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民事法情報研究会だよりNo.63(令和6年10月)

 時候的には秋冷の候とはいうものの、9月下旬に至ってもなお猛暑日が観測される地域があるなど、とても暑かった今年の夏も、朝晩にはようやく秋の気配が感じられるようになりましたが、会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 元日の大地震からようやく立ち直りの兆しをみせていた能登半島において、長時間にわたる線状降水帯の豪雨に伴う土砂災害や河川の氾濫などによって、またしても大きな人的物的被害が生じています。このほかにも、全国各地において、過去の経験や知見を超える異常気象や災害が数多く発生しています。
 被災された方々に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧復興をお祈りいたします。(YF)

今日この頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

今日この頃(柿村 清)

 7月1日午後2時過ぎ、民事局勤務時の同期からの電話が突然鳴った。久しぶりだなと懐かしく思いつつ、電話に出た。すると、突然、本誌の本欄への原稿を書いてくれないかという依頼であった。依頼者曰く「遡って調べてみたら、柿さんにはこれまで原稿の依頼をしていないことがわかったので、これ好都合と思い電話した。」とのことであった。今更原稿を書いてくれといわれてもと思いながらも、同期からの依頼でもあり無碍にもできないので渋々引き受けることにした。
 引き受けることにしたはいいのだが、さて何をどんな風に書けば誌友の皆さんらに読んでもらえるものかと色々と思案し、その日は、原稿のことばかり考えることとなった。
<7月1日>
 7月1日は、8年9か月勤めた公証人を引退した日であり、引退後4年となる節目の日であった。しかし、直近の4年間を振り返ってみても本誌に記せるようなことは何もしておらず、ぼうっと時を過ごしてきた感を否めない今日この頃である。
 現に、7月1日は、朝5時に起きて、アメリカ大リーグ(MBL)ドジャース対ジャイアンツの試合をテレビ観戦した(大谷選手の活躍が楽しみで、ドジャースの試合のテレビ放映がある日はできるだけLIVEにて観戦することとしている。当日は、27本目の本塁打を打って欲しいと期待を込めて観戦した。しかし、残念ながら本塁打は出ず、3三振であった。)。
 また、その日は、梅雨のまっただ中にあり、早朝から非常に強い風が吹きあれており、家庭菜園で実を付けはじめているトマトやなすらの支柱が倒れていないか心配になったので、9時過ぎに様子を見に菜園に出向き、支柱の補強作業を行った。
 帰宅後は、朝5時からテレビ放映のあったアメリカのプロゴルフツアー(PGA)を録画しておいたので、それを観ながら、自ら用意した簡単な朝兼昼の食事をとり、うとうとと昼寝をした(PGAの試合には、日本人プロゴルファーの松山英樹や久常涼らが参戦している。いつもは、この時間帯には、ゴルフ練習場に行っているのだが、この日は強風のため練習場は休業していた。)。
 その途中に、先に記した原稿依頼の電話があった。
 午後4時頃には、風呂に入り、午後5時には夕食をした。夕食は午後5時からとしており、買置きしておいた食材にて小生自らが夕食を用意し、妻と二人で晩酌をしながら食べた。ちなみに、我が家では、小生より先に妻が亡くなったとしても独りで生活していけるようにとの妻の方針の下に、夕食の用意と自らの洗濯物は自分ですることとなっている(なお、食後の食器洗いや片付けは妻がしている。)。
 午後9時過ぎには、同居している小学生の男孫が「じいじ寝よう。」と言って我々の居るところに迎えに来たので、男孫とともに寝室に向かい床についた。
 しかし、その日は、原稿のことが頭から離れず、翌朝2時に起きて、NHK・FMラジオの深夜便「ロマンチックコンサート」とその次の「にっぽんの歌こころの歌」を懐かしく聴きつつ、パソコンと睨めっこして本原稿を書いている。
 小生の日課の主立ったものは、ここに記したように、大谷選手の活躍を楽しみにしたテレビでの野球観戦、家庭菜園、それにゴルフ(テレビ観戦を含む。)である。
<我が家>
 我が家は、2階建の変形した独立型の二世帯住宅である。玄関、台所、浴室、洗面所・トイレがそれぞれ2つあり1階と2階で二世帯に分かれており、玄関は吹き抜けで、内部は階段のドア1つでつながっている。
 我が家は、我ら夫婦が2階に、息子夫婦と3人の孫(中学生の男孫、小学生の男孫と娘孫)が1階に暮らしている。
 なお、1階の2部屋にはロフト(3畳半)が付いており、そのうちの1部屋のロフト部分は2階の廊下とドア1つでつながっており、自由に行き来できるようになっている。そのロフト部分にベッドを置き、小生がそこで寝起きしており、ロフトには常設の階段が設けられており、階下の1階部分に二段ベッドを置き、男孫2人が寝起きしている。よって、先に記した小学生の男孫の「じいじ寝よう。」の際は、2階廊下からロフト部分に入り就寝した。
 我ら夫婦と息子ら家族は、通常は独立して生活しており、互いに干渉しないこととしているが、必要に応じて互いに連絡を取り合い、協力し合い、誕生日会等のイベントは合同して催している。また、我ら夫婦は、孫らの登校時の見送りや下校時の出迎えを日課としており、孫らの元気な声が聴け、時折孫らが2階に顔を出してくれて話をしてくれ、楽しみを与えてもらっている。中学生の男孫はここ1年で15㎝以上も背が伸び、174㎝の小生をあっというまに超えてしまった。日に日に成長する孫らに毎日触れており、元気をもらっているので我ら夫婦も負けないようできるだけ長く元気でいたいと話し合っている今日この頃である。
<ゴルフ>
 退職した年(2020年、令和2年)は、コロナ禍のため、人との交流・接触を極力避けざるを得ない状況下にあり、会合や飲み会などの各種行事が一斉に中止となり、退職し自由時間が増えたにもかかわらず、楽しみにしていた仲間うちの懇親の機会がほぼ失われてしまった。
 こうした中にあって唯一行えたのがゴルフである。ゴルフは、屋外で行うため室内での行事に比べれば制約が少なかった(しかし、クラブ施設内ではマスクの着用が義務であった。)。そこで、70過ぎまで働いてきた自分へのご褒美として、これまで20年近く使ってきゴルフクラブを、お気に入りのゴルフクラブ(フルセット)に買い換え、月に2~3回のペースで気の知れた仲間たちや近所のゴルフ好きとともに平日にゴルフコースを回ってゴルフを楽しんでいる。行きつけのゴルフコースは2カ所であり、それらは、我が家から100㎞前後の距離にあるため、復路の交通渋滞を避けたいので、スタート時間を7時半から8時過ぎという早い時間帯にセットしてもらっている。よって、ゴルフ場には、毎回、朝4時か5時には自宅を車で出発し、高速道路を利用して行っている。朝の早いのは夜9時過ぎには床についており、歳のせいもあり早く目が覚めるので、まったく苦にならない。また、高速道路での事故渋滞等により到着が遅れることもあるため、余裕を持って出発しているので、高速を下りる直前のパーキングエリアで休憩をとり、仮眠するなり、軽い朝食を取るなどして時間調整を行っている。さらには、年に3回ある30年近く続く泊込みのゴルフコンペにも参加している。いつもはゴルフ場への往復が車であるため飲酒はできないが、泊込みの場合はそれができ、旧知の仲間と親交を深められるのでとても楽しみである。
 また、一緒に回る仲間うちに迷惑をかけてはいけないし、少しでもスコアを良くしたいので、健康維持のための運動を兼ねて、週に3~4日ほど自宅近くのゴルフ練習場に通っている。練習場では、直前に回ったコースの結果を踏まえ反省しながら試行錯誤で球打ちをしている。球打ちは1回当たり150から200球ほどである。自分なりには努力しているのだが、年齢には逆らえず、歳を重ねるごとに飛距離は毎年4~5ヤードは落ちて来ており、今では、ドライバーの飛距離は200㍎程度であり、たまに220㍎飛べば良い方で寂しい限りである。それをクラブのせいにして、この4年間にドライバーを2度更新して、飛距離の維持に苦心している今日この頃である。
<家庭菜園>
 家庭菜園は、自宅から徒歩5分ほどのところにある市民農園(32区画、1区画・車2台駐車できるほどの面積)を借りて行っている。家庭菜園を始めて4年目に入っているが、野菜の栽培については、知識も経験もないので見よう見まねである。家庭菜園を始めた当初は、いちごやメロンを栽培し、収穫を楽しみにしていたのだが、収穫の直前には何者かに横取りされ、がっかりしたので今はやめている(SNSによると、農園の近くにはハクビシンが生息しているとのことであった。こうした動物は、果実の熟成時期をよく知っており、こちらより1日早くに横取りしてしまうので、非常に悔しい思いをした。)。今は、トマト、なす、ピーマン、ジャガイモ、里芋、ネギ、大根等を植えており、各種野菜の成長と収穫を楽しんでいる。ただ、自宅から市民農園に行く途中には起伏があり、農園には水道施設がない上、駐車場もなく車の利用は禁止されているため、自宅から20リットルのポリタンク等で水を運ばなければならず、夏場は汗だくになり、かなりきつい。その分、収穫の喜びが増すのである。しかし、余り採れ過ぎると、同じものが食卓に何度も並ぶので、妻にはいやがられることもある今日この頃である。
<今後>
 以上、ここに記したように小生のここ4年の歳月は詩友の皆さんにお知らせするようなことは何も無いが、これまで入院したことがなく、薬いらずで健康に過ごせてきたことが、何にも代えがたい幸せであったと喜んでいる。
 しかし、今後は、いつ倒れか、いつ患うか、また、いつまで車の運転ができるか、いつまでゴルフができるか、いつまで健康で生きられるか、といった明確でないことを前提に何らかの準備、子供らにできるだけ負担をかけない、迷惑とならないような準備をしていかなければならないと考えている今日この頃であり、できる終活(相続財産の評価、二世帯住宅の相続特例、墓選び、介護、等々)を来年には75歳の後期高齢者となるのでぼちぼち進めていきたい。
(元長野・諏訪公証役場公証人 柿村 清)

日本酒雑感(森 一朋)

 誌友の皆様は、毎日の業務が終わり、帰宅してからどのように過ごしていらっしゃいますでしょうか。
 私は、晩酌をしながらその日の出来事等を思い出し、明日はどういう段取りで相談案件等を処理しようかなど考えながら、くつろいだ時間を過ごしております。
 最近は、晩酌といえばビールに始まり、日本酒で締めます。
 私が20代の頃は、日本酒といえば、熱燗で飲むことが多く、日本酒独特の臭いなどから、あまりおいしい飲み物だとは思っておりませんでした。それが、なぜ日本酒を好んでたしなむようになったかといえば、法務局職員として、高知局と佐賀局に勤務したことが大きく影響しているようです。
 高知県はいわずとしれた日本酒天国であり、日頃から県民の皆様が日本酒をたしなむ土壌が醸成されているようです。それを肌で感じたのは、4月に高知県香南市で開催される「どろめ祭り」というイベントでした。そこでは、会場に集まった参加者が、地引網で採れたドロメ(マイワシ・ウルメなどの稚魚)を肴に、日本酒を酌み交わすのですが、メインイベントの「大杯飲み干し大会」というイベントは、男性は、日本酒一升(1.8リットル)、女性は、日本酒五合(0.9リットル)の入った大杯を飲み干し、その「飲み干す時間」と「飲みっぷり」の総合得点で争うという豪快なものでした。優勝者の平均時間が、男性12.5秒、女性10.8秒ということですから、最初そのイベントを見たときは、参加者の飲みっぷりに圧倒されました(なお、参加者が体調を崩した場合に備え、イベント会場の裏に医師が控えていたことも衝撃でした。)。
 また、高知市内にある「ひろめ市場」は、大きな屋根で覆われた施設の中に屋台が約60店舗あり、それぞれの屋台で購入したものを、館内に設置された共有のテーブルで自由に飲食できるようになっております。共有のテーブル席では、地元の利用客と観光客が相席となり、自然と会話が始まるなど、なごやかな雰囲気で飲食することができます。この「ひろめ市場」で、鰹のたたき、ウツボのから揚げ、焼きギョーザなど、地元の食材を食べながら飲む日本酒は、格別でした。日本酒を冷やで飲み始め、日本酒がおいしいと感じたのもこの頃からです。
 また、高知県の日本酒(美丈夫、桂月、酔鯨、司牡丹など)は、辛口(日本酒度が+のもの)が多く、カツオを始めとする魚介類との相性が抜群にいいということもあり、日本酒が自然と進みました。
 高知県のお酒の飲み方のルールの一つとして、「返杯」というものがあります。
 それは、相手にお酒を注いだら、注がれた人は、それを一気に飲んで、それから飲み干したおちょこを、お酌してくれた人やその会話の中にいる他の人に返して、お酌をし、渡された人は、それを一気に飲んで、他の人にお酌していくというもので、これを繰り返すことにより、一気に酔いが回るということもしばしばでした。
 その後、佐賀局に勤務することとなりましたが、佐賀県も高知県におとらず日本酒どころでした。
 恥ずかしいことに、私は、佐賀局に勤務するまで、日本酒に、純米酒、特別純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒、本醸造酒、特別本醸造酒、吟醸酒、大吟醸酒があり、使用原料、精米歩合(玄米を削って残った割合)などの違いによって区別されていることを知りませんでした。

 醸造アルコールあり 醸造アルコールなし
精米歩合指定なし        純米酒  
 精米歩合70%以下 本醸造酒   
 精米歩合60%以下又は特別な製造方法 特別本醸造酒 特別純米酒
 精米歩合60%以下  吟醸づくり 吟醸酒 純米吟醸酒
 精米歩合50%以下  吟醸づくり 大吟醸酒 純米大吟醸酒

 簡単に説明すると、上記の区別は、大きく「純米酒」、「本醸造酒」、「吟醸酒」のカテゴリーに分けられ、「純米酒」は、酒米、米麹及び水のみで醸し、自然につくられたアルコールで仕上げたものを指しており、米本来の味わいや風味が楽しめます。
 一方、「本醸造酒」は、精米歩合70%以下の酒米、米麹、水に、醸造アルコールを添加したものです。醸造アルコールを添加することでネガティブなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、醸造アルコールは、主にサトウキビを原料とする天然のアルコールであり、無味無臭のため、酒本来の風味を邪魔することはなく、むしろ雑味を抑え、すっきりと爽やかな飲み味になる特徴があります。
 そして、「吟醸酒」は、水と米、米麹、醸造アルコールを原料とし、精米歩合が60%以下のものを指しています。
 日本酒のラベルや箱を見ると、特定名称、使用原料、精米歩合、製造者、製造場所在地等が記載されており、日本酒購入を考える上で参考になると思います。
 ところで、私がこのような日本酒の区別を知るようになったきっかけは、次のようなことからです。
 佐賀県内には、27の酒蔵があり、それぞれの酒蔵がおいしい日本酒をつくろうと競っておりますが、特徴的なところとして挙げられるのは、佐賀県産の原料と水を使った日本酒(純米酒)と焼酎(本格焼酎)を対象に、毎年春と秋の2回、「The SAGA 認定酒」の認定が行われ、各酒蔵が、「The SAGA 認定酒」の認定を目指して切磋琢磨しているところです。
 私も、「The SAGA 認定酒」に認定された日本酒を飲んでみましたが、どの日本酒も私がこれまでに味わったことがない香りとうまみがあったことから、さらに、もっと日本酒のことを知るために、日本酒のラベルに書いてある、特定名称、使用原料、精米歩合等を見るようになった結果、純米酒、特別吟醸酒、純米大吟醸酒等の区別があることを知るようになったわけです。
 また、佐賀県では、「最初の乾杯を日本酒で行おう」という「佐賀県日本酒で乾杯を推進する条例」が定められております。この条例は、酒席での最初の乾杯を佐賀県産の日本酒で乾杯することを推進するというもので、ますます日本酒と触れ合う機会が増えました。
 なお、佐賀県産の日本酒でおいしいと感じて飲んでいたのは、鍋島、七田、天吹、東一、能古見、前、基峰鶴、万齢などです。
 私は、現在長崎県諌早市に住んでいますが、よこやま、飛鸞、六十餘洲、杵の川など、長崎県産のおいしい日本酒もたしなんでいます。
 ここで、日本酒の原料、製造過程について、若干触れておきます。
 日本酒を製造する上で欠かせないのが、日本酒の原料として使われる米であり、「酒造好適米」と呼びます。代表的な酒造好適米としては、山田錦、五百万石、雄町などがあります。山田錦は、時に“酒米の王様“と呼ばれることもある、酒造好適米の代表格であり、粒が大きく、約8割を心白が占めるため、雑味が出にくいことで知られています。五百万石は、新潟県で生まれた、比較的早い時期に収穫できる早生品種であり、米質が硬めで溶けにくいことから、辛口でキレのある酒をつくりやすいのが特徴です。雄町は、江戸時代に生まれた古い品種で、酒造好適米の過半数が雄町の遺伝子を受け継いでいるといわれており、豊潤な風味を備え、現代でも人気の高い品種とされています。
 ところで、ビール、ワインなど、日本酒以外の酒は、原料に含まれる糖を微生物が分解することにより、アルコールを生成しますが、日本酒の主原料である酒造好適米には、糖質がなく、そのままでは発酵させることができないため、米麹を加えることにより、米のでんぷん質を糖に変え、さらに、その糖に酵母、乳酸菌を加えて、アルコール発酵させているわけです。
 日本酒の製造過程をみてみますと、精米・洗米・浸漬→蒸米→放冷→製麹→酒母、醪づくり→上槽・濾過・火入れ→瓶詰め・出荷といった工程をとるのが一般的です。
1度目の火入れを終えた酒は、一定期間貯蔵し、熟成させ、瓶詰めと同時に通常2度目の火入れが行われます。
 日本酒のラベルに、「生」、「生酒」等書かれているものがありますが、これは、日本酒を搾った後に「火入れ」という加熱処理を行う回数の違いによる名称です。
 1度も火入れせず、生の状態で出荷されるものは、「生酒」、搾った直後と出荷直前の2回火入れするものは、「火入れ酒」と呼び、常温で置かれている多くの日本酒は、2回火入れしています。そのほか、火入れのタイミングが生酒、火入れ酒と異なるものとして、「生貯蔵酒」、「生詰め酒」があります。
 このように、日本酒は、調べれば調べるほど、奥が深く、どんどん深みに入っていきます。
 最近では、日本酒好きが高じて、酒蔵めぐりを体験するようにもなりました。
 今年3月下旬には、佐賀県の鹿島市にある酒蔵6蔵をめぐる「鹿島酒蔵ツーリズム」に行ってきましたが、鍋島で有名な富久千代酒造を始め、それぞれの酒蔵をめぐり、つまみをつまみながら、日本酒を試飲し、「鹿島酒蔵ツーリズム」限定の日本酒を購入するなど、存分にツーリズムを堪能しました。
 日本国内において、日本酒離れが深刻だと言われて久しくなりますが、皆様も1度日本酒を飲んでみて、自分好みの日本酒を見つけませんか。自分の好きな料理と相性のいい日本酒を探すことから始められてもよいかもしれません。
 以上、思いつくまま書いてまいりましたが、私の随想が、皆様方の日本酒の新たな魅力の発見につながれば望外の喜びです。
(長崎・諫早公証役場公証人 森 一朋)

親しまれる公証役場を目指して(羽田野和孝)

 令和5年7月1日に津地方法務局所属の公証人に任命され、松阪公証人合同役場に着任して早1年以上が過ぎました。この間、「あっという間の1年」という思いもありますが、「何とか1年を乗り越えられた。」というのが本音のところです。
 着任に当たって、先輩方から貴重な資料やアドバイスを頂戴し、公証役場に訪問した際にもお忙しいなか快く受けて頂き、丁寧にご指導いただきました。それでも、いざ一人で仕事を進めていくと不安な事ばかり、文例集や先輩方が作成された公正証書の記録を参考にしながら、本当にこの重責を全うすることができるだろうか、不安や悩みが続く毎日でした。
 昨年一年間、先輩方にご指導いただいた相談事案が、記録に残してあるだけでも90件を超え、先輩方に支えられた1年でした。
 また、毎日の生活も公証役場とアパートを往復する日々、気分転換を図ることがなかなか難しいところ、最近は、少しずつではありますが松阪市内を散策し、歴史や文化に触れる時間を設けています。
 1年の経験しかない私が、会友の皆様にお伝えできる情報や実績がありません。そこで、せっかくの機会ですので、私が勤務する公証役場のある松阪市を紹介させていただきながら、1年間を振り返って感じたことをご報告させていただきたいと思います。
 松阪市(「まつさか市」と言います。「まつざか市」ではありません。)は、三重県のほぼ中央に位置し、東は伊勢湾、西は台高山脈と高見山地といった山々、北には雲出川、南には櫛田川といった清流が流れ、自然に恵まれた都市です。そのすばらしい自然を背景に産業の発展や歴史・文化が育まれてきました。
 松阪と言えば、ご存じとのとおり全国的に有名な“松阪牛(まつさかうし)”です。
 松阪牛の美味しさの秘密は、「香り(甘くて上品な香り)」、「脂肪(ヘルシーで良質な脂肪)と「食感(すぐに溶けるまろやかさ)」にあると言われ、松阪市のふるさと納税のサイトをのぞけば、お礼として様々な部位の品を探すことができます。一方で、地元の人にとってはサーロインやカルビはなく、庶民的な価格から身近な存在なのが「ホルモン」です。肪酸が豊富で、サラリとしていて特有の甘味が特徴です。ちなみに公証役場の隣にはホルモンで有名なお店の本店があり、お昼時や、夕方に役場の窓を開けるとお店からの臭いが役場内に充満し大変なことになります。
 また、市内の商店街では「松阪もめんで街歩き」と記載された看板やのぼり旗を目にします。「松阪もめん」とは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。「松阪もめん」は、江戸時代、倹約令によって華美な着物を堂々と着られなくなっていたところ、天然の藍で染めた地にバリエーション豊かなシマ柄(ストライプ柄)がイナセな江戸っ子に受けたと言われ、市内には、昔ながらの機織り体験ができる施設もあります。
 そして、松阪市内にある松坂公園は、全国歴史公園100選の一つに選ばれ、もともとは、1588年青年武将・蒲生氏郷が築いた城郭で、約60年後、大風により天守閣その他が倒壊大破し、現在はその姿を見ることはできません、戦後を残す石垣からは、松阪市内を一望することができます。
 ちなみに、蒲生氏郷は、町づくりの達人でもあったとも言われ、松坂に城下町を開いた際に、城下全般に幅約1m、延長各数百mの自然流下の下水溝「瀬割し下水」を縦横に作り、四百年来、公共下水道のできた現代でも雨水とほこりをきれいに流しています。
 その他にも、道をのこぎりの歯のようにぎざぎざにして、見通しをわるくし、敵から攻められにくくする「のこぎり横丁」を見たときには、和紙公図当時は公図の管理も苦労したであろうと思いながら、各土地の杭を一つ一つ確認して歩いていました。
 このように1年が経過し、休日に街を散策するなど、仕事や生活に少しずつではありますが気を休める時間を作ることができてきましたが、任命当時の私は不安な気持ちから、相談の際には難しい表情をしていたと思います。その表情から「この公証人は本当に分かってくれているのだろうか」、「大丈夫だろうか、他の公証人にお願いしようか」と感じた相談者は少なくなかったと思います。それではやはり相談や作成件数も増えません。
 公証役場というところは、普段の生活との関りや結びつきが薄いことから、ご指導いただいた先輩方からも、公証役場の宣伝、情報発信が難しい一方で、利用されたお客様が直接伝える印象は信頼性が高く、利用された方が同じ世代や同じ悩みを持つ人に「公証役場を紹介してみよう」と言われる役場を目指して、できることから自分なりに工夫して実践するようにとアドバイスをいただいてきました。そこで、経験や実績がない私でもできることは何かと考えて、小さなことですが一つ一つ始めてみました。

 その一つが、とにかく名刺を配る。遺言書の作成で施設や病院等を訪れた際には、施設の関係者にも名刺やリーフレットを配布し、公証役場の利用をお願いしてきました。最近では講演会や相談会の依頼もありますので、少しずつ効果が出てきました。ちなみに私の名刺には「QRコード」が印刷してありますが、この「QRコード」を読み取ることでリンク先である役場のメールアドレスが表示されます。アドレス入力が省略できスマホ利用者にはとても好評です。
 もう一つが本年1月から実施しています月1回の「休日無料相談会」です。実施に当たっては、管轄内の3市7町の協力をいただき、毎月の広報に「休日無料相談会の案内」を掲載していただいており、広報を見ての相談も増えてきましたが、何よりも費用をかけることなく、広報の活用により市町民の方々に公証役場を知っていただくことができて、費用対効果の高い取組であると言えます。
 その他にも、些細なことですが土地の地名を正しく読むこと。嘱託人の住所のほか、遺言書では財産として「不動産の表示」を記載しますが、地元の者であれば当たり前である読み方を「当たり前のように読む」、これでも反応は随分と違いました。松阪市内には「駅部田町(まえのへた)」、「白粉町(おしろいまち)」といった、昔の法務局であれば書庫の入り口に「難読よみ一覧」が掲示してあるような地名がいくつもあります。そういった地名を正確に読み上げること、街を散策して拾ってきた情報を活用することも、この土地の公証人であるといった印象を持っていただくことの一つと思います。その他にも、これも先輩方のアドバイスですが、公証役場の環境を整えること、書記の意見を聞きながら、机や待合椅子、パンフレットスタンド等の備品を更新し、消耗品も整備して心地よい空間(役場)を作るように心がけています。公証役場には松阪市以外にも尾鷲、熊野といった遠方からも相談に見えますが、今後は各地域にも足を運び、歴史や文化、暮らす人にも触れていきながら、地元に必要とされ、信頼される公証役場となれるよう日々、努力していきたいと思います。
(津・松阪公証役場公証人 羽田野和孝)

公証人生活を振り返って(竹村 政男)

 平成27年6月に公証人に任命され,長野県佐久市で業務を始めて9年1月の間公証人として業務を行ってきましたが、本年7月1日付けをもって退任辞令をいただき約3ヶ月が過ぎました。
 その間、自宅のリフォームや私自身の入院・手術があり、何かと慌ただしい日々を過ごしていましたが、今後は「無職」生活が満喫できるのではないかと考えています。
 この度,公証人を退任するに当たり,何か記事を投稿してほしいとの依頼を受けましたが,前号(№62号)で鳥取の山本先生、三条の小田切先生も同様の趣旨での投稿があったため、いかがなものかとの思いはあるものの現役の公証人の方々には参考とならなくとも,せめて,公証人生活が始まって間もない方々に参考となる内容となればとの思いから,かすかな記憶をたどりたいと思います。

1 開業当初の時期
 前任者の仕事ぶりを事前研修という形で見ていたものの,いざ本番となると想像していたものと異なり,なかなか仕事がはかどらず,四苦八苦の日々が続いた。
 あちこちの先輩公証人の方に,様々な助言を仰いだことは当然のことだった。
 そのような状況のなか,まだ1か月も経たない時期,夕方の5時間際に一本の電話が架かり,肝心な用件の話は全くなく,かなり失礼な内容の話となり,「どうせドサ回りをしてきたんだろう」あるいは「どうせ仕事も分からないだろうから,せめて司法書士か行政書士を雇って業務をしろ」などと訳の分からない内容の話である。
 業務時間が過ぎている旨を伝えると,あっさりと「失礼しました」と話が終わった。
 同様の電話が2~3本架かってきたが,その後は全くない。ひょっとすると新任公証人に対し冷やかしの意図をもって電話をしている人たちかもしれない。
 また,公証人に任命された年の年末に,成年被後見人の方の遺言依頼があり,2名の医師の方と施設に出張したことがあった。成年被後見人の方の遺言は9年間で1件のみであった。

2 数年経過した時期
 法務局勤務時において,特に最後の10年間程度は,赴任地での勤務が2年から3年間で,次の勤務地への引っ越しの繰り返しであったためか,公証人としての執務期間が3年から4年目頃になると,一カ所でずっと仕事をしていることによる一種の倦怠感が生じてきた。
 緊張感を持って業務に当たらなくてはならないのは当然のことではあるものの,一カ所に留まって仕事と生活をすることができる幸せに感謝しなければならないにもかかわらず,贅沢な感情である
 また,今後数年間を公証人として仕事をすることが,とてつもなく永い期間に感じられたものだった。
 ようやく落ち着いて仕事をすることができるようになってきた時期に,突然コロナの脅威が襲ってきた。
 特にお年寄りが出歩くことを控えたせいか,当事務所の受託件数も激減し,手数料収入が他の月の半分程度となってしまい,事務所を維持するための経費が捻出できず,公証人の蓄えで穴埋めをする状況であった。
 このような状況が数ヶ月継続するようであれば,とても事務所を維持できないのではないかと考えたが,何とか持ちこたえることができた。
 さらにこの時期には法改正・制度改正が相次ぎ,債権法関係・相続法関係と,公証事務に密接な関係を持つ法律が施行されたため,しょぼしょぼした目で改正法を理解するよう努めた記憶がある。

3 終盤の数年間
 コロナ禍の最中に,送別会もできない中,先輩公証人が次々と退任され,いつの間にか公証人としてはベテランと言われるようになってきてしまった。
 ようやく,残りの期間を指折り数えることができるような時期となると,月日の過ぎるのが早くなり,どことなく寂しさを感じるようになってきた。
 特に,あと一年となった時期以降は日々の過ぎるのが早く感じた。
 一言で9年間と言っても,その間には,面談する前に嘱託人が死亡してしまった案件,証書交付当日に死亡連絡が入った案件,面談した際,意思能力が不十分であると判断せざるを得ない案件等があった。また,個人的には体重と処方される薬の種類が増え,手術も2回経験した。
 現役の公証人又は公証人退任後間もなくお亡くなりになる方もおり,とにかく心身の健康が一番大事だと感じている。
 公証事務の電子化あるいは今後の法改正等により,対応が大変だと思うが皆様のご活躍を一民間人として応援しています。
   (長野・佐久公証役場元公証人 竹村政男)

実務の広場

このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.103 死亡保険金請求権(死亡保険金)を信託財産とする遺言信託について(大谷勝好)

1 はじめに
v高崎公証人合同役場に勤務し3年目となります。当役場では、遺言信託は、極めて少ない状況ですが、今般、あまり例のない事案の嘱託がありました。嘱託は、遺言、任意後見契約、死後事務委任契約の依頼です。遺言の内容は、第三者に全ての財産を遺贈するとともに、遺言者が加入する生命保険の死亡保険金受取人を、遺言執行者に変更し、死亡保険金請求権及びその保険金を遺言により、遺言執行者を受託者として信託するものです。参考になればと思いご紹介します。
2 事案の概要
 本件は、遺言者の信頼している人物Aが遺言執行者及び任意後見契約・死後事務委任契約の受任者となっている。
(1)遺言の内容
① 遺言者は、一人息子の長男が死亡し、長男の婚約者であったBに世話になっているので、財産を換価・換金し、葬儀費用、債務、執行に必要な費用等(以下「各種費用」という。)を控除した残金を、Bに遺贈する。
➁ 遺言者が加入している死亡保険金請求権及びその保険金を遺言により信託(受託者はA)し、その信託財産(保険金)を各種費用に充当し、その残金をB(受益者)に給付することを目的とする遺言信託を設定する。
(2) 背景事情
① 実情として、遺言者の上記(1)①の財産だけでは、各種費用の支払いが不足するおそれがある。
➁ 遺言者が加入している生命保険の死亡時保険金受取人は、死亡した長男となっているため、死亡した長男の相続人(詳細は不明)が保険金の受取人となるが、遺言者は、長男の相続人には保険金を受領させたくない。
③ このような場合、遺言で保険金の受取人をBに変更することで足りると考えられるが、その場合、死亡保険金はBに直接支払われるため、遺言執行者のコントロール外となってしまい、各種費用が不足した場合に、保険金を各種費用に充当できない。
④ そこで、遺言信託により、死亡保険金請求権及び死亡保険金を信託財産とし、受託者をAとすることにより、Aが保険金を受領し、その信託財産(保険金)を各種費用に充当し、その残金をB(受益者)に給付することを目的とする遺言信託の嘱託となった。

3 検討
 死亡保険金請求権(保険金)を信託財産とすることはできるかについて、検討しました。
 信託の対象となる財産については、信託法上の制限はないので(年金受給権などの一身専属権は譲渡できないなど、法令上等の理由により譲渡が禁止されている場合を除く。)、死亡保険金請求権(保険金)を信託財産とすることは可能と考えられます。
 また、信託会社においては、「生命保険信託」という商品が取り扱われています。これは、生命保険契約者が、信託銀行等と信託契約を締結し、保険金請求権を信託し、契約者死亡後、信託銀行等が保険金を請求し、受益者に決められた方法により、金銭を交付する仕組みとなっている旨がホームページ等に公開されています。
 また、東京国税局のホームページの文書回答例「保険契約者が死亡保険金請求権を信託財産とする生命保険信託契約を締結した場合の生命保険料控除の適用について」には、次のような仕組みが掲載されています。
①  保険契約者と保険会社と間で生命保険契約を締結
② 保険契約者は、形式上、保険金受取人を自己に変更する意思表示を保険会社に対して行った上、信託銀行との間で本件信託契約を締結する(当該意思表示は、信託における信託財産は委託者(保険契約者)が処分できる財産であるという信託財産としての適格性を満たすため)。
③ 本件信託契約の締結後、委託者(保険契約者)から保険会社に対し直ちに保険金受取人を信託銀行に変更する意思表示を行う。
④ 被保険者の死亡による保険金支払事由が発生した場合、保険会社から死亡保険金請求権を有する信託銀行に対し死亡保険金が支払われ、以後、当該保険金が信託財産となる。
 以上から、自己の有する死亡保険金請求権(保険金)を受託者(受取人)に移転することは可能であり、また、信託会社の「生命保険信託」においても、死亡保険金請求権及びその保険金を信託財産とする信託契約(自己の有する請求権を受託者に移転する信託行為)が一般的に利用されていることからも、死亡保険金請求権(保険金)を信託財産とすることはできると考えました。

4 対応
 以上の検討の結果、死亡保険金請求権及びその保険金を信託財産とする信託を遺言によって設定することは可能と考えました。なお、遺言公正証書は下記の事項を記載して作成しました。
① 全財産(信託財産を除く。)を、清算型でBに遺贈する。
➁ 死亡保険金の受取人を「A」へ変更(指定)する。
③ 死亡保険金請求権及びその保険金を信託財産とする信託の設定
④ 遺言執行者を弁護士法人に指定
 この原稿を書きながら改めて考えると、②の手続は、正に死亡保険金請求権等の財産権を委託者から受託者に移転する信託行為と考えられます。そうであるならば、②と③は記載順を入れ替えたほうが理論的に適っていると考えられます。なお、遺言執行者による保険給付請求権限の有無については否定的な見解がある(日本公証人連合会「証書の作成と文例」遺言編三訂版148ページ)ことにも留意を要すると考えます。

5 おわりに
 上記のとおり検討し作成しましたが、検討すべき事項、記載事項が十分であったかは、心もとない部分があります。皆様からのご指導等をいただけたら幸いです。
 公証役場には、高齢化社会を反映し、様々な遺言、任意後見契約、死後事務委任契約等の嘱託がされています。今後も、多様なニーズに対応できるよう適正な公正事務に努めていきたいと考えています。
(前橋・高崎公証人合同役場公証人 大谷勝好)

民事法情報研究会だよりNo.62(令和6年7月)

向暑の候、会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 去る6月15日(土)に、定時会員総会、セミナー及び懇親会を開催いたしました。ご参加いただきました会員の皆様、誠にありがとうございました。
 今年の梅雨は、全国的に例年より1週間から10日程度遅れたものの、梅雨明けの時期は例年並みになるようで、降るときはザッと降り、晴れると危険な暑さが隣り合わせとなるようなメリハリ型と予想されています。梅雨入り前にも、線状降水帯による集中豪雨がありましたし、最近の天候は、我々の予想を超えて異常な状態が続いていますので、体調には十分ご留意願います。(YF)

今日この頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

行政書士登録6年目(由良卓郎)

第1 はじめに
 私は、平成30年8月1日付けをもって、福山公証役場公証人を退任しました。
 福山の公証人を拝命した縁から今も福山で暮らしています。
 公証人退任を前に、公証人退任後どう暮らしていくかを考えた末、公証人の経験が活かせるとの思いで家事調停委員の申込みをし、同年10月から4年間、広島家庭裁判所福山支部で家事調停委員をさせていただきました。
 公証人は、主に当事者間で合意したことを公正証書にしますが、調停は、当事者間で合意できなかった事案について当事者双方から個別に事情を聴きながら合意を目指す作業をします。したがって、公証人としてはあまり接することのなかった、合意できない多様な事情に接することになります。つらくも貴重な経験をさせていただきました。
 調停委員任命当初は担当事件が少なかったこともあり、行政書士登録をすることにしました。事務所を探して回り、裁判所の前に以前司法書士事務所だった貸事務所を借りることができました。
 行政書士登録申請前に事務所を確保する必要があったことも影響し、行政書士登録は平成31年1月15日となりました。改めて事務所を借りた上、照明・空調設備の整備、机・キャビネット等備品の整備、各種図書の整備等を要したため、当初想定した以上の費用がかかってしまいました。
 さて、皆様も行政書士がどういう仕事をするかは、ご経験はなくても大体はご存知のことと思います。行政書士の仕事は、多種多様で幅が広く、おもしろいという表現が適切かどうか分かりませんが、飽きない仕事だと思います。
 開業当初、「先生は何をやるんですか」との質問を受けることが多かったように思います。私は当初その意味が分からなかったのですが、行政書士の仕事は、幅が広く法改正や制度改正に注意を払う必要があることなどから、建設業専門にやるとか入管業務専門にやるなど、次第に専門化していく人が多いようです。
 さて、これら幅広い仕事についての研鑽の機会ですが、広島県行政書士会では、主な業務ごとに協議会があり、定期的に研修が実施されています。
 私は、既に退会したものも含めると、国際業務協議会、成年後見・民事信託協議会、建設業協議会、相続実務協議会に加入しています(又は、いました)。
 各協議会とも年会費がありますし、研修も広島市内で開催されることが多いので、多くの協議会に加入し、その全ての研修を受けることは、時間的にも経済的にも負担になりますから、ある程度方向性を決めていかざるを得ません。
 以下において、私の所属した協議会や近況などについて少しお話したいと思います。時間のある方はお付き合い下さい。

第2 国際業務協議会
 行政書士は、中・長期在留外国人に代わって、地方出入国在留管理局(以下「入管」と称します)に我が国での在留に関する申請手続、いわゆる申請取次業務を行うことができます。しかし、そのためには、所定の研修を受け、研修の効果測定を受け、その結果所定の効果が認められて、管轄の入管局長名でピンク色の「届出済証明書」(通称ピンクカード。身分証明書のようなもの)を交付してもらう必要があります。
 これは、外国人の在留資格の取得や変更など、入管への申請手続を取り次ぐことのできる資格証になります。申請取次行政書士として入管に書類を提出するときは必ずこのカードを見せなければなりません。
 私もピンクカードを持っていますが、ピンクカードの交付を受ければ、その日から先輩方と同じように実務ができるわけではありません。それで、国際業務協議会に入会し、入管制度や入管への申請手続についてのノウハウなどを教えていただいたり、交友関係を広げたりして研鑽を積みます。
 私は、これまで、在留資格認定証明書交付申請や在留資格変更許可申請など、一通りの入管申請手続を経験することができました。

 登録支援機関(TSF)の設立

 技能実習制度の見直しが検討されていることはご存知のとおりですが、その流れの中で、特定技能制度が新設され、平成31年4月に施行されました。在留資格「特定技能」は1号と2号があります(介護は1号のみ)が、最初に取得するのが特定技能1号です。1号特定技能外国人は、所属機関(雇用主)又は登録支援機関の支援が必要です。支援をする担当者や責任者になるには、所定の期間就労外国人の受入れ・管理実績や相談業務従事実績などを有することが必要とされています。
 行政書士登録(開業)後早々に受けた研修が国際業務の研修であったこともあり、この研修を受講していた某行政書士から国際業務を勧められました。私も、たった今受けた研修で国際業務は十分に需要があると聞いたこともあって、勧められるままに国際業務をやってみることにしました。それで、大阪まで行って申請取次の研修を受け、申請取次行政書士の資格を取りました。その後、同じ行政書士の誘いもあり、申請取次行政書士有志で、1号特定技能外国人を支援する登録支援機関を設立することになり、令和元年5月に「一般社団法人特定技能サポートセンター福山」(略称「TSF」)を設立しました。
 そして、数年を経て、私も支援担当者、支援責任者になることができ、3つの特定産業分野の業務に従事する3か国の1号特定技能外国人の支援を受け持っています。
 なお、TSFが支援する外国人及び企業の数は少しずつですが増えており、現在4つの特定産業分野の業務に従事する4か国の1号特定技能外国人を支援しています。

第3 建設業協議会
 建設業者が一定程度以上の規模の建設業を請け負うには、都道府県知事又は国土交通大臣の許可を得る必要があります。許可を得た建設業者は、毎決算期後所定の期間内に定期の届出(決算変更届)が必要ですし、5年ごとに更新も必要です。
 行政書士は、こういった許可申請手続や定期届出手続などを業務として行いますが、建設業の種類や、建設業の許可に必要な資格を有する者が会社にいるかどうかなどによって、許可申請に必要な書類が異なってきます。
 したがって、建設業についても、行政書士登録をすれば直ちに実務ができるわけではなく、協議会に入会し、研修を受講するなどして研鑽を積んだり、人間関係を広げたりします。
 私も、これまで、複数の会社から許可申請、更新申請、定期届などの依頼を受けています。

第4 成年後見・民事信託協議会
 行政書士も、任意後見契約の作成支援や、民事信託(家族信託)契約の組成支援などを行っていますが、成年後見人を引き受ける人もいます。
 この協議会では、任意後見契約を含む成年後見制度や民事信託契約などについて、会員のほか、学者、公証人、民事信託に詳しい他の専門士業などに講師をお願いするなどして研修を実施しています。私も何度か講師を引き受けたことがあります。
 成年後見制度に取り組む行政書士の団体として、公益社団法人コスモス成年後見サポートセンターがあります。日本行政書士会連合会により設立された法人で、高齢者、障がい者の財産管理、身上保護を行ってサポートしています。
 コスモス成年後見サポートセンターに入会するためには、入会前に、数日間にわたり専門研修を受け、効果測定を受けます。効果測定で所定の効果が認められれば、入会前研修の修了証を交付してくれます。そして成年後見人を受任する人は、通常コスモス成年後見サポートセンターに入会します。任意後見契約書もコスモス成年後見サポートセンターの文案があるようです。
 私は、成年後見人の業務を知りたいと思い、入会前研修を受け、修了証をいただきましたが、実際に成年後見人をお受けするのには、少々年齢を重ねすぎていると思い、コスモス成年後見サポートセンターには入会していません。

第5 相続実務協議会
 相続手続未了のため登記簿上現在の所有者が分からないという所有者不明土地の増加により、災害復旧工事や防災工事に支障を来していることなどから、相続法改正のほか、自筆証書遺言の法務局保管制度、相続登記の義務化、相続土地の国庫帰属制度等々、新たな制度が矢継ぎ早に導入されてきたところですが、相続実務協議会では、遺言や遺産分割だけでなく、こういった新たな制度についても研修を行っています。
 私は、当初この協議会には加入していなかったのですが、お誘いを受けて加入し、更には代表を頼まれ、現在代表二期目になります。相続実務協議会に加入後日も浅いことから、いまだに役員の皆さまに助けていただいています。
 当然ですが、私も講師となり、改正相続法、相続・遺言制度、相談の受け方等々、いろいろな資料を漁りながら公証人とは異なる立場も含めて研修資料を作成しています。
 研修資料作成の際は、原典を確認するために図書館に行ったり、図書を購入したり、発行元に確認したりします。定期刊行物は発行元に確認しても入手できないことがあるため、最終手段として公証役場や法務局支局にお願いして確認することもあります。
 研修資料の作成を通して勉強することも多く、研修講師をお受けする一番の成果は私自身の研鑽にあるように思います。
 士業に身を置き、いくつかの公証人にお会いした経験や、講師たる私の説明に対する受講者の反応などから、同じ公正証書を作成する場合でも公証人によって違いがあることを知ることもあります。その違いは当然理由があってのことと思いますので、私だけの経験で説明しないよう配慮し、固定的な説明は避け、幅のある説明をしなければならないと思っています。

つなぐテラスひろしま(TTH)の設立
 相続の相談を受けていて思うことは、老後や病気・認知症などに備えて、しかるべき準備をしていなかったために、相続手続などで大変な思いをする人が一定数存在するということです。
 例えば、親や兄弟が亡くなったという方からの相続の相談では、共同相続人の中に、認知症の人がいたりします。
 被相続人が遺言をしていれば相続手続ができたのに、遺言がないために遺産分割協議が必要になったり、遺産分割協議のために成年後見人の選任が必要になったりします。しかし、今の制度では、成年後見人は一度選任されると、認知症が改善するか本人が死亡するまで外れず、後見人の報酬も発生し続けます。資産のある人にとっては大きな問題ではないかも知れませんが、資産のない人や、資産があっても、その資産を頼りに暮らしている家族がいる場合は、結構大きな問題だろうと思います。
 このようなことから、少しでも多くの人に「老後に備えてどんなことをしておけばよいか」、「何らかの準備をしておかなければならない状況にあるのではないか」、といったことを知っていただきたいと常々思っていました。
 しかし、福山市民としての経験も、行政書士としての経験も浅い者の頑張りには限界があります。それで、趣旨に賛同してくれる行政書士数名と令和4年に「一般社団法人つなぐテラスひろしま」(略称「TTH」)を立ち上げることになったのです。
 TTHは、こういった老後の備えについての周知活動とともに、遺言書作成支援、遺言執行、任意後見契約等の作成支援、任意後見人の受任などを通して地域の社会福祉の向上に資することを主な目的としています。
 岡山には、同趣旨で設立された「一般社団法人晴ればれ岡山サポートテラス」(以下「サポートテラス」という)がありますが、サポートテラス様との交流会を通しての研鑽も積んでいます。
 現在、手弁当で広報活動をしています。皆が個人事業主としての行政書士業務を行いながらの活動ということもあって、思うような成果は上がっていませんが、引き続き周知活動、支援活動に尽力して参りたいと思っています。

第6 終わりに
 自筆証書遺言の法務局保管制度が始まって4年になります。
 私は、行政書士として遺言の相談を受けたとき、公正証書にするか自筆証書にするか、自筆証書の場合は法務局保管制度を利用するか等について、そのメリット・デメリットを説明するなどして、相談者に検討していただきます。
 自筆証書遺言や法務局保管制度は、私の認識に誤りがなければ、積極的には勧めにくいと思っています。もう少し使い勝手がよくなれば、利用者は増えるのではないかと思っています。
 もちろん、公正証書遺言に勝るものはありませんので、相談者には、そのメリットをキチンと説明しています。
 福山は、ばらのまち福山としても有名です。歴史的な経緯は省きますが、100万本のバラを目標にバラの植栽を進めてきたところ2016年に100万本が達成されたとのことです。
 バラの季節になると、駅前だけでなく、バラ公園、緑町公園など随所にバラが咲き誇り、写真を撮る人も多く見かけます。
 その「ばらのまち福山」で、老後の備えの周知活動や外国人の在留支援など、少しでも地域のお役に立てるよう、もうしばらく頑張ってみようかなと、いまも定時出勤しています。
(行政書士由良事務所代表 元広島・福山公証役場公証人 由良卓郎)

5年をふりかえって(山本芳郎)

 早いもので就任して5年が経過しました。覚えることが多く、事務処理に右往左往しながらの毎日だったせいか、法務局時代の5年よりも時の経過が早かったように感じます。さて、生来、これといった趣味もなく、身を助けるような特技も芸もありませんので、思いつくまま、以下のとおり、近況を報告します。

1 はじめに
 当役場はJR鳥取駅から徒歩2分の雑居ビルの5階にあります。鳥取駅は県庁所在地の駅なのに自動改札機のない駅で、毎朝、改札にいる駅員の朝の挨拶を受けて出勤しています。役場事務室からは駅ホームの全容を見下ろすことができ、また、鳥取平野を一望する久松山(263㍍)とその麓にある鳥取城趾を遠望できます。当役場の利用者の多くは鳥取市と近隣の4町(1市4町の住民人口は約22万人)の方です。「鳥取」という地名は、かつて、水鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥取部(ととりべ)」が置かれていたことに由来するといわれています。
 法務局退職を機に郷里に戻り、40年前に自ら住む予定で建築した自宅から約1時間をかけて通勤しています。毎日定刻に起床し、お袋(93歳)の弁当を手に持って、野鳥の囀りが聞える無人駅からワンマンカーに乗り、帰りは漁り火を眺めながら帰宅し、ほぼ定刻に就寝、という規則正しい日々を送っています。台風や強風、大雨、大雪による警報が発令されるときはJR運休に備えて役場近くのホテルに宿泊(年間十数回)しています。

2 取扱い事件「雑感」
 就任後5年が経過するものの、未だに、付箋やインデックスの付いた文例集を机に広げて、アンダーラインや判読に苦労するメモ書を見ながら嘱託事件に向き合っています。
 当役場の取扱い事件数は都市部の役場とは比べようもありませんが、それなりに頭を悩ます事案も舞い込んできます。対処方針が決まらない事案については、本誌の索引を紐解き「実務の広場」から多くの示唆を得ており、ありがたいことだと感謝しています。
 取り扱う事件の種類は、遺言、離婚、債務承認弁済、任意後見、保証意思、その他の事件と続きます。文字盤を使用して作成したALS罹患者の死因贈与契約、医師立会いの下で作成した統合失調症罹患者の遺言や遺言者死亡で作成できなかった残念な事案も経験しました。事件の進行管理表から、記憶に残っている事案を拾ってみました(呟きなので文体はご容赦ください。)。

 涙してしまった
「・・ちょっとスイマセン」と言って相談室を出て、ハンカチで目元を拭って深呼吸し、再び相談室に戻った。証人二人(法務局出身の先輩OB)が心配そうに私を見ている。事前に何度か通読したボリュームのある付言を読み上げている途中で、亡親父が私に語りかけているような錯覚に陥り、瞼に涙が溢れ活字が読めなくなってしまった。

 (1)見直しを待っています
 「この内容でホントにいいのですか」と、付言の内容を遺言者に再確認した。先の遺言を撤回して改めて遺言する動機を、同居する長男の嫁の行状のせいにする内容の付言であり、再考を求めたが修文の返事はなかった。帯同している娘(新遺言で相続財産が大幅増)の意向を多分に反映したものと推察したが、原案のまま作成した。遺言見直しの再訪を待っている。

 (2)受け取ってしまった
 「息子が喜んでくれました。これはお礼です」と、左手に杖を、右手に小さな菓子折を持ったおばあさん(80歳半ば)がカウンター越しに立っている。過日、先祖代々の田畑を守っている長男に財産全てを相続させる遺言を作成した女性である。山間部にある自宅から交通機関を利用して役場まで約1時間、駅前にある和菓子屋の菓子を持参したとのこと。「お礼」はいつも丁重にお断りしているが、このときばかりはお断りすることをためらい有り難くいただくことにした。杖をついて歩くおばあさんをエレベータホールまで先導し、「お気を付けて」と、見送った。

 (3)兄弟喧嘩に遭遇した
 「喧嘩は外でして」と、思わず声を出してしまった。独身の叔母が帯同した亡兄の子である甥(兄弟)に相続させる財産の配分方法を話している途中で、亡父の遺産で裁判沙汰になっている兄弟がお互い相手を指弾して罵り出したところで発した一言である。遺産争いは、手にした遺産の多寡ではなく、これまでの(親子)兄弟の感情のもつれに端を発していると、聞いてはいたが、生の「争族」事案に接し、遺言の必要性を実感した。

 (4)他人ごとではない「おひとりさま」
 「人は一人では死ねないですよ」と、高齢の相談者からため息まじりの声。任意後見制度、死後事務委任契約について相談者に説明しているところで、相談者が「身寄りがなく、年金暮らしで蓄えのない者はどうすればいいの」と、言った後の一言である。役場を利用する行政書士から「任意後見制度はお金持ちの制度ですよ」と、言われたこともある。頼れる人がいて前記契約の締結に至る事案はよいが、そうでない相談の方が多いような気がする。独身の私はどのような最期を迎えるのであろうか、他人ごとではない。

 (5)遺言合戦ですか
 「遺言を書き直します」と、弱々しい声で意思表示したのは90歳を超える資産家のおばあさん。持参した公正証書をみると、介護等面倒を看てくれる子どものところを転居する度に新たな遺言を作成している。子どもたちが抱える事情はいろいろあるにせよ、年老いた母親をたらい回ししているようで、なんともやるせない気持ちになった。

 (6)いらぬ一言でした
 「ホントに離婚するの」と、思わず若い夫婦に尋ねてしまった。土曜日には予約制で相談や証書作成の嘱託に応じている。この日も土曜日で、書記のいない事務室内を幼い二人の娘が走り回り、父親は乳飲み子を腕に抱きあやしている。相談時にも夫婦で訪れ、仲良く談笑していた。面会交流の内容も詳細に定めてある。離婚原因等何の事情も知らない他人がいらぬことを言ってしまった、と反省した。

 (7)今思えば気恥ずかしい
 婚約解消による慰謝料支払契約証書を作成した30歳代の女性から、お世話になりました、とのお礼のメールをいただいた。相談から始まり何度かメールのやり取りを経て内容を固め契約に至った事案である。お礼のメールに対し、「まだお若い 第2章の始まりです 新しいページにたのしい人生を書き込んでください」と、返信した。今思えば、気恥ずかしい。

 以上、記憶に残る事案のいくつかを記してみました。これまでに経験した事案・処理した事件から学んだノウハウ、反省点、改善点、見直し点を今後にいかしていくことに加えて、相談者や嘱託人の思いに寄り添いつつ、適切な公証事務の遂行に努めたいと考えています。

3 おわりに
 一人役場なので遅刻することも許されず休暇を取得することもかないませんが、嘱託人から報酬をいただきながら、「ありがとう」と、お礼を言っていただける仕事に携わっていることの責任の重さを再認識し、健康に気遣いながら任期を全うしたいと思う今日この頃です。
(鳥取・鳥取合同役場公証人 山本芳郎)

今日この頃(小田切敏夫)

公証人に任命されてから8年余りが過ぎました。薫風漂う中、今年の秋には新たな生活を始めている自分を想像し、心ときめかせながらも、退任を迎えるときまでの事務処理を適正に行えるよう気を引き締め直しているところです。
 そのようなときに本だよりへの原稿依頼を受けましたので、この8年余りの出来事からいくつか私見を含め少しお話しさせていただきます。

1 新型コロナウイルス感染症対策について
 令和2年1月の終わり頃から、新型コロナウイルス感染症の拡大が始まりました。一人公証役場(公証人及び書記が各一人)としては、万が一でも感染すると、公証役場を閉鎖し、業務を一時中断しなければならなくなります。このことにより遺言作成を希望する嘱託人の依頼に公証役場側の事情により応えられなくなります。これまで嘱託人側の事情により、遺言作成を延期し、その間に嘱託人である遺言者がお亡くなりになるという実例を複数回経験していたことから、公証役場を一時閉鎖するという事態は絶対避けなければならないと思いました。
 感染が全国的に拡大する中、日本公証人連合会から、①基本方針、②感染防止の具体策、③感染が判明した時の対応策等が示され、その後、感染防止対策ガイドラインが示されました。当役場では、示されたガイドライン等を参考に①手洗い・うがいの励行、②アルコール消毒液の設置、③マスクの着用、④アクリル板の設置、⑤共用するテーブル・椅子等の消毒、 ⑥都道府県をまたぐ移動の自粛等を実施し、今日に至るまで危惧する事態はどうにか回避できましたが、新型コロナウイルスの感染法上の位置づけが5類感染症に移行された後も、7か月間に全国で約1万6、000人が亡くなっているという新聞報道に接しました。5類への移行に伴い、先のガイドラインは廃止されていますが、引き続き感染症対策に配慮する日々が続きそうです。
 一人公証役場では、ほとんどの役場で業務継続を最優先し、自身及び書記の健康に留意するとともに、年休がありませんので親族の冠婚葬祭の際にも日程調整を行っていると承知しています。この点につき、今後予定されている公証業務のデジタル化により、役場間の連携を図り、将来的には業務継続にも繋がる事務処理体制が構築されることを願っています。

2 公証業務のデジタル化について
 政府の「デジタルによる質の高い公共サービスの提供」という方針の下、公証業務は今までにないスピード感で電子化・デジタル化が進んでいます。令和5年6月には、公証人法が一部改正され、公正証書の「原本」は今までのように紙で作成されたものではなく電磁的記録で作成されたものに替わることになりました。また、嘱託人と公証人との面談もウエブ会議の方法によることが可能とされました。具体的な事務の運用については、今後の省令の制定を待つことになりますが、日本公証人連合会では、関係機関・団体と令和7年9月末までに全国の公証役場で実施可能な状態とするために電子公正証書システム(電子公正証書作成システム及び電子公正証書の保存管理システムの総称)の全体構成とセキュリティについて検討を進めています。私が公証人に任命された平成27年頃は、公証業務に係る「電子化」は、電子私署証書の認証、電子定款の認証、電子確定日付の付与、電子版遺言登録システムによる遺言公正証書の二重保存くらいだったのではないかと記憶しています。当時はまだ全ての公証役場が電磁的処理を行う「指定公証人」に指定されていた訳ではなく(その後、平成30年9月3日から全ての公証役場で電磁的記録に関する事務を取り扱うことになりました。)、公証業務に関する嘱託人又は公証人連合会との連絡は、ファクシミリ及び電話が多かったと記憶しています。現在、嘱託人との連絡は一般のインターネットを通じて行うことが多くなりました。また、公証人連合会からの有益な各種情報の入手や各種帳票等の報告は専用のWebグループウェアで行うことになっています。さらに電子確定日付の付与に関しては、電子確定日付センターが設置(令和2年8月3日)され、遺言公正証書の二重保存に伴う遺言検索を各公証役場で行う(令和5年1月)ことになりました。中でも電子定款の認証ついては、制度の変更が多岐にわたり行われ「実質的支配者となるべき者の申告制度(平成30年11月30日)」、「テレビ電話等による認証手続(平成31年3月29日)」、「定款認証と設立登記の同時申請制度・スーパー・ファストトラック・オプション制度(令和3年2月15日)」、「定款認証手数料の改定(令和4年4月1日)」、「手数料のクレジットカード決済(リンク決済)の導入(令和4年4月1日)」、「定款認証の48時間以内処理(令和6年1月10日東京・福岡で試行的実施)」、「面前確認におけるウエブ会議(テレビ電話)の原則化(令和6年3月1日)」等が実施されています。当然のことですが、これらの変更にあたっては、システムの改修や操作方法の習得が必要になります。昭和の半ば世代としては、これらシステムの改修や操作方法の習得に苦労した思いがありますが、今後はデジタル機器の操作習得が益々重要になってくるものと考えています。
 今後予定されている公証業務のデジタル化により、嘱託人との面談もウエブ会議の方法によることが可能とされていますので、嘱託人の本人確認や嘱託人の真意等の確認をどのように行っていくか悩ましいところです。公証制度は、私的法律生活の安定と私的紛争の予防を図るものといわれています。本人確認や嘱託人の真意等の確認方法等について、これまでの経験と制度改正後の経験を公証人間で十分共有することが求められるものと考えます。各種困難を乗り越え、各役場でデジタル化による業務の効率化を図り、公証制度が安定的に発展していくことを願っています。
(新潟・三条公証役場公証人 小田切敏夫)

近隣公証役場連名での広報活動(山岡徳光)

1 はじめに
 年の瀬も押し迫った令和5年12月某日、隣の新宮公証役場公証人三橋先生から、紀伊民報(本社が田辺市で、主に田辺市を中心として和歌山県南部へ地域情報を発信している地方新聞)に、ゴールデンウィークを中心に「遺言」を題材とした連載記事を掲載してもらえそうであり、田辺公証役場と連名での広報に協力してもらいたいとの連絡を受けました。
 三橋先生は、地元新聞紙・広報誌への掲載、講演会・相談会などの地域に対する広報活動を積極的に行い、本年5月の第75回日本公証人連合会定時総会において、令和5年度の広報活動が特に優秀と認められ、会長表彰を受けるほどの成果を挙げられているところ、紀伊民報は、新宮公証役場の最寄りの地域である串本町への地域情報の発信も行っていることから、三橋先生は、早くから当職と連携して紀伊民報への連載を意図し、紀伊民報本社へ連載の企画を持ち込んだりしていたところ、三橋先生が串本町での講演会を実施するに当たり、紀伊民報の串本支局に取材依頼を行い、その記者との懇談の中で、公証事務は公的事務であり、紙面に空きがあれば話題は掲載できること、記者から本社に連絡して掲載を可能とするよう働きかけるとのことで、とんとん拍子に広報活動が実現しました。
 三橋先生が広く広報活動を行っていたことから、持ち込み企画が早々に実現したものであり、広報活動を拡大するためには、多方面にわたる積極的な行動が必要であることを感じました。

2 記事掲載までの対応について
 掲載が決定してからは、三橋先生が今までに使用した文案をベースとして、それに当職の意見を盛り込んだ原稿案をQ&A方式で7回分作成しました。
 内容は、①公証人の仕事内容、②遺言が必要な理由、③遺言での相続争いの未然防止、④財産が少ないときや身体が元気な場合の遺言書作成と遺言の変更が可能なこと、⑤遺言の種類、⑥遺言書作成時の意思表示の必要性、⑦作成費用で、できる限り一般の人に分かりやすい文言を使用した原稿にして、新宮公証役場と田辺公証役場の連絡先等を連記しています。
 原稿は、三橋先生が既に作成していた文案を使用したこともあり、当職はあまり悩まずに原稿案を作成することができました。
 そして、令和6年4月17日号を初回として、同年5月22日号まで、計7回の掲載をしていただきました。
 また、本年5月11日(土)には、三橋先生は串本町文化センターで、当職は田辺公証役場で休日相談を実施することとしました。相談会場は紀伊民報の読者エリアを考慮して決定したものです。

3 記事掲載後の反応及び今後の予定について
 読者の皆様からは、新聞記事を読んだことを契機とした相談が田辺公証役場に10件程度ありました。その内容は、今後遺言をするための参考としてのものが多かったですが、具体的に作成までに至った案件も数件あり、広報活動の効果はあったものと考えています。
 休日相談に関しては、三橋先生が4組の相談を受け、当職は、休日相談の予約対応をする中で(田辺公証役場の業務状況から)平日の方がゆっくり相談できる旨を話したところ、全員が平日相談になり、休日相談はありませんでした。
 さらに、今回の掲載が終了したため、お盆時期、公証週間、年末年始の掲載希望を紀伊民報の串本支局の記者に伝えたところ、直接、本社の担当者と面談する機会を設けていただき、本年5月末に、三橋先生と当職でお礼を兼ねて本社を訪ね、打合せを行いました。その席上で、「今回の記事では「作成費用」が一般読者には参考になった。」、「今後、ランダムではあるが記事に空きスペースが出たときは掲載を前向きに検討する。」との回答をいただき、本年7月以降の掲載もほぼ確実になり、広報活動の継続が可能となりました。

4 終わりに
 今回は、隣接役場との連名での広報活動を紹介しました。
 一人での広報活動には限界があると思いますが、複数で協力して、各人の経験やノウハウを出し合えば一人一人の労力を少なくして広報活動の幅が広がると感じました。
 また、余談ではありますが、田辺公証役場の独自の広報活動として、田辺市回覧板や田辺市市民便利帳の広告欄に、日本公証人連合会のマスコットキャラクター「ミネルヴァくん」を本部の了解を得た上で使用した広告を掲載して広報活動を行っています。
 回覧板や市民便利帳は長年に渡り使用するものであることから、地道な公証制度の周知・浸透を期待しています。
 また、公証週間に向けて郵便局の待合スペースを活用したポスター掲示やパンフレットの設置をする広告も予定しています。
            (和歌山・田辺公証役場公証人 山岡徳光)

実務の広場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.102 離婚給付等契約公正証書における養育費の支払期間の終期等の記載について(多田 衛)

 離婚給付等契約公正証書は、作成嘱託を受ける公正証書のうち、遺言公正証書に次いで事件数の多い公正証書であり、ほぼ全ての離婚給付等契約公正証書に養育費についての合意の記載をすることになります。その際、養育費の支払いに関する当事者間の合意内容を尊重しつつ、その認識の不一致を防ぐことと、将来、養育費の不払いが生じたときの強制執行に支障がないよう注意して起案しています。
 日々の実務においは、日本公証人連合会発行の「証書の作成と文例」を参照しながら公正証書を起案していますが、養育費に関する条文については、証書の作成と文例の文例1の2において「第2条(養育費)甲は、乙に対し、丙及び丁の養育費として、離婚届出の前後を問わず、平成○○年○○月から丙及び丁がそれぞれ満20歳に達する日の属する月まで、各人について1か月金3万円ずつを、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の預金口座に振り込んで支払う。振込手数料は、甲の負担とする。」との文例があります。また、養育費の支払期間に関し、「終期は、20歳に達する月までが多く、18歳に達する月までというのもある。さらに、22歳あるいは大学卒業時までとの合意がされることもある。」「なお、「大学卒業まで」との定め方では、大学浪人した場合、大学を中途退学した場合、入学後留年した場合などに、養育費の支払いについて疑義が出る危険があるので、証書作成の場合には、大学卒業予定である「22歳に達した日の属する月」あるいは「22歳に達した後の最初の3月」等の明確な終期を記載すべきである。そして、「その時点で在学中のときは、卒業(あるいは、学業終了等)まで養育費を支払う。」などの合意内容を付加することで対処する。」との解説がされています(証書の作成と文例の文例2の解説)。
 ちなみに、支払終期について「大学卒業まで」というような定めをしたいとの相談があった場合は、当事者に対し、上記解説のような疑義が生じるだけでなく、手続面においても、大学入学以降に強制執行をしようとするときに、大学入学という事実を証する書面を提出して事実到来執行文の付与を受け、改めて送達をしなければならなくなることなども説明した上で、適切な支払終期の定めをするよう努める必要があるものと思われます。例えば、「満18歳に達した後の最初の3月まで養育費を支払う。ただし、大学等に進学した場合は大学等を卒業する日の属する月まで養育費を支払う」という2段階の終期の定めをすることにより、明確な終期が記載されている満18歳に達した後の最初の3月までは単純執行文により強制執行をすることができ、大学等入学以降に強制執行をするときは、事実到来執行文により強制執行をすることになるということが、当事者にとっても分かりやすくなるものと思われます。
 基本的には、前記の文例に準拠して公正証書を作成していますが、嘱託人からの要望を踏まえて、様々な書きぶりをしてきましたので、実際に私が作成した公正証書の養育費の終期の書きぶりをご紹介し、会員の皆様のご参考に供したいと思います。
 おって、胎児及び認知された子の養育費の支払に関する公正証書については、公正証書を作成するタイミング(①夫婦間の胎児が出生する前に離婚公正証書を作成するケース、②非嫡出子として出生した後に認知し、その後に養育費公正証書を作成するケース、③胎児認知をした後、出生前に養育費公正証書を作成するケース、④胎児認知をした後に出生し、その後に養育費公正証書を作成するケース)によって、書きぶりを変えていますので、併せてご紹介することとします。
 (名古屋・春日井公証役場公証人 多田 衛)

【養育費の終期の定めの類型】・【胎児及び認知された子の養育費の定めの類型】

第1 子の年齢で特定したもの
 ① 18歳まで
 ② 18歳3月まで
 ③  20歳まで
 ④  22歳3月まで
 ⑤ 15歳まで及び22歳3月まで(変額)

第2  具体的な年月で特定したもの
 ① 年月を特定
 ② 年月を特定し変額
 ③ 成年と未成年の場合

第3 終期を短縮する旨のただし書きをしたもの
 ① 22歳3月まで(大学進学しなかった場合短縮)
 ② 22歳3月まで(22歳3月より前に卒業した場合短縮)

第4 胎児の養育費を定めたもの
 出生前に離婚するケース

第5 認知した子の養育費を定めたもの
 ① 出生→認知→公正証書のケース
    胎児認知→公正証書→出生(予定)のケース
    胎児認知→出生→公正証書のケース

第1 子の年齢で特定したもの
例1-①
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満18歳に達する日の属する月まで、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

例1-②
第○条 甲は、乙に対し、丙、丁及び戊の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙、丁及び戊がそれぞれ満18歳に達した後の最初の3月まで、各人について1か月金○円ずつを、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

例1-②参考  (※3月中に満年齢に達する場合)
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満18歳に達する3月まで、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

例1-③
第○条 甲は、乙に対し、丙、丁及び戊の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙、丁及び戊がそれぞれ満20歳に達する日の属する月まで、各人について1か月金○円ずつを、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込む方法により支払う。

例1-④
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満22歳に達した後の最初の3月まで、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

例1-⑤
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満15歳に達する日の属する月までは1か月金○円を、また、満15歳に達する日の属する月の翌月から丙が満22歳に達した後の最初の3月までは1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

第2  具体的な年月で特定したもの

例2-①
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から令和○○年○月まで、毎月末日限り、金○円を乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。振込手数料は、甲の負担とする。

例2-②
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から令和○○年3月までは1か月金○円、令和○○年4月から丙が満20歳に達する日の属する月(令和○○年○月)までは1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。振込手数料は、甲の負担とする。

例2-③ (1人は成年)

第2条 甲は、乙に対し、離婚届出の前後を問わず、長女 ○○(※成年に達している子、以下「丙」という。)の養育費として、令和6年○月から令和○年○月まで、1か月金○円、丁(※未成年の子)の養育費として、令和6年○月から令和○○年○月まで、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

第3 終期を短縮する旨のただし書きをしたもの
例3-①
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満22歳に達した後の最初の3月まで(ただし、丙が高校を卒業後、大学、短期大学、専門学校等の高等教育機関(以下「大学等」という。)に進学しなかった場合は、高校を卒業する日の属する月まで。)、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

例3-②
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、令和6年○月から丙が満22歳に達した後の最初の3月まで(ただし、丙が、満22歳に達した後の最初の3月より前に大学等を卒業した場合は、大学等を卒業した日の属する月まで。)、1か月金○円を、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込んで支払う。

第4 胎児の養育費を定めたもの
例4-①  (出生前に離婚するケース)
第○条 夫 甲と 妻 乙は、本日、協議離婚すること及びその届出は乙において速やかに行うことを合意した。
2 甲と乙は、甲と乙間の子である乙の胎児(令和○年○月○日出産予定、以下「丙」という。)について、乙が親権者となり監護養育することを確認した。
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、離婚届出の前後を問わず、丙が出生した日の属する月から丙が満20歳に達する日の属する月まで、1か月金○円の支払義務があることを認め、これを毎月末日限り、乙の指定する口座に振り込んで支払う。

第5 認知した子の養育費を定めたもの
例5-① (出生→認知→公正証書のケース)

(認知の事実)
第○条 甲は、令和6年○月○日に、乙(本籍 愛知県春日井市○○番地、筆頭者 乙)の長男 ○○(令和5年○月○日生、以下「丙」という。)を認知した。

(養育費等についての合意)
第○条 甲と乙は、本日、丙の養育費等に関して次条以下のとおり契約を締結した。

(丙の養育費)
第○条 甲は乙に対し、丙の養育費として、令和6年○月から丙が満20歳に達する日の属する月まで、1か月金○円の支払義務があることを認め、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込み支払う。

例5-② (胎児認知→公正証書→出生(予定)のケース)
(養育費の合意)
第○条 甲と 乙は、本日、乙の胎内にある子(令和6年○月出産予定、以下「丙」という。)の出生後の養育費に関して次条以下のとおり契約を締結した。
(胎児認知の事実)
第○条 甲は、丙が甲・乙間の子であることを認め、乙の承諾を得て、令和6年○月○日に、乙の本籍地である愛知県○○市役所に胎児認知届を提出した。
(丙の養育費の支払)
第○条 甲と乙は、丙が出生した場合に、乙が丙を引き取り、監護養育することを確認した。
2 甲は、乙に対し、丙の養育費として、丙が出生した日の属する月(予定 令和6年○月)から丙が満20歳に達する日の属する月(予定 令和26年○月)まで1か月金○円の支払義務があることを認め、毎月末日限り乙が指定する金融機関の口座に振り込み支払う。

例5-③ (胎児認知→出生→公正証書のケース) 
(認知の事実)
第○条 甲は、令和6年○月○日に、乙の長男 ○○(令和6年○月○日生、以下「丙」という。)を胎児認知した。
(養育費等についての合意)
第○条 甲と乙は、本日、丙の養育費等に関して次条以下のとおり契約を締結した。
(丙の養育費)
第○条 甲は、乙に対し、丙の養育費として、令和6年○月から丙が満18歳に達した後の最初の3月まで、1か月金○円の支払義務があることを認め、毎月末日限り、乙の指定する金融機関の口座に振り込み支払う。

民事法情報研究会だよりNo.61(令和6年4月)

 若葉の緑が目にも鮮やかな季節となり、花の便りが相次ぐ今日この頃、会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 最近の報道では、「はしか(麻疹)」が世界的に流行し、国内でも感染が広がる可能性があるとして、厚生労働省がワクチン接種などの感染対策に取り組むよう呼び掛けているとのことです。2回のワクチン接種で95%以上の人が免疫を獲得できるので、ワクチン接種が極めて有効な手段とのことです。
 この年齢になっては、その昔「はしか」に罹ったか、予防接種を受けたかが気にはなるものの、記憶も記録もなく、知る由もありません。少し様子を見て、感染が拡大したなら予防接種を受けることも考えなければならないのかもしれないと思っています。(YF)

今日この頃

新設公証役場開設までの道のり(中村雅人)

1 はじめに
 令和4年11月1日、静岡県焼津市に所在する焼津公証役場の公証人として勤務し始めてから、1年余りが経過しました。勤務開始当初は、嘱託人からの相談や公正証書の作成等を行うに当たり、どのように対応してよいのかよくわからず、かなり疲弊していましたが、先輩公証人の皆様に、その都度、案件を相談しながら事案を処理することにより、何とか今まで乗り切って来ることができました。最近になってようやく、少しずつではありますが、業務処理のペースがつかめてきたような気がしているところです。
 私の勤務する焼津公証役場を紹介させていただきますと、
① 当役場が置かれている静岡県焼津市は、東京から西へ約190㎞、名古屋から東へ約170㎞で京浜地区と中京地区のほぼ中間に位置しています。市内には、主要交通機関として、JR東海道本線の焼津駅、西焼津駅があり、東名高速道路の焼津ICと大井川焼津藤枝スマートICがあります。この地域は温暖な気候であり、冬に雪が降ることはまずないとのことです。焼津市に隣接する藤枝市には、静岡地方法務局藤枝支局があり、同支局の不動産登記管轄区域は、藤枝市、焼津市、島田市、牧之原市、榛原郡吉田町及び榛原郡川根本町の4市2町となっており、これらの市町全体は、志太榛原(しだはいばら)地域と呼ばれており、焼津公証役場の利用者のほとんどは、同地域に在住する方々です。
② 焼津公証役場の事務所は、平成20年11月に焼津市に合併した旧大井川町の町役場(現在は、焼津市役所大井川庁舎)内に設けています。JR焼津駅、西焼津駅、藤枝駅のいずれの駅からも、8㎞から9㎞ほど離れた場所にあり、公共交通機関としては、JR焼津駅前から大井川庁舎行きの路線バスが、約30分間隔で運行されています。
 さて、焼津公証役場は、令和4年11月1日に新設された公証役場であり、役場の開設まで、その準備を全て自分一人で行わなければならず、開設までには、それなりに苦労がありましたので、次回、新たに公証役場を開設される方への一助になればと考え、以下のとおり、開設までの道のりを書き留めることとしました。

2 公証人の公募
 令和3年12月初旬、公募先の焼津市等について説明を受けました。その内容は、「任命時期は令和4年11月。前任者はおらず、役場は新設とのこと。詳細は、今後示される予定である。」とのことでした。
 法務省ホームページに掲載されていた「公証人法第13条ノ2に規定する公証人の選考に関する公告」を見て、「採用予定地:静岡地方法務局藤枝支局管内 焼津市、採用予定人員:1人、採用予定年月日:令和4年11月1日」であることを確認しました。その公告で、他の採用地における採用予定年月日の多くが令和4年7月、8月、9月となっているのに対し、焼津公証役場については、11月となっているのは、新設だからきっと開設までの準備期間を考慮しているのだろうと思いました。そして、新設の公証役場ということもあって、複数の応募者が出ることは間違いないだろうから、試験のための勉強をしっかりやらないといけないとも思いました。
 結果として、公募については競合したらしいのですが、筆記試験の実施までには至らず、令和4年2月に実施された口述試験までの間、時間を作って勉強するように努めました。同年3月に法務省から公証人として採用の内定通知を受けたときは、ほっとしました。

3 自宅住居の選定
 令和4年3月末までに関係者から入手した情報によると、新設される公証役場を置く場所は予定されている(私が不動産物件を探す必要はない。)とのことでした。私は、JR焼津駅近辺に公証役場が置かれるのだろうと勝手に想像していましたが、実際は、上述のとおりJR焼津駅から9㎞ほど離れた焼津市役所大井川庁舎に置かれることがわかりました。
 そこで、3月下旬の休日に、レンタカーを運転して現地に行ってみると、大井川庁舎の周辺には公民館、消防署、図書館、そして約1000人収容可能のホールを持つ立派な文化会館があるほか、庁舎のそばに銀行や信用金庫もあるものの、毎日の生活の本拠を置く場所としては、少し不便と感じたことから、私は、静岡市内にアパートを借り、役場には、電車とバスを利用して通勤(所要片道約1時間)することに決めました。
 3月末の法務局退職から役場開設の11月まではかなり期間はあるものの、退職後すぐに静岡に引っ越すこととし、家族の協力も得て、短期間のうちに物件を探し、4月3日には、退職時に居住していた公務員住宅から直接、静岡市内の駅近物件のアパートに引っ越しました。通勤するに当たり、電車の遅延や台風等での運休の際に対応できるか不安もありましたが、公証人となってから今のところ、通勤面でのトラブルは生じていません。
 なお、近年、公共交通機関は台風などにより交通障害が起きそうな場合には、事前に計画運休等の情報を知らせてくれるので、そのような場合には、焼津市内のホテルに宿泊することにより対応しています。

4 退職直後の生活
 令和4年3月31日に法務局を退職し、4月に静岡に移り住んでから、5月末までの間は、先輩公証人の事務所をいつくか訪問し、公証人としての仕事を間近で拝見させていただくことができました。その際、私は、役場の開設に当たり参考とするため、各役場のレイアウト、必要となる備品、図書、消耗品、各種帳簿類、ゴム印等を細かく把握するよう努めました。

なお、訪問させていただいた先輩公証人の中には、役場新設に必要となると思われる物品等をメモにして準備していただいていた方もおり、とてもありがたく感じました。

5 焼津市・法務省・法務局の打合せ会
 公証役場開設に向けて実質的に動き出したのは、令和4年5月30日に大井川庁舎で行われた焼津市、法務省、法務局の各担当者による打合せ会からでした。当日は、焼津市総務部長、同市管財課長、同課管財係長、法務省民事局付、同局総務課公証係長、静岡地方法務局長、同局総務課長、同課監査専門官及び私が出席し、役場開設に向けての打合せが行われました。
 焼津市担当者から、まず、大井川庁舎(地上3階建)では、1階に市民サービスセンターを置き、住民サービス(戸籍・住民登録、年金等の事務)を行っていること等、庁舎の概要説明がありました。次に、①公証役場の事務室として、大井川庁舎2階の旧町長室(約50㎡)、②書庫として、旧町長室の隣室である旧市史編さん資料室(約40㎡)、③公証人が使用する車両の駐車場(車庫)を有償で使用させること、④公証役場を来訪する者については、大井川庁舎への来訪者用の駐車場を無償で使用させること、⑤光熱水料の負担割合については今後協議すること、⑥事務室となる部屋の経年劣化等に伴う修繕工事(壁紙等の貼り直し等)については、公証役場開設までに焼津市の予算により対応するが、その額については予算の制約があるので、公証人からの全ての要望に応じることはできないことを理解してもらいたい等の説明がありました。

当日の打合せは、公証役場の事務室となる旧町長室で行われましたが、その部屋は、周囲の壁紙が日焼けして茶色っぽく変色しており、床のタイルカーペットも汚れが目立ち、応接セットや打合せテーブルが適当に置かれている感じの物置のような状況で、この部屋を公証役場事務室として使用するためには、一定程度の修繕が必要であり、今後、焼津市担当者との折衝が不可欠となることを実感しました。

6 電話回線、備品、消耗品等の調達
 令和4年6月中旬、電子公証システムを導入する業者の担当者から連絡が入り、電話回線(専用回線)を手配するよう依頼がありました。これを受けて、翌日、NTTに電話をして、回線の手配を依頼したところ、回線敷設は3か月後になるとの回答がありました。そんなに期間を要するのかと驚くとともに、役場開設日直前に慌てることのないよう、様々な準備作業を前倒しで進めていかなければならないと思いました。
 事務室のレイアウトについては、先に訪問させていただいた公証役場のレイアウトも参考にして、およそのイメージをフリーハンドで書いた図を、業者に渡して、必要となるパーティション、カウンター、事務机、椅子などの必要備品のリストアップとレイアウトを提案してもらい、作業を進めていきました。業者の選定については、開業までに業者との打合せを機動的に行う必要があること、また、開業後のアフターサービスも考え、焼津市役所担当者から焼津市内の事務機器を扱う業者を数社教えてもらい、その中から、焼津市内の文房具店を選定し、コピー複合機、電話機、インターネット回線の手配も含めて一括して依頼しました。
 一方、諸帳簿(証書原簿、認証簿、確定日付簿、計算書等)については、漏れのないように注意し、自ら印刷会社に発注し調達しました。また、事務用の消耗品については、文房具店から提供されたカタログを参照し、品名、単価、個数、合計額をエクセルシートにまとめ、文房具店に提出することにより調達しました。この作業は、細かい作業で、途中で嫌になってしまうこともありました。かつて、法務省勤務時代に、法務省浦安総合センターの開設に当たり、予算要求・執行作業を担当しましたが、昔を思い出しつつ、法務局を退職した後も、予算規模は違うも同様の作業をしていている自分に苦笑いでした。

7 書記の採用
 焼津公証役場は新設であることから、書記も新たに採用する必要がありました。公証人の中には、配偶者を書記とする方もいらっしゃいますが、私の場合は、当初からその選択肢は全くなく、一般の方を採用すると決めていました。令和4年11月という中途半端な時期からの勤務となるため、早めに内定したいと考えていました。
 そこで、令和4年5月の上記担当者打合せ会において、法務局総務課長に対し、法務局OBや法務局に勤務経験のある非常勤職員で、焼津公証役場に書記として勤務していただける方を紹介していただけないかと相談したところ、法務局総務課長から心当たりのある方に書記として勤務できないか打診してみるとのお話をいただきました。かなり期待していたのですが、6月中旬に法務局総務課長から電話があり、公証役場の書記の話について断られたとのお話でした。一連のやりとりから、法務局に書記候補者を依頼することは困難であると感じ、その後、開設に当たり法務局に対して依頼することは極力しないようにしました。
 結局、書記の採用については、9月初旬にハローワークで公募したところ、短期間のうちに10人以上の方が応募してくれました。しかし、大半は65歳以上の高齢者でした。数少ない40代、50代の方と面接するものの、やる気の感じられない方ばかりで内定を出すことはできず、途方に暮れていたところ、一人の女性が応募してきてくれました。履歴書を見ると、PCスキルもあり、実用英検2級を取得されている方で、面接を経て、すぐに採用内定を出しました。開業1か月半前にようやく書記を採用することができました。お陰様で、その書記は、現在も勤務を継続してくれています。

8 公正証書遺言作成時の証人の人選
 公正証書遺言の作成時の証人については、遺言者が手配できない場合に、どの公証役場も、証人を引き受けてくれる方を複数用意しているものと思います。前任の公証人がいる役場であれば、証人についても継続して担当していただいているものと思いますが、新設公証役場は、そういうわけにはいきません。まずは、志太榛原地区の司法書士の方に相談させていただき、そこから足がかりをつかみたいと思い、令和4年4月に司法書士の名簿を頼りに、司法書士の方に電話を掛けて相談したのですが、とても冷たい対応でした。自ら何とかして探さなければなりませんでしたが、人選の方法について、よいアイデアは浮かびませんでした。
 公証役場事務室に設置する複合機の営業担当者が、志太榛原地区の行政書士会の支部長をよく知っているということでしたので、挨拶に行き事情を説明し、行政書士の方に引き受けてもらおうとも考えましたが、開業する前から特定の士業者の力を借りるのもどうなのかとの疑問もありました。そんな時、市役所職員のOBの方に依頼することはできないかと思いつきました。
 そこで、公証役場開設準備でいつも対応窓口となってくれているとてもフットワークの軽い焼津市役所の係長に、相談したところ、「4人くらいならすぐに用意できると思います。候補者に当たってみますよ。」と力強い返事をいただきました。翌日、同係長から、「4人に声を掛けて、全員協力してもよいと言っています。」と連絡がありました。10月11日にその4名に公証役場事務室にお集まりいただき、証人の役割や留意事項等につき説明を行い、全員協力していただけることになりました。証人を確保できたときには、とても安堵しました。
 この焼津市役所の係長とは様々な折衝を通じて、相互にコミュニケーションが取れており、それが証人を確保することにつながりました。

9 書記の業務の習得
 私は、当初から、法律関係業務を経験した書記を採用することは困難と予想していましたので、開業前までに私が書記の業務を理解して、開業後、書記に対して指導していかざるを得ないと考えていました。そのためには、私自身がどこかの公証役場において書記の業務を実際に体験させてもらうことが最も効果的と考えていました。
 そんな時、7月に富士公証役場の岩崎公証人から連絡をいただき、同役場で書記の業務を勉強してはどうかと提案がありました。大変ありがたいお話でしたので、是非お願いしたいと申し上げ、7月初旬から9月初旬まで、延べ約3週間、書記の業務を体験させてもらう機会に恵まれました。
 富士公証役場に勤務するベテランの書記の方からは、電話応対、確定日付、計算書、統計、文書の保存等に関する事務、外国文認証における甲用紙、乙用紙、丙用紙の取扱い、遺言検索システム、電子公証システムの操作方法等について、OJTにより教えていただきました。今、考えてみると、富士公証役場におけるこの書記業務の習得は、最も重要であったと感じています。岩崎公証人には、御自身が7月に公証人に就任されたばかりであったにもかかわらず、このような機会を与えていただいたことに、心から感謝いたします。
           

10 公証人の業務の習得
 9月、10月は、公証人の業務の習得のために、袋井公証役場に通い、延べ約2週間、名取公証人(当時。令和5年2月末に退職)から、公証人の業務全般について、指導をいただきました。名取公証人は、公証役場新設のための準備がいかに大変かということを気にかけてくださり、4月の段階から、いろいろ相談に乗っていただきました。名取公証人とはそれまで面識はなかったのですが、とても親切に指導していただきました。また、これまで袋井公証役場において使用した各種の公正証書等の代表的な文例を、データで提供していただきました。さらに、公証役場開設後も、業務を処理するに当たり不明な点について、その都度連絡し、適切なアドバイスをいただきました。開設準備も含め、最もお世話になった名取公証人に対し、心から感謝いたします。

11 開所式
 公証役場開設の直前、令和4年10月30日(土)、焼津市の主催により、開所式が行われました。開所式には、焼津市長、焼津市議会議長、法務副大臣、地元選出の衆議院議員、静岡県弁護士会会長、同司法書士会会長、同行政書士会会長、法務省民事局総務課長、静岡地方法務局長、地元自治会関係者らが出席しました。
 庁舎玄関前で行われたセレモニーでは、焼津市長の挨拶の後、公証人予定者の挨拶、法務副大臣、地元選出衆議院議員を始め、来賓からの祝辞がありました。その後、焼津市の御配慮で庁舎入口の壁に設置していただいた「焼津公証役場」の木製看板の除幕式が行われました。さらに、出席者による焼津公証役場の内覧会が行われました。

12 開設後現在まで
 令和4年11月1日(火)、焼津公証役場が開設、業務を開始しました。初めての仕事は、地元の司法書士が来訪し、父親の遺言があるかどうか確認したいとする遺言検索でした。その司法書士は、焼津公証役場に一番乗りしたいと考えていたようで、役場の開設を大変喜んでくれていました。
 業務を開始して最も苦労したことは、過去に処理した事件の書類が存在しないということです。過去の事例を参考にしようとしても、書類がないことから、事案を処理するに当たり、とても不安に感じました。特に、外国文認証については、どのような形で認証すればよいのかがよくわからないので、嘱託人から、メール、FAX等で認証の対象となる文書を事前に送付していただき、内容を検討してから嘱託人に来訪していただくようなスタイルをとることにより、対応してきました。
 開業から1年余りが経過し、書庫には、各種帳簿が複数蓄積されるようになり、過去の事例を参考にすることができるような環境が少しずつではありますが整ってきています。

13 終わりに
 公証役場の新設は、30数年ぶりということらしく、開設の準備に当たり、過去の事例を参考にすることができなかったことから、何から手をつけてよいのかが全くわかりませんでした。法務局を退職後、4月から開設までの7か月間は、本当に開設できるのかどうか、とても不安な日々を送っていました。公証役場という重要な機関の新設に係る準備作業を一人で行うことがいかに大変かということを思い知らされました。
 役場が開設してから1年余りが経過し、嘱託事件数も1年前と比較すると徐々に増えてきていることを実感します。今後、自分の健康に留意しつつ、地域の皆さんのお役に立てるよう努力していきたいと考えています。
 最後に、焼津公証役場の開設に当たり、いろいろなアドバイスをいただいた皆様に心から感謝申し上げますとともに、今後とも御指導・御鞭撻をよろしくお願いいたします。
    (静岡・焼津公証役場公証人 中村雅人)

未来列車Ⅱ(槇 二葉)

 古川(宮城県大崎市)に来て二年が経ちます。
 古川駅から徒歩数分、陸羽東線(JR東日本)沿いのアパートに住んでいるのですが、線路脇の木杭柵には、昭和の趣きがあります。昔、この辺りに大型スーパーのニチイがあった?とは、全くイメージできない住宅地の風景です。
 陸羽東線は、小牛田駅(宮城県遠田郡美里町(旧:小牛田町))から、古川、鳴子温泉を通り、新庄駅(山形県新庄市)までを結んでいます。
 旧小牛田町は鉄道の町として栄え、小牛田駅は東北本線、陸羽東線、石巻線(気仙沼線)が乗り入れる、昔からの主要駅です。一方、古川駅は新幹線駅ですが、在来線は、陸羽東線しか通っていません。
 列車の音を聞きながら、昔、一度だけ、陸羽東線新庄行きの列車に乗ったときも、このアパートの前を通ったんだろうなぁと、ニチイが見えたのかまでは、残念ながら憶えていませんが、なんだか不思議な気持ちになります。
 1980年(昭和55年)11月、仙台で試験がありました。初めて会った隣の席の人が偶然、同じ高校の一学年先輩でした。夕方近くまでかかり、一緒に山形に帰ろうと、仙台駅へ。17時台の列車に、ぎりぎり間に合った!はずでした。各駅停車でも90分ほどで山形に着きます。
 おしゃべりに夢中で、知らない駅が続くことに気づいたのは、どのくらい経ってからだったのでしょう。
 終点だった小牛田駅で降りて、駅員さんに訊ねると、新庄行き最終列車まで20分近く時間があり、それに乗れば、新庄から奥羽本線の最終で山形に着くとのことでした。二人共、駅の公衆電話で家に連絡。私は、家族に「金はあるのか。」とだけ聞かれたことを憶えています。もう聞くことのできない声ですが、もしも今日、電話しても、用件のみの、そんなやり取りのような気がします。
 先輩の家は、北山形駅から少し東にある魚屋さんで、小牛田駅からの電話に、いろいろと問いただされたらしく、気の毒で仕方がありませんでした。
 勘違い乗車は、たぶん、私のミスリードだったに違いありません。
 私が山形駅に着いたのは23時30分頃で、当たり前ですが、乗り越し料金をしっかり取られ、タクシー待ちの列では、酔っ払いのおじさんたちにたくさん話しかけられ、何とか乗車できたタクシーの運転手さんにも、いろいろ聞かれまくって、セーラー服の女子高生は、深夜に、ようやく帰宅。タクシー代まで持っていたのか、家に着いてから払ってもらったのか。家族には「あほ。早く寝ろ。」と呆れられました。
 私の家は、当時、マチナカから少し離れた住宅地に引っ越していて、距離ならば、北山形駅からの方が近いけれど、繁華街ではない北山形駅だとタクシーには乗れないと思ったという判断だけは、「当然だ。けど、正解だったな。」と言ってもらえたような。
 翌日、一つ前の北山形駅で降りた先輩に電話してみると、魚屋さんは朝が早いのに、駅まで迎えに来てくれた御両親の車で帰宅し、駅員さんには、乗り越し料金は要らないと言ってもらったとのことでした。その日、私は、学校へは行ったのかどうかも定かではありません。
 あれから、一度も先輩には連絡もしないまま、現在に至ります。お顔もフルネームも、もう思い出せなくなってしまいました。
 高橋さん、お元気ですか。
 どちらにお住まいですか。
 きっと幸せで、穏やかで、もう大きいお孫さんがいらっしゃるのかもしれませんね。私の娘は、残念ながら、まだ独身です。まぁ、ギリギリ20代ですから、そのうち何とかなってくれたらいいなと思いつつ、このままだと、本人の老後が思いやられるので、任意後見制度について説明しておく必要がありそうです。
 先日、久しぶりに、山形へ行き、高橋さんの家の前を通りました。お店の看板が、昔のままに残っていて懐かしかったです。
 あの日のこと、覚えていますか。
 私は、今、宮城県の古川で仕事をしています。
 あの日乗った陸羽東線沿いに住まいがあります。ここを通ったんですね。
 すっかり夜になっていて、何も見えなかったように思うけれど。
 列車がアパートの前を通るたびに、この線路の先は、新庄なんだなぁと思ったりしています。
 あの日、私たちには、きっと、たくさんの未来がありました。
 私が古川で、公証事務に携わるなんて、思いもしなかった未来です。
 公証人になって、もう二年が経とうとしているのに、自分の力量のなさを棚に上げて、時間に追われては、イライラしたりもしています。あの日は、列車を乗り違えても、全く焦らなかったのに。
 受験情報を交換しながら、高橋さんは公務員を目指しているとお話されていたように思います。私は、ラジオでニュースを読むアナウンサーか、通訳になりたいなどと夢だけを語っていましたか。英語の成績も芳しくなかったくせに。あれから英語の勉強もほとんどせずに、この歳になって、外国向け文書の認証に悪戦苦闘するはめになりました。天罰が下ったとしか言いようがありません。
 まだまだ先になるけれど、古川を離れる時が来たら、あの日のルートにしようかな、と思ってみたりします。
 それまで、陸羽東線がなくなっていないと良いのですが。
 人生で、たった一度だけ出会って、試験の結果(推して知るべし)も含めて、忘れられない一日を一緒に過ごした高橋さん。
 今、未来行きの列車に乗っている若者に、あの日の私たちを重ねて、今夜も、列車の音を聞いています。
    ………………………
 あの日、仙台駅で山形行き(仙山線)と小牛田行き(東北本線)は隣合わせのホームだったのか、何分違いの発車だったのか、今となっては、もう…。
 否。今だから、辿り着けました。1980年10月の、各駅の時刻表の画像なるものを、Twitterで発見してしまいました。
 巨人の王貞治選手が現役引退を発表し、三浦友和と山口百恵が挙式した11月も、おそらくこのダイヤだったはずで、ネットの記事とおぼろげな記憶を重ね合わせて推測すると、当日は11月5日の水曜日だったようです。
 陸羽東線普通列車、新庄行き最終は、小牛田駅19:15発−新庄駅(21:55着)
 奥羽本線普通列車、山形行き最終は、新庄駅22:02発−山形駅(23:30着、北山形駅23:25着)
 記憶に当てはまっていくドキドキ感。
 仙台からの東北本線小牛田行き…仙台駅17:54発−小牛田駅(18:54着)
 これに乗ったんですね。家に電話した小牛田駅では20分ほどの待ち合わせ。完璧です。ピースがぴたっと、はまってしまい、ドキドキを通り越して動揺?感動?感無量?です。
 なるほど。以前は、陸前古川駅(まだ「古川市」)でした。そうそう、その駅名ならば、何となくですが、記憶にあります。

注:1980年11月1日古川駅に改称、1982年6月23日東北新幹線開業

 乗るはずだった仙山線山形行きはというと、仙台駅17:56発。残念ながら、発車番線までは分かりませんでしたが、2分後の発車でした。どちらも仙台駅が始発なので(勝手に、それぞれ当時の5番線と6番線だと認定)、乗り違えてしまって、隣のホームの列車には全く気づかなかったのだと思います。
 深呼吸して、もう少し小牛田駅の時刻表を見てみると、小牛田駅の改札を抜けずに、すぐに駅員さんに訊ねていたら、小牛田から仙台行きの、おそらく折り返し運転(小牛田駅18:58発)に乗れたはずで、仙台駅発20:11の仙山線快速列車で、もっと早くに山形に帰れたのだということも、分かりました。
 全く余計な旅。ABCD(台形?)の上底A→Dで着くところ、5時間半をかけて、他の3辺を全部めぐった(点A:仙台→ B:小牛田→ C:新庄→ D:山形、と辿った)旅でした。そして、小牛田駅の改札を抜けて駅員さんと話した時点で、次の仙台行き普通列車は21:44までなく、特急も20:43までないため、結果、仙台発山形行き20:11には乗れないので、その日のうちに山形まで辿り着くには、たった一つの残されたルートだったことも、ネット画像の時刻表が教えてくれました。
 でも、何事もなく帰っていたら、部屋も見ないで決めてしまった、今住んでいるこのアパートの前の線路を、私の乗った列車が通ることはなく…私の未来列車は、あの日、乗り違えて、今、古川に住んで、この駄文を書く、という行き先だったのかもしれません。
 1980年11月5日仙台駅17:56発の仙山線普通列車の乗車券は、今、ここに在る未来の私への、思い残し切符だったのでしょうか。
 あれからたくさんの未来列車に乗りました。
 いつか古川を卒業する時には、もう一度、小牛田から新庄までの最終列車に乗って、家路につきたいと思います。真っ暗で何も見えなくても。

※ 未来へ  
 駄文完成後、「陸羽東線活性化ロゴマーク」なるものを見つけました。
 美しい鳴子峡をぜひ車窓から(夜以外は、徐行運転してくれるようです)。
 また、「四季島」(3泊4日コース)は、鳴子温泉に停車します。したがって、運行シーズン中は、早朝、拙宅の前を四季島が通るのですが、聞こえる音の優雅さが、全然違います。
 古川は、大正デモクラシーの旗手、吉野作造のふるさとです。市内に記念館があり、「作造珈琲」は、良き香りがします。    (仙台・古川公証役場公証人 槇 二葉)

実務の広場

このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.101 撤回された遺言の受遺者からの遺言検索及び当該遺言公正証書の謄本交付請求に対する取扱いについて(大竹聖一)

1 はじめに
 遺言検索については、昭和63年に構築された遺言検索システム(以下「旧検索システム」という。)を基礎とする新たな遺言情報管理システム(以下「新システム」という。)が構築され、遺言検索のみならず、遺言公正証書の原本を電磁的記録に保存するためのシステムの充実を図るとともに、旧検索システムにおける日本公証人連合会に対する照会手続が廃止され、各公証役場において検索を可能とするなどの新たな機能が整備されており、新システムの運用については、遺言情報管理システム実施要領(令和4年5月21日定時総会決議)。以下「実施要領」という。)にその詳細が定められているところです。
 実施要領によれば、遺言検索に当たっては、「遺言情報管理システム運用マニュアル(役場業務)」で定める方法により、遺言者が死亡した後については、公証人法第51条所定の遺言者の承継人、法律上の利害関係を有している者からの請求に基づいて遺言者情報を検索することができるとされており、また、公証人は、遺言検索結果を書面で交付するものとされ、その場合には、個人情報を開示することになることから、請求者の資格要件の審査はもとより、請求に係る遺言者と、新システムに登録されている遺言者情報との同一性の判断を適正かつ慎重に行うものとされています。
 この遺言検索結果の書面による交付に当たっては、その対応に苦慮する場合も生じるところであり、今回は、そのような事案について、紹介させていただきます。


2 事案の概要
 本件事案における遺言者の作成に係る遺言公正証書は、次の①~③の計3件ですが、②の遺言の受遺者である遺言者の甥B(以下「請求者」という。)から遺言者の死亡事項の記載がある戸籍の全部事項証明等の必要書類を持参の上、新システムによる遺言検索の請求(遺言が存在する場合は、併せて当該遺言公正証書の謄本の交付請求)があったものです。
 ① 第一遺言(平成15年)
 (概要)
・ 全財産を妻に相続させる遺言
・ 遺言執行者・A(遺言者と妻の知人)
〇 平成17年
    遺言者 妻と共に甲を養子とする養子縁組
〇 平成19年 妻死亡

 ② 第二遺言(平成20年)
 (概要)
 第一遺言を全部撤回し、改めて遺言をする旨の記載有
 財産を養子甲に相続させるとともに、上記A及び遺言者の甥Bに遺贈する内容
 遺言執行者 上記A

③ 第三遺言(平成25年)
 (概要)
・ 第二遺言を全部撤回し、改めて遺言をする旨の記載有
・ 全財産を養子甲に相続させる内容
・ 遺言執行者 養子・甲

〇 令和6年 遺言者死亡

3 検討及び対応
(1)謄本の交付請求について
 撤回された遺言は、民法第1022条、第1023条及び第985条の規定によりその効力が生じないものとして取り扱うべきであるとの見解がある一方、平成23年11月7日開催の日本公証人連合会法規委員会の協議結果(協議問題6「撤回された遺言公正証書の閲覧請求の可否」、公証166号222頁)を踏まえれば、本件事案においても、次の事由により、請求者について、証書の趣旨につき法律上の利害関係を有するものと考えられる第二遺言については、その謄本の交付請求に応ずることが相当と考えました。
① 公証人は、公証人法施行規則第27条の規定に従い、証書の原本を同条に掲げる期間保存しなければならず、この保存義務は、当該証書の内容である法律行為の効力がないとき、又は当該法律行為が取り消され、若しくは撤回されたときに消滅する旨の規定は存在しないこと。
② 公証人法第51条第1項によれば、証書の趣旨につき法律上の利害関係を有することを証明した者は、証書又はその附属書類の謄本の交付を請求することができるものとされており、この請求があった場合において、当該証書の内容である法律行為の効力がないとき、又は当該法律行為が取り消され、若しくは撤回されたときには、その謄本の交付の請求を拒絶することができる旨の規定は存在しないこと。
③ 民法第1025条ただし書き及び最高裁平成9年11月13日判決(民集51巻10号4144頁。判決要旨は、注記参照)によれば、第三遺言(遺言がされた順序は、本件事案に置き換えています。)が詐欺又は脅迫による場合や、第三遺言を更に撤回する第四遺言がされた場合等には、第二遺言が復活する余地があることが認められている上、第二遺言を撤回する第三遺言について公正証書を作成した公証人といえども、そのことのみから第二遺言が確定的に無効なものとなったと断定する権限を有しない(撤回された遺言の効力の消長は、結局判決以外の方法では確定しない。)と考えられること。

 なお、第三遺言における第二遺言を全部撤回し、改めて遺言をする旨の記載部分については、請求者について、証書の趣旨につき法律上の利害関係を有するものとして、当該部分の抄録謄本を交付することができるという見解もあり得るところですが、本件事案においては、後記(2)のとおり、遺言検索結果の書面による交付に当たって、同書面に第二遺言を撤回する旨の遺言がある旨を付記することにより対応することとしました。
(注)判決要旨
  ① 遺言者が遺言を撤回する遺言を更に別の遺言をもって撤回した場合において、遺言書の記載に照らし、遺言者の意思が当初の遺言の復活を希望するものであることが明らかなときは、当初の遺言の効力が復活する。
  ② 遺言者が、甲遺言について乙遺言をもって撤回した後、更に乙遺言を無効とし甲遺言を有効とする内容の丙遺言をしたときは、甲遺言の効力が復活する。

(2)遺言検索結果の書面による交付について
 上記(1)で検討したとおり、請求者について、第二遺言については、証書の趣旨につき法律上の利害関係を有するものと考えられますが、第一遺言及び第三遺言については、証書の趣旨につき法律上の利害関係を有しないと考えられる(注)ことから、本来であれば、その存否を明らかにすることもできないと考えられます。
 しかしながら、本件事案において、第三遺言で撤回されている第二遺言のみの遺言検索結果を通知し、さらに、第二遺言の謄本を交付した場合には、第二遺言に基づく遺言執行がされてしまう危険性があることから、公証人としては、これらによる混乱等を防止するため、第二遺言を撤回する旨の遺言があることを何らかの形で請求者に伝える対応を講ずる必要があると考えました。
 これを付記した通知書の案は、別紙のとおりです(通常の遺言検索結果の書面と違い、この書面は、新システム上では作成できないことから、新システム外で別途作成する必要があります。)。

(注)ただし、第二遺言には、第一遺言を撤回する旨の記載とともに、第一遺言の作成年月日、証書の番号、作成公証人の氏名等が記載されています。また、第三遺言については、上記のとおり、抄録謄本の交付が可能であるとの見解もあり得るところですが、本件事案においては、上記により対応することとしたものです。

4 おわりに
 実務の広場No.57においては、小田切敏夫公証人が、相続人又は受遺者の地位にない遺言執行者からの遺言検索及び遺言公正証書の謄本交付請求における取扱いについて、検討会における白熱した議論の内容をご紹介いただいています。
 本件事案については、公証業務照会センターの担当公証人(日本公証人連合会法規委員)に対して照会をしたところ、法規委員会等においては、これまでに本件事案と同じ内容について検討されたことはないが、同種の事案を検討した際の議論等を踏まえて本件事案を検討すれば、概ね上記3のような考え方及び対応となるのではないかとの回答を得たところです。
 近年においては、当公証役場を含め、遺言検索の請求件数が相当数増加している状況にあり、その背景として、相続人に対し、相続発生時における遺言検索を積極的に勧めている税理士法人等の存在などが指摘されているようですが、遺言検索結果の書面による通知等に当たっては、今後も慎重な対応が求められるところであり、参考事例として紹介させていただきました。

(奈良・高田公証役場公証人 大竹聖一)

別 紙

令和〇〇年〇〇月〇〇日  

○ ○ ○ ○ 様

              ○○公証役場

公証人 ○ ○ ○ ○

遺言検索照会結果通知書

あなたから照会のあった○○ ○○(フリガナ・性別・生年月日)様に係る公正証書遺言の有無を調査した結果は、次のとおりですので通知します。

令和〇年〇月末日現在、日本公証人連合会で運営する遺言情報管理システムに登録されており、その内容(ただし、公証人法第44条第1項又は第51条第1項によりあなたが証書の趣旨につき法律上の利害関係を有するものに限ります。)は、次のとおりです。

遺言作成日 平成○○年○○月○○日 (注)第二遺言を表示

証書番号  平成○○年第○○○号

遺言作成役場  ○○公証役場

 所在地

 電話番号

 作成公証人

  なお、上記公正証書遺言については、その後、これを撤回する公正証書遺言が作成されていますが、あなたは、その遺言について、公証人法第44条第1項又は第51条第1項による法律上の利害関係を有しないため、その内容をお知らせすることはできません。

以上

民事法情報研究会だよりNo.60(令和6年1月)

 新年のごあいさつ
 新年明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルス禍で実施できなかった対面での総会、セミナー及び懇親会を6月17日に、セミナー及び懇親会を12月9日にそれぞれ開催することができました。4年ぶりに旧交を温めることができ、楽しい時間を過ごすことができました。セミナーの講師をお引き受けいただきました髙信幸男様及び住田裕子様並びにご参加いただきました会員の皆様に厚くお礼申し上げます。
 新型コロナウイルス感染症が感染症法上の5類に移行したとはいえ、感染力が強いものであることに変わりはありませんので、仕事の関係で、対面の行事への出席を控えたい方々がいらっしゃるのはもっともなことと思います。そこで、出席が難しい方のためにも、民事法情報研究会だよりの内容を一層充実させることが重要であると考えています。200人を超える会員の方がおられることに鑑みますと、自分はこのようなところに住んでこのようなことをしていますよ!といったことを、皆さまに知っていただくことにも大きな意味があるものと考えますので、会員の皆様に一度はご寄稿いただきたいと考えています。お近くの担当理事にお声がけいただければと思います。
 なお、現在の当協会の理事・監事は、次のとおりとなっています。
会長・業務執行理事      小口 哲男
副会長・業務執行理事     古門 由久
業務執行理事         佐々木 暁
業務執行理事         星野 英敏
業務執行理事         横山  緑
業務執行理事(関東地区担当) 浅井 琢児
理事(北海道・東北地区担当) 小沼 邦彦
理事(東海・北陸地区担当)  多田  衛
理事(近畿地区担当)     大竹 聖一
理事(中国・四国地区担当)  檜垣 明美
理事(九州地区担当)     前田 幸保
監事             西川  優
監事             神尾  衞
 上記メンバーで当協会の活動を支えてまいりたいと思います。
本年度は、平成25年5月31日に当研究会が設立されてから10周年に当たりますが、新型コロナウイルス禍で身動きのできない期間が含まれていることから、もう10年も経ったんだと思われた方も多かったように思います。でも、着実に歩みを続けてきていることも事実でありますので、皆さまのご協力を得ながらさらに一歩ずつ進んでいきたいと思います。
 最後に、皆様が明るい一年を迎えることができますようお祈りし、新年のごあいさつとさせていただきます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
令和6年正月
一般社団法人民事法情報研究会 会長  小口哲男  

今日この頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

ゆるやかに人とつながる(佐々木 暁)

 「九州在住の研修同期生の彼氏は、今日も元気で、今頃は焼酎のお湯割りで晩酌を楽しんでいるんだろうなあ。本当に旨そうに飲むんだよなあ。」「北海道在住のあの方は、今年も耳かきに似た細い棒で、北の大地を開拓していたのだろうか。豪快な空振りも記憶に残っている。飛距離が年齢に逆らっていると言って嘆いていると風の便りに聞いてはいるが。傘寿も近いのに、春のオープンに向けて体力増強中。」、とか。
 こんな想いを巡らしながら過ごした令和5年師走の年賀状作りの一コマである。一人一人一枚ごと、友人・知人と言いながらも一年振りの賀状での再会に想いを巡らしながらの作業となり、さっぱりはかどらない。まあ時間はたっぷりある。これも古くからの友人・知人とのゆるやかでのんびりとした、「付き合い・つながり」の確認作業の一つだと勝手に納得している。
そんな年賀状作りをようやく終えて、無事に郵便局に持ち込んだ。そして、めでたく令和6年新年を迎えることが出来た。
 会友の皆様、新年あけましておめでとうございます。皆様には、コロナ禍の中の令和5年新年とはやや違う、少し明るい気持ちで令和6年の新年をお迎えになられたことでしょう。コロナ禍の中の4年間は心の弾まない年の初めでした。今年こそは、今年こそは・・・の想いがようやく少しずつかないつつある。どうぞ本年もよろしくお願い致します。
 本年も「研究会だより」編集部からの心温まるお年玉プレゼントとして、新年号4回目となる「今日この頃」欄に寄稿せよとの名誉あるご下命を頂戴した。他に代わって寄稿してあげるという後輩会員もなく(不徳の致すところ)、止む無く老骨にムチ打ったところである。したがって、毎度のことながら文脈自由文法で進みますのでお許しください。
 「少しずつ頭が顔に侵蝕されかけているな」、「少ない年金暮らしとぼやいている割には良く肥えているな」、「年の割に歯がやたら白く、生えそろっているな」などと、一人ブツブツ言いながら令和5年の年賀状を読み返しつつ、令和6年の年賀状作りを楽しんでいたが、年賀状一枚一枚にしたためられた短い文面の中の近況や筆跡にゆったりとした長い付き合いの歴史、繋がりが感じられて、何とも言いようのない癒されの時間であった。あの人とはもう何年来の付き合いになるのだろう、50年?高校からだと60年、小学校時代からだと70年、法務局採用時からだと57年余り、年賀状のやり取りだけで、別れてから一度も顔を合わせていない人もいるが、心の中にずっと住みついている気がする。若かりし頃の顔や想い出に浸りながら、こんなゆったりとした年賀状ならではの付き合いもあるんだなと。常日頃から顔を合わせていることだけが付き合い、つながりではなく、顔を合わせなくてもつながりは保てると確信しながらも、日頃のご無沙汰の言い訳にもしている。こんな調子だから年賀状作りははかどらない。親戚筋へのお義理の?年賀状も織り交ぜて何とか完了させている。
 私は、性格的にやや欠陥があり、真に友人・知人としてお付き合いを頂くまでには多少の時間を要している。要するに話下手で、話題性に乏しく、人付き合いが下手くそなのである。受け入れて頂くのに時間がかかるのである。付き合いに慎重ということでは無いらしい。自分の事を相手の方に知って貰うのが下手なようである。相手の方の事を知り、理解することは、早くて得意かもしれない。ようやく相思相愛、意思疎通全開となれば、そこからはしつこいほどのお付き合いになっていく予感がするのである。
 齢76年の我が人生過程の中には、多くの友人・知人がいてくれる。小学校時代から高校時代、職場関係者(職場を介して繋がりを得た方々)、近隣関係者、親戚筋の方々等々実に多くの人にお付き合いを頂きながら歩いてきた。繋がる糸は、太かったり、細かったり、長短あったり、赤・青・黄色であったり様々なようである。口の悪い?友人が言うには、「お前の場合は、全て「酒」繋がり」だと言うが、「少数・異端説だ」と反論はしている。
 このような方々との交友・親交も年を重ねるに連れて、その付き合いの間隔も徐々に遠のきやがていつの間にか年一回の賀状交換会?に変身し、それもついには、高齢に付き今回限りと通告を頂き(敢えて通告するまでもなく、毎年悲しいかな自然減?がある。残念である。)、途絶える。〆は喪中はがきか。これでは何とも寂しい限りのお付き合いである。
 さて、ここ数年来のコロナ禍の中、携帯電話の普及の中、人の付き合い方、つながり方も様変わりしてきたように感じる。辛うじて繋がっていた義理的会合、寄り合い、趣味の会、ゴルフコンペ、OB会、県人会等々を通じての付き合い、つながりも、コロナ禍の中、人が集まれないことを理由に、かなり整理・清算・解散という道を結果として選択せざるを得なかったという事象も生じているらしい。そろそろ退会しようか迷っていた方、解散等を考えていた方にとっては、コロナ禍は一つの転機を与えてくれたかもしれない。人との関わり、付き合い、つながりというものを考えてみる機会ではあったかもしれない。
 高齢となり、終活の一環として、付き合いの整理、お中元・お歳暮、年賀状の整理も必要になるかも知れないが、頭では理解できそうだが、私としては何処か寂しい。「〇〇会」という名の宴会の整理は少し嬉しいかも。
 老若男女問わず人それぞれの人との付き合い方、繋がり方があり、正しい付き合い方、繋がり方などは無く、まさに千差万別であろう。コロナ禍を経て、携帯電話片手にしながらの、人との付き合い方、繋がり方は、形も含め大きく変わったような気がする。真に必要な時にだけ連絡を取り合い、コミュニケーションをとる。合理的ではある。
 形だけの会や、辞めたくても抜けられなかった会から自然解放された。唯一コロナの功績かも。こんな中、最近の風潮で、社内忘年会や、社員旅行が見直され、新たな職場内での人の付き合い、つながりが見直されているとか。団塊世代には懐かしいやら、嬉しいやらの複雑な心境である。
色々と訳の分からないことをダラダラと文脈自由文法に則り書き綴ってきたところですが、これがまさに私の今日この頃の生活状況の一幕である。その日その日の風の向き、春夏秋冬の風を感じながら、風の中に友の顔を見つけては、「63円」の便りで、「元気か」と声をかけて、これからもゆるやかにつながって行きたいと思っている。そして、長年(52年)の盟友たる我が家の山の神様とも。
会友の皆様、今年も元気でゆるやかにつながって行きましょう。
(元さいたま・大宮公証センター公証人 佐々木 暁)

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萩 往 還(山﨑秀義)

 萩往還とは、江戸時代に毛利氏の城下町である萩から江戸への参勤交代のために藩主が通る「御成道(おなりみち)」として整備された道で、日本海側の萩と瀬戸内海側の三田尻港(現防府市)をほぼ直線で結ぶ全長約53kmの街道です。その多くは現在も国道や県道として利用されているようですが、険しい山間を通る箇所などは、新たに道が作られ、廃道となった箇所もあったところ、近年その歴史的な価値が見いだされ、後世に伝えるために保存・整備が進められています。
 江戸時代に整備された街道としては、いずれも江戸・日本橋を起点とする東海道、中山道、日光街道、奥州街道及び甲州街道の五街道などがあり、五街道の道幅は5間(9m)と定められていたようですが、実際の道幅はおよそ3間から4間(5.4m-7.2m)、箱根峠や鈴鹿峠などの山間部では道幅2間(3.6m)とされていたようです。
 萩往還は、中国山地を越えて萩・山口・三田尻を最短で結ぶ重要な道であったことから、長州藩では道幅2間の大道として位置づけ、道筋には人馬の往来に必要な施設として一里塚やお茶屋、通行人を取り締まる口屋などを置き、道の両側には往還松などが植えられていました。
 幕末期、長州藩は倒幕を目指して活発な運動を展開しますが、維新の志士達もこの街道を頻繁に往来し、その発端や中心となった高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文、村田蔵六(大村益次郎)などもこの道から時代の先端を駆け抜けたのではないかと思われます。

かえらじと思いさだめし旅なれば、
    一入(ひとしお)ぬるる涙松かな
 
 前掲の句は、吉田松陰が安政の大獄に連座し、萩から江戸に送られる途中、萩往還で当時、涙松と呼ばれていた地で読んだ句です。(山口(の一部?)では、吉田松陰を呼び捨てではなく、「松陰先生」と呼称しますが、本稿では、吉田松陰又は松陰と記します。)
 「涙松」とは、萩城下を出立後、城下を振り返ることができる最後の見納めの地で、萩往還を往来する人は、ここで松並木の間に見え隠れする萩城下を見返りつつ別れを惜しんで涙し、また萩に帰った時には嬉し涙を流したということから、いつしか「涙松」と呼ばれるようになったところです。
 松陰は、安政6年(1859年)に29歳という若さでこの世を去りますが、若くして全国を遊歴し、歩いた距離は13,000kmに及び、その間には、何度となく「涙松」で嬉し涙を流したものと思われます。しかし、安政の大獄に連座し、江戸へ送られる途次、萩の城下を振り返りながら、二度と萩の地を踏むことはないであろうと覚悟した一句です。
 萩往還沿線には、吉田松陰関連の物として、涙松のほかにも松陰の短歌句碑や松陰資料館(道の駅萩往還横)などもありますし、江戸時代の歴史を感じる遺物などが数多く整備されています。

 前置きが大変長くなりました。山口に居を移して6年、山口市、防府市を中心に公証業務に従事していますが、出張時や休日に「萩往還」と書かれた案内板を市内の各所で目にすることがあり、いつかは歩いてみたいと思っていました。しかしながら、生来の自堕落さから先延ばしにしていたところ、先般(地元法務局主催の遺言に関する講演会を翌日に控え講演原稿の最終確認を行っていた矢先)、中四国担当理事から「今日この頃」の原稿提出の依頼(御指示)がありました。ちょうど良い機会かと思い、歩いてみようと思い立ったものです。
 
 「萩往還」をネットで検索すると、「歴史の道 萩往還」という山口市が開設しているホームページがあります。そこにルートマップが掲載されており、萩の唐樋札場跡から三田尻の英雲荘(三田尻御茶屋)までの行路が6つに区切られています。

 10月29日(日)、晴天の下、ルートマップ04「防長国境~大内御堀」間の「天花坂口」から「板堂峠」を経て「国境の碑」までの道、約3kmを歩きました(往復で約6kmです。)。山口市側の天花坂口から板堂峠に向かう場合、ルート上に急坂(上り坂)の「四十二の曲がり」と萩往還で標高が一番高い板堂峠(標高537m)が待ち構えており、萩往還一の難所と言われています。しかし、「歴史の道 萩往還」を肌で感じ、往時の苦労を偲ぶためにトライすることとしました。
 右の写真(編注:省略)の後ろに写っている石畳の坂を歩き始めて300mほどで「四十二の曲がり」に差し掛かります。ここからは、急勾配の上り坂がいくつもジグザグに続き、50mも歩かないうちに息が上がります。曲がり角で小休止を繰り返しながら、ゆっくり、ゆっくりと歩を進めるのですが、曲がり角で立ち止まるたびに思わず、俳人種田山頭火(山口県防府市出身)の「分け入っても 分け入っても 青い山」ならぬ、「曲がりても 曲がりても 急な上り坂」と愚痴りたくなります。
 「降りてくだされ旦那様」と駕籠かきが唄ったとも言われる箇所ですので、参勤交代で殿様がここを通るときには駕籠を降りて歩いたのかな、などとも想像します。

四十二の曲がり」を過ぎると「六軒茶屋跡」に到着します。ここは、かつて6軒の農家があり、軒先を茶店にして旅人をもてなしていたことから「六軒茶屋」と呼ばれていた場所で、現在は、案内板のほかに四阿(アズマヤ)が建っておりそこで休憩することができるほか、トイレも整備されています。

 六軒茶屋跡を過ぎ、「一の坂一里塚」や「一貫石」、「キンチヂミの清水」といった名所を過ぎると、いよいよ萩往還で一番標高の高い「板堂峠」を目指します。六軒茶屋跡からは比較的ゆるやかな勾配の上り坂であった道が、途中の県道を横断して、峠の頂上に近づくにつれ勾配を増し、「さながら坂の上の青い天に輝く一朶の白い雲を目指すが如く」歩くと、やがて「板堂峠」と書かれた道標のある地点に到着です(前ページの写真)。ここまで来れば後は下りで、再度、県道を横断して少し階段を上がると直ぐに「国境の碑」です。
 この国境の碑は、高さ2m余りの花崗岩に「南 周防国 吉敷郡 北 長門国 阿武郡 文化5年戊辰11月建立」と彫ってあります(と説明板に書かれています。)。
 1808年(文化5年)に建立されたこの国境の碑は、215年の長きにわたってここに存在し、旅ゆく人々を見守り続けたものと思われます。その中には、前掲の長州藩士や坂本龍馬などもいたでしょうし、「今日、私もそこに含まれた」わけです・・・・などと感傷に浸る間もなく、早々と、もと来た道を天花坂口まで戻りました。
 行きは1時間半、帰りは1時間の合計2時間半の行程でした。
 
 この日に歩いた距離は、片道約3kmですので、萩往還全長約53kmのほんの一部となります。しかし、普段は何の運動もせず、アパートと職場までの平坦な道(片道約1.5km)を歩くのがせいぜいであった私が、萩往還で一番の難所を往復踏破したことから、萩往還の全行程を歩き通す決心がつきました。
 翌週の11月3日(金)文化の日は、萩の「唐樋札場跡」から「涙松跡」を経て「悴坂(かせがざか)一里塚」までの約8.6km(往復約17km)を歩きました。

 10月29日、11月3日は、いずれの日も、自宅から出発地点までは自家用車で行ったため、往復する必要がありましたが、以降は、バスを利用することとし、次回に予定している「悴坂(かせがざか)一里塚」から「明木(あきらぎ)」を経て「佐々並市(ささなみいち)」までのコースを歩くべく、バスの時刻表を眺めている「今日この頃」です。
(山口・山口公証役場公証人 山﨑秀義)

今日この頃~法務局退職から公証人任命、そして最近まで (大橋光典)

 令和4年7月1日に千葉地方法務局所属公証人に任命され、松戸公証役場に着任いたしました大橋光典と申します。本稿では、せっかくいただいた機会でもありますので、法務局を退職した令和4年の3月から最近までの状況を振り返り、会友の皆様への御報告とさせていただきたいと思います。

 昨年、令和4年3月中旬、公証人選考試験の合格、同年7月1日付けの公証人任命、千葉地方法務局所属公証人浅井琢児先生の後任を命ぜられて松戸市の勤務となる旨の内定をいただきました。選考試験では、うまく答えられたという自信を必ずしも持てておりませんでしたので、試験合格・任命内定の報に接したときはホッとしたというのが偽らざる心境でした。
 令和4年3月31日に福岡法務局を無事退職し、晴れて(?) 自由人となった私は、JRの「青春18きっぷ」を活用して4月1日から4日間をかけて、途中格安ホテルに宿泊しながら、15年ぶりの単身生活にピリオドを打つべく自宅のある埼玉県吉川市を目指しました。途中まだ訪れたことのなかった広島平和記念公園や姫路城といった観光名所を訪問したほか、従前の勤務地である大阪法務局や静岡地方法務局、当時の宿舎周辺や思い出の地などを訪問しながら、孤独のグルメを堪能する楽しい退職一人旅になりました。
 4月6日には、早速、松戸公証役場を初訪問し、浅井先生に御挨拶して、今後の身の処し方について御相談し、いろいろ貴重なアドバイスを頂戴しました。「公証人になってからは、他の公証役場を訪問する機会は持てないから、他の公証役場、他の公証人の仕事の仕方をできるだけ多く見せてもらいなさい。」という御示唆に基づき、現役の時にお世話になった先輩方を中心にアポを取って訪問させていただきました。諸先輩方には御多忙のところ、訪問を快く受け入れていただき、丁寧に御指導いただきました。また公証人に就いた後も電話で色々と質問させていただき、御示唆いただく機会も多々あり、紙面をお借りして御礼申し上げます。
 6月になると、松戸公証役場に詰めて、浅井先生の日常に密着して、細かいところまで実地に教えていただきました。たくさんの事件をスケジュールに従ってどんどん対処していくお姿を拝見して「果たして自分に務まるだろうか」という不安もありました。その一方で、3人の書記さんたちがテキパキと仕事をこなしている様子には安心感もいただきました。浅井先生には公証人に就いてからもしばらくは毎日のように本当につまらない質問をたくさんさせていただきましたが、懇切丁寧に御指導いただき、現在も、折に触れて御指導いただいており、感謝の念に堪えません。
7月1日には、千葉地方法務局で昔の部下でもある星野辰守局長(現上越公証役場公証人)から公証人の任命辞令等を頂戴し、住川洋英千葉公証人会会長などに御挨拶申し上げて、松戸公証役場に着任しました。お祝いのお花などをたくさん先輩方からいただき、いよいよ公証人の仕事が始まる、と身の引き締まる思いでした。
 新任公証人を最初に苦しめることになるのが、公証人法第3条の嘱託受諾義務です。すなわち、「公証人ハ正当ノ理由アルニ非サレハ嘱託ヲ拒ムコトヲ得ス」ということです。「私は新人で能力不足ですから、他の公証役場に行ってください。」とはなかなか言えないわけです。ただ、嘱託人であるお客様から見れば、「そういうことなら、早めに言ってください。」ということも実際あり得るわけで、着任直後の7月上旬にお受けした家族信託の事件などについては、もしかしたら事情を話して他の役場に当たっていただくことを促した方が良かったのかもしれません。当時の私は信託の知識はほぼ無いといってよく、まずは信託の入門書を読破し、たまたま信託をテーマとする7月9日の日本公証人連合会(以下「日公連」と言います。)主催の実務研修を受講し、ようやく7月下旬ころに至って、「ここを手直ししてください。」といくつか指摘したところ、「1か月も待たしておいて今頃何ですか、他を当たります。」と御立腹されて仕事を取り上げられるという目にも遭いました。管轄のしっかりとした法務局育ちで、いただいた仕事を他の役場へ任せる、あるいは、一度いただいた仕事を取り上げられるということなどはその時は思いもよらなかったのですが、嘱託人側から見ると、公証役場を替えることにはそれほど抵抗がないことのようであるというのは最近になってようやく認識したところです。現に、追加で書面の提出を求めたり、疎明することを求めたりすると、「他の役場を当たります」と(あるいは、何の断りもなしに)他の役場に嘱託して(当役場への嘱託を事実上取り下げて)しまう嘱託人もいらっしゃいますが、そのようなことを知るのは実務を相当数こなしてからのことでした。
 ちなみに、嘱託受諾義務に関しては、日公連編の「新訂公証人法」では、嘱託を拒否できる場合として、「一つは事件数の問題」として、「そこには必然的に事件処理の能力に限度がある。したがって、この能力を超えた事件数の嘱託があったときは、拒否すべき正当な理由があるといえよう。」とされています。嘱託人が求めるスケジュールが、当役場のキャパを超えてしまう場合は「当役場でお受けすると少なくとも○○程度の期間をいただきますが、それでもよろしいですか・・・?」と親切心で申し上げていますが、これは許されるということになります。「もう一つは、特殊な事件や自己の経験のない種類の事件等で能力的な限界を超えると思うような事件の嘱託があった場合である。」とし、「安易に嘱託を拒否することは許され」ないが、「他方、事件処理の不適正を来すことも許されないので、当事者に事情を説明して他の公証人を紹介するなど適切な措置をとることが許される場合もあろう。」とされています。ただ、現実には「能力不足ですので、他を当たって」とはなかなか言えないですよね。嘱託人から仕事を取り上げられない限りは自分にとって荷が重い仕事でも、参考文献を調べて諸先輩の御示唆を賜りながら、何とか踏ん張って対処しているというのが現在の状況です。
 公証人任官直前の6月17日から同月19日の3日間に渡ってテレビ会議で受講させていただいた日公連主催の「新任公証人研修」は真に新任の公証人にとっては非常にありがたい研修で、その際いただいたテキストは今でもよく参照する機会のある貴重なものです。その研修の冒頭、公証人の職務の二面性についての説明がされました。すなわち、公務員(法律専門家)としての立場と個人事業主(自営業者)の立場があるので、両者の立場の調和が重要だということです。公証人の職務を遂行するに当たって、法律の専門家として、あるいは公務員として譲れないところは厳として譲りませんが、定款の認証業務などはできるだけ早期に、できれば即日に処理しようと努めておりますし、テレビ電話による定款認証などで遠方から嘱託いただいた方などには「千葉県内での設立の法人があったら、また御用命ください。」といった営業トークも忘れないよう心がけています。こうした営業トークするということは法務省・法務局に勤務していた自分からはおよそ想像すらできかったことです。
 8月・9月の夏季は、世間は夏休みの時期ですが、当役場は遺言を中心に意外と事件が多く、大変でした。ただ当初1時間も2時間も要していた定款認証のための確認作業も軌道に乗り、「軌道に乗り」というより「度胸がつき」、何とか常識的な時間で内容を精査することができるようになってきました。この頃には、初めての「執務中止」の事件にも遭遇しました。ある士業者が仲介していた遺言の事件でしたが、戸籍上亡くなっている夫について遺言者が「生きている」と答えたので、認知能力に疑問が生じて、「本日は何月何日ですか」「何曜日ですか」といった問いかけをしたところ、いずれも全く適切に応えられず、「今日は何をするためにここに来ましたか。」と問いかけましたが、いずれも饒舌にお話しするものの要領を得ないために、遺言能力がないものと判断して、執務中止といたしました。  その後も、遺言の公正証書作成事案について、役場で、あるいは、出張先で執務中止の判断をせざるを得ないものにいくつか遭遇しています。士業者等の仲介者が本人から十分に話を聞かずに、財産を受けとる方の話ばかりを聞いていて遺言者本人の遺言能力の把握が不十分なまま持ち込まれたものと推察できる事案もありますが、中には、「1か月前はこんな様子ではなかったのですが・・・」と肩を落とす仲介者もおります。公証人としては、遺言者本人にお会いできたときが全てなのであり、そこでの遺言者の状況を見て判断せざるを得ません。その場で即中止の判断をせずに日延べしてもう一度お話を聞く機会を設けるということもあります。これも二度目の状況は様々で、前と同様に明確な口授ができない場合、前とは打って変って明確な口授ができる場合、いずれの事例も経験いたしました。遺言能力の判断は、公証人として勤めていく上で常に問題意識をもって適切に対処していかなければならない課題の一つですが、なかなか難しいなと日々感じております。
 事務処理上の明確な誤りというのも、これまでにいくつか経験しました。失敗談は余りしたくはないわけですが、他人の失敗例は、特に、「ためになる」話題であるとも思いますので、恥を忍んでお話ししたいと思います。幸い、これまでのところ、「公正証書」については明確な誤記や、クレームをいただいたり、裁判で争われたりするといった事態には遭遇しておりません。明確な誤りが発覚したのは株式会社の「定款認証」の事案です。原始定款の認証については、その後、法務局に対する株式会社の設立登記の申請に認証後の定款が添付されますので、その審査に付されます。「法務局から、公証人の誤記証明書の提出を求められました」という、いくつかの事案がありました。そのうち、特に悔いが残っている2事例を紹介したいと思います。いずれも士業者が作成した株式会社の原始定款ですが、一つ目は、商号中に「‘」(アポストロフィの逆の記号、バックアポストロフィと言うようです。)を使用しているのを見逃したもの、二つ目は、目的中に、「保育園、幼稚園及び認定こども園の経営」とあり、「幼稚園の経営」が株式会社の事業目的として適切でないことを見逃したものです。いずれも、知識としてダメであること、認証できないことは認識していただけに見逃してしまったことには悔いが残ります。当該士業者から連絡をいただいたときは、恥ずかしくて申し訳ない、という何とも言えない気持ちになりましたが、誤記証明書に署名して、「二度と同様の誤りはしない」と誓って、気持ちに区切りを付けました。
 改めて1年半を振り返りますと、時には、遺言公正証書を作成し終わって、「これで安心して死ねます。先生には大変お世話になり、本当にありがとうございました。」と20歳以上も上の、人生の大先輩方から、もったいないお言葉を頂戴して疲れが吹き飛ぶうれしい瞬間もございましたが、一言で申し上げるとすると、やはり、極めて忙しくて時間的にも精神的にも余裕のない1年半だったということになろうかと思います。法務省・法務局勤務の現役のころの最終盤は、法務局の幹部をさせていただいておりましたので、何か大きな行事でもなければ、コロナ禍でもあり、休日の行事もほとんどなかったわけですし、平日の残業も、部下に迷惑を掛けないよう、できるだけしないように心掛けていました。一方、公証人任官直後は土曜日も日曜日も終日休める日はほとんどなく、取り分け、最初の1か月は丸1日休めたのは腰痛で動けなかった日曜日の1日だけで、あとはほぼフル稼働という状況でした。最近でこそ土日のうちの1日は何とか休めるようにはなってきたものの、平日は、気が付くと夜10時、11時まで残業してしまうことが多く、健康管理の観点からも、この仕事時間を減らして持続可能な執務環境を整えていくことが目下の最大の課題となっています。少しでも時間を確保するために、令和5年8月には、埼玉県吉川市の自宅から役場のある松戸市内に安アパートを借りて夫婦ともども引っ越しました。
そのような多忙を極める中、一服の清涼剤となっているのが、趣味の将棋です。なかなか同好の方と対局するまでの時間は持てないのですが(ちなみに、単身赴任中は、地元の将棋クラブに入って週末の対局を楽しみにしたり、プロ棋士のタイトル戦が行われている現地まで行って大盤解説会に参加したりしていた時期もありました。)、タイトル戦をインターネットで観戦するなどして楽しんでおります。取り分け、最近では、藤井聡太竜王名人(八冠)の大活躍もあって将棋人気の高まりを見せておりますが、この死角がないとも思われる絶対王者を、いったい誰がその一角を崩すのかといった点や、日本将棋連盟の新会長に就任した、こちらもスーパースターの羽生善治九段がどのような新施策を展開するのか、采配を振るうのか、棋士としての成績に影響は出ないのかなど点についても興味が尽きません。将棋に限らず、どちらかというと多趣味な方なのですが、こうした趣味の時間も何とか少しずつ確保していきたいと思っている今日この頃です。

 以上、まとまりの無い文章を長々と書き綴ってしまい、大変恐縮しておりますが、1年半程度の経験では公証人の職務を十分に理解することは到底できません。会友の皆様には、今後ともいろいろ教えていただく機会があろうかと思いますが、引き続きの懇切丁寧な御指導をお願いいたしまして、拙稿を終えたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
(千葉・松戸公証役場公証人 大橋光典)

実務の広場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.100 確定日付の付与の手続きについて(小口哲男)

1 確定日付の付与手続は、その役場の総事件数の多寡にもよりますが、公証人が日付の付与を請求さ れた文書に問題がないかについての判断を行い、実際の付与の手続きは書記が行うこととしている役場も多いと思います。
 その場合であっても、状況によっては公証人自ら全ての手続きを行わなければならない場面も出てくるものと思います。
 そのときに、誤りのない手続きを確保するにはどうしたら良いか不安になる場合もあると思います。
 そこで、私が、船橋公証役場において公証人の仕事をしていたときの書記(百武恵子氏)が作成していた「確定日付の手引き」を同氏の了解を得て、別添添付しますので、これを参考にご自分なりにアレンジしていただければと思います。(ご承知のとおり、黒い本「公証実務-解説と文例-」279頁以降が確定日付付与の解説になります。)
2 電子確定日付の付与手続は、電子定款の認証などの電子公証を行う端末(PC)で手続きを行うことになります。
  公証人が内容を適切と認め、手数料納付を確認した上で、確定日付の付与を請求された文書に日付情報を付与するとその時点から嘱託人は確定日付が付与された文書をダウンロードすることができるようになりますので、次の点に留意して手続きを行う必要があります。(次の留意事項も前記百武氏のメモを参考にさせていただきました。記してお礼申し上げます。)
(1) 電子確定日付の付与を希望する旨の連絡があったときに、請求時の手続きを円滑に進めるため、あらかじめ当該文書の内容が分かるものをメール又はFAX等で送付してもらい、公証人が確認する。(これは、申請された内容に不備があったときには再申請をしてもらわなければならなくなるため、この手間を省くためのものであり、必ずこの手続きを経なければならないというものではない。)
(2) 内容に問題がなければ、当該電子文書を電子公証システムのサーバーに送信してもらう。(この際、申請者の電子署名は不要であるので、電子公証システムにおいても、他の電子認証と異なり電子署名検証の手続きは省略される。)
(3) 申請された内容に問題がない場合は、手数料を支払っていただく。日付情報付与の手数料は700円(公証人手数料令37条の2)であるが、嘱託人はこの確定日付が付与された電磁的記録の保存を請求することができ、これを行うと紙の確定日付付与(証明されるのは確定日付印が押捺された文書のみ)と異なり、後日、同一の確定日付が付与された電子文書の証明書を入手することができるようになることから、そのための手数料として別途300円(公証人手数料令41条の2)が必要となる。電磁的記録の保存は、電子確定日付申請時に請求する必要があるので、電磁的記録の保存が必要であれば合計1000円の手数料を納付する必要があることを嘱託人に説明する。手数料の支払い方法は、窓口に来庁して行う方法とインターネットバンキング等による方法があるが、窓口に来庁された場合は、支払いを受領次第、公証人が日付情報付与の手続きを行い、嘱託人にこの時点からダウンロードできる旨を伝え、領収書を手交する。インターネットバンキング等による場合は、手数料額を伝えるときに振り込んだ時点で公証役場に連絡するよう伝え、連絡があり次第振込みの事実を確認する。振込みの事実が確認できた時は、直ちに日付情報付与の手続きを行い、嘱託人に連絡して、この時点からダウンロードできることを伝え、別途、領収書を郵送する。(1回限り利用の嘱託人の場合は、手数料の支払いを完了してからでないとダウンロードされたが連絡がつかなくなるといった事態が生じる恐れもありますが、反復継続して利用されている嘱託人の場合は、ある程度信用して手続きを進めることもあり得るものと考えます。)
(4) 私が2016年に処理したものの記録と船橋公証役場で用いた領収書の様式を参考までに添付します。
3 今回は、船橋公証役場において私が行っていたものの説明でしたので、その後、取扱いが変わっている部分もあるかもしれません。参考にできる部分を取り入れてご自分の手引きを必要に応じてお作りいただければと思います。
(元千葉・船橋公証役場公証人 小口哲男)

お詫びと訂正 前号(No.59)において『「本人確認」についての古い思い出』をご寄稿いただきました樋口忠美様の元所属の記載が「元千葉・松戸公証役場公証人」となっていましたが、「元千葉・柏公証役場公証人」の誤りでしたので、心よりお詫びして訂正いたします。  

民事法情報研究会だよりNo.59(令和5年10月)

 猛暑の夏、厳しい残暑をようやく終え、少しずつ秋めいて来た今日この頃ですが、会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 本号は、民事法情報研究会発足10周年記念号を兼ねて発刊するものです。巻末に、これまでの記事索引等を掲載しています(編注:省略)ので、大いにご活用ください。
 また、12月9日(土)に、弁護士の住田裕子氏を講師にお迎えしてのセミナーと、10周年記念祝賀会(懇親会)を開催する予定です。数多くの皆様の参加をお待ちしています。詳細は追ってお知らせいたします。(YF)

設立10周年を迎えて
(一般社団法人民事法情報研究会 会長 小口哲男)

 一般社団法人民事法情報研究会(以下「当研究会」といいます。)は、平成25年5月31日に設立され、本年で10周年を迎えました。
 当研究会は、設立時社員数12名で出発しました。その後の3年ほどの会員数の推移を見ますと、平成25年8月の会員数は135名、平成26年1月の会員数は149名、平成26年4月の会員数146名、平成26年5月の会員数152名、平成26年6月の会員数151名、平成26年7月の会員数154名、平成26年9月の会員数165名、平成26年10月の会員数167名、平成27年4月の会員数176名、平成27年6月の会員数183名、平成27年11月の会員数189名、平成28年1月の会員数190名と増減を繰り返してはいますが、全体としては増加してきており、直近の本年10月1日現在で、正会員226名・特別会員3名の合計229名というたくさんの会員の方にご参加いただいています。
 これだけたくさんの方にご参加いただくことができましたのも、会員の皆様のご理解の賜物と感謝申し上げる次第です。
 設立10周年ですので、少しだけ過去の経緯を振り返りたいと思います。
 当研究会が設立された平成25年の数年前から、設立時社員である故清水勲様、故藤谷定勝様、故坂巻 豊様、藤原勇喜様、小林健二様、佐々木暁様を中心にOBOGが集まれる法人の設立について議論されていましたが、実際の設立に向けた手続きは、なかなか進んでいませんでした。その中で、故藤谷様が、平成24年末頃から当研究会の前会長である故野口尚彦様に法人設立に向けた手続きをお願いし、これを引き受けられた故野口様の多大かつ迅速なご努力により、平成25年5月31日の設立にこぎ着けることができた次第です。
 ちなみに、故野口様の前の事務方は私でしたが、私が定款の初期の案文を作成する際に、主たる事務所の穴埋めで私の住所を書いていたところ、故野口様が、主たる事務所の所在は、当面このままとするとされ、それが理事会でも承認されたという経緯があります。
 ところで、当研究会の活動のメインは、会員の皆様が集まり、近況の報告や仕事に係る意見交換などを通して親睦を深めることにありますが、近時は、未曾有のコロナ禍により集まること自体に制約がかかったため、令和2年6月の定時会員総会から皆様にお集まりいただくことができなくなり、本年6月の定時会員総会でやっと集まることができるようになりました。
これからは、新型コロナウイルスによる感染症もインフルエンザと同等の扱いを受ける環境下で対処していくことになりますが、その感染力が衰えたわけではありませんので、今後、様々な工夫をしながら、このコロナ禍を乗り越えて運営していかなければならないと考えています。
 今号の民事法情報研究会だよりは、設立10周年を祝した記念号として発刊します。お寄せいただいた記念論考を掲載させていただくとともに、第1号から前号までの記事索引(「実務の広場」については、事項別索引を含む。)を掲載させていただきます。今後、ご活用いただく機会がありましたら望外の喜びです。
 また、コロナ禍により皆様にお集まりいただくことができなかった時期を除き、平成25年12月から、セミナーを開催させていただいています。講師をお願いし快くお引き受けいただいた皆様に対しまして、厚くお礼申し上げます。
 今後、セミナーでどのような方のどのようなお話をお聞きしたいかのご意見を、皆様からお寄せいただきながら、当研究会の運営を進めていきたいと考えています。
 さらに、当研究会だよりは、会員の皆様の交流の場の一つでありますので、今後とも、皆様に積極的にご寄稿いただきたいと思います。これらのことを含め、引き続き、当研究会の運営へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
(当研究会会長、元千葉・船橋公証役場公証人 小口哲男)

10周年記念特別寄稿

本記事は、10周年を記念してご寄稿いただいたものです。

公証人の息子 レオナルド・ダ・ヴィンチの舞台裏(川上富次)

1 レオナルド・ダ・ヴィンチの存在感は死後5百年経つ現在でも実に色あせることなく万能の天才と
 して輝いています。
 ところで、当のレオナルドは、1452年4月15日、父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ、母カテリーナの間の非嫡出子として出生しています。
 「セル」というのは公証人の敬称として使用されていました。
右のセル・ピエロは有能な公証人として活躍し、然るべき婚約者もいましたが、貧しい農家の娘と情を通じて前記のレオナルドが誕生しました。
 セル・ピエロ一族は数代に亘って嫡男は公証人を継いできた名家であり、他にも一族には「セル」を使用する公証人が散見されています。
 普通ですと、レオナルドも当然公証人を期待された筈です。
 当時、非嫡出子として生を受けても、一般社会的には必ずしも恥ずかしいことではなく、ルネッサンス期のイタリアを「私生子の黄金時代」と呼ぶ歴史家もいます。
 他方、当時は職業ごとに「アルテ」と呼ぶ組合(ギルド)があり、仲間間のルールを伴っていました。このアルテの存在は絶対的なものでした。
 セル・ピエロの所属する組合(1197年設立)は由緒正しい判事、公証人の組合として非嫡出子に対しては厳しく、私生活も非の打ちどころのない信頼性と社会の王道を歩むことが求められたのでした。
 そして、あとあとの話になりますが、1476年に正妻との間の嫡男セル・ジュリアーノ(レオナルドの異母弟)に跡を継がしています。
 歴史に「if」はありませんが、若し、レオナルドの父と母が正式に結婚していれば、私達の知るレオナルド・ダ・ヴィンチは存在しなかったわけです。
 とにかく結果的に万能の天才芸術家が生まれたことは、世界の人達、いや人類の幸運といっても過言ではないでしょう。
 次に、レオナルドの最後を記述しておきたいと思います。レオナルドは、1519年5月2日享年67歳で静かにこの世を去りました。亡くなる9日前に公証人による遺言書を作っています。
内容は、異母兄弟に土地とお金を、召使いにはミラノの土地の半分と水路使用料を、家政婦には上質の服とお金を、弟子のサライにはミラノの土地の半分と家を、後継者メルツイには全記録と残りの全部を相続させています。
 そして「私の一生は幸せに満ちていた」ということでした。
2 ここで母カテリーナについてですが、公証人の父セル・ピエロと異なり、公的記録はありませんの
 で一応通説にしたがってまいります。
 カテリーナは、レオナルドを出産して後、間もなくセル・ピエロの計らいで同じ村の男性と結婚します。したがってカテリーナはレオナルドの母としての役目は僅かな期間でした。
 しかし、記録によりますとレオナルドは母憶いで生まれたことを感謝し続けていたことが窺われます。
 1493年レオナルド41歳の時、ミラノに寡婦となったカテリーナが突然訪ねて来ます。
 カテリーナは2年後病で亡くなるまでの間、二人きりの穏やかな時を過ごすことができました。
 レオナルドは母に対して心からの深い愛情をもって接し、指輪や宝石などをプレゼントした記録が残っています。
 また、母の葬儀も相応の内容の儀式が行われています。
 レオナルドンの母に対する思愛と合わせて久し振りにわが子と暮らす母としての測り知れない情愛が推察されます。
 ここで唐突ですが、あの大作「モナ・リザ」の“謎の微笑”について触れてみたいと思います。
 無私の心を愛で表現できるのは微笑です。
 科学的な視覚と芸術の分析はともかく、あの神秘の微笑は、私はカテリーナの微笑ではなかったかと考えます。レオナルドは「モナ・リザ」に筆を加え続け、亡くなる寸前まで手元に置いていました。
  以上、私の当て推量の僻論をもって、本稿舞台裏を閉じます。
(元さいたま・東松山公証役場公証人 川上富次)
(参考文献)
1 レオナルド・ダ・ヴィンチ -生涯と芸術のすべて-池上英洋(筑摩書房)
2 レオナルド・ダ・ヴィンチ  ウォルター・アイザックソン著 土方奈美訳(文芸春秋社)
3 レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 コンスタンティーノ・ドラッツイオ著 上野真弓訳(河出書房新社)
4 レオナルド・ダ・ヴィンチ -イラストで読む- 杉全美帆子(河出書房新社)

「本人確認」についての古い思い出(樋口忠美)

1 私は、平成25年5月に設立された当研究会の設立時から副会長という役職を仰せつかったもの  の、これといった貢献もできないまま月日を過ごし令和元年6月に退任いたしましたが、この間における当研究会の活動の主要なものは令和2年7月に急逝された野口前会長の企画・立案、実行力に負うところが多く、今でも申し訳ないと思っているところです。
 ところで、当研究会も設立から満10年を迎え会員数も順調に増加しているとのことで、全国の会員が一堂に会して研修・議論するということを楽しみにしていましたが、数年前からのコロナ禍のせいで研修会の開催などが極めて困難になり残念に思っていました。会長をはじめとする理事、監事の皆さんは、この難局を乗り切るために大変なご苦労をされたことと思い、心から感謝申し上げます。

2  私は、公証人を退職して10年以上過ぎ、当研究会の役員を退任して4年が過ぎ、その後は何かをするという予定もなく日々を過ごしており、会員の方々の参考となるような話題もありませんので、公証人在職中に何かと気になっていた「本人確認」について二十数年前の古い思い出を書いてみます。
 公証役場では、本人確認の資料として運転免許証の提示を求めることが多いと思いますが、外国人についてはパスポートの提示を求めることが多いものと思います。パスポートは自国とのつながりを示すものであり、また自分の身分を証明することができるものですからその発行手続は本人確認を含めて厳格に行われていると思われています。また、公正証書や認証のために外国の公的機関が作成した証明書の提出を求めたり、資料とする機会が増加しているものと思いますが、中にはその信ぴょう性や作成過程に?が付くものもあるかと思います。しかしながら、仮に疑問があったとしても外国の公的機関が作成したとされるものについては具体的にどの部分がおかしいと指摘できなければ、公証人がその作成者や作成過程にまでさかのぼって調べることは事実上困難であり、公証人としてその証明書等を認めるかどうかは悩むところではないでしょうか。 

3 私は、推理小説やサスペンスものの小説が好きでよく読んでいますが、その中でも大好きなイギリスの小説家フレデリック・フォーサイスが1963年に実際にあったフランスのドゴール大統領の暗殺計画を題材にして書いた「ジャッカルの日」というベストセラー小説(映画化もされました。)がありますが、その小説中で、イギリスでは出生証明書、本人の写真、手数料、返信用封筒をパスポートの発行機関に送付すると本人確認が全くされないままパスポートが返送されてくるということが実に詳細に述べられていて、簡単に他人名義のパスポートが取得できることが書かれているのです。これが事実であればパスポートは本人確認の証明書としては信頼できないことになります。この小説を最初に読んだときは、本人確認が全くされないままパスポートがこんなに簡単に取得できるはずがない、きっと小説だからこの部分はフィクションだろうと思う一方、イギリスという国は、歴史的にも海外に出る人が多いことから特別に不審なところがなければ厳格な手続なしにパスポートを発行するのが国の方針かとも思ったところです。ただ、いずれにしても小説の世界の中の出来事であるので、その真否を確認することもできずにそのまま記憶の奥にしまい込んでいました。

4 ところが、しまい込んでいた記憶を目覚めさせる思いがけないことが起きたのです。平成9年頃、民事局では電子認証制度を取り入れるための研究が進められており、その先進国のイギリスやアメリカなどにおいて実情を調査する必要が生じ、当時民事局に勤務していた私にイギリスでの調査が命ぜられたのです。
 調査はイギリスにおいて電子認証制度を担当していた、日本でいえば通商産業省(現在の経済産業省)の課長から実施の状況や問題点、今後の課題などについて話を聞いたのですが、その中で電子認証において成りすましなどを防ぐために最も重要な「本人確認はどうしているのですか」と質問したところ、いとも簡単に「パスポートを使っている」という答えがあったのです。この答えを聞いた途端、かすかな記憶となっていた前述の「ジャッカルの日」の小説に書かれていたパスポートの取得手続のことを思い出し、つい本来の調査事項になかったイギリスにおけるパスポートの取得方法について次のような質問をしました。
「①ジャッカルの日」という小説を読んだことがありますか。
 ②あの小説に書かれていたパスポートの入手手続は事実でしょうか。
 ③パスポートは本人確認の資料としては十分ですか。」と。
 このような予定にない質問に対し、相手の課長は、笑いながら「あの小説は読んだことがあります。あの小説が書かれた当時は小説に書かれているような手続でパスポートを取得できましたが、不正に取得できることが分りましたので、手続を改めて今は申請者がパスポート発行機関に出頭して受け取るようにしました。したがって、現在パスポートは本人確認の資料として十分に機能しています。」という答えがあり、私が記憶の奥にしまい込んでいた疑問が解消し、長年の胸のつかえが取れた思いです。 なお、この部分に関しては帰国後に提出した出張結果報告にはなにも記載しておりません。

 私の疑問についてはたまたま機会があって解消することができましたが、公証役場では外国で作成された文書を目にすることが多くなり、何かと疑問が生じることがますます増えてくると思いますので、適正な証書作成のために当研究会が活用されることを念願しています。
(元千葉・柏公証役場公証人 樋口忠美)

野口さんの思い出(小畑和裕)

1 一般社団法人民事法情報研究会(以下「研究会」と称します。)が設立10周年を迎えました。謹んでお祝い申し上げます。私は研究会設立の際に初代会長に就任された野口さんから「研究会を設立したいと思っている。ついては、諸々の手続き等もあり手伝って欲しい」との依頼があり、お受け致しました。当時、野口さんは現職の公証人やOB等を対象にした研究会を早急に設立したいという熱い思いで、文字通り粉骨砕身の努力をしておられました。私は、お引き受けしたもののお手伝いが十分に出来なかったことを反省しています。その後、研究会は無事設立され、野口さんは初代の理事長に就任され、私は執行理事として勤務させて頂くことになりました。研究会設立後も、野口さんは長い間、中心となってその運営等に尽力されました。私は理事としてこれと言った業績も果たさず全くお恥ずかしい限りであります。理事会ではいつも無責任な発言ばかりして野口さんや他の役員の方々にご迷惑をお掛けしていました。野口さんはそんな私の発言を嫌な顔もせず聞いてくれました。

2 野口さんと初めて出会ったのは遠い昔のことです。昭和54年4月、私は、 法務省民事局第一課(当時)予算係に転勤しました。私の異動と同時に、野口さんは予算係から隣室にあった法務局係に転勤されました。予算事務の経験が初めての私は、日に幾度もお教えを請いに野口さんを訪ねました。野口さんはそんな私に嫌な顔もみせず、懇切丁寧に指導してくれました。どんな質問にも分かりやすく説明して頂きました。中でも私が驚嘆したのは、大蔵省(当時)への予算要求に当たり二次方程式を使用したグラフを作成し、予算執行の効果を具体的に説明されていたことでした。グラフを提出して予算要求の説明をするなど当時では考えられませんでした。野口さんには、その後も、登記事務のコンピュータ化や登記特別会計の設立要求など多く場面で、適切な指導をして頂きました。また、私が法務局退職後、公証人として勤務した時にも先輩公証人としていろいろご指導を賜りました。

3 研究会が設立されてから数年後、私は理事会で有る事項を提案しました。それは研究会の機関誌ともいえる「民事法情報研究会だより」に「コラムMY HOBBY」欄を新設することでした。私は研究会の設立が話題になった頃から、新しい研究会では会員相互の交流を活発に行いたいと考えていました。その一環として、会員各位の趣味等を研究会だよりの誌面で披瀝して頂くことが良いのではないかと思っていました。野口さんは私の提案を快諾してくれました。理事会に提案し、承認を得ました。同時に私が担当を命ぜられました。
 MY HOBBYには多くの人たちに登場して頂きました。会員それぞれ実に多種多様な趣味を持って人生を楽しんでおられました。毎号、どんな趣味が寄せられてくるのか、担当者としてワクワクしていました。本稿を借りて原稿の作成につきご無理をお願いした皆様に厚く御礼を申し上げます。

4 皆様ご承知のとおり、野口さんは研究会の設立10周年を迎えることなくお亡くなりになりました。残念でたまりません。生前、お見舞いに伺った際、野口さんの研究会に対する熱い想いを改めて感じることがありました。入院中にも拘わらず、ベッドの側にパソコンや資料を持ち込み、野口さんは熱心に研究会の仕事をされていました。私はその姿を拝見したとき、何とも言い様もない気持で胸が一杯になり涙が出そうになりました。今もその姿を忘れることはありません。
もし可能であるなら、野口さんに伝えたいことがあります。研究会は新たに小口さんが理事長に就任され、優秀なスタッフと多くの会員に支えられ益々発展していることを。
そして何よりも
「野口さん!研究会が設立10周年を迎えました。おめでとうございます。」と。
研究会の益々の発展を祈ります。
(元横浜・厚木公証役場公証人 小畑和裕)

今日この頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

終活-築25年木造二階建て住宅売却の顛末(横山 緑)

 平成29年7月1日付けで法務大臣から「公証人を免ずる」発令がされ、後任公証人に引き継ぎ6年余が過ぎた。
 民事法情報研究会だよりNo.26(平成29年4月)の今日この頃欄に「終活」と題した投稿を登載していただき、当時、夫婦二人が不安なく楽しく過ごすことができる住居を探していることを伝えさせていただいた。
 平成30年に、落ち着いた街並み、景観も良い物件を見つけたが、物件が所在する一帯で、排水施設の処理能力を超えて地上にあふれる内水氾濫がおき、道路が冠水した。加えて、徒歩数分の所にあった老舗スーパーが近日中に店終いするとの情報も伝え聞くこととなったため、契約直前に締結を見合わせた。
 70歳までに転居したいとの思いで進めていた住居探し、新たな条件として、①内水氾濫・外水氾濫の危険性が限りなく低いこと、②頻発する地震に耐えられる強固な地盤であることを加えて、急いで急がない物件探しを継続することとなった。
 ここで大きな壁が立ちはだかった。自然豊かで山紫水明な環境(分かりやすく言い換えれば、市街地から数キロ離れた田畑と新興住宅が混在する地域で主な交通手段はマイカー)に所在する築25年木造二階建て住宅(以下、「自宅」という。)とその敷地の処分(売却)である。不動産仲介業者(以下、「仲介業者」という。)によると、このような物件は買い手が少ないとのことで、次の様なアドバイスを受けた。その1-手持ち資金で購入でき、転居後も自身で自宅の管理ができる距離に所在する物件を探す。その2-新物件へ転居後、数百万円の費用をかけて自宅の取り壊し、庭木の伐採、基礎コンクリート等を含む構築物一切を撤去し、更地として売却する。その3-現況有姿での売却引渡しとし、売却依頼申込み時までに可能な範囲で建物・外構の清掃・手入れ、専門業者に依頼しなくても対処できる不具合部分の修復を実施する。
売却金を含めての新規物件購入資金計画であり、アドバイスその1・その2を選択する余地はなく、アドバイスその3での売却と決めた。
 仲介業者の説明によると、売却が成立しなかった事案の多くが、建物・外構の汚れが目立ち、庭には雑草が繁茂し、建物内外に不用物品が整理されないままに放置されていることが原因と聞き、自分が購入者の立場であれば至極当然であると納得した。我が自宅も築後25年間の塵埃・汚れが半端ではなかった。
 早速、ホームセンターで建築資材(室内の窓枠・柱・鴨居・敷居・フローリング、浴室のタイル・壁、雨戸)に合わせた汚れ落としの洗剤等を調達して、入居時に据え付けたまま一度も移動させたことがない木製家具を移動しての清掃・手入れ、2階ベランダの防水シート張り替え、網戸のネット張り替え、外壁及び玄関に至る石畳の洗浄、塗料が剥離した玄関ポーチ・フェンスの塗装など、ほぼ毎日2~3時間、概ね6か月の期間、直向きに取り組み、清掃・手入れ・修復を済ませた。同時に、19年間に及んだ単身赴任生活を支えてくれた電気洗濯機・掃除機、整理タンス、衣類収納ケースなど法務局退職時に自宅へ持ち帰りその後使用することなく物置に保管してきたものを、市の定める粗大ごみ・資源ごみ等の回収方法に従い分別し、複数回に分けて処分した。
 仲介業者に自宅内外を見てもらったところ、ここまで清掃・手入れが行き届いている物件であれば買い手が現われるであろうとの見通しを立ててくれた。この「買い手が現われるであろうとの見通し」を「必ず買い手が現われる」とお墨付きを得られたと勝手に判断し、自宅引渡日を令和3年3月末日として、令和2年10月上旬に先の仲介業者に現況有姿での売却依頼をした。仲介業者店舗・ネットで物件紹介を始めると、売却物件を探している他の仲介業者、購入を検討している人が正式に申し込んでくる前に、物件の下見で現地に出向いてくるので、契約成立に至るまでは庭の草取り、玄関周りの整理・整頓、清掃を怠らないようにとのアドバイスがあった。
 物件紹介を始めて半月も経たない時期に購入希望者と購入希望者側の仲介業者が物件を見たいと訪れてきた。帰りがけに購入希望者と仲介業者が「築25年の物件でこれほどまでに清掃・手入れが行き届いており、リフォームも必要ない物件はまず無い。2台分の駐車スペース、庭付き、日当たり良好の条件をクリアしており即決しても良いのでは」と話をしていた。結果、翌日に契約申入れがあった。
双方の仲介業者間で売却価格交渉の結果、当方が提示していた価格から金100万円減で合意に至り、11月上旬に仮契約を済ませ、本契約は、所有権移転登記申請日の翌年3月吉日に締結し、同日物件を引き渡した。
 同時並行して検討していた新規物件について、購入資金の目処が立ったことから、令和2年11月に購入申込みをした。
 新規物件の専有面積が自宅の約50%しかなく、新規物件へ持ち込む家財道具は、ダイニングテーブル、木製の本棚1点、ベッドのみとし、これ以外の洋服タンス等の木製家具一切は引越し転出日までに処分、着なくなった衣類、段ボール箱に詰め込まれて大切(?)に保管していた雑誌・雑貨など思い出の品々は一部のものを除き資源ごみとして供出し、個人情報が載っている書類・図書はシュレッダーで裁断し燃えるごみとして収集日に出した。
 マイカーは、これまで食料品等の買出し、通院時など日常生活に必要不可欠であったが、新規物件には確保されている駐車スペースが少なく、抽選に外れた場合は、空きが出て割り当てられるまで個別に駐車場を確保しなければならないこともあり、引越し前にディーラーに買い取ってもらった。現在はマイカー無しの生活を送っている。マイカー無しとする決断には、現住居から徒歩約15分圏内に大型ショッピングセンター、食品スーパー、内科・歯科等のクリニック、総合病院があり、東京駅方面へのダイヤが5~10分間隔で組まれているJRの駅も徒歩5分と近いことが大きな要素であった。加えて、たびたび報道される高齢者による重大自動車事故が他人事でないとの思いも影響している。
 現住居への転居を機会に、終活の一環として築25年中古住宅の売却、重くていまいち使い勝手が良くなかった木製家具等を処分できたが、引き続き不用物品の処分に取り組み、いつか訪れる万が一のときに家族が途方にくれないよう、思いつくまま残りの終活に夫婦で取り組んでいる今日この頃である。
(元名古屋・春日井公証役場公証人 横山 緑)

老いとお客様サービスの取組(久保朝則)

 私が勤務する都城公証人役場のある都城市は、古くから島津氏の勢力下にあり、薩摩藩に関する史跡や文化などが数多く見受けられる宮崎県の南西部に位置し、鹿児島県との県境で南九州のほぼ中心に位置する雄大な霧島連山の麓にあります。その都城市で生活を始めて丸2年が過ぎました。この間、これまでの私の人生の中では、最も「老い」について実感させられる出来事を経験しました。それらを含め、近況をご報告させていただきます。
(1) 公証人として、遺言や任意後見契約、死後事務委任契約などの「お客様の老いに備える場面」に接しながら、公正証書作成のお手伝いをさせていただいていますが、お客様の抱えている「老い」の事情は様々であり、お一人お一人違うことを実感しています。
  また、お客様が公証役場に求めて来る目的の中には対応できないものもあり、できないことはお断りするしかありませんが、公証役場では対応できないけれども、これまでの経験から、お客様の相談に関連する情報を集めて提供するよう心がけています。例えば、遺言の相談にいらっしゃったお子様のいないご夫婦などの中には、自分たちだけの納骨堂を求めても、その後、お参りをしてくれる人がいない等の事情を抱えている方もいらっしゃいます。そのような方には、都城市が管理運営している「合葬墓」の情報提供をしています。この合葬墓では、20年間は骨壺に納められた状態で保管され、その後は、焼骨を骨壺から取り出し、合葬墓内部で他の焼骨と共同埋葬されるというものです。費用も格安なのですが、都城市内にお住まいのお客様でも知らない方が多いため、このような情報は選択肢の一つとして喜ばれます。
(2) 個人的には、両親の「老い」に直面しました。まず、昨年2月、父が亡くなりました。父は米寿を超えていましたが、年齢相応に健康で、母と二人で田舎で慎ましく生活していました。その日父は母と二人で大好きだった地元の温泉施設を訪れ、温泉に入ってそこで倒れ、そのまま息を引き取りました。父は以前から、「長患いをせずピンピンコロリで死にたい。」と言っていたのですが、それを体現したような最後でした。私の身内としては祖母以来、約30年振りの葬儀となり、私の子どもたちにとっては、初めて人の死を間近に体験する機会にもなりました。コロナ禍ではありましたが、父は多くの方に会葬していただきました。まだまだ元気だと思っていた父の突然の死を迎え、父も確実に老いていたのだと改めて実感しました。
  ようやく父の一周忌を終えた今年3月、今度は母が一人で山菜採りに行き斜面で転んで脊椎損傷の大けがをしました。慣れていたはずの場所で足を滑らせ、運悪く下にあった木材で頭を打ち、首から下が動かない状態で近所の人に発見されました。ドクターヘリで病院に運ばれ、手術を経てリハビリを継続していますが、医師からは元通りにはならないと言われていますので、病院を退院した後は、介護施設での生活となる見込みです。母もまた確実に老いていたのです。
  かく言う私自身も日々着実に衰え老いているのは自覚するところです。そのため、母が大けがをする前は、できるだけ年齢にあらがってゆっくりとした衰え曲線となるよう、壮年ソフトボールなどで体を動かしていましたが、現在は車で片道1時間半の母の入院している病院への見舞いを優先する日々を送っています。しかしながら、平日昼間の対応はいかんともしがたく、妻や妹、叔母などの献身的な協力に支えられながら何とかやっているところです。
(3) 最後に、お客様サービスのために都城で取り組んでいる「土曜日の無料公証相談」を紹介したいと思います。相談業務に限らず、遺言書作成など、休日対応の取組はそれぞれの公証役場で行われていることと思いますが、都城では、令和4年1月から、毎月第4土曜日に予約制の無料公証相談を行っています。平日になかなか休みが取れないというお客様に対応する目的で始めました。実際に行ってみると、毎月4~5組のお客様が利用されますので、それなりに目的を達成していると感じています。
  この取組の周知については、当役場のホームページへの掲載のほか、四半期に1回のペースで自治体広報誌への掲載依頼や司法書士会・行政書士会などの関係団体の会員への周知依頼などを行っています。これに加えて、地元の日日新聞の販売所15か所(都城市エリアと都城市に隣接する三股町のエリア)を管轄する新聞のサービスセンターに依頼し、15か所の販売所を4分割して、昨年10月から今年3月までの間に、折込チラシ(別添参照)の配布を行いました。印刷やチラシ配布などの経費は掛かりましたが、結果的には経費以上の売上につながりました。
  数か月経過した現在でも「チラシを見て来ました。」あるいは「チラシを見て電話しています。」という方がいらっしゃいます。やはり遺言作成などの利用者はお年寄りが多いことから、紙ベースの折り込みチラシは有効だと実感しています。
  また、これらの取組によって、そもそも公証相談が無料であることをご存じでないお客様が相当数いらっしゃることも判明しました。そのため、土曜日の予約を希望する電話があったときに、平日でも無料で相談をお受けしていることをお伝えすると、それならと平日を希望して利用されるお客様もかなりいらっしゃいます。キーワードは「無料相談」です。
  しかしながら、課題も見えてきました。折込チラシを見て利用したと確認できたお客様の数と配布した枚数とを比較すると、わずか0.2%程度に過ぎませんので、周知の効果としては「?」マークがつくのかもしれません。今後は、配布する時期(都城市は農業・畜産が盛んな地域のため、農閑期など)やエリア、チラシの内容などをさらに検証しつつ、取組をブラッシュアップしようと考えています。

 新型コロナの5類移行に伴い、コロナ禍前の日常が少しずつ戻ってこようとしています。公証週間を中心とした広報活動の充実が求められる中、講演会の開催や構成員となっている都城市の成年後見制度の周知普及のためのネットワーク会議への積極的な参加などのほか、日常的な広報活動の取組を工夫しながら、今後とも、公証制度の周知やお客様サービスの向上に引き続き努めて参りたいと思います。   (宮崎・都城公証人役場 久保朝則)

七尾公証役場の広報活動(太田孝治)

◎ はじめに
 本年8月1日で、七尾公証役場で公証人として勤めて、1年が経過しました。
これまで、前任の奥田元公証人をはじめ、多くの先輩公証人や、日公連をはじめとする公証人会の研修や研究会、各種の資料提供などのお陰で、「なんとか1年」が過ぎたというのが、率直な実感です。
そして、公証人に任命されるまでに漠然と感じていた、自身の知識や経験で公証事務を適正に遂行できるか、公証役場の安定的な運営ができるかなどの不安感は、少しずつ解消されてきました。というか、「・・・のお陰で、なんとかなるものだな」と思えるようになってきました。
 また、この1年で強く感じた以下の点は、比較的に(かなり?)業務量に余裕のある当公証役場での自身の目標やモチベーションの維持・高揚の糧としています。
(1) 先輩公証人の知見の広さと深さ
 多くの事例に当たりたいが、地域性等から困難な面があり、書籍や会報等の資料、各種研修への参加による自己研鑽を充実させる。苦慮した点や疑問を持った点は、逐次メモなどに残し、資料と共に結果をまとめる。
(2) 公証人間の支援体制の厚さ(先輩公証人の支援意識の高さ)
 公証人会からの情報提供、研修等の支援体制が充実されていることはもとより、先輩公証人からの些細なことなどを含めた声かけをいただき、総会、各種研修会やその後の懇親会などを通じ、何でも聞ける関係性を構築していただいている。
自身の少ない経験から得た知見であっても、機会を捉えて発信し、また、積極的に後輩の公証人に声がけしていく。
(3) 相談や証書案作成後に中止になる事案が意外に多い(実感)
 他の役場の実情を聞いたわけではないが、相談や証書案作成後に中止になる事案が意外に多いと感じている。昨年の8月以降、約1年間で9件が証書案作成後に中止となっている。内1件は、離婚給付で、嘱託人等の都合によるものであるが、他の8件は、遺言4件、任意後見等4件で、いずれも、嘱託人の体調が急変し死亡している。
決して,緩慢に事務処理をし、証書作成日程を調整していたわけではないが、事案により、一層の迅速な証書作成を進める必要がある。
(4) 公証役場や公証人の業務が周知・理解されていない状況
 嘱託人や相談者を通じ、公証人の業務(公証事務)の周知・理解が、まだまだ十分ではない状況を感じている。多くの人に、公証事務や公正証書の効果を知っていただき、公正証書作成をはじめとする公証事務の利用拡大のための周知・広報に取り組む必要がある。
上記の(1)、(2)は、自身の意識や行動で実践するように、(3)は、押しつけにならないように配慮しつつ、嘱託人の体調を踏まえた迅速な証書作成を心がけています。
そして、(4)については、他の広報事例も参考に、具体的に進める必要がると考え、より効果的に,当役場における広報活動を進めるために整理してみました。

◎ 能登地域の状況
 七尾公証役場は、石川県の能登地域にあり、当役場を利用する嘱託人や相談者の約95%が、この地域に居住しています。
 能登地域は、金沢地方法務局七尾支局が管轄する2市3町と、同局輪島支局が管轄する2市2町の、計4市5町を区域とし、石川県全域との面積比で約70%を占めています。人口比では、約21%となっており、人口減少や過疎化のほか、65歳以上の人口が約40%になるなど、高齢化が進んでいる地域で、高齢人口も減少傾向にあるといわれています。
 また、公共交通機関は、七尾市(和倉温泉)までは電車がありますが、その他には、この地域の主な都市内や、都市間を結ぶ路線バスがある程度で、住民のほとんどの移動手段は自動車となっています。一方で、主要地方道の整備も進むほか、金沢と能登半島とを直結する自動車専用道路『のと里山海道』が整備・無料化され、自動車が利用しやすい環境になっています。
 若干、地域の観光を紹介すると、この「のと里山海道」は、「日本の道100選」にも選ばれた風光明媚な道路です。夕暮れ時には日本海に沈む美しい夕陽が見られ、夏の夜には、沖合に浮かぶイカ釣り漁船の漁り火が幻想的に輝いています。また、金沢市から羽咋市までの約30キロメートルは、海岸線を眺めながら走ることができ、千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイや千枚田、揚げ浜式塩田、農家民宿群などがあります。この千里浜なぎさドライブウェイは、全長約8キロメートルの砂浜ドライブウェイで、自動車はもちろん、バスやバイク、自転車でも走行できます。
 これらをご存じの方もいると思いますが、最近では、輪島市、珠洲市などで頻発した地震や、七尾市の豪雨水害などで、能登地域がニュースで取り上げられており、記憶されている方も多いと思います。

◎ 当役場の現状
 公証事務の件数としては、決して多くはありませんが、その中での直近1年の証書作成事件の傾向は、遺言が約50%、賃貸借契約が約15%、保証意思宣明が約10%、委任契約が約7%、任意後見契約が約7%、離婚給付(養育費、財産分与を含む。)が約6%、その他が約5%となっています。
また、嘱託者本人が直接相談に訪れる事案は約50%であり、高齢の嘱託者に代わり、その親族や知人からの相談が約30%、司法書士、行政書士や弁護士等の資格者を通じた依頼は約10%、事業等に関係する法人担当者から相談が約10%となっています。そして、公共交通機関で来所した相談者は皆無で、すべて自動車利用(タクシー含む。)でした。

◎ 活用が望まれる公正証書と公証事務等の周知
 公正証書作成の需要拡大に向けて、その需要が見込まれる多くの高齢者との接点がある社会福祉協議会の担当者に聞いたところ、高齢者の現状として、①身寄りが無い高齢者、親族が遠方で生活しており普段の生活で支援が受けられない高齢者が多い、②これらの高齢者のほとんどが判断能力は十分であるが、足腰が弱ってきており、生活に苦労することがある、③90歳以上でも自動車を運転しているが、自動車に乗れなければすぐに生活に困る、④入院や施設入所の手続きに不安がある、⑤亡くなった後の財産の処分を案じている(相続人の多くは田舎の不動産は管理が面倒で不要との意識がある。)などがあげられました。
 この現状を踏まえて、公正証書作成の面から意見を聞いたところ、委任契約(財産管理契約、見守り契約)、任意後見契約、死後事務委任契約、民事信託契約、尊厳死宣言、遺言が有効と思われるとの回答を得ました。
 また、同担当者から、高齢者のみならず、多くの人が、公証人や公証役場の存在を知らず、公証事務の内容や、その有効性について理解していないとの意見もいただきました。

◎ 公証事務の利用拡大に向けた広報
 さらに、公証事務の利用拡大に向けた広報の方法について、これまで当役場を利用した嘱託人(司法書士等の資格者、事業等の法人担当者を除く。)に確認し、検証してみました(各項とも回答の多い順に記載)。
(1) 公証役場をどのように知ったか
① 親族・知人から聞いた
② 司法書士等から聞いた
③ 市役所・町役場の担当者から聞いた
④ 市や町の広報、地域情報紙などで知った
⑤ ホームページで知った
 誰もが必要性に迫られて公証役場を訪ねると思うが、その際に周囲の人から情報を得ている状況が確認でき、広報誌や情報誌、ホームページからの情報取得が意外に少ない状況がある。
前任公証人からも、「口コミ」が非常に有効な広報手段と聞いていたが、この結果からも,その妥当性が確認できる。
(2) どのような公証事務の内容(公正証書の種類)を知っていたか又は作成を 
検討するか
① 遺言
② 離婚給付
③ 任意後見
④ 尊厳死宣言
 遺言は、最近の相続未了土地問題や空き家問題への関心からか、圧倒的に多かった。また、遺言がない場合の手続きの煩雑さを実体験したことから作成する人も多い。
離婚給付は、知人や、市役所担当者からの勧めで知り、作成する人がほとんどであった。
任意後見は、最近の任意後見制度の広報の結果、理解が進んでいる状況が認められるものと考える。
尊厳死宣言は,現時点では非常に少ないが、一部にその有効性が認識されつつあると思われる。
(3) どのような広報が有効と思うか
① パンフレットやリーレットの配布
② 講演会(相談会)
③ 市や町の広報への掲載
④ わかりやすい、利便性のよい場所での公証役場の設置 
「パンフレットやリーフレットの配布」は、証書作成に向けた知識の醸成に有効であり、いかに効果的に配布するかが課題と思われる。
 「講演会(相談会)」は、制度の内容や具体的な活用の場面の話を聞くことで、自分の証書作成を具体化しやすくなり、興味や必要性の理解が高まるとの意見も多い。課題は、一人役場で、平日の日中での講演会等の依頼に、どのように対応していくかである(調整すれば、時間は十分にあるのだが。)。
 「市や町の広報への掲載」は、高齢者層の多くがこれらの情報紙を細かく確認しており、とりわけ、お知らせ、行事、イベントなどを興味深く読んでいる状況があることから、これら広報誌へのより効果的な掲載を行うことで、その効果が期待できる。
 「わかりやすい、利便性のよい場所での公証役場の設置」は、当然の話である。昭和57年12月、現在地に当役場が設置され、すでに40年が経過しているものの、未だに、役場への交通案内の電話が少なくない。複数回、役場を利用される方が少ないことはやむを得ないが、役場の立地も広報の充実の面からも重要である。当役場は、七尾駅から徒歩20分、最寄りのバス停から徒歩3分だが、本数が少なく利用しづらい。駅や商業施設の近隣での設置が望まれるが、理想にかなう建物の確保が難しい。

◎ 当役場の実情を踏まえた広報活動
 前述のとおり、この1年間の当役場の実情を踏まえた広報活動について整理した結果、次のとおり進めようと思っています。
(1) 何を広報していくか
 公証人や公証役場、公証事務について広報する。
また、ニーズが見込まれる、委任契約(財産管理契約、見守り契約)、任意後見契約、死後事務委任契約、民事信託契約、尊厳死宣言、遺言について、機会を捉えて重点的に広報する。
(2) どのように広報していくか
 次のとおり、「口コミ」される機会を充実させる。その際に、パンフレットやリーレットの配布、ホームページの案内を行い、効果を高める工夫をする。
・利用者(嘱託人、相談者)への説明
・市町の担当者、司法書士等の士業者を通じた公証役場の案内
・講演会(相談会)の実施
・市や町の広報への掲載
(3) 問題点等
 上記の広報活動の問題点や留意点についても、次のとおり整理しました。
・「利用者(嘱託人、相談者)への説明」
限られた時間内で興味を持ってもらうために、パンフレットや説明資料を配布した上で説明し、「押しつけ」との印象を持たれない説明を心がける。
・「市町の担当者、司法書士等の士業者を通じた公証役場の案内」
この協力の依頼は、依頼文書の送付のみでは、その効果は得られないことから、可能な限り面談して説明できる機会を設ける。また、関係団体や関係機関への依頼も併せて行う。
・「講演会(相談会)の実施」
一度に多人数への広報の機会として有効だが、最大で往復200キロメートルの距離のある開催地が想定される一人役場では、開催地の距離だったり、平日の日中での実施などの問題から、依頼のすべてに応じるのは困難な場合がある。極力、前広に応じるものとしつつ、実施日時や場所、実施対象者の情報を収集して、効果的に実施できるように調整する。
・「市や町の広報への掲載」
降雪・寒冷地域、自動車利用による参加という地域性を考慮して、12月から2月を除く期間に掲載されるように依頼する。限られたスペースでの広報となるため、相談会等のイベント情報など、耳目を引きやすい内容を盛り込むように工夫する。

◎ おわりに
 これまでの関係機関等への働きかけにより、講演会については、6月に1回(約30人)実施し、10月に1回(約300人)実施の予定です。
その他、各種の広報活動の効果は明らかではありませんが、比較的(かなり?)業務量に余裕のある当公証役場では、費用対効果を考慮しつつ、広報を充実させ、公正証書作成のみならず、公証事務の利用拡大に取り組んでいきたいと考えています。
(金沢・七尾公証役場公証人 太田孝治)

実務の広場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.99 初任者のための信託公正証書作成上の留意点(小沼邦彦)

 当役場において信託が特に多いわけではありませんが、信託の公正証書作成に当たり、日頃自分が考えていることを整理してまとめてみました。信託についての一般的な留意事項を書いておくことは、初任の公証人の皆さんにとっては、若干でも参考になるのではと考えた次第です。実際は、私が今月号の実務の広場の担当であることが原稿作成の大きな理由ですが、初任の公証人の皆さんを始めとして、会員の皆様に少しでも参考になることがあれば幸いです。
 なお、基本的なことを中心に説明させていただきましたので、初任者のための留意点とさせていただきました。そして、あくまでも個人的な見解であることをお断りしておきます。
1 信託とは何か、その特色と注意点
 私が最も納得した信託の説明は歴史的な経緯によるものです。それによると、西洋の十字軍が家族を残して遠征する際に、兵士(委託者)の家族が困らないようにと、信頼できる友人(受託者)に自分の財産(領地)を託して(名義変更して)、目的に応じた財産管理をしてもらい、財産から得られる利益(受益権)を兵士の家族(受益者)に渡す仕組みが起源であると解説されていました。
 文字通り信じて託す制度であり、当事者間の信頼関係を前提にした制度ということになりますが、信託の本質は、委託者の財産権を受託者に移転し、受託者が自己の名で管理する点にあり、財産権を(物権的に)移転することによって、受益権が生ずるところに最大の特色があります。権利転換機能とも言われますが、財産(所有権)の所有・管理とその受益(経済的価値)を分別して考えるということになります。
 そして、この受益権を享受する(渡される)人が受益者ということになります。通常の契約と異なり、第三の当事者たる受益者が登場することも信託の大きな特色といえます。受益者が受益権を享受するためには、受託者の円滑な財産管理が不可欠ですので、信託で最も重要な役割を果たすのは受託者であり、その人選は慎重に行う必要があります。
 また、信託は、任意後見契約とは異なり相続税対策等を含む積極的な財産管理機能を有するほか、当初の受益者が死亡したとしても第二順位、第三順位の受益者(例えば委託者の妻や子)を指定する後継ぎ遺贈的な財産承継機能を有します。これは信託の受益権が所有権ではなく債権化しているため、所有権絶対の原則から解放されるので、このような受益者連続型信託が可能になるといわれています。ただし、30年ルール(信託法第91条)というものがあり、永久に続くわけではありません。信託設定後30年経過したときは、受益者の承継は1回のみ認められ、その受益者が死亡したときにその信託は終了します。
 さらに、信託の対象となる財産は受託者の名義となることから、委託者の遺言の対象財産ではなくなり、かつ、受託者の固有財産でもないため、誰のものでもない財産という特殊な財産形態となり(信託財産の独立性)、受託者が破産等してもその影響を受けない倒産隔離機能を有します(信託法第25条1項)。そして、税法上は契約形態にかかわらず実際に利益を得ている受益者に課税される「受益者課税の原則」により、委託者が受益者となる自益信託の場合、贈与税等は課せられませんが、委託者と受益者が異なる他益信託の場合は贈与税等が課されます。高齢者支援のための福祉型信託において、例えば父親が委託者で受益者も父親の場合には課税されないということになります。 
 一方で、信託では任意後見契約のような身上監護はできませんので、高齢者の身上監護も行いたいと考えている依頼者に対しては、任意後見契約も併せて締結する必要があります。また、財産の一部を信託にした場合には、残りの固有財産について遺言を作成しておくことも必要ですので、依頼者の要望に応じて各制度を選択(使い分け・併用)していく必要があります。
2 公正証書作成上の留意点
 信託には、事業承継型信託など様々なものがありますが、以下では、最も一般的な高齢者支援型の福祉型信託を前提に説明をさせていただきます。
 公正証書作成において私が留意している点は二つあります。一つは信託が分
かりにくい制度であるため、できるだけ分かりやすいものにすること、もう一つは信託に信託監督人等の監督機能は用意されていますが、費用等の問題もあり必ずしも設置できるとは限りません。委託者や受益者は高齢化してますます監督機能を果し得えなくなりますので、そのための工夫をすることの2点です。 
(1) 信託の目的について
 私は、信託において最も重要なことは、信託の内容を、信託財産や関係者
の構成等でどう構築するか、いわば信託の設計図をどう書くかということだと思います。そのためには、まずは信託の目的が最も重要な条項になるのではないでしょうか。信託の目的をどうするかによって、1年間の経費が算出され必要な信託財産の内容が決められ、また、信託の目的を達成するためには受託者や受益者を誰にするかということで、信託の当事者が定められることにつながるからです。
 具体的な信託の目的の条項について、私は、連合会が発行している「新版 証書の作成と文例‐売買等編‐」(以下「文例」といいます。)の内容を基本として作成しています。具体的には、「この信託は、別紙信託財産目録記載の不動産及び金融資産を信託財産として管理及び処分を行い、受益者に生活・介護・療養・納税等に必要な資金を給付して、受益者の幸福な生活及び福祉を確保することを目的として信託するものである。」というものです。これを基本に依頼者が希望する内容及び上記以外に信託で賄う費用があればそれらを加筆修正するとともに、できるだけ当事者の「思い」、例えば、「受益者の安心・安全かつ平穏無事な生活を確保する」、「円滑な遺産の承継を可能とする」等を盛り込んで自分達の信託となるように心掛けています。
(2) 信託財産について  
 次に重要なことはその信託に必要な信託財産をどう選択するかということになります。信託の対象となる財産としては信託法上の制限はありませんが、法令上等の理由により、信託財産にできないものがあります。年金受給権は一身専属権であり譲渡できませんし、預貯金債権は金融機関との預金契約により譲渡が禁止されているため、それ自体を信託財産とすることはできません。そのため預貯金債権は委託者が一度払い戻した上で、信託口座に預け入れる必要があります。農地は転用許可・届出に基づき農地以外に転用した上であればともかくとして、信託では所有権移転は許可されませんので注意が必要です(農地法第3条2項3号)。
① 不動産
 まず不動産で注意しなければならないことは、信託財産とするには受 託者への移転登記と信託の登記が必要であるということです(信託法14条)。私は、過去に公正証書案にはその旨の記載があるにもかかわらず、当日の事前確認で委託者が不動産を名義変更することは聞いていないということで、結果として公正証書の作成に至らなかった経験があります。この事件は士業者が関与したものでしたが、委託者に対して信託の重要事項を確認し、委託者の考えに反する申請を未然に防止したという意味においては、公証人の役割を果たしたのではないかと考えています。
 信託不動産の移転登記について、文例では、「管理処分行為」という条項の中に記載されており、作成に至らなかった際も同様にしていたのですが、その時の経験を踏まえて、できるだけ最初の信託財産の条項において、契約締結後速やかに信託不動産について受託者への移転登記及び信託の登記手続を行うことを明記するか又は「信託不動産に関する登記」等として別条で明確に記載するなど、少なくとも当事者間において移転登記等が必要なことをはっきり認識されるように条文を工夫することが必要と考えています。
 なお、当事者のうち、特に高齢の委託者の意思能力及び信託契約の重要事項の理解を確認することは、公証人の重要な役割ですので念のため付言しておきます。
② 金銭
 金銭を信託口口座で管理する場合には金融機関内で個人名義の預金口座とは異なる信託財産であることの手当がなされており、確実に倒産隔離機能があるといえますが、信託口口座でない専用口座の場合には、個人口座なので差押え等を受ける危険性があるという点に注意する必要があります。
 そこで、まず信託口口座のある金融機関を利用することが可能か否かを確認する必要がありますが、現状においては、都市部以外には信託口口座を開設できる金融機関は少ないと言わざるを得ません。そのため、多くの場合は、一般の金融機関において信託専用の口座を開設することになります(差押え等の危険性があることについては当事者に説明しておいてください。)。
 私は、不動産と同様に最初の信託財産の条項か又は「信託専用口座の開設」等として別条において、委託者は速やかに専用口座に目録記載の金銭を振り込む旨を記載した上で、信託専用の口座として具体的な口座名及び受託者が分別管理する旨を記載するのがいいのではないかと考えています。口座名等を具体的に明記することが、受託者の分別管理義務(信託法第34条)を遵守・徹底させ、かつ、金融機関等においても信託専用の口座として認定されることにつながると考えるからです。 
(3) 信託の当事者について  
 第3に重要なことは契約当事者をどうするかということです。委託者とし  ては、信頼できる財産管理運用者として誰を受託者にするかという点が最も重要です。そして、当該受託者に事故等があった場合に備えて第二受託者を決めておくことも肝要です。受託者が事故等で急に死亡して、当該信託に空白が生じた場合には運用ができなくなるほか、その空白が1年続くと信託の終了原因となるので(信託法第163条3号)、私は第二受託者をできるだけ決めておくように助言しています。
 次に、受益者を誰にするか、一代限りの受益者にするか、当初の受益者 を仮に父親としてその死亡後には母親や子にまで拡げる受益者連続型信託にするのか否かの検討が重要となります。私の経験では一代又は妻の二代までが多いようです。
 最後は信託監督人等ですが、適正な信託を実現するためには可能であれば設置すべきです。私が関与した事件では士業者や専門法人が信託監督人となるケースがありましたが、家族がなるケースは少ないようです。士業者が関与せず直接嘱託を受けた事件の場合は、関係者の中に報酬の必要のない適任者がいないか(例えば、受託者の兄弟姉妹で信託監督人と次順位の受託者を分担又は持ち回りするか若しくは受託者のおじ・おば等に信託監督人を依頼する等)を検討することは必要ではないかと思います。
 そして、私は、公正証書の条文の並びを以上の重要度を考慮して、まずは信託の目的、次に信託財産、そして次にこの当事者を記載することにしています。なぜならば、信託は登場人物が多いので彼らを最初に明記した方が分かりやすいものになると思うからです。すなわち、委託者・受託者・受益者が誰であるか、住所・氏名・職業・生年月日、次順位の者への変更事由を記載させ、さらに信託監督人等を設置する場合は同様に記載します。
(4) その他の条項について
 その他の条項については、私は当事者の次に契約の締結から終了するま でを時系列で記載するのがわかりやすいのではないかと考えています。具体的には、概ね次の順番となります。①信託の内容、②信託財産の追加、③受託者の義務、④信託の変更、⑤信託の終了事由、⑥清算事務、⑦最後に権利帰属者という順になります。いずれも必須と思われる条項です。
① 信託の内容
 信託の内容は信託の設計図の中心的な部分であり、公証人としては力を入れて検討すべき事項であると私は考えます。具体的には、受託者の信託財産の運用管理事務と受益者に対する金銭等の給付事務に大別されます。
 受託者の信託財産の運用管理事務とは、受託者がどのように信託財産を管理して、どのような収入を基に信託に必要な費用を賄うのか、当該信託の一年間の流れや注意すべき事項等を記載するものです。
留意すべき点は、当該信託において受託者が運用処分できる範囲を、「不動産の購入まで可能」又は「第三者からの借り入れを認める」等と記載させたり、処分等することのできる場合を、「信託の目的と照らして相当と認めるときは」と限定するなどして、受託者が委託者の想定した以上の財産の処分をできないように工夫することが重要と考えます。この点は、当事者間において事前に十分相談するよう助言してください。
 なお、この受託者が可能な処分権限を、「信託の内容」の条項ではなく、「受託者の権限」として別条で記載する方法も受託者が委託者の考えを逸脱することを防止するものとして有効であると考えます。
 一方、受益者に対する金銭等の給付事務では、受益者に給付する金銭  等の内容、給付の時期、給付の方法等を記載します。文例では「信託の内容」の条項の第2項として記載されていますが、「信託財産の給付」として別条で記載する方法も分かりやすいものになり、有効であると思います。
② 信託財産の追加
 必要経費が当初の想定よりも増加したり、契約締結後一定期間経過した等により信託財産が不足し、信託財産を追加することが必要になることは十分考えられますので必須の条項です。
③ 受託者の義務
 次に受託者が遵守すべき事項である受託者の義務を明記させます。この条項を記載することによって、受託者として果たすべき義務をより明確に当人に認識させ、当該信託の内容の適正な執行をを確保させることができると考えます。文例では、「管理処分行為」の条項に記載されているものですが、管理処分行為としてまとめられていることが、逆に私が経験したように当事者に認識不足を招く恐れがあります。
 そこで、受託者の義務として法定されているものの中でも重要な事項として、善管注意義務(信託法第29条)、分別管理義務(信託法第34条)、帳簿等の作成等、報告及び保存の義務(信託法第37条)については、それぞれ受託者の義務として別条で記載するなど、受託者にしっかり認識させる工夫が必要と考えます。
④ 信託の変更
 信託は、一般に長期の契約期間となるため、その間には子供が生まれる等家族間の関係に変更を生じ得ますので、受益者と受託者との合意等により、契約を変更することのできる規定を設けておくことが不可欠であり、必須の条項と言われています。
⑤ 信託の終了事由
 文例では第3条に信託期間として受益者の死亡の時までとされているのみで、それ以外には特に「信託の終了事由」とする条項はありません。しかし、信託では、委託者と受託者の合意で終了させることができるなど委託者が自由に終了事由を定めることができますし、法定の終了事由もあるほか、登記事項でもあるので、私は信託の終了事由として最後に明記しておく方が分かりやすいのではないかと考えています。
⑥ 清算事務、権利帰属者
 文例の解説にあるとおり、信託は、終了後も清算結了までは存続するとみなされますので(信託法第176条)、清算受託者の定めなどの清算事務と清算結了後の残余財産の帰属者の定めは、公正証書の最後に明記すべき必須の条項です。
3 最後に
 私の説明は以上ですが、私が勘違いしている部分があるかもしれません。本稿をたたき台として、今後、会員の皆様が実際に嘱託を終えた事例等を基に追加版を作成するなどして充実したものにしていただくことを期待して、ペンを置きたいと思います。
(福島・いわき公証役場公証人小沼邦彦)