、私の出身地である群馬県と新城市に650年前につながりがあったとは想像もしませんでしたので、とても驚きました。
大河ドラマは好きで観ていますが、今度の大河ドラマは、徳川家康が主人公ということで益々楽しみになりました。
おいしい和菓子
役場からすぐのところに和菓子屋さんが三軒あり、少し離れたところにも二軒あるので、これも和菓子好きの私にとってうれしい出会いでした。
和菓子は、新城市でとれた栗を使った栗蒸しようかん、新城産のいちごを使ったいちご大福、みたらし団子にあんこが入っているやわらかお団子、もろこし餡(小豆)の柏餅、自家製お赤飯等、季節によってそれぞれのお店で販売されていて、楽しみにしています。残念なのは、一軒の和菓子屋さんでは、ケーキも販売していてすごく美味しかったのですが、少し前にケーキはなくなってしまったことです。
当役場の書記さんは新城市在住30年以上なのですが、どの和菓子のことも知らなかったとのことで、この出会いを一緒に楽しんでいます。
人との出会いや物との出会いは、仕事をする上でも生活を充実させるためにもとても大切なことであると再認識しました。また、新たな出会いを探していきたいと思っています。
これからもまわりの方々に支えられていることに感謝し、仕事をしていきたいと思いますので、御指導どうぞよろしくお願いいたします。(境野智子)
公証人2年生(中崎俊彦)
今年の7月を迎えると、公証人に任命されて2年が過ぎることとなります。この間は、コロナウィルス感染症の蔓延に伴い、人と会うことが抑制された期間でもあります。そのため、各種研修等もオンラインによる受講が多く、人と会う機会も少なく、孤独感と寂しさを感じることが多いのですが、一方で読書に費やす時間が少し増えました。そこで、今回は最近読んで気になった本をご紹介したいと思います。
タイトルは、「夢をかなえるゾウ1」、作者は、「水野敬也」です。自己啓発小説で、内容は、今の自分を変えたい、変わりたいと思っている青年の前に、ガネーシャという神様が現れ、1日一つの課題を出し、その意味するところを歴史上の偉人達の格言を交え教えるというものです。
ガネーシャという神様は、人間の身体と象の頭、四本の腕を持ったインドの大衆神で、障害を取り除いたり、財産をもたらしたりするといわれているそうです。また、徹底的な現世利益の神様として知られており、インドでは人々に最も親しまれている神様だそうです。
しかし、小説の中でこの神様は、何故か関西弁を話し、酒は飲むは、タバコは吸うはと、およそ神様とは思えないような親しみを持った描き方がされています。
いくつかある課題のうち、二つについて触れたいと思います。
まずは、『明日の準備をする』というものです。
これは、ガネーシャが友達のお釈迦様を誘って、明日、富士急ハイランドのジェットコースターの「ドドンパ」に乗りたいという要望をしました。それに対し、青年が明日は早いので何のスケジューリングをしないまま寝ようとしたので、ガネーシャが『神様のワシでさえ3時間待ちなんやぞ。ええか、自分、富士急ナメとったら足下すくわれるで』と言って、明日のスケジュールを立てさせるくだりであります。この準備の大切さについて、人類で初めてニューヨークからパリまでの大西洋無着陸飛行に成功したリンドバーグの逸話を引用しております。リンドバーグは、当時はまだ航空技術がそれほど進んでおらず機体が非常に重かったので、普通であれば他の添乗員を一緒に乗せて飛ぶところを一人で飛ぶことにし、しかも緊急脱出用のパラシュートまで積まないという判断をしました。それは、レーダーのなかった当時、彼は大西洋の天候や季節風を何遍も計算して綿密なルートマップを作り上げ、細かい計算をした上での判断でした。常に結果を出すには、普通に考えられているよりずっと綿密な準備が必要だということです。身につまされます。
次は、『人気店に入り、人気の理由を観察する』というものです。
これは、ガネーシャと青年が、最近話題となっていて行列のできるシュークリーム屋さんに入って、なぜこんなにも人気なのか原因を探るものです。その要因は、真心が込められた感じのする手書きのオススメ商品の品書きや、シュークリームのカスタードが外に出ても手につかないようわざわざ大きな包み紙を使ったり、店全体でお客さんを喜ばせたいという気持ちがあるためだと分かります。お店は、自分らが『おいしい』『気持ちいい』と思う場所であると同時に、優れたサービスを学ぶ場所でもあり、その店がどんなことをしてお客さんを喜ばせようとしているか観察すべき所だと言っています。つまり、みんなと同じような視点で同じようなことを考えていたら、みんなと同じような結論しか出せない。しかし、人と同じようなことをしている時でも、人と違う視点や発想で、世の中を眺めなければならないということです。
最近、月に1、2日程度他の公証役場で代理として、事務を行う機会を得ています。そこで、些細なことではありますが、こんなことをすると効率的に事務が進むのだなとか、こんなサービスもあるのかと気づかされることがあります。実際に公証事務を経験した上で、他の公証役場の事務を観察してみるのも有意義なことだと感じています。出来れば、諸先輩方と対面でお目にかかり、公証事務を行っていく中での裏話など、もっといろんなお話を伺いたいものです。早く、元の生活に戻り、気兼ねなく人と会うことができる日が来てくれればと思います。
ところで、皆さんは神社やお寺にお参りに行ってどんなことをお願いしますか。ガネーシャ神様が言われるのには、毎日毎日、世界津々浦々から『健康になりたい。』、『幸せになりたい』、『お金が欲しい』などの願いごとが多く届くのだそうです。そんな中で、『いつもいつも良くしていただいて、神様ありがとうございます。』といったことは、神様側からしたら、そういうのぐっとくるそうです。神様仲間のあいだでは、こういう人の願い事を優先的にかなえることが、内々での暗黙の了解になっているそうです。これが、お参りの裏技だそうです。皆さんも是非お試しください。
(参考文献「夢をかなえるゾウ1」水野敬也(文響社)) (中崎俊彦)
思い起こすことー砂原浩太郎「黛家の兄弟」を読んで-(小沼邦彦)
フィギュアスケートの羽生結弦選手が北京オリンピックの記者会見において、4回転半に挑戦した理由の一つとして、「心の中に9歳の自分がいて、あいつが跳べとずっと言っていたんですよ」と発言していたことが妙に印象に残りました。我々は相当の年齢に達していますので、子供の頃の記憶が今の自分たちの行動を動かすことは少ないと思いますが、歳をとるというか退職してからは、昔のことを思い起こすことがよくあります。
特に少年期・青年期の忘れられない思い出、それも後悔の思いがあることを思い出すことが最近はよくあるのです。なぜあのときにそうではない対応ができなかったのだろうかと。会員の皆様にはそのような御経験はないでしょうか。また、就職など人生の重要な選択をしたときに、その選択ではない別の選択はなかったのか、その選択をしなかったら自分はどう変わっていただろうかなどと、特にアルコールが入ったりすると、いつの間にか「たられば」の空想の世界に耽っている自分にふと気づくことがあります。
砂原浩太郎の「黛家の兄弟」は、代々筆頭家老職にある黛家の三男を主人公として、その黛家の兄弟と、彼らと対峙するもう一方の家老職の家族とを取り巻く人間模様を描いた時代小説です。それはある意味で藩の権力闘争を描いたものということにもなるのですが、この小説ではそれとは別にいわゆる「人生の選択とその後」ということが一つのテーマとして描かれています。そのため、私の場合は本作が前述のような「たられば」の空想の世界に導いてくれました。その意味では、自分の人生を振り返させてくれる小説であるということもできますので、現役を退いた我々の年代の者にとっては、現役公証人である会員の皆様を含めて、興味を持たれるのではないかと考え、会報でご紹介することにしました。
本作では、そこに権力闘争の展開が加味されているのでおもしろさが増すということになりますが、登場人物の心理描写も巧みです。この駄文を起草中に、本作が山本周五郎賞を受賞したとの報に接しましたので、やはり作品としての力は評価されるものがあると考える次第です。登場人物の心の動きにおいても頷かせられることが私にはとても多くあったからです。
この物語の最初の事件は、主人公が大目付の黒沢家に養子として迎えられる少し前の青年時代に起こります。それは養家の娘である主人公の結婚相手や黛家の兄弟との花見の席に、宿敵として対峙する家老職の家族が乱入しようとするささやかな諍いだったのですが、これが両家の因縁の争いのきっかけとなるできごとになります。その後、主人公は大目付の黒沢家に婿入りします。三男坊の人生の選択としては、目付になるという就職も果たすことができました。
しかし、この後に、目付としての力量が試される重大事件が起こります。藩の権力闘争が絡んだ両家の因縁の関係による事件でもあり、結果として耐え難い結末を迎えるわけですが、砂原は、ここで、13年の時(とき)をおいた第2部に転換させます。この転換が本作の最大の仕掛けであり、この仕掛けこそが「人生の選択とその後」という「たられば」の空想の世界へ誘(いざな)う大きな要素ともなっているのです。また、その間に何が起きたのかは伏せられているため、ミステリー的効果を上げる鍵ともなっています。そして、ここから怒涛のような展開が始まり、読むのが止まらなくなるのです。
当時においては、就職や結婚は、いわば「家」のためのものとならざるを得ませんから、拒否する余地はほとんどありません。彼らにとって人生の選択が現代よりも厳しいので、苦悩や葛藤という感情の揺れが大きく、その中で様々な決断をしていくことになるため、物語としては面白いということにもなります。その心理描写に重点をおいた作風が藤沢周平に似ていると言うと藤沢周平ファンに叱られそうですが、藤沢は作中人物の気持ちに寄り添った抑えた筆致が魅力であるところ、砂原のこの作品は、内容が藩の権力闘争ですし、物語の展開を劇的というかややミステリー的に書き過ぎているところがあり、そこに好き嫌いが出てくるかもしれません。
原稿の紙幅が埋まりませんので、ここで私自身の話を少しだけしておきます。それは自分の就職のことで思い起こすことがあるからです。それは父とのことです。父は当時小学校の校長だったと思いますが、私は教員試験も一応受けていて筆記試験は受かっていたので、面接試験には赴きました。そして、そのときは迷惑を掛けてはいけないと思い、国家公務員としての内定を受けていることは説明しましたので合格通知が来るはずがありません。私としては、父と同じ職業を選ばなかったということになりますが、その父が亡くなった今、振り返ってみると、申し訳なかったなという思いが残るのを禁じ得ません。
さて、話を戻しますが、砂原は、前作の「高瀬庄左衛門御留書」が直木賞候補となるなど評判になりました。「高瀬庄左衛門御留書」は、主人公の高瀬庄左衛門が息子に家督を譲った後の生活を描いた小説です。現役を退いてからという第2の人生の話になりますので、我々の世代にとってはより近しいものとも言えます。私は、この作品で砂原浩太郎という作家を初めて知ったのですが、本作を読んで、その作中人物の気持ちがうまく描かれており、すぐに彼のファンとなった次第です。「黛家の兄弟」を気に入られた方は、是非、こちらにも手を伸ばしていただければと思います。両作品とも少し厚手の本ではありますが、比較的簡単に読み切ることができるはずです。
さあ、会員の皆様方も砂原浩太郎の本で、人生を振り返る楽しい(ときには苦(にが)いものがあるかもしれませんが)空想の世界に入られてみてはいかがですか?(小沼邦彦)
短歌
震災十年
新アララギ会会員 東北アララギ会「郡山」代表 皆川二郎
列島のをちこちに起こる地震あれば巨大なるもの常に恐れぬ
まだ寒き散歩コースの公園に連翹の花咲けば寄りゆく
朱深く朝の日受けて紅梅のわが坪山にいち早く咲く
かの日より十一年目の発生時海に向かひて黙祷捧ぐ
かの日より十一年経つ浜の道慰霊を兼ねて車走らす
防波堤兼ねたる高き浜の道ときをり停めて海を見つめぬ
青空の下に広ごる海原を見放けて暫しかの日を思ふ
集落のところどころに土盛りし避難の丘の古墳のごとく
鎮魂の慰霊碑の立つ集落跡往時を偲び祈り捧げぬ
突然の深夜の揺れに崩れ落ち書斎の本が部屋に乱れぬ
実務の広場
このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。
No.93 親権を利用した知的障害のある未成年者の保護のための任意後見契約について(その2) (佐藤浩雄)
標題のテーマについては、本誌令和2年8月号(№46)実務の広場(№81)に喜多剛久公証人が投稿されていますが、当時は、公証人に任命されたばかりで、よもや自分が同事案の実務に関わるとは思っていなかったので、掲載された内容は流し読みした程度でした。ところが、標題のテーマに関しては、その後に大きな動きがあり、それを背景として、実務に携わることになりましたので、任意後見契約公正証書作成事務の参考にしていただければと思い、以下のとおり2つの相談(対応)事例を紹介させていただきます。
【相談事例その1】
最初に相談を受けたのは、昨年の12月でした。本年4月から成年年齢が18歳となる改正民法が施行される状況で、特別支援学校高等部に通う知的障害のある子どもの両親から、その子が1月の誕生日に18歳を迎えることから、将来において、その子に後見人が必要になったときに備えて、母親が後見人となって、その子の身上監護及び財産管理を行うことができるように、改正民法が施行される前に、両親が親権を使って、母親を任意後見受任者として任意後見契約を締結したいという内容でした。
相談者は、子どもの将来に不安を抱える親どうしのネットワークを通じて、当然に成年後見制度の課題等についても承知していました。特に心配していたことは、後見開始の申立ての際に、親又はその親族を成年後見人の候補者にする例が多い中で、必ずしも候補者が成年後見人に選任されるわけではなく、その場合、弁護士、司法書士、社会福祉士等の専門職が選任される例があることから、不便さや不自由さを感じて、申立てを躊躇せざるを得ないということでした。そこで、子が成年年齢に達する前に、任意後見制度を利用して、母親を任意後見人として確保しておくことで、安心してその子の支援ができるという説明をされていました。また、親どうしのネットワークの中で、○○公証役場では任意後見契約公正証書を作成できたが、別の公証役場では、回答を留保されているとかの情報も持っていました。
当職としては、安易な回答はできないので、少し考え方を整理する時間をいただきました。少し記憶に残っていた上記の実務の広場(№81)を紐解いて、引用された文献を確認した上で、メリットや利益相反行為などの問題点を自分なりに整理しました。一方で、令和3年10月6日付け日本公証人連合会総括理事通知(以下「総括理事通知」といいます。)「精神障害・知的障害のために意思能力が欠ける未成年者の親からの任意後見契約締結の申入れについて(通知)」(※1)が発出されており、留意事項として、「報酬の約定を定めた場合は、特別代理人の選任が必要」とコメントされていたので、契約上の利益相反を回避するために、特別代理人の選任を必要とするか否かは、報酬に関する約定の有無によるものと解釈しました。
その決断に迷っていると、上記の令和3年10月6日付け総括理事通知を変更する取扱いとして、同年12月13日付け総括理事通知「精神障害・知的障害のために意思能力が欠ける未成年者の親からの任意後見契約締結の申入れの扱いの変更について(通知)」(※2)が発出され、①法務省から、当該任意後見契約に係る任意後見登記の嘱託の取扱いについて利益相反行為に該当するか等の観点から検討中であること、②任意後見契約を締結するに当たっては、家庭裁判所において特別代理人の選任を受けた上、受任者とならない親権者の片方と特別代理人とが共同で未成年者を代理し、受任者となる親権者と任意後見契約を締結するといった慎重な対応が相当であることが示されました。
その後、同年12月24日付け総括理事通知「未成年者とその共同親権者である両親の一方を任意後見受任者とする任意後見契約締結の申入れの扱いについて(通知)」(※3)を始めとして、立て続けに総括理事通知が発出され、法務省からの正式な見解、東京法務局で登記が保留されている嘱託事件の取扱い、登記された無権代理行為に係る任意後見契約の特別代理人による追認手続などが示されました。
以上の経緯を踏まえ、相談された両親に対して、家庭裁判所において特別代理人の選任を受けた上、委任者(子)の法定代理人共同親権者父(甲)及び家庭裁判所は選任した特別代理人(丙)と受任者共同親権者母(乙)の任意後見契約を締結することができる旨、当職の見解を回答しました。両親は、特別代理人を母親の妹に依頼することで、手続を進めたいと希望されたので、当職は、特別代理人選任申立に必要な任意後見契約案を提供しました。そして、3月上旬までに公正証書を作成することを目途として、特別代理人選任審判書謄本を取得後に改めて連絡をもらうことにしました。
しかし、その後母親から、家族で相談した結果、任意後見契約の締結は見送りたいという内容の連絡がありました。その理由は、将来、子に後見人が必要になったときに、成年後見制度を利用する場合の懸念や不安がある程度解消されたということでした。親どうしのネットワークを通して、後見開始の申立ての際に、母親を成年後見人の候補者にした場合、特段の事情がない限り、相当高い割合で候補者として認められるという感触を得たので、急いで後見人を選任しなくても大丈夫という考えに至ったようでした。
残念ながら本件は、預かった原本書類を返却して、契約に至らない案件として終了しました。他方、本件に関する総括理事通知は、「その8」まで発出されているところであり、この相談がなければ、本課題に対して無関心のまま、総括理事通知を流し読みしていたと思うと、少しながら充実感が残りました。
【相談事例その2】
本年2月中旬に、司法書士から「相談事例その1」と同じ趣旨の相談が寄せられました。その子は、同じ特別支援学校高等部に通っており、既に18歳の誕生日を迎えていて、改正民法施行前に任意後見契約を締結するとすれば、3月末までしか時間が残されていませんでした。司法書士には、契約上の利益相反を回避するために、特別代理人の選任が必要であることを伝え、早急に手続を進めてほしい旨回答しました。
その後、司法書士からは、依頼者と相談した結果、受任者を母親ではなく、兄(大学生)にして任意後見契約を締結したいとして依頼がありました。この場合、契約上の利益相反が発生しないので、司法書士と契約内容を調整の上、3月中旬に、委任者(子)の法定代理人共同親権者父(甲)及び母(乙)と受任者兄(丙)との間で、任意後見契約を締結するに至りました。東京法務局への嘱託も指摘なく受理され、後日登記完了通知が届いた際は、少し安堵感がありました。
任意後見契約締結時の席上、依頼者家族からは、特別代理人のハードル(時間的要因を含む。)が高かったこと、弟思いの兄が快く受任者を引き受けてくれたことなど、いろいろと話を聞いたのですが、改正民法が施行される前に、何とか公正証書の作成が間に合ったことに安堵されていました。また両親は、将来、この任意後見契約をどの時点で発効させるのか分からないので、当面は、公正証書をお守り代わりにしておきたいと考えているようでした。
【その他】
本年2月26日に開催された春期専門研修には、ネット聴講で参加しましたが、研修のテーマが「任意後見制度」に関するもので、標題のテーマに触れられた部分もあり、大変参考になりました。特に、家庭裁判所への後見開始の申立ての際に、親又はその親族を成年後見人の候補者にする例が多い中で、候補者が成年後見人に選任されないケースやその割合(親どうしのネットワークの情報とほぼ同じ。)などが紹介されていました。そのケースとしては、①資産が多かったり親族間の対立があったりなど複雑な状況の場合、②本人と候補者の資産が適切に分離されていないような場合、③候補者に後見に適する能力がないと判断された場合などのようですが、今回の2件の実務を通じて、公証人として、本業の任意後見制度だけでなく、法定後見制度にも精通しておくべきことを痛感する機会となりました。
<※1 令和3年10月6日付け総括理事通知の要旨>
精神障害・知的障害のため意思能力が欠ける未成年者の両親から、自らを任意後見受任者とする任意後見契約の締結が可能かとの問い合わせがされているが、民法第818条第3項ただし書により、共同親権の例外として、一方の親が未成年者の親権者として子を代理し、他方の親が同契約の任意後見受任者として自ら任意後見契約を締結するという方法について、日公連は積極説を採っており、公証実務においても、これが認められている。ただし、留意すべき事項として、報酬の約定を定めた場合は、民法第826条第1項の利益相反行為に該当するので、その際は、家庭裁判所に特別代理人の選任を請求してもらい、その特別代理人と契約する必要がある。
<※2 令和3年12月13日付け総括理事通知の要旨>
法務省から、当該任意後見契約に係る任意後見登記の嘱託の取扱いについて利益相反行為に該当するか等の観点から検討中であるとの情報に接した。当面、上記の任意後見契約を締結するに当たっては、家庭裁判所において特別代理人の選任を受けた上、受任者とならない親権者の片方と特別代理人とが共同で未成年者を代理し、受任者となる親権者と任意後見契約を締結するといった慎重な対応が相当と考えられる。また、これまで、このような任意後見契約に係る登記の嘱託が受け付けられていた実態があったが、今後、こうした取扱いが改められる可能性がある。
<※3 令和3年12月24日付け総括理事通知の要旨>
法務省から、「未成年者とその共同親権者である両親の一方を任意後見受任者とする任意後見契約については、受任者とならない親権者の一方と特別代理人が共同で子を代理し、受任者となる親権者との間で締結される必要があるところ、特別代理人の選任がなく、受任者とならない親権者の一方のみが子を代理して締結している場合には、無権代理に該当する」との見解が示された。これに伴い、①今後作成予定の任意後見契約親権者である代理人の肩書きの表示方法、②東京法務局で登記が保留されている嘱託事件の取扱い、③公正証書を作成し終えた任意後見契約で、東京法務局での登記がされているものの対応の方針が具体化された。
(佐藤浩雄)