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民事法情報研究会だよりNo.40(令和元年8月)

 残暑の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 さて、去る6月15日の前期セミナーでは77名の会員が参加して、元法務省民事局長で前最高裁判所長官の寺田逸郎先生から「法と裁判――平成をふりかえって」と題するご講演をいただきました。時宜に適った含蓄のあるお話しでしたが、講師のご意向により講演録としての文字おこしはいたしませんでした。欠席された会員の皆様には、講演レジュメと資料を本号に掲載いたしましたのでご了解ください。(NN)


今 日 こ の 頃

   このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

  ❝事件です❝の50年(五十嵐 徹)  

本稿は、近畿公証情報(2014.10.1・No59)に登載した原稿の一部を 削除の上加筆修正したものです。

3億円事件と日本武道館

 1968年(昭和43年)国連総会は、世界人権宣言採択20周年に当たるこの年を国際人権年と指定し、テヘランで国際人権会議を開催しました。法務省では、記念切手・記念たばこ(ピース)を発売し、NHK歌謡コンサートにおいて記念コインの宣伝をしてもらうなど多種多様の啓発活動をしました。
 そして、12月10 日の「人権デ-」に日本武道館において、皇太子、同妃両殿下のご臨席のもとに国際人権年記念式典が挙行されました。私は、一担当職員として、文字どおり走り回っていました。


日本武道館

 同日午前9時20分ころ、東芝府中工場従業員のボーナスのための現金約3億円を積んだ日本信託銀行の現金輸送車が、府中刑務所北側の路上で、後を追ってきた白バイ警官に止められました。警官は、爆発物を発見したといって、行員たちを車外へ退避させ、運転席に乗り込み、そのまま走り去りました。
 この事件のため、国際人権年記念式典の模様は、ほとんど報道されませんでした。
 残念。

浅間山荘事件と富良野スキー場

 昭和46年4月1日付けで北海道の釧路地方法務局訟務課長を命ぜられました。雪と濃霧のため釧路空港には着陸できず、帯広空港で下ろされ、航空会社の手配したタクシーで釧路の宿舎まで行き、なんとか期限内に着任できました。

 翌年2月28日、札幌での会議を終え、帰路につきました。片道350キロメートルです。列車は、大雪のため、富良野駅で運行停止となりました。見知らぬ町で降ろされ、途方に暮れました。そうだ、出張所があるはずだ。飛び込みで入りました。所長宿舎が併設されており、一晩泊めていただくことができました。

 その夜、テレビに釘づけになりました。

 連合赤軍5名による寵城事件と警察による人質(山荘の管理人泰子さん)解放作戦です。警察と過激派との攻防は、映画の戦闘場面を見るようでした。テレビは、雪の降り続く中、連続10時間を超える中継を行いました。犯人逮捕・人質救出の午後6時から7時まで、民放を合わせたテレビの総世帯の最高視聴率は、89.7パーセントに達したとのことです。所長ご夫妻との会話も少なく、見入っていました。

浅間山荘

 これがご縁で、富良野スキー場(旧・北の峰スキー場)とのお付き合いができました。

立山・富士山・キリマンジャロ

 昭和58年4月30日、立山3山の一つ雄山(2992メートル)登頂を目指しました。最高峰は、北隣りの大汝山(3015メートル)です。室堂を中心とする立山高原は、330度(360度-30度)どの方角へ向かっても山で、残りの西30度方向を下れば、富山市へ出ます。
 グラグラする岩、ゴロゴロ落ちる石にハラハラしながらも、なんとか山頂に着き、雄山神社へのおまいりもそこそこに、360度ひと回りすると、見えました。富士山が、はるか彼方にくっきりと。一斉に歓声が挙がりました。手前の槍、穂高も、今日は脇役です。
 立山から富士山までは約170キロメートルですが、直線上には、松本、甲府盆地があり、北アルプス、南アルプスにより視界をさえぎられることはないのです。
 2週間後、富士山へ行きました。スバルライン終点の手前から、雪渓を利用して、7,8合目位まで登ります。雪が氷のように堅くなっているので、斜め登行はできません。直登です。快晴無風で、物音ひとつしません。しかし、立山は見えませんでした。立山からは見えたのに。

 昭和60年11月21日海外青年協力隊の隊員6名が死亡しました。彼らは、マラウイで活動中でしたが、休日を利用して北方に位置するアフリカ最高峰のキリマンジャロ(タンザニア)へ登頂しての帰り道、乗車していたマイクロバスが暴走対向車と正面衝突したのです。遺体の帰国後、当時の海部俊樹文部大臣も出席して、盛大に葬儀が執り行われました。


キリマンジャロ

 死亡者の一人は、立山登頂に同行したゴリラこと林君(享年28歳)です。その名を不二夫(ふじお)といいます。法務省(営繕課技官)を休職して、隊員として頑張っていたのです。無念です。

地下鉄サリン事件と小伝馬町駅

 平成7年3月20日午前8時ころ、東京都内の地下鉄丸の内線、日比谷線の各2編成、千代田線の1編成、計5編成の地下鉄の車内で、化学兵器として使用される神経ガス・サリンが一斉に散布されました。日比谷線の目黒行き電車には、上野駅で林泰男(死刑囚)が乗車し、秋葉原駅付近でサリンのビニール袋に傘で穴を開けて床へ置いて下車し、小伝馬町駅で乗客がこれをプラットホームへ蹴り出し、築地駅で電車は非常停止しました。各駅のホームは、ガス中毒の症状に苦しむ乗客であふれました。小伝馬町駅では、後続の列車の乗客も次々に被害を受け、8名が死亡しました。全体では13人が死亡し、約6,300人が重軽傷を負いました。

 この日私は、いつものように午前8時30分ころ上野駅で日比谷線に乗り換え、勤務先である財団法人抵当証券保管機構(平成24年8月1日解散しました。)のある小伝馬町駅へ向かった途端、地下鉄は、運行を停止しました。およそ10分の差で地獄を見なかったわけです。


小伝馬町駅

東日本大震災と安比高原スキー場

 平成23年3月4日岩手県安比高原スキー場へ行きました。コース数が21もある広大なスキー場です。そして翌週には、東北新幹線全線開通記念ツアーに参加し、35年振りに青森を訪問する予定でしたが、直前に定員オーバーという連絡があり、断念しました。
 そして1 1日、あの大地震が発生しました。仙台市生まれということもあり、できる限りの支援をしてきましたが、なんといってよいか。まだまだ、復旧したとはいえません。


安比高原スキー場

 平成26年8月東野圭吾のベストセラー小説(120万部)「白銀ジャック」が渡辺謙の主演でドラマ化されて、テレビ朝日の土曜ワイド劇場で放送されました。これは、安比高原スキー場とホテル安比高原グランドを舞台にしたサスペンスで、数多くのコースで撮影されていました。最後に、ダイナマイト爆破により雪崩が発生したゲレンデは、しっかりと記憶に残っているコースでした。

氷河を滑る?

 平成24年5月立山・雄山と剱岳にある3つの雪渓が、氷河であると認められました。氷河とは、雪渓(万年雪)が長期にわたって斜面を流動する氷の塊をいいます。日本には存在しないとされてきました。北海道には高い山がないため、また、富士山は降雪量が少ないため、いずれも氷河はできないのです。

 赤道直下のキリマンジャロの山頂クレーターには、巨大な氷河があるそうです。しかし、ゴリラ君が見たこの氷河は、地球温暖化の影響を受けて、早ければ、2020年ころには消滅するのではないかといわれています。


【カナディアンロッキーを滑る】

 カナダのウイスラー山とブラッコム山には4つの氷河があります。2004年4月にはヘリコプターをチャーターして、この氷河を滑ることができました。

 世界最大の氷河は、スイスのアレッチ氷河でしょう。2001年に世界遺産に登録されています。 2007年3月にスキーツアーでスイスに行ったときに、グリンデルバルトからユングフラウヨッホに上がり、雄大な流れを見ることができました。滑ることはできません。

公益財団法人? 東京都スキー連盟

 公益財団法人は、一般財団法人のうち、公益事業を主な目的としている法人で、申請により公益性を認定された法人です。この公益財団法人は、いきなり公益認定を受けられるわけではなく、まず一般財団法人を設立し、次に「公益認定」の申請をすることになります。ただし、東京都スキー連盟(以下「都連」という。)のように既存の法人は、平成26年11月30日までは「公益財団法人」への移行認定申請をすることができました。全日本スキー連盟は、その申請をして認定されましたが、都連は、申請をしなかったため、「一般財団法人」のままです。

 同年8月IOC副会長などを歴任した猪谷千春氏(1956年冬季オリンピック大会の回転競技で銀メダル・アルペン競技で日本人ただ一人の受賞者)が会長に就任しました。会長は、「公益移行」の方針を示し、規約審議委員会に対して、定款その他の規約の全面的な見直しを諮問しました。
 同委員の私は、そのころから体調不良を生じ、通院、入院を繰り返すことになりました。しかし、審議をストップすることはできないため、麹町にある都連へは、入院中を除いては欠席せず、また、メールをフル活用して審議を進め、平成27年8月に答申をし、翌年4月には再答申をしました。猪谷会長は、これを受けて、内閣府に対して、認定申請をしました。
 ところが、内閣府のOKは1年以上出ず、猪谷会長の平成29年7月満了までに「公益財団法人」化はなりませんでした。会長への“はなむけ”になると思っていたのですが、残念です。そしていまだに一般のままです。


【猪谷千春(右)・金メダルのトニー・ザイラー(中央)】
  こんな男に誰がした?(佐々木 暁)  

 古稀を過ぎた身には、夏の日差しがじんわりと堪える。熱中症対策用の飲料を持たされ、ベランダの窓際の椅子にもたれて、生温い風に吹かれながら、久しぶりの東京の蒼い空を見上げているうちに、いつしか自分の生きてきた道などにつらつらと想いが流れた。
 私と言えば、・・・そう、昭和の時代には、戦後生まれ、団塊世代の旗頭、亥年生まれの猪突猛進型と揶揄されつつ、戦争知らない若者代表、競争社会の代表世代として、良くも悪くも一生懸命生きてきて、平成を経て令和の今がある。
 思えば、北海道の田舎の次男坊として生を受けたが、長男たる兄が幼くして他界したため、実質5人弟妹の長男格として君臨?したものの、非力で、潮風にも対抗できず、早々に跡継ぎレースからは脱落、というより、親にも当てにもされず、絶対に合格しないと太鼓判を押された公務員初級試験に見事?に合格して見せたところから、苦難?の法務局人生が始まる。
 窓際にいる私の目の前を、名前も知らない大きな黒い蝶がふわりふわりと花から花へと自由そのままに飛んでいる。私が何を想い耽っているのかと言わんばかりに。私もこの蝶のように自由に今日まで生きてきたんだろうか。もちろん、公務員としては、法律・規則・倫理等々のなかでそうそう自由とはいかなかっただろうし、一人の人間としても、夫や親としても目の前の蝶のようにはいかないこれまでの人生ではある。
 ぼんやりと遠くの空を見上げながら、ふと、最近、元同僚や後輩たちの私に関する何気ない?遠慮のない?言葉のやりとりを思いだし、一体私はどんな人間で、どんな男で、世間の皆様方からどんな風に看られているんだろうと言う思いに駆られた。
 かって、何かの会報に、私は、妻に対して、「ありがとう」「ごめん」と言えないし、加えて「妻の名前を呼べない、呼んだことがない」、そんなところをどうにか改善したい、と反省の弁を述べたことがある。しかし、しかしである。そのことが未だ改善されていない。よく言えば、改善途上であると言えなくもないが、要するに、口先だけのいい加減な人間なのである。他にも我が人格(性格)上、おかしなところが山ほどにあるらしい。自分も気が付いている。その極々一部を挙げてみた。
 ・・・・・・
 「ゴルフは、自分よりスコアの悪い人としかやらない。つまり、自分より旨い人とはやらない。だから今はしていない。新しいクラブも、3年間封印したまま。」
 「ギャンブルはしないと言うより嫌いである。パチンコは人生で二度・計200円の損失。競馬は、年一回有馬記念のみ1000円」
 「煙草は、生涯2本。吸い込んではいない。煙を揺らせただけ。不味い。」
 「甘党・辛党、両党使い」
 「非を簡単に認めない。自説を曲げない。強情っ張り?。」
 「涙もろい。人情に弱い」
 「将来見込みのある者しか叱らない。自分はあまり叱られた記憶がない。」
 「理不尽なことには、とことん立ち向かう。相手が誰であろうが。」
 「東京ガス以上の強力瞬間湯沸かし器と陰で評されている。」
 「都会のホテルより、田舎の囲炉裏のある温泉宿が好きだ。」
 「高価な車は買わない。その代わり車検も取らない?」
 「家に架かる電話は絶対に取らない。20回鳴ったら出るかも。」
 「何か頼まれたら、断れない。借金以外は。」
 「信頼関係ができた友人との付き合いはしつこいかも。」
 「女性を食事に誘うのは不得手。断られるのが怖い。」
 「他人には厳しいが、自分に甘い。孫には、まるでまるで甘いらしい。」
 「飛行機の座席は、前方通路側と決めている。」
 「大きな夢がない。身近な目標もない。」
 「趣味がない。得意なことがない。その気になればいつでもできると思っている。」
 「法務局は大好きと言っているが、訟務の経験がない。」
 「昔の登記所の庁名1200を全部覚えたことがある。」
 「魚は大抵尾頭付きを買う。身以外のアラ部分が旨いから。」
 「机の上に物を置くのが嫌いである。整理・整頓好きである。」
 「メールより葉書や手紙が好きだ。」
 「酒を飲む容器・グラスにこだわる。酒の種類毎、冷・温毎に。」
 「背広のポケットに余計な物は入れない。」
 「嫌は嫌、好きは好きと速攻で言う。」
 「頑張っても一番にはなったことがない。」
 ・・・・・・・・
 以上は、あくまで思いついた一例である。数え上げたらきりがない。これ以上の列挙は裸の王様状態となり恥の上塗りとなる。これだけでも充分に変人男である。どんな人間像が浮かび上がるのであろうか。捉えようのない複雑怪奇な人間像が想像される。
 人の性格は、「良い方向へと治す」との努力の甲斐もなく、実は一生死ぬまで変わらないもの、治らないものと悟る境地に間もなく辿りつきそうである(本当は、もうとっくにその境地に辿り着いているのに、まだ進化、改善の努力中と無駄な抵抗をしているようにも見えるから可笑しい。)。
 古稀から喜寿への旅路も更に険しくなりそうな予感がする。旅の途中で失いそうな、体力、知力、活力、視力、聴力、記憶力、財力等々(もともと持ち合わせていない力も多くあるが)。
 結局のところ、こんな男になったのは誰の所為でもなく、すべて私自身の所為であり、自業自得の結果である事は、百も承知の筈なのだが。
 空模様が急におかしくなってきた。夕立が来て我が身の心底まで洗い流してくれたらと願いつつ、・・♪♪誰の所為でもありゃしない・・みんな俺が悪いのさ・・♪♪・・と昔流行った唄を口ずさみながら、今日も一日無事に終わりそうである。
 会友の皆様には、こんな私でも、今少しの間、温かく、辛抱強く、ご指導、ご助言、ご交誼下されば幸いである。

  秋山伊左衛門(秋山重紀)  

 私は、転勤の都度、家族と公務員宿舎に入居させていただき、退職の1年前に、札幌市郊外の閑静な地に終の住まいを設け、僅かな敷地にトマト、茄子、サツマイモ等をそれぞれ数株植えその収穫と、家に衝突しそうに向かって来る電車や丘珠空港から飛び立つ航空機を窓越しに見るのを楽しみにしている。
 拙宅の建築にあたり、100歳に近づいていた父は祭司承継等について何も語らなかったが、長男の勤めとして仏間を設け、宗派に相応しい金仏壇を購入し、以前から保管していた過去帳を納めた。この過去帳には、明治42年に66歳で他界した曾祖父伊左衛門まで、三代の長男夫婦について記録されている。

過去帳

 幼い頃に聞いた祖母の教えに従い、朝夕仏前に座し南無阿弥陀仏を唱え、家族の皆が健康であることへの感謝と、これまでを顧みている。法務局時代は、私なりに気遣いしたつもりだったが,退職し組織の外から過去を振り返ると赤面することが多く、今更ながら一人で反省している。
 私は、春耕のころ斜里岳からの強烈な風がオホーツク海に向けて吹き抜ける地で生まれ育った。両親は、小規模な農業を営み、種まき、草取りそして収穫までのほぼ全てを手作業で行い、5月の連休から11月の初雪の頃まで、休むことなく、畑に出ると日が沈み暗くなるまで戻ることなく働いていた。私達の食事等の世話は、母に代わり祖母の仕事であった。祖母は、明治の女、武士の娘らしく凜として無駄口は叩かず寡黙であったが、私には昔話や戦争体験等を聞かせてくれた。また、祖母は、幼くして母と死別したためか孫には平等に優しく、私は祖母から叱られた記憶がない。床の間には、曾祖父伊左衛門の辞世の句をしたためた掛け軸があり「66歳まで健康で生きたことに感謝していること。他人様のこと(悪口)は言わないこと。家族は争うことなく助け合い繁栄に努めること。戦争のない平和な世が続いて欲しい。」と書かれていると祖母に教えられた。さらに、曾祖父は地域の心配ごとや揉めごとの相談を受けることが多々あり皆から頼りにされていたとも聞いた。私は、疑うことなく祖母の話を素直に聞き入れ、曾祖父伊左衛門を敬い、このことを心の片隅に記憶していた。

 私は,曾祖父の他界した66歳を超えたが健康に恵まれ、夏は車を利用し、冬は徒歩3分の百合が原駅から電車に乗り札幌駅で特急に乗換え岩見沢駅で下車、事務所までは歩き約1時間かけて通勤している。この通勤時間を利用して警察小説等を楽しんでいる。厳冬期の札幌は氷点下10度程になり、早朝の札幌駅ホームはわずかの風でも文庫本をめくる手が痛く感じることがある。そんな朝は、コートの袖を伸ばして本を持つ手の露出を少なくし、特急が入線するまでの十数分を耐えている。

 雪祭りが終わり中国人観光客が減少したシバレの厳しい日、寒さを凌ぎながら「黒書院の六兵衛(浅田次郎・上巻:文春文庫)」を手にしていた。この物語は,大政奉還後の江戸城の明渡しにあたり、それを執り行う官軍の俄か隊長に命ぜられた御徒組頭加倉井隼人が江戸城西の丸御殿に赴いたところ、一介の御書院番藩士六兵衛が梃でも動かず座り続けているところから始まる。江戸城は不戦開城とされ、仮にこの六兵衛を移動させるために力を用い争いが起こり刃傷沙汰となることは断じて許されないとされていた。加倉井は六兵衛の属していた八番組頭の命により六兵衛を立ち退かせることとした。
 さて,その御書院番八番組の御頭は「秋山伊左衛門(あきやま いざえもん)」様と同書157頁に振り仮名を付して記してある。この組頭は、徳川将軍家に仕える千石格の旗本である。
 私の心臓は高鳴り鼓動が伝わる。目は止まり活字を追わない。2月の寒さは感じられない。半世紀以前に祖母に聞かされ写真や遺影もなかった曾祖父秋山伊左衛門の登場である。曾祖父伊左衛門は、明治42年に66歳で他界したのであるから明治維新には20歳を過ぎていた。加えて、家には曾祖父伊左衛門のものとされる裃や刀が保管されていた。
 何と、今も徳川幕府が続いていたならば、私は、組頭を世襲し、騎兵80人を従える千石高の旗本、月代は十分にあるがちょん髷は心配などと勝手に想像を膨らませた。
 特急に乗車後、いつもの5号車10番C席に着き、心を落ち着かせ文庫本を開き読み続け、事務所に到着後も同様で、お客様からの電話に「本日は予約で一杯です。」とは答えることはなかったが、時間の限り読み続けた。この組頭伊左衛門は、50歳に近く、江戸城を離れ千葉の妾宅に身を寄せている状態であり、八番組の組頭であったが信頼されておらず下命することはなかった。
 組頭と曾祖父とは、年齢が異なること、曾祖父は岐阜県から渡道していたこと、何より組頭に人望がないことにより別人と思われたが、上下巻を読み終わるまでの間、これまでの小説で得ることのない期待と感動を覚えた。
 浅田次郎が小説に使用する名前や人物設定に興味を持ったが、一笑に付されそうで浅田事務所に問合わせることは思いとどまった。蛇足であるが、浅田次郎が第2次世界大戦終戦当時のカムチャッカ半島に近い占守島の知られざる戦を書いた「終わらざる夏(上・中・下:集英社文庫)」は,終戦記念日を迎え、北方領土から命がけで引き揚げた元島民のご苦労を知るうえでもお勧めである。

 まもなく迎える毎日が日曜日の準備として、二人の子供の家の草むしりと野菜作り、暇なときは今回のような出会いを期待して文庫本を読む「晴耕雨読」の今日このごろである。

  「伊勢の国から」(福田 勝)  

 伊勢公証役場公証人に任命され、一年が経過しました。この一年間は、毎日が勉強、勉強の日々でした。法改正、新規手続の導入など、自己学習だけでは対応できず、諸先輩からの御指導や、名公会研究会での協議問題の検討、日公連、四公会主催の講演会への出席等、様々の 所で御教授をいただき、何とかこの一年、公証業務を行うことができました。今後も法改正等が続き、日々の自己学習を続け、適正・公正な公証業務を行うためにも、様々な勉強会等への出席を心がけていきたいと思います。

 ところで、業務に慣れるとともに、地域とその地域の人たちにも慣れることも重要です。気候、人柄、言葉(方言)など、早くその地域に馴染むことも大事です。
 遺言公正証書の読み聞かせでは、住所や本籍等を読み上げますが、どうしても読み方が理解できない地名があります。ここ伊勢は、難読地名が非常に多く、一例ですが、「朝熊」と書いて「あさま」、「佐八」を「そうち」、「相差」を「おうさつ」、「石鏡」を「いじか」と読みます。就任当初は、読み方が違うため、嘱託人や証人から何度も指摘され、四苦八苦しました。そこで地名の読み方一覧を作成し、机上に貼り付け、指摘を受けないように努め、今は、ほとんど間違えなく読めるようになりました。
 また、意味がよく理解できない言葉(方言)もあります。「わしの遺産をオイボシにやりたいさかい、先生、公正証書をまいてもらいたいんやが。」この意味わかりますか。遺言相談における嘱託人との会話の一部ですが、嘱託人は、「私の遺産を甥に相続させたいので、遺言公正証書を作成してほしい。」と述べているのです。「オイボシ」とは、「甥」のこと。「まく」とは、「作る」という意味です。 「オイボシ」は何となく「甥」のことかなと感じ取れますが、「まく」を「作る」と理解するには苦慮しました。公正証書をまくの、ん?配る?ばらまくっていうこと?「オイボシ」は「甥」、では「姪」は何というのか。「姪」は「めい」です。なぜ「甥」だけ「オイボシ」というか、「これだ。」と、はっきりした理由はないそうです。今は私も、「オイボシに遺贈ですね。」、「公正証書をまくのでいいんですね。」と言ってます。

 伊勢の人びとは、やはり伊勢神宮とともに生きていると言っても過言ではありません。「お伊勢さん」に守られ生活しているんだという気持ちを少なからず持っていると思います。年間1500回に及ぶ伊勢神宮の恒例のお祭りの中で、最も重要なお祭りが「神嘗祭(かんなめさい)」です。その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝するお祭りです。「神嘗祭」では、「初穂曳」という行事があります。これは、米の実りに感謝を込め、全国から集められたお初穂をお木曳車(大型の荷車)に載せ、陸路で外宮までの陸曳(おかびき)と、五十鈴川から内宮へ船を曳き入れる川曳(かわびき)の一連の行事を「初穂曳」と言います。「初穂曳」は、多くの伊勢っ子が参加します。私も、伊勢に住んでいるからには、「初穂曳」に是非、参加したいと思っています。

  地方では、その地域の風土や人々と慣れ親しむことは、公証業務を行う上では、重要なことと思います。
 現在、伊勢公証役場では、伊勢市は毎月1回、志摩市及び鳥羽市は隔月に1回、公証相談を各市役所で行わせていただいています。また、伊勢市広報に毎月1回、「公証相談」の案内を載せていただくなど、 少しずつですが、自治体等の御協力を得ながら、地域の皆様に公証業務の周知を図って、公証業務を通じて地域に貢献できる公証役場を築いて行けたらと、誌友の皆様に、「伊勢の国から」お伝えします。

実 務 の 広 場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.70 年金分割の請求に関する文例について

 本稿は、私が、平成25年度の近公会研究委員として、「新任公証人の文例等のメモ(離婚給付等)」をまとめ、同年度の四公会有志合同研究会において概要を発表したもののうち、年金分割請求に関する部分について、その後の年金分割請求に関する取扱い変更を踏まえて加筆修正したものです。

1 年金分割合意

注:年金分割の請求は、離婚後、厚生年金を所管する年金事務所(厚生年金の運営主体は、平成22年1月1日から、社会保険庁が廃止・解体され、厚生労働大臣から委任を受けた日本年金機構である。)に対して行う。平成27年10月1日以降、国家公務員共済組合、地方公務員共済組合及び私立学校教職員共済組合の各共済制度は厚生年金に一元化されることになり、請求の名宛人は、厚生労働大臣又は日本年金機構理事長(以下、注の中では「厚生労働大臣等」という。)となった。

合意分割による離婚時年金分割請求における公正証書には、①標準報酬 の改定又は決定の請求をすることの合意、②請求すべき按分割合についての合意のほか、③第1号改定者の氏名、生年月日及び基礎年金番号並びに、④第2号改定者の氏名、生年月日及び基礎年金番号が記載されることが必要である。

新版「証書の作成と文例」家事関係編〔改訂版〕(以下「文例」という。)204頁以下参照。ただし、文例の【文例22の1】及び【文例22の3】は、上記①の合意が明記されていないことから、誤記証明書の交付を請求される場合があるので留意すること。

 2 被保険者が国家公務員共済組合員であるとき(年金分割のみ合意)

注:共済組合の手続は、組合員である甲が所属組合にしたほうがスムーズにできる場合があるので、この条項を記載した。共済組合の種別により、○○県市町村職員共済組合等と記載する。 

 3 年金分割合意(情報通知書を別紙として添付する場合

 4 いわゆる3号分割のみの合意

注:平成20年5月1日以後に離婚し、平成20年4月1日以後に国民年金の第3号被保険者(第2号被保険者の配偶者であって主として第2号被保険者の収入により生計を維持する者のうち20歳以上で60歳未満の者)としての婚姻期間がある場合、第3号被保険者であった者は、按分割合の合意なくして対象期間(平成20年4月1日以降)の標準報酬の分割(3号分割)を厚生労働大臣等に請求できるので、公正証書に記載を要しないが、嘱託人から記載する旨請求があったときは、備忘録として記載することになる。

 5 年金の分割について認証手続をした例

 6 離婚時年金分割の請求をしない旨の合意

注:年金分割の制度は、年金制度が夫婦双方の老後等のための所得保障という社会保障的意義を有しており、厚生労働大臣等に対する公法上の請求権であって、財産分与とは異なる制度であるが、離婚当事者は、財産分与の一つとして考える傾向がある。離婚に当たって離婚給付等契約公正証書で、年金分割の合意をせずにその余の財産分与等の請求をしない旨、他に債権債務がないことの清算条項が合意されても、後に年金分割の請求をすることは、同請求権が上記のとおり厚生労働大臣等に対する公法上の請求権であることから妨げられない。ただし、同公正証書等で、年金分割の申立てをしないとの合意(年金分割の請求をしない旨又は年金分割事件の申立てをしない旨)をすることは、公序良俗に反するような事情がない限り有効とされ、この場合には(3号分割の請求は別として)、年金分割の請求をすることができなくなる。

この合意に係る公正証書を作成することは、公証人としても慎重に判断すべきであろう(文例210頁参照)。

(栁井康夫)


民事法情報研究会だよりNo.39(令和元年6月)

 初夏の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 さて、平成の時代から新しい令和の時代に変わってひと月が経過いたしました。当法人の事業年度は4月から3月までの1年としておりますので、7期目の本年度の始まりは平成31年4月からになりますが、年度の事業計画を承認する定時会員総会は本月15日に開催されますので、本年度の表記は「令和元年度」とすることにいたしました。元号法が成立した昭和54年当時、香川法務省民事局長が、国の業務で最も多く元号を使用している登記、戸籍業務に関して、国会で一貫して「国の管理する帳簿には国が定めた元号で記載する」と答弁されたとのことですが(研究会だよりNo.12、樋口「今は昔」参照)、これに倣うものです。(NN)


今 日 こ の 頃

 このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

  濱崎さんの思い出(小畑和裕)  

1 濱崎恭生さん(元法務省民事局長)が亡くなられた。ご家族からお知らせ頂いた時は余りにも突然のことで、お悔やみの言葉も言えず絶句してしまった。ご病気だとは聞いてはいたがこんなにも早く逝かれるとは夢にも思わなかった。濱崎さんが民事局長に在任された時、総括補佐官としてお仕えし、公私にわたりお世話になった。日常の業務執行の際や、出張の随行、私的な付き合いの場面等において数々のご指導を賜った。楽しい思い出も沢山頂いた。亡くなられて一月が経過した今も実感が湧かずに、呆然としている。

2 濱崎さんは公私の別を厳格にされる方だった。奥様を亡くされた時もそうであった。普段から私的な事柄を職場に持ち込んだり、話をされることはなかった。奥様が闘病されていることは全く知らなかった。亡くなられた後、送迎担当の運転手によれば、濱崎さんはいつも自宅付近で降車されるので不審に思っていたところ、奥様を見舞うために、病院に行かれていることが分かった。口止めをされていたという。また、当時の民事局は、立法作業や国会の対応で繁忙を極めていた。そのため、日曜出勤されて資料を検討されたり、参事官室の皆さんと打ち合わせなどをされていた。私は全く知らなかった。後で聞いたことだが、日曜日は勤務を要しない日だ、迷惑をかけることになるので総括補佐官には一切知らせないようにと濱崎さんが指示されていたとのことだった。地方で開催される法務局長会同や支局長会同に出席する場合に、国会等の対応で出張先の宿舎への到着が深夜になることが一再ならずあった。その場合、勤務時間外であり出迎えは絶対ならぬと厳命を受け、地元幹部への説明・説得に苦労した。

3 濱崎さんは多趣味の人だった。ゴルフ、囲碁、麻雀、カラオケ等どれをとってもプロ級だった。ゴルフは何度となくお供をしたが、特に思い出が深いのは、総括補佐官グループと一緒にプレーを楽しんだ王子にある都民ゴルフだ。昼食はコースの途中にある茶屋で缶ビールと簡単なおでんで済ませた。ほとんどの場合2ラウンドをプレーした。特に、桜の季節はプレーを終えた後、缶ビールとつまみを沢山買い込み、王子駅前で花見をした。明るく楽しい酒盛りだった。参加者全員が前後不覚に酔っぱらった。朝早くから出かけて、帰宅が深夜になることはザラだった。濱崎さんはいつも自宅から自転車を駆って参加された。帰宅途中に警察官に呼び止められ職務質問を受けたこともあったらしい。また、法務局出身の公証人で組織されていた白鳳クラブのゴルフに招待されてお供をした。どんなにスコアが良くても、ゲストなので準優勝が最高位だった。同会の規程により、ゲストは優勝できないのだ。それでもベスグロ賞を得て楽しそうだった。全身を鞭のようにしならせて華麗なフォームでスイングをされた。下手くそな私には、パートナーや後続のプレーヤーに迷惑をかけるから「打ったら走れ」が口癖だった。囲碁は有段者の腕前で、法務省の囲碁クラブや、法務局OBによる石心会のメンバーとして活躍されていた。麻雀も上手であり、事務次官や他の省議メンバーから誘われて卓を囲んでおられた。総括補佐官としては勝負の結果が気になるところだが、一度も口にされることはなかった。カラオケは主に総括補佐官グループの集まりや出張先の懇親会などで楽しんでおられた。伸びのある高音で上手だった。演歌が得意だった。お酒はよく飲んでおられた。ただし本人は、「私は元来下戸である」と言っておられた。とても信じられなかった。一方、タバコはヘビースモーカーだった。法務局から帰京する際、飛行機の出発を機内で待っていた時、機内が全面禁煙である旨アナウンスされ、それなら降りると言われて困ったことがあった。禁煙を勧めたこともあったが、一笑に付された。

4 濱崎さんは若い職員が大好きだった。法務局に出張された際も、本局の幹部たちの業務報告とは別に若い職員たちから直接話を聞くことを希望された。そのため、日程が可能な限り、支局や出張所の視察を望まれた。視察先では若い職員に気軽に話しかけられた。声をかけられた職員は感激のあまり緊張してとんちんかんな返事をする場合もあったが、濱崎さんは嬉しそうに聞いておられた。今思えば、法務局の将来を担う若い職員に期待するとともに、民事局長が直接出向いて話しかけることにより、本省との距離を近くしようと考えておられたのだと思う。

5 濱崎さんの思い出は沢山ある。どの思い出も楽しいものばかりだ。ごく最近までお付き合いをしていただいた。私が愚にもつかない話をしてもいつもにこやかに聞いて頂いた。亡くなられたことが未だに信じられないが、今はただ衷心よりご冥福を祈るのみである。

  高齢化社会におけるある遺言(木村俊道)  

 近年、高齢者ドライバーによる自動車事故が増加し、特に最近は高速道路の逆走やブレーキとアクセルの踏み間違いなどによる痛ましい重大な事故が連日のように発生しています。

 これらの事故防止のため、各都道府県警察や地方自治体においては、運転免許証の自主返納を推進するための様々な取り組みを行い、また、各メディア等でもこの問題が頻繁に取り上げられています。自主返納をする高齢者も年々増加しており、特に、今年の4月に3歳の女児と母親が亡くなった池袋での87歳の高齢者ドライバーによる暴走事故後には、東京都内で自主返納が急激に増加しているようです。

 しかし、当公証役場の管内である十勝管内においては、公共交通機関網が十分でないため、交通手段は車に頼ることとなり、必然的に高齢者ドライバーも多くなります(私もその一人かもしれませんが…)。もっとも、当管内では交通量もさほど多くないので、第三者を巻き込んだ目立った重大事故等は発生していませんが、信号が赤になっても止まらず非常にゆっくりとしたスピードで交差点を通過して行ったり、ウインカーを出さずに急に曲がったりと、高齢者ドライバーによる危なっかしい場面は毎日のように見かけます。

 当役場管内では遺言作成のため出張する際には、市外では片道40~50キロ程度はざら、市内でも片道20キロを超えるところもあり、当然、車を利用することとなりますが、遺言作成のために来られる高齢者の方も、自分で車を運転してくる方がかなりおられます。

 このような高齢者の方には、できるだけ来られる回数を減らし早く作成してあげたいと思い、十分に話を聞いた上で、必要書類等を記載したメモを渡し、書類が揃ったら郵送でも構わないのであらかじめ電話で連絡をくれるように伝えていますが、このような高齢者に限って、また、突然、飛び込みで来られるので、結局、書類が不足していて、何度も足を運ぶ結果となることが結構あります。当の本人は、「なんも、どうせ何もやってないから、何回かかってもいいんだ。」と笑っていますが、こちらとしては、途中で事故にでもあったらと思うと、笑い事ではありません。

 そのような中、私が経験した中では、自分で運転してきた最高齢となる91歳のお爺ちゃんの遺言を,先日、無事作成することができました。住所からすると役揚まで車で片道約30分の道のりで、結果として、完成まで4回通われましたが、この遺言を通じて、高齢者の交通事故の問題とともに、高齢者の独居問題などいろいろなことを考えさせられました。

 このお爺ちゃんもご多分に漏れず、最初は、飛び込みで、杖をついてゆっくりとした足取りで役場にいらっしゃいました。自分で遺言らしい内容をびっしり書いたノートを持参し、頭はしっかりされていました。とりあえず、話を伺いましたが、ほとんどは、戦時中と戦後の大変ご苦労をされた話に終始し、小1時間経過してやっと遣言の趣旨らしきものにたどり着きました。持参されたノートには、妻が数年前に亡くなっていること、法定相続人が長男、長女、二女の3人であること、預貯金の明細や各残額のほか、3人の子の過去の修学状況や孫の数などを考慮して誰に何万円を多くなど事細かく書かれていて、預貯金がメインとなるものでした。

 そこで、「自宅などの不動産はないのですか。」と伺ったところ、「今、住んでいる自宅と敷地がある。」とのことなので、「その不動産はどうするのですか。せっかく遺言を作るのであれば、全部の財産について書いておかないと、残った財産について3人の子で分割協議することとなり、揉めるもとにもなりますよ。」と助言したところ、「本当は長男に家と仏さんを継いでもらいたいけど、長男は妻の葬儀以来、実家に顔も出さない。どうしようもない。」などと悪口を言いつつ、一方では「長男は札幌に住んでいるけど、3人の子供がいて丁度お金がかかる時期で大変なんだわ。」と気にかけている様子も窺わせ、少し考えてからまた来たいということで1回目は終わりました。

 帰り際に、「それでは、考えがまとまったら、必ず電話してから来て下さいね。」と伝え、その歩く姿から、まさか自分で車を運転して来たとは思いもよらず、軽い気持ちで「気をつけて帰ってくださいね。今日はどうやってこられたんですか。誰かに送ってもらったんですか。」と声をかけると、自慢げに「自分で車を運転して来た。車は隣の立体駐車場(5階建ての自走式駐車場)の上の方に停めてきた。」という信じられない言葉が返ってきて、はじめて超高齢者ドライバーであると認識し、ビックリ仰天となりました。そこで、改めて「本当に気をつけてくださいね。必要であれば出張することもできますからね。」と無事の帰宅を祈り見送りました。

 2回目は、この約1週間後でした。また、何の前触れもなく、突然の訪問でした。幸い、他の予約もなく、1時間程度話を伺いましたが、結果として1回目と変わりなく、考えがまとまっていない様子でした。そこで、「話はいくらでも伺います。ただ、あなたの車の運転が本当に心配なので、何回も足を運ばせないようにしたいと思っています。私も出張で不在だったり、他の予約で埋まっていることもあるので、考えがまとまってから来られる前に必ず電話していただけませんか。」と、ついつい強い口調で言ってしまい、何か悪いことをしたような気がして、その後、数日間は何か落ち着かない日々が続きました。

 しかし、さらにその約1週間後、「やっと踏ん切りがついて決めたので、行ってもいいか。」と明るい様子で予約の電話があり、3回目でやっと遺言内容が確定し、付言事項も一緒に考え、遂に、4回目で遺言の完成にたどり着きました。

 完成後、お爺ちゃんは、「本当に世話になった。これで安心した。そのうち暖かくなったら、この遺言の謄本を持って長男のところに行ってこようと思っている。」と満足げに笑みを浮かべて帰られました。こちらも、何とか事故もなく、無事に完成できて一安心、…と思いきや、何と5分後に、お爺ちゃんがいつものように杖をついて事務室に戻って来たではありませんか。また、どこか遺言の内容を変更したいと言い出すのかなと思っていると、「あんたには、すごく世話になった。決まった手数料しか受け取ってもらえなかったので、これ飲んでがんばってや。」と、栄養ドリンク2本を鞄から差し出すではありませんか。不自由な足でわざわざ事務室のある3階から1階の自動販売機まで買いに行ってくれたと思うと、さすがに断り切れずありがたく頂戴することにしました。

 今、この高齢化社会において、高齢者ドライバーの問題とともに、高齢者を狙った詐欺による被害も後を絶たず、テレビや新聞報道等で頻繁に注意を呼びかけているのに、連日のように被害報道がされています。手口が巧妙化しているのはもちろんですが、その背景には、話し相手になってくれる人が身近にいない人が増えているということもあると思います。

 今回、お爺ちゃんにとっては、遺言を作成するということも必要だったと思いますが、それ以上に、自分の話を聞いてくれる相手が必要だったのかもしれません。また、一人暮らしのお爺ちゃんにとって車は重要な道具であることは間違いなく、その危険を指摘してくれる人が誰もいなかった。そこで、お節介にもその危険を指摘し、心配してくれたことが嬉しかったのかもしれません。

 これまでも、高齢者の遺言作成の相談に当たっては、本人の話を十分聞くということを心がけてきましたが、今回の経験を踏まえて、より一層、高齢者に寄り添い丁寧に話を聞くことで、公証人として地域社会に少しでも貢献できればと考えているところです。

実 務 の 広 場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.69 養育費・婚姻費用算定表使用上の留意事項等について

 養育費・婚姻費用算定表は、東京家庭裁判所のウェブサイトでその使い方も含めて公開されていますし、「新版 証書の作成と文例 家事関係編〔改訂版〕」(日本公証人連合会)の34ページ以下に養育費の算定表が、85ページ以下に婚姻費用の算定表が転載されていますので、会員の皆様方には、公正証書作成の相談等で使われた経験のある方も多いと思います。

 しかしながら、この算定表(以下「標準算定表」と言います。)に関しては、全国の家庭裁判所において広く使われているにもかかわらず、一般の方々には、必ずしもその考え方が十分理解されていないのではないかと思われる点がありますし、公正証書作成の際に留意すべき事項もありますので、このような観点から、使用上の留意事項等についてまとめてみたいと思います。

1 「養育費」及び「婚姻費用」について

① まず、「養育費」とは、父母が離婚する場合に、子の監護をすべき者及び子の監護に要する費用の分担等を定めることとなっており(民法第766条第1項)、このときに定められる子の監護費用のことで、言うまでもなく、父母の離婚が前提となります。

 「子の監護」という文言は、基本的には未成年の子の監護ということになりますが(民法第820条)、養育費支払期間の終期(合意により定められた終期が事情の変更によって早まる場合を含む。)は、子が成年に達する時期とは一致しない場合もあります。

 即ち、未成年者であっても、就職して十分な収入を得ている場合は養育費の対象にならないと考えられますし、病弱等のために就労できない場合や大学在学中である場合は、成年に達した後も一定期間は養育費支払いの対象とされることがあります。

 なお、子が成年に達した後において、例えば大学院に進学する等、子が経済的に自立できない事情が生じた場合は、親どうしで協議することもできますが、一般的には養育費の問題ではなく、子本人が親に対して扶養請求を行い、扶養義務の程度等について親子間で協議すれば良いこととなります(民法第877条ないし879条)。

② 次に、「婚姻費用」とは、民法第760条に定める「婚姻から生ずる費用」のことで、夫婦の衣食住の費用、子の監護費用、医療費、交際費等、婚姻共同生活を営む上で必要な一切の費用を言います。

 標準算定表にいう婚姻費用は、夫婦の協力扶助義務(民法第752条)に基づく生活保持義務(自分の生活を保持するのと同程度の生活を被扶養者にも保持させる義務で、自分の生活を犠牲にしない範囲で被扶養者の最低限の生活扶助を行う生活扶助義務とは異なります。)に基づいて、夫婦の一方が他方に支払うべき費用と解されており、その内容は、一般的な婚姻費用と同じです。

 言うまでもなく、「婚姻費用」は、夫婦が婚姻中であることが前提となります(実質的に夫婦関係が破綻していても、法律上婚姻が継続していれば、原則として婚姻費用が発生します。)。

 なお、「養育費」も「婚姻費用」も、当面の生活費の支払いということですから、原則として定期金の支払いとなりますし、将来に備えた貯蓄の原資を含むことまでは想定されていません。

2 なぜ標準算定表が使われるようになったのか

 家庭裁判所における、婚姻費用分担請求事件や養育費請求事件は、請求者の生活費に関わるものであり、日々の生活費に困窮している場合も多いことから、迅速な解決の要請が特に強いにもかかわらず、当事者双方の家計収支状況、個別の経費の額やその適否の認定等複雑困難な問題の検討を要するため、解決までに時間を要することが多かったことから、様々な工夫がなされてきたところです。

 このような状況の中で、平成15年4月に、東京・大阪の裁判官による研究会が、それまで家庭裁判所で採用されていた方式を基本としつつ、実際の費用額に基づいて個別に認定していた部分を、統計資料に基づいて標準化した指数や割合に置き換えた簡易な計算方式を採用し、その計算方式に基づいて、迅速に目安となる金額を見出すことのできる標準算定表を提案しました。

 この標準算定表は、戸籍関係資料のほか当事者双方の年収額の資料さえあれば簡易迅速に概ね2万円の幅を持たせた目安を得ることができ、多少の個別事情についてはこの幅の中で解決を図ることが可能で使いやすく、家庭裁判所の実務において利用されるようになり、最高裁判所もその合理性を認めた(最高裁平成18年4月26日決定)ことから、広く利用されるようになりました。

3 標準算定表の考え方

 標準算定表は、厚生労働省によって告示されている生活保護基準のうち生活扶助基準を利用して最低生活費を積算し、これに14歳以下の子の生活費には公立中学校の教育費相当額(年額134,217円)を考慮し、15歳以上の子の生活費には公立高等学校の教育費相当額(年額333,844円)を考慮した上、成人の生活費の指数を100、14歳以下の子の生活費の指数を55、15歳以上の子の生活費の指数を90として、夫婦(父母)の総収入(税込)から固定的な必要経費額を控除した基礎収入額(衣食等の生活費に充てることのできる収入額)を、権利者側(養育費又は婚姻費用を請求する側)と義務者側(支払う側)の生活費指数に応じて按分するという考え方をとっています。

 ここで、固定的な必要経費額を、実際の支出額に基づいて認定するのではなく、公租公課については、法令による税率・徴収率により、その他の経費額については、総収入額を一定範囲の金額区分に分けた上その区分ごとに総務省統計局の家計調査年報の数値に基づく平均的な割合に置き換えて認定することによって、簡易迅速な計算を可能にしたところが、それまでの方式との大きな違いになります。

 なお、固定的な必要経費とは、給与所得者の場合、公租公課(社会保険料を含む。)、職業費(被服費、交通・通信費、書籍費、諸雑費、交際費等)、特別経費(住居に要する費用、保険医療費等)となります。

 これに対して、自営業者については、社会保険料は確定申告書に記載された金額を差し引くほか、職業費等の経費が差し引かれた後の所得金額を収入額とすることから、この収入額から控除する固定的な必要経費中に職業費は含まないこととなります。

 したがって、標準算定表を使用する場合、給与所得者については源泉徴収票等の「支払金額」(税込年収額)をそのまま年収額として当てはめることになりますが、自営業者については確定申告書の所得金額から社会保険料控除欄の金額を差し引いた上で実際には支出されていない専従者給与(控除)額の合計額及び青色申告特別控除額を加算した金額を年収額として当てはめることになります。

 また、給与収入と事業収入の両方の収入がある場合は、標準算定表に当てはめるべき事業収入の年収額とそれに相応する社会保険料を加えた金額を「1-給与収入に対する職業費の割合(約20%)=0.8」で除すことによって給与収入額に換算して給与収入と合算することができます。

 なお、国の高等学校等就学支援金が支給される場合でも、公的扶助は私的扶助を補うものであり、親ではなく学校設置者に給付されるものであることなどから、標準算定表の基礎となる収入額に影響を与えるものではないとされており、児童手当や児童扶養手当についても公的扶助は私的扶助を補うものであることから、原則として当事者の収入額に加算はされません。

4 標準算定表の対象となる「子」について

 標準算定表の対象となる「子」は、夫婦の子であることが前提であり、養子も含みますが、養子縁組をしていないいわゆる連れ子の場合、通常は、法律上の親子関係のない配偶者に当該子に対する扶養義務はありませんから、養育費等の対象にはなりません。

 標準算定表の対象となる「子」かどうかについては、必ず戸籍で確認する必要があります。

5 子の年齢が14歳以下と15歳以上とで別の表になっている理由

 前述のとおり、成人の生活費の指数を100とした場合の14歳以下の子の生活費の指数を55、15歳以上の子の生活費の指数を90として標準算定表の基礎となる計算式が成り立っていることから、夫婦(父母)それぞれの年収額が同じであっても、子の年齢14歳以下と15歳以上とで養育費及び婚姻費用の額が異なる結果となるので、標準算定表では別の表になっています。

 このことからすると、14歳以下の子の養育費について標準算定表の目安額の範囲内において月額金何万円と定めた場合、当該子が15歳に達したときは、改めて標準算定表の15歳以上の表に当てはめて養育費の額を決めなおすということになります。

 しかしながら、実際にはこのようなことは行われていないことが多く、子が15歳に達する際に養育費増額請求を行ったとしても、そもそも子が高等学校に進学することを前提とした合意だったのかどうかという問題が生じ、紛争となる可能性があります。

 このような紛争を予防する目的だとしても、14歳までの養育費額と15歳以降の養育費額をあらかじめ別個に定めておくことや、いったん14歳までの養育費額のみを決めておいて後日子が高等学校に進学する際に改めてその後の養育費額を決めるとすることには、抵抗を感じる当事者が多いと思います。

 せっかく合意ができた当事者に、このような問題点を指摘して再考を促した場合、そもそもの合意が反故になってしまうことも考えられますので、養育費を受け取る側の当事者に対してこのような問題があることを説明の上、どうしても養育費の増額が必要になった場合には再協議が円滑に行えるよう、「子の進学を含む事情変更があった場合には、養育費の増減額について協議する。」というような条項を入れておくことが考えられます(ただし、当事者に強い抵抗があるような場合には無理強いできませんので、紛争となった場合の解決に資するよう、養育費を受け取る側の当事者に対し、合意の前提となった双方の年収額等の資料を保管しておくよう促すのが相当と考えます。)。

6 子の教育費について

 標準算定表では、公立中学校の教育費と公立高等学校の教育費が前提になっていることから、私立学校や大学等に進学した場合の学費等(標準算定表で計算に入っている教育費との差額)をどう負担すべきかという問題が生じる場合があります。

 このような場合に備えて、当事者間において私立学校や進学塾、大学などの学費等の負担について合意ができているのであれば、後日の紛争防止のため、それを明記しておくことが望ましいと考えます。

 例えば、公立大学であればその学費の分担に応じるという合意ができれば、その旨明記しておくことによって、仮に私立大学に進学した場合でも、少なくとも公立大学の学費に相当する分担額の支払いを求めることができることになります。

7 標準算定表の目安とは異なる合意

 標準算定表は、当事者間での合意が困難で家庭裁判所に持ち込まれた事件の処理の目安ですから、当事者が納得して合意しているのであれば、この目安とは異なる合意でも違法でないのはもちろんで、これを公正証書にしておくこともできます。

 ただし、標準算定表の目安よりも高額な金額で合意した場合、これを公正証書にしておくと、場合によっては強制執行を受けることにもなりかねないことから、支払義務者に対しては、確実に支払っていけるのかどうかを確認しておく必要がありますし、後述するように、後日事情の変更があった場合にも、標準算定表の目安に加算した部分が維持されることがある旨を説明しておくのが相当と考えます。

 また、標準算定表の目安よりも低額な金額で合意してしまった場合に、合意時には標準算定表を知らなかったという理由だけで合意を無効にできるものではありませんので、標準算定表よりも低い金額で合意しようとしている権利者に対しては、標準算定表を参考にしたのかどうか、今後の生活に支障がないのかどうか、仮に当事者間での改めての合意が困難だとしても、家庭裁判所の調停等の手続によれば標準算定表の目安程度の金額が認められる可能性が大きいことを説明しておくのが相当と考えます。

8 事情の変更

 特に養育費については、長期間にわたる定期金の支払いとなることが多いため、その間の事情の変更によって、当初定めた金額が不相当になることもありますので、そのような場合の再協議を円滑にするため、「甲及び乙は、将来、事情変更があった場合、誠実に養育費の増減額の協議をするものとする。」(「新版 証書の作成と文例 家事関係編〔改訂版〕」40ページの文例3の1第3条)のような特約を入れておくのが望ましいことになります。

 ここで、①事情の変更が認められる場合、及び②事情の変更があったときに従前の合意内容が影響を与える場合について、確認しておきます。

① 事情の変更が認められる場合

 一般的に、事情の変更が認められるには、従前の合意の前提となっていた客観的事情に変更が生じただけでなく、その事情の変更が当事者には予見できなかったこと、当事者の責に帰すべき事由によらない事情の変更であること、合意どおりの履行を強制することが著しく公平に反する場合であることを要するものと解されています。

 例えば、養育費支払義務者が再婚して新たに子が生まれた場合(再婚相手の連れ子と養子縁組した場合も同様)、一般的には事情の変更に該当することになります。

 これに対し、子が既に中学生で高校進学を希望している場合などは、合意の時点で14歳以下であっても、高校進学を前提に合意すべきですから、特に高校進学の際に再協議するというような特約がない限り、子の高校進学は事情の変更には当たらないものと考えられます。

 ただし、子がまだ小さいときは、高校進学を前提に養育費の額を定めるのは現実的ではありませんので、子の高校進学が事情の変更に該当する場合もあると思われます(このような場合には、紛争防止のため、子の高校進学の際には養育費の変更について協議する旨の特約をしておくのが望ましいと考えます。)。

② 事情の変更があったときに従前の合意内容が影響を与える場合

 当事者間で事情の変更があったことに合意した上、変更後の新たな事情に基づいて養育費を定める合意ができるのであれば、何も問題ありませんが、当事者間でこのような合意ができない場合は、家庭裁判所における調停等の手続で解決されることとなります。

 この場合、従前の合意内容が、標準算定表の目安より高いものであったときに、事情の変更による減額は認められたものの、標準算定表の目安額に加算する合意をしたという点が維持された例があります。

 これは、公正証書により、通常想定される養育費の額よりもかなり高い額の養育費が定められていた場合に、支払義務者の再婚後の子の出生という事情変更が認められ、標準算定表で採用された計算方式によって変更後の事情に基づいて改めて養育費額を算定した上で、従前の合意により高く定められていた加算分を、再婚前の子と再婚後の子とに生活費指数で配分して加算したという事例です。

 特殊な例ですが、当事者があえて標準算定表の目安よりも高い金額で合意をする場合には、養育費支払義務者に対して確実に支払っていけるのかどうかを確認し、養育費請求者に対しては後日事情変更があった場合に備えて、合意の前提となった資料(双方の源泉徴収票の写し等)を保管しておくよう促しておくのが相当と考えます。

9 標準算定表見直しの動き

① 日本弁護士連合会の提言

 日本弁護士連合会では、標準算定表が時代の変化への対応が不十分で、養育費などが低く算定されて母子家庭の貧困の一因になっている等の指摘があったことから、標準算定表に代わる新たな算定方式の検討を開始し、平成24年3月15日に意見書を発表し、その後さらに検討を進めて平成28年11月15日「養育費・婚姻費用の新しい簡易な算定方式・算定表に関する提言」(以下「日弁連算定表」と言います。)を公表しました。

 日弁連算定表の考え方も、当事者の基礎収入を算出し、これを生活費指数で按分するという点は標準算定表と同様ですが、基礎収入の算出において、特別経費を控除せず、公租公課は原則として実額で控除し、職業費として控除する範囲を縮限するほか、計算方式において、子の年齢区分を見直しています。

 その結果、日弁連算定表によると、養育費及び婚姻費用の額は標準算定表よりも1.5倍程度高額となりますが、家庭裁判所の実務では日弁連算定表は採用されていません。

 それでも、弁護士が日弁連算定表による額を提案し、当事者がこれに納得して合意した場合には、もちろん違法ではありませんので、これに基づく公正証書の作成も可能です。

 しかしながら、早く離婚を成立させたいために将来的な支払能力を十分検討せずに合意をしてしまったり、標準算定表との違いに気付かずに合意してしまって、後日紛争となるおそれもありますので、当事者には、家庭裁判所で採用されている標準算定表とは異なること、後日事情変更による減額請求が認められた場合でも、前述のように標準算定表より加算されている部分が維持される可能性があることを理解しておいてもらう必要があります。

 なお、日弁連算定表によるときは、可能であれば日弁連算定表によった旨を明記し、これを明記することに同意が得られないときは、当事者に算定の根拠となった資料の保管を促しておく必要があると思います。

② 最高裁判所の動き

 現在、最高裁判所の司法研修所において、標準算定表見直しの研究が進められており、近々その結果が公表されるとの報道がありましたので、その結果が注目されるところです。

 新たな算定表が公表された場合でも、それが実務においてどのように使われていくのかを見極める必要がありますが、最新の統計資料に基づく最小限の見直し程度のものであれば、比較的短期間のうちに従来の標準算定表からの移行がされる可能性があります。

10 公正証書作成の際に留意すべき事項

 繰り返しになりますが、以上述べたところから、養育費又は婚姻費用に関する公正証書作成の際に留意すべき事項を整理してみます。

① 夫婦関係及び親子関係については、必ず戸籍の記載を確認する。

② 当事者に、標準算定表を参考にして金額を定めたのかどうかを確認する。

③ 当事者に年収額を確認できる資料(源泉徴収票や確定申告書の控等)の提示を促す。

 なお、高等学校等就学支援金、児童手当や児童扶養手当は、原則として当事者の年収額には加算されないことを確認する。

④ 標準算定表によらずに金額を定めている場合(日弁連算定表によって金額を定めた場合を含む。)、後日の紛争を防止するため、家庭裁判所で使用されている標準算定表とは異なる旨説明の上、高額な場合には義務者に対して確実に支払っていけるのかどうかを確認し、低額な場合には権利者に対して今後の生活に支障がないのか確認すると同時に家庭裁判所の調停等の手続きによれば標準算定表の目安程度の金額が認められる可能性が大きいことを説明する。

⑤ 標準算定表の目安とは異なる金額での合意となる場合は、その根拠となる資料(養育費等を定めた時点の当事者双方の源泉徴収票の写し等。以下同じ。)の保管を促しておく。

⑥ 最高裁判所から新たな算定表が示された場合は、どの算定表に基づいて定めたのかを明らかにしておく(それが困難な場合には、根拠となる資料の保管を当事者に促しておく。)。

⑦ 14歳以下の子に関して養育費等を定める場合、高校進学を視野に入れた金額なのかどうか、15歳に達した場合どうするつもりなのかを確認し、できればその旨を明記しておく。

⑧ 私立学校や大学への進学の可能性があるときは、標準算定表で考慮されている教育費との差額をどう分担するのかという問題があることを説明する。

⑨ 必要に応じて、子が進学する際に改めて協議する旨の特約を入れるか、養育費等を定めた根拠となる資料の保管を促す。

 なお、特約の内容は、進学の際の一時的な特別費用だけでなく、進学後の学費を含む養育費等の増減額に関するものであることに留意する。

 参考文献:松本哲泓 著「婚姻費用・養育費の算定」(新日本法規)

(星野英敏)

民事法情報研究会だよりNo.38(平成31年4月)

 春分の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 さて、平成の時代もこの4月で終わり、5月からは新しい元号の時代が始まります。当法人においても7期目の事業年度を迎え、6月15日開催の定時会員総会で現在の役員の任期が終了し、新たな役員体制で臨むことになります。目下、旧年度の決算、新年度の事業計画、役員改選等について資料の作成中で、4月中には会員総会の開催通知をお送りする予定です。
 なお、同時に行われるセミナーでは、寺田逸郎元最高裁長官にご講演をお願いしております。(NN)


今 日 こ の 頃

 このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

  明治維新と天皇(本間 透)  

 私は、昨年の4月から木更津公証役場で再び公証人に復帰し、往復約4時間の電車通勤をしていますが、その内の2時間くらいは、座ることができることから、その時間を有効に過ごすため、読書をすることにしました(車内では、老若男女を問わずほとんどの人がスマホを見ており、本を読む人は、本当に稀です。)。 
 そこで、何をテーマに読書をするか考えたところ、最近、日本史に関し、専門家が新たな発見をしたり、見方を変えてこれまでの概念を見直したりして、日本史ブームのようなこともあり、昨年は、明治維新から150年という節目となり、また、今上天皇陛下が生前退位されることとなったことから、これらに関する本を読むことにしました。幸い、電子書籍で読めるタブレットを持っていたので、このテーマに関する本を複数ネットで購入し、本そのものを持ち歩くことなく読むことができました。
 以下に述べる読後感想等は、私にとって特に印象に残った「へーそうだったのか」というレベルのもので、多分に後掲図書の受け売りであることを御容赦願います。
○「明治維新」という表現は、後付けであった。
 1853年(嘉永6年)のペリー来航から日本は幕末の大転換期を迎え、1868年(明治元年)の薩長軍と幕府軍との鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の結果、徳川幕府が終焉し、明治新政府が誕生しました。
 幕末期の一番の節目となる1867年(慶応3年)に、公武合体を主導する徳川慶喜は「大政奉還」しましたが、これに対抗して武力討幕を目指すため、岩倉具視・薩長側は、「王政復古の大号令」(将軍職辞職と幕府の廃止、京都守護職・所司代の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を置く)を発しました。これは、新政権樹立宣言というべきもので、徳川幕府への宣戦布告となったものと思われます。
 この大号令中に「百事御一新」(すべてが新しく変わる)という文言があったことから、その当時は、「維新」(中国の詩経に由来する。)ではなく専ら「御一新」と言っていました。
 「明治維新」という表現は、1876年(明治9年)の公文書で初めて登場し、それから書籍・教科書等で広く使われるようになり、一般化していきました。
 2018年は、明治150年に当たることから、明治維新をどう捉えるかという議論が盛んになされ、天皇を中心に置いた政権からして復古的な面があるものの、新政権の制度は、廃藩置県に見られるように幕藩体制を否定し、公議輿論に基づく近代的な政体を目指す革命的なものと言えます。
 さらに、武力により討幕を果たして新政権を樹立し、外国からの植民地化を防ぐため、一挙に封建社会を否定した革命であったという見方があります。別な視点では、明治維新は、薩長の長年の徳川幕府への恨みを晴らした武力革命であるとし、それからすると、既存の体制を破壊した武力革命を最初から正当性があったかのような形にするため、後に明治維新という言葉を作り出したという考えもあります。いずれにしても、明治維新により近代日本の扉が開かれ、日本が東アジアで唯一のヨーロッパ型の近代国家に移行することができ、その後の日本の大きな発展に繋がったことに異論はないものと思われます。
○天皇をめぐる諸制度は、明治時代以降に改変された。
 日本の天皇は、神話の世界の話である「日本書紀」において、紀元前660年に初代神武天皇が即位したとされ、それから今上天皇まで125代にわたって在位しています。
 2016年8月に天皇陛下は、御自身の身体の衰えを考慮され、全身全霊をもって象徴のお務めを果たしていくことが難しいという御懸念を表明されました。そして、そのお気持ちを受ける形で天皇の退位をめぐる議論が有識者会議でなされ、皇室典範特例法により、天皇陛下は、本年4月30日に退位し、5月1日に皇太子殿下が新天皇に即位され、新元号を定めることになりました。
 天皇の退位は、江戸時代の光格天皇以来、約200年ぶりのことで、皇室典範では、皇位の安定性を保つため、退位に関する規定を設けず、終身在位を原則としていることから、歴史的な出来事となります。
 元号については、1868年に慶応から明治への改元がなされ、今後は、これまでの制度を改め、一世一元とすることが布告されました。現在の元号法でも「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」とされています。
 紀元前から脈々と続く天皇制は、明治維新によって旧来の伝統を大きく改変されました。明治政府は、「王政復古の大号令」により「神武創業の古に復る」ことを掲げ、一方では、天皇や皇族の日常生活が、明治維新のあとは洋装になり、洋館にお住まいになり、洋食を召し上がるようになるなど、西洋化していきました。すなわち、復古という名目によりながら、天皇家の祭祀・儀礼などの古くからの伝統に由来する行為も近代国家に合わせて改変されたと思います。
 具体的には、皇室の宗教は、神道とされていますが、奈良時代から江戸時代までは、皇室の宗教は、仏教でした。明治政府は、国民の精神的統合として「国家神道」を掲げ、江戸時代までは神仏習合の神祇祭祀が行われていましたが、神道を仏教から切り離して(神仏分離)、宮中でも養老令で定められていた神祇官(朝廷の祭祀を司る官職)が復興し、神殿創祀の中核として「皇霊祭」(皇祖皇宗を祀る)が新たに創設されました。
 次に、改暦については、これまでの太陰太陽暦(旧暦)を廃止し、1873年(明治6年)に急遽グレゴリオ暦を用いることにしました。暦は、国家の基本の一つで、当時の日本では、皇室の宮中行事を始めとして農耕や民俗行事が旧暦に基づいて行われていましたが、明治政府の財政的危機対策(明治6年は、旧暦では閏月の13月分の官吏の給与を支払わなければならず、これを削減するため)として、政府の中枢にいた大隈重信が一気にかつ強引に改暦を行いました(賛成の論陣を張ったのは、福沢諭吉)。グレゴリオ暦への移行までの期間は1か月しかなかったにもかかわらず、混乱はあったものの、これに強く反対する運動もなく、粛々と重大な改暦が行われたことは、不平不満がありながらも従うという当時の日本の国民性なのでしょうか。
 また、宮中では、天皇陛下が稲作を、皇后陛下が養蚕を行っておられます。これは、農家の伝統的な生業である、夫は野外の田畑で耕作、妻は室内で蚕の世話という男女分業を古き良き伝統を象徴する行事とされていますが、古式ゆかしい伝統行事ではなく、天皇陛下自らが行う「お田植とお稲刈り」は、昭和天皇が始められたものです。
 さらに、皇后陛下による御給桑の儀(蚕に桑の葉を食べさせる行事)は、「古事記」において養蚕による絹布生産が重要とされていたことに由来しますが、1871年(明治4年)に昭憲皇太后が長らく途絶えていた養蚕を復活させました。これには、神武創業への復古を掲げる明治政府の意図が見て取れるような気がします。
 このように、天皇をめぐる諸制度の多くが明治維新の前後に改変され、天皇制も明治維新によって近代化されました。現在、天皇は、日本国と日本国民統合の象徴とされ、今上天皇は、正しく象徴としての天皇を体現なされ、国民も天皇を敬愛しており、私もその一人として今後の退位に伴う諸行事がつつがなく執り行われるよう願わずにはいられません。
<参考図書>
 山本博文「天皇125代と日本の歴史」 光文社 2017年
 磯田道史「司馬遼太郎で学ぶ日本史」 NHK出版 2017年
 三谷博「維新史再考」 NHK出版 2018年
 半藤一利・出口治明「明治維新とは何だったのか」 祥文社 2018年
 小島毅「天皇と儒教思想」 光文社 2018年
 中公新書編集部編「日本史の論点」 中公新書 2018年
 本郷和人「上皇の日本史」 中公新書ラクレ 2018年

  弱小公証役場奮闘記(8つのアドバイス)(松田謙太郎)  

 萩と秩父の公証役場の経験を通して「他の公証役場や皆様方の参考になることが少しでもあれば…。」との依頼がありましたので、公証役場の事件を増加させるため、私自身が今まで頑張ってきて効果があったと思われることを、8つのアドバイスとして思いつくまま紹介します。
1.まず、「挨拶」
 たかが「挨拶」と侮ることなかれ。公証役場の役割や仕事を考えた場合、より多くの方々に利用していただき、役場を一層活性化するためには、最初の機会をとらえて「挨拶」に出かけることが肝要です。「人」対「人」が基本だからです。
 しかし、相手にいきなり会って、挨拶だけをすることなどはやってはいけません。
 私の経験では、面談する前に必ずインターネット等で相手の方の経歴や状態、興味や関心を事前にリサーチすること(それで印象も深まります。)が有効です。
 相手の方もまた知識や情報を豊富に持っているはずなので、折角の面談の機会なのに、ありきたりな話をすれば「そんなことはもう知っている。」とか「時間の無駄で、かったるい。」と思われてしまいます。
 そのような相手の方に対して、いかに「聞いておいたほうがよさそうだ。」と思わせるかは、事前のリサーチがあるかないかで大きく異なります。
 そこで私が心掛けていたことは、役場の所在地や近隣の市町村に対し、事前に必ずアポをとって、市長さんや町長さん、また秘書室等を経由して広報(市報・町報)担当部署の責任者や議会の議長さん、市議や町議会議員の方たちに(可能な限り)直接面談し、公証人の役割や公証役場の概要などをしっかり説明し積極的にアピールすることです。
 併せて、地域の弁護士さんや司法書士会・行政書士会の支部長さんにも、公証人の人柄等についても知っていただきたいとご挨拶に伺いました。
 公証週間などでも協力していただけますし、広報誌の掲載もお願い出来ます。
 それ以外にも、様々な機会をとらえて、各士会の年始交礼やお花見会などにもすすんで出席するようにしていますが、そうすると(その結果と勝手に思っているのですが)、市議や弁護士、司法書士や行政書士の方々が、いわば公証役場の窓口になってくださり、「先生から公証役場に相談してみたらと言われたので相談に来ました。」とおっしゃる嘱託人が増えました。
 このような効果が見込まれますので、まずは「挨拶」に出かけましょう。
2.大切な「傾聴」と「口コミ」
 地域住民の方たちや嘱託人が相談に来られたら、公証役場の相談者としての関係から以外と大切なのがその人たちの「口コミ」。
 公証人として相談者に接する場合は「傾聴」が、円滑な人間関係の構築と「口コミ」の基礎となります。
 「傾聴」とは、その人自身を理解し、その気持ちをくみ取り、共感する聴き方のことを言いますが、公証人になって本当に驚いたことは、全くの初対面にも関わらず、相談者は、家族関係や夫婦関係、今考えていること、悩みやグチなどをつつみかくさず話してくれることです。
 それを時に相槌を挟みながら、ただひたすら「傾聴」します。
 批判的なことは考えず、「そうか。そういうことなのか。」と、相手に寄り添います。
 そうすると、「こんなことまで真剣に聞いてもらえた。」とか「なんだか、気持ちがスッとした。」と円滑な人間関係が構築できる上に「あの公証人は優しくていい人だ。なんでも相談できる。」と言ってもらえます。
 公正証書を作成する場合でも、その内容が付言事項に記載されていれば、「こんなことまで書いていただいた。」と涙され、感謝されますし、また、それが「口コミ」となって良い方向に向かって行くのです。
 相談者の話は、たとえそれが同じ話の繰返しや長時間となっても、あるいは直接公証人の仕事とは関係がない内容であっても関心を持って「傾聴」し、良い「口コミ」を構築すれば、公証需要は必ず増加します。
3.どんな場合でも行う「返事」
 傾聴のために心掛けなければならない点は、どんな場合でも返事をするということです。返事というのは、相手のことを「確かに認識しましたよ。」というサインなのですが、皆さんも、無視されたり、表面的であまり中身のない返答をされると、ついムッとすることもあると思います。
 しっかりと相手の目をみて返事をすると、相手は認識されたことで大きな安心感をもちます。この安心感が信頼感につながる基礎になると思います。
4.絶対に話の腰を折らない「間」
 何度も相談に来られる方の中には、不思議と話の内容がパターン化されている人がいます。おそらく、ご自身の心配事、相談事やグチなどを様々な場で、何度も話しているうちに、自然と話す内容がパターン化してしまったということでしょう。
 話を聞く方にとっては、実はこれが初めての話ではないということも多いのですが、そんな場合でも、「その話は前回の相談でもお聞きしました。」などとは口が裂けても言ってはいけません。
 相談者にとっては、心配事を相談したという事実が大切なのだと考えて、相手の話を気持ちよく聞き、絶対に話の腰を折ってはいけないのです。
 相談者の方に7割しゃべらせるぐらいの間をもって、こちらは3割で用件を簡潔に伝えるように気を付けています。
5.話し方の「マニュアル」
 万人に合致する話し方の「マニュアル」というものは、決して無いと思っていますので、自分の話し方は自分自身で工夫しなければいけません。
 マニュアルがないからこそ、相談の場で、相談者の状況に合わせた説明をする臨機応変さが求められるのです。
 一つの選択肢にすぎないマニュアルなどに縛られることなく、嘱託人や相談者の視点で相談を受けるように心がけたいと思います。
6.相手のことを考えた「言葉」
 日常生活の中のちょっとした言葉が人間関係を円滑にすることがあります。
 人間関係が悪くなると、なんでもない公証事務が結果的にうまくいかなかったり、ひどい場合には、仕事にもかかわらず嘱託人に会うことさえ憂鬱になります。
 わざわざ休みをとって、取得するのに手間を要する書類等を持参してもらっているのに、言葉だけで「ありがとうございます。」と言っても、それを無愛想に言ってはあまり意味がありません。
 言葉に気持ちを込めなくては、せっかくの「感謝」が「感謝」にならないからです。
 何のための言葉か、もう一度考えることも必要でしょう。
7.嘱託人に対する「気づき」
 人には、「こうあるべきだ。」という自分の価値観に合致することには、すぐ気づく半面、自分の価値観に反することはこれを過小評価し、場合によっては無視するという傾向が見られるそうです。
 それは、自分の思いと実際の事実が食い違っていることを認めたくないという心理(心理学では、認知的不協和と言うそうです。)が働くからだと言われていますが、公証人たるもの、これを乗り越えないと相談者や嘱託人に対する新しい気づきは得られないと思います。
 人は初対面の印象に強く影響されるものですが、相手がどのような人物かを安易に決めつけることなく、相手の話を聞きながら観察を続け、「気づき」を得て、説明等にも工夫を加えることが必要だと考えます。
 また、公正証書に誤りを発見した場合は、躊躇無く差し替えを行った方が良いと思います。嘱託者にとっては、極めて大切な証書なのですから。
 そうした姿勢が、公証事務の増加につながると考えています。
8.良い「お世辞」
 私自身、後で考えると、相談者や嘱託人に「字がお上手ですね。」とか、「お若いですね。」とかの「お世辞」を言うことがあります。
 「人は褒められると、その分、自分の長所を伸ばそうと一層の努力をする。才知や容色や勇気もまた、人に褒めてもらうことで大きくなり、磨きもかかる。」(フランスの思想家ラ・ロシュフコーの言葉)そうですが、これは、全く「心にもないお世辞を言え。」という意味では決してないと思います。
 白々しい「お世辞」は論外ですし、気持ちのこもっていないあからさまな「お世辞」を言うだけでは、結局のところ信頼を失い、口先だけのお世辞人間との烙印を押されてしまうことを自覚して、人間関係を円滑にする良い印象をもった場合の「お世辞」は言うようにしましょう。
 以上ですが、頭では分かっていても無意識にやっていることもあったのでは?
 公証事件の増加のため、効果がある方法だと思っていますので、今日からでも実践してみてください。

  一生に一度が大分に!(中垣治夫)  
大会ポスターの一部

 いよいよ今年! ラグビー・ワールドカップが日本で、しかも大分でも開催されます!
 ラグビー・ワールドカップは、4年に1度ラグビー世界最強のチームを決定する大会なのですが、これまで、ニュージーランドやヨーロッパなどのラグビー伝統国でしか開催されていませんでした。  
 それが! 今年! 日本で!  しかも大分で! 開催されます! とってもすごいことです!
 一昨年までは、「4年に一度」と言っていたように思うのですが、昨年からは、「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」になりました。
 参加チームは、20チームで、日本全国の12か所の試合会場で全48試合(予選プール40試合、決勝トーナメント8試合)が計画され、その中の5試合が大分スポーツ公園総合競技場(通称:大分銀行ドーム)で開催されます。
 大分での開催は、10月2日から20日までの中の5日、5試合です。チケットの販売も始まりました。


大分市役所庁舎外壁の大会を知らせる看板

 ラグビー世界ランキング1位のニュージーランド、3位のウェールズ、6位のオーストラリア及び9位のフィジーが対戦するプール戦(いわゆる予選)3試合、並びに準々決勝2試合が、大分で開催されるのです。地元紙では、予選3試合の観戦客の割合は、国内客7割・海外客3割、また準々決勝2試合では、国内客5割・海外客5割が見込まれると報道されています。
 海外の観戦客の多くが英語圏からと見込まれるとのことで、大分県では、大分の知名度が低い国・地域に大分の観光をアピールする好機ととらえ、温泉の紹介や伝統文化の体験プラン作り、県産食材・酒類の売り込みと、大いに力が入っているところです。
 大会が盛り上がり、大分が大いに活気づくこと、大分の自然、温泉、産業が見直されることを期待しています。この機会に、多くの皆様の、大分来県をお待ちしております。ただし、温泉など、ラグビー観戦ではない方は、この時期は外した方がよいでしょう。
 大分が活気づくキッカケにならないものかと期待するところですが、さて、会場周辺は大渋滞が見込まれることもあり(最悪、試合開始時刻に選手らが会場に到着できない事態があるのではと心配しています。)、テレビ観戦となるか、大分銀行ドームでの観戦となるか・・・まだ、チケットは購入できていません。
 一方、妻は、ボランティア参加を目指し、抽選・面接をパスした後(役割、配属先等は未定)、集合講習会・勉強会、Web上での動画講習の受講など、大会に向けていろいろと取り組んでいるところです。


実 務 の 広 場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.67-1 弁護士法第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについて(一部見直し)                  

 前号(民事法情報研究会だより№37(平成31年2月))の34頁、実務の広場№67の項番5の末尾の「また、裁判所から送付嘱託、取寄せ依頼等があった場合は、応ずることができるでしょう。」の点について、一部の会員から、公証人の守秘義務により拒否すべきではないかとのご指摘をいただきました。
 ご指摘の点については、一つの見解として記載したものですが、前回の原稿の項番4の⑴で引用している新訂法規委員会協議結果要録266頁以下の主査説明の三に「刑訴法197条2項による捜査機関の照会と公証人の守秘義務の問題を論ずるに当たっては、公証人法4条のほか、同法25条1項ただし書、44条4項等の関連規定や民訴法の文書提出命令・送付嘱託、・・・等と公証人の守秘義務の問題、刑法の秘密漏泄罪との関係等の関連問題についても考究する必要があろう。」とあるとおり、いまだ明確に結論が出されているとは言い難い問題であり、具体的な事案の取扱いには慎重な検討が必要と思われます。
 したがって、該当箇所を次のとおり変更します。
 「また、裁判所から送付嘱託、取寄せ依頼等があった場合は応ずることができるとの見解もありますが、具体的な事案の取扱いについては、個別に公証業務照会センターに照会するなど、慎重に検討する必要があるでしょう。」
(中垣治夫)

No.68 遺言公正証書の作成に当たって留意している事項などについて

1 はじめに
 昨年7月1日付けで公証人に任命され、9か月が過ぎようとしている。
 当役場では、年間280件前後の遺言を作成しており、平成30年は、ここ10年間で一番多い315件となった。年が明けても1月及び2月の遺言の作成件数は、従来の件数よりも多いことから、遺言の件数は、確実に増加傾向にあるということができる。公正証書による遺言を作成する際の留意事項については、日本公証人連合会が行う新任公証人研修においても、担当講師から遺言者の遺言能力の判断の難しさなどについて学んだ。これらのことを踏まえ、新米の公証人として、遺言者の遺言能力の有無に関する問題については、細心の注意を払い、慎重に判断するよう心がけている。
 また、前任の公証人には、公証人就任前の約1か月間、各種証書の起案や相談対応などについて丁寧に教えていただいた。また、老人施設に出張して、遺言を作成する機会を作ってもらい、出張での遺言作成を経験させていただいた。この時は、遺言者の遺言能力に明らかに問題があって(遺言者は、終始遺言を作るつもりはないとの主張をした。)、遺言の作成を断念した事案であったことから、この経験も踏まえて、特に、遺言者の遺言能力の判断については、気を遣っている。
 公証人就任から4か月が経ったころ、札幌弁護士会の会長から弁護士法第23条の2の照会があった。弁護士会からの照会事項の詳細は参考までに後掲するが、遺言公正証書作成の際の相談から作成時に至るまでの経緯を照会するものであった。改めて、遺言作成の難しさや、遺言相談時の対応、その後の対応などについて、考えたところである。
 旭川は、弁護士の数が司法書士の数よりも多く、遺言や離婚、債務弁済に関する案件で弁護士が関与する事案が多々あり、対応に苦慮することも多いと感じている。
2 遺言相談時の留意事項
 複数の先輩公証人にいただいた受付票(相談票)のひな形を元に、一部修正を加えて遺言相談時に各項目を埋める形でメモをとっている。それには、遺言の内容はもちろんであるが、相談者の氏名(本人との続柄)、同行者の氏名(本人との続柄)、遺言者について、氏名(生年月日、年齢)、判断能力の有無、自署の可否、遺言をするきっかけや動機のほか、遺言者の様子や遺言の内容の説明を行った者などを細かに記載することにしている。
 この相談票は、相談を効率化し、遺言作成後の資料にもすることができるので、常に見直し、少しでも良いものとしていきたいと考えている。
 また、相談コーナーには、フラットファイルの表に「遺言の付言事例集」と表示して、その中に付言の事例を綴って、相談者に自由に見てもらっている。このようにすることにより、付言の内容について質問があったり、特に、他の推定相続人の遺留分を侵害するような遺言内容の場合は、付言を書くようにアドバイスしている。遺言公正証書の案文を提示する際や二回目の相談時には、付言の内容を何枚もの便せんにメモして来所する遺言者もいて、遺言作成時の読み聞かせの場面で、涙する遺言者も多い。
 相談段階において、できるだけ本人と面談してその意思を確認するようにしているが、遺言者が入院していたり、高齢で動けないとか、足が悪いので公証役場に来所するのは最低限にしたいとかの理由で、公証役場に来られないケースもある。このような場合は、遺言者本人に電話をかけてもらい、遺言者の氏名や生年月日を確認し、加えて遺言作成の動機と遺言の内容を聞くことにしている。遺言者の生の声を聞き、直接話をすることによって、親族が勝手に公証役場に相談にきている事案ではないかを確認し、併せて本人の遺言能力の有無が確認できると考えている。
 また、親族である相談者の相談内容から遺言者が高齢であり、遺言能力に疑問がある場合は、公証役場で作成した医師の診断書(内容は、「上記の者は,上記疾患にて治療中である。精神的障害などはなく,意思表示が明確にでき,判断能力に問題は見られないことを証明する。なお,自己の財産を単独で管理・処分する能力は十分にあると認められる。」)を渡して、診断書を提出してもらっている。
 これまでの経験からすると、弁護士や司法書士が絡んだ事案で、これら専門職による遺言者の遺言能力の確認が必ずしもできていないのではないかと思われるケースもあった。そこで、これら専門職に対しては、必ず遺言者本人の健康状態などを聞くことにしている。特に、出張遺言の際には、自署できるかどうかについても、代理人を通じて確認することとしている。これも実際に自署の場面になって、自署できなかった事案があったからである。この時は、公証人法第39条第4項の事項を追記し公証人の捺印をして証書の作成を終えたが、少し汚い公正証書となってしまった。以来、あらかじめこのような事態を予想して、遺言者が自署できる文案と自署できなかった場合の文案を用意して、病院等の施設に出かけることにしている。
3 遺言書作成時の留意事項
 遺言者本人が公証役場に来所して事前相談している場合は、公証役場の雰囲気をある程度知っているし、相談時に遺言者の遺言能力についても確認ができているが、遺言者が初めて公証役場に来所した場合は、遺言書作成前に雑談(出身地、干支、天気、役場までの交通手段や健康状態など)をしながら、遺言者をリラックスさせ、遺言能力を判断する時間に充てている。
 北海道は、先祖をたどると本州から開拓で北海道に入植している場合が多いことから、ご先祖さんの出身県を聞いたり、あるいは北海道には珍しい苗字が多いことから、苗字のルーツに関する話をしたり、遺言者の干支を聞いたり、役場までの交通手段を聞いたりしてリラックスしてもらっている。
 また、遺言書の読み聞かせ時に、遺言書に書かれている相続人の氏名を故意に読み間違えることで、遺言者の反応をみたりしている。多くの場合、遺言者に読み間違えを指摘されることになるが、それは、遺言能力の確認方法の一つとして割り切っている。
 証書の作成の際は、まず、持参した実印と印鑑登録証明書の印影をLEDライトパネル(注)を使って照合し、加えて、確実な本人確認をするべく、遺言者の運転免許証や健康保険証の提示を求め(「公証人による確実な本人確認の実践について」(平成29年11月14日付け日本公証人連合会長通知))、本人に違いない旨を宣言した後、遺言者に氏名と生年月日を言ってもらう。その後、遺言の内容を説明してもらい、用意した遺言公正証書の閲覧及び読み聞かせを行っている。最後に、署名及び押印をしてもらって、遺言公正証書の作成が終了することになる。
(注)LEDライトパネルの使い方等
 このライトパネルを光源として、このパネルの上に印鑑登録証明書を載せ、その上にトレースペーパーに遺言者が持参した実印を押印してその印影を重ね合わせることで、実印の印影が印鑑登録証明書の印影と合致するかどうかを確認している。
 当初は、トレースペーパーに押印した実印の印影と印鑑登録証明書の印影をぴったり重なるように重ね、上のトレースペーパーを素早くめくったり戻したりしながら残像にズレがあるかどうかを確認する方法によっていたが、意外と時間がかかり苦労していた。
 このライトパネルによる方法であると、遺言者も証人も何をするのかと関心を持って見ているようである。ちなみにAmazonで7500円くらいで購入できる。
4 遺言書作成後の留意事項
 遺言書作成後は、相談票に証書番号を付記し、遺言者の手書きの遺言内容のメモや付言メモがある場合は、これを公証人法施行規則第25条第2項の書類として綴っておくこととしている。また、遺言者が80歳以上の高齢者の場合や病院などで遺言を作成した場合については、エクセルで作成した備忘録に、遺言書作成時における遺言者の様子(独立歩行、介添えの有無、杖使用、車椅子の利用、雑談の内容、名刺を渡した時の反応、署名時の様子、遺言作成後の発言など)を記載したメモを作成し、公証人の私的な資料として、相談票と一緒に、ドッジファイルに証書番号順に綴って、証書とは別に保管している。
5 弁護士照会で求められた事項
  最後に、冒頭の、弁護士照会の照会事項は次のとおりである。
① 公証人に本件遺言の作成を依頼した者及び同依頼に際して同席した者の氏名
② ①の依頼に際し、本件遺言内容の説明を行った者の氏名
③ 本件遺言の作成過程(口授、筆記、読み聞かせの順序等)
④ 口授の方法(本件遺言の条項ごとに、口授の方法及び内容について、詳細にご回答いただけましたら幸いです。)
⑤ 本件遺言の作成に要した時間
⑥ 遺言者に対する遺言能力の確認の有無及びその内容
⑦ 遺言者が病気のため署名できないと判断した具体的事情
⑧ 本件遺言作成にあたり記録された文書、録音、録画の有無及びその内容
 この照会に対しては、「いずれの照会事項についても、公証人法第4条により回答には応じられない」旨と「一般論であるが、公証人が遺言者について遺言能力がないと判断した場合は、公正証書を作成しない」旨の回答を行った。
 なお、弁護士照会への対応については、民事法情報研究会だよりNO.37(平成31年2月号)の29ページ以下に中垣公証人(大分公証人合同役場)の論文が掲載されている。また、具体的にこのような照会を受けた場合には、個別に業務照会センターに照会するなど、慎重な対応が必要であると思われる。
6 さいごに
  研修期間中に、前任者に自分の遺言と妻の遺言を作成していただいた。この経験を、遺言相談や講演会に活かしている。公証人も自分の遺言を作っているということで、説明に説得力が増すと実感している。
 遺言者の遺言能力の判定には、今後も細心の注意を払ってまいりたい。
(千葉和信)

民事法情報研究会だよりNo.37(平成31年2月)

立春の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 さて、平成の時代もまもなく終わります。先頃読売新聞社が全国の18歳以上の3千人を対象に実施した平成時代に関する世論調査によると、平成を象徴すると考える国内の出来事のトップは東日本大震災で、第3位が阪神淡路大震災だったようです。あの日何が起きて人はどのように行動したのか、私たちはそこから得た教訓をこれからの時代に生かして行くために知っておくことが重要ではないでしょうか。
 おって、4月に入りましたら、新年度の会費納入のご案内をお送りいたしますが、都合により本年度限り退会を希望される会員は、3月末日までに郵便・ファックス等でお知らせください。(NN)


今 日 こ の 頃

   このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

  あの日 それから7年余を経て(その2)(橘田 博)  

【前号から続く】

5 発災二日目以降の生活(3月12日からの数日)

(じっと待つ夜明け)
 局長室のソファーで、毛布と防寒具で身を纏いながら、  じっ と夜が明けるのを待つ。眠れない中、大きな余震の度に   揺れと建物の軋み音に、飛び起き、書棚を抑える。
 発災直後、私は外出先であったので、この本局庁舎が、どのように揺れ、きしむ音がどれほどであったかは体験していなかったので、震度5強程度の地震にも、身体が大きく反応しているのがわかる。職員に聞くと、この程度は大丈夫との返事が返ってくる。
 春三月とは言え、東北の春はまだ遠く、外は寒く、眠れずたばこを吸う手も悴むなか、避難者も含め、職員の朝食が気になる。
 発災以来、食物を口にしていない職員も大勢いたと思うが、誰もそのことを口にする者はおりませんでした。
 アルファー米を配布することは決めていましたが、いざ食してみると何とも味気ない。そこで、職員が自宅から持ち寄った魚の切り身をフレークにして、塩、唐辛子などで味付けし、「ふりかけ」をつくることにし、おしんこ等をおかずに朝食を用意しました。
(窓からの眺め)
 一夜明けた窓の外の景色は、普段と変わりなく、大きな災害の直後とは思えない静けさでした。
 晩翠通りの銀杏並木も変わりなく、ただいつもの出勤時間が迫るも人通りはまばらで、行きかう車も少なく、大きな街が活動を停止したような感じでした。
(明らかになる被害状況)
 気仙沼支局職員の安否が確認できたのがいつであったか記憶が定かではありませんが、職員全員が無事であったと安堵し、次の目の前のことに集中しようとしていたと思います。
 誌友の皆様が、テレビで放映された被害状況を見つめると同様に、私たちも車載テレビ、携帯電話のテレビで、津波の威力の凄まじさ、そして被害の大きさを知ることになります。
 紙面の都合上、あえて被害状況は記載しませんが、多くの人命が危険にさらされ、帰らぬ人になるであろうことは想像に難くありませんでした。
 驚愕のあまり声も出ない。すぐにでも、各職場へ出向き、状況確認したい衝動に駆られましたが、交通遮断がそれを許しません。また、ガソリンの供給も不明でした(ガソリンは、各官公署の緊急車両は優先的に給油を受けられることとなりましたが、それも乗用車は不可で、当局では、物資を運ぶライトバン2台とされました。)。
 職員にも、海岸近くに住む親族の安否がわからない、津波に流されたとの情報もある等々、被害状況がわが身に降りかかってくる実感があったと思います。その中で、懸命に仕事をしている職員に慰める言葉もありませんでした。
(避難所)
 仙台法務局に一番近い仙台市が設置する避難所は「市立木町通小学校」でした。
 当局は、市が設置する避難場所ではありませんでしたので、市からの支援は難しいと思っておりましたが、石川庶務課長に、避難所の責任者に対し、当局にも避難者が数十名いるので、食事の支援をお願いできないか、折衝に行ってもらったものの、答えは、難しいとのこと。また、市立木町通小学校は避難者であふれており、これ以上の受け入れは困難であるとのこと。再度、要請に行ってもらい、ようやく、避難者一人当たり「バナナ1本」の配給を受けました。
 避難者へはその旨をお知らせし、自宅に戻り食事を確保できる方は、自身で確保していただくようお願いをし、確保できない方については、アルファー米にお塩、乾パン等を提供することとしました。
(商人の逞しさ(国分町の焼き肉屋さん))
 近所のスーパーやコンビニをみると、商品はほとんどなく、私もコンビニに売れ残っていたタバコを数個、被害状況確認の途中で見つけた煎餅屋さんの「おかき」を買いましたが、大型スーパーには、食料を買い求める数百メートルにわたる長蛇の列ができ、それでも食料を手に入れられない多くの人々がおりました。
 そのような中、一部の職員が昼に焼き肉を食べてきたとの話。どこか尋ねると、国分町(東北一の繁華街)の焼き肉屋さんが、停電のため、肉の鮮度が持たないので食べ放題1000円で営業しているとのこと。プロパンガスなのでコンロは使えるから廃棄するよりは食べてもらおうと営業したようでした。そして肉がなくなり次第終了と言っていましたので、話を聞いたときは、時はすでに遅し、だったような気がしました。仙台商人の逞しさと心意気を見たような気がしました。
(各地からのお見舞いと励まし)
 各局からのお見舞い、励ましのお電話をたくさん頂戴しました。誌友の皆様からもたくさん頂戴しました。改めて御礼申し上げます。
 最初に電話がつながったのが、金子富山局長(現高山公証役場公証人)でした。金子局長からは、お見舞いの言葉とともに、「何でも言ってほしい、できる限りのことはするから」と気持ちのこもった言葉をいただき、その時に一番不足し、今後も不足が見込まれる「ガソリンをお願いしたい」と話しました。ガソリンは専用携行缶でなければ持ち運びができず、一定量を超えると、火気取扱責任者が同乗しなければなりません。その手配ができるなら、富山から新潟を経由してできる限りガソリンを運んでほしい、途中、山形局に物資輸送用として一部をおろし、残りを仙台まで運んでほしいと伝えました。
 金子局長からは、「大丈夫、必ず運ぶので待っていてください。」と力強い言葉をいただき、また励まされ、法務局の絆、仲間を思いやる気持ち、心意気を本当にうれしく思いました。
 その後、本省を含め全国各地の法務局、OBの皆様方等々、たくさんのお見舞いの物資や励ましをいただき、職員も大きな励みになりました。
(壁新聞と河北新報)
 避難所ではないものの、何かしらの情報を求めて玄関ホールに来られる方が増えだし、各種案内や情報提供のため、交代で職員数名を配置しました。玄関ホールは、施錠することなく24時間開放することにしたと記憶しています。職員には交替で深夜も配置についていただいと記憶しています。
 その中で、帰宅が困難な方々から安否を確認する方法はないかとのお尋ねも多く、NTTの安否確認サービスをご案内するも要を得ない方もおりました。
 そこで、庁舎の前面のガラスに大型の模造紙を張り、臨時の伝言板を設け、どなたにでも書き込めるようマジックを用意しました。時折、状況をみると、多くの方々が、自身の安否や連絡先を書き込んでおり、少しはお手伝いができたのかと思いました。日を追うごとにそのスペースは大きくなっていきましたが、それに対する苦情は一つもありませんでした。
 東北の地元紙「河北新報」は、発災の翌日も輪転機を回し、休むことなく新聞を発行し続けました。被災地の石巻では、手書きの壁新聞を発行し続けた新聞社もありました。報道機関のあるべき姿として賞賛の声が上がったのは、当然のことと思います。
 河北新報社が毎朝、朝刊を100部超、無料で持ち込んでくれました。
 玄関ホールにコーナーを設け、河北新報の朝刊が届いている旨、無料で配布している旨来局者にわかるようにし、自由にお取りいただきました。午後には、すべての新聞が来られた市民の方々の手に渡りました。災害時にいかに的確な情報が必要かを痛感しました。河北新報社には感謝の気持ちでいっぱいでした。
(各所掌事務の被害状況の確認)
 帰庁後、一度は本局庁舎内の被害状況を確認しましたが、改めて庁舎内をまわってみると、各事務室の端末は、ほとんどが落下したものの、元に戻されており、配線等の各作業がされているところでした。一番大きな被害は、不動産登記部門の書庫で、書庫面積が大きく空間も大きいことから、中に壁がなく、大きな鉄製の書棚が長い列を組んでいるため(どこの庁舎の登記書庫も同じような作りと思います。)、その書棚が「ぐにゃり」と捻じれて、ほとんどの簿冊が落下していました。また、コンクリート壁と接する棚の端がその壁に何度もぶち当たり、壁のコンクリートが破壊されていました。地震エネルギーが巨大なものであったことが分かりました。
 私は発災時には、この建物の揺れを経験していませんので、新庁舎とはいえ、ダメージは相当なものであったろうと思います。
 庁舎に「よく頑張りましたね」とねぎらいの声をかけてあげたい心境になりました。
 各課室の職員には、それぞれの所管の事務の稼働準備(電源が来ておりませんので、電源が確保できない場合の事務処理方法等)、被害状況のさらなる確認、玄関ホールでの案内、自家発電機用の灯油の買い出し等々、懸命に仕事をしていただきました。(停電の解消)
 発災後3日目の日曜の夕方だったと思います。
 窓から外を見ると、晩翠通りを挟んだ向かい側のビル群に明かりが灯っているのが分かりました。「停電が解消された。」と、その時みんな大喜びをしたのですが、本局庁舎の街区はまだ、明かりが灯っているところがありませんでした。今か今かと待つことどれくらいだったでしょうか、ようやく、通電しました。その時は、歓声が上がったと思います。
 これで、水道が出る、トイレの水が流せる、炊事も容易になる等、不自由さがいっぺんに吹き飛んだ気がしました。しかしながら、インフラで解消されたのは、その時は電気のみで、水は貯水槽の水のみ、ガスは未通の状態でした。電気の有難さを実感しましたが、それに頼り過ぎの生活を危うくも思いました。
(籠城・神様からの贈り物・兵糧攻めの回避)
 これまで繋がらなかったメールや電話が少しずつ繋がり、食品卸に勤める娘の配偶者からのメールが届きました。仙台港にある自社の卸センターと隣接する生協(コープ)の卸センター(この2センターで、宮城県を含めた東北6県の食品を扱っていました。)が津波で壊滅したこと、仙台に入る陸路も限られるためしばらくは物資が届かないので、早めに現地での調達を考えたほうが良いとの内容でした。
 食品の流通がままならないことが分かり、多くの職員(100人余り)の食事の確保をどうするか、大きな課題となりました。
 そこで、私としては、1週間の籠城を覚悟したと思います。
 山形県との交通ルートはどうにか確保されていることがわかりましたので、食料の調達は、山形局にお願いをすることに決め、高村局長(現八戸公証役場公証人)に電話をし、ガソリン付きの車(ワゴン)の確保を依頼し、山形市内で食料品の調達をお願いしましたが、山形市内も不足がちだという返事でした。
 その相談をするうち、本間庶務係長(現甲府局総務課長)が、祖父が農家をしており、米と野菜なら調達できるとのこと。藁にも縋る思いで、取り急ぎ、本間係長のお爺様に、1週間分の米600キログラムと野菜の調達を依頼し、山形局がチャーターしたワゴンで、翌日には届けていただきました。
 幸いにも、本局庁舎のお隣の中華料理屋さんのご主人が、プロパンガスなので、ご飯なら炊いてあげてもよいと言っていると職員が話をもってきてくれ、早速、ご主人に、お願いいたしました。
 本間係長のお爺様から届いたお米を託し、1日60キログラム(毎食20キログラム)程度を炊いてもらい、それを職員がパレットに入れて持ち帰り、紙皿にサランラップを被せ、ご飯と、少々のおかずとみそ汁(これは、簡易ガスコンロで調理)の、本当に一汁一菜の食事で、二口三口で食べ終わりそうな食事でしたが、温かいご飯と温かいみそ汁に、高ぶる気持ちをずいぶん癒されました。
 この生活が、ほぼ1週間続きましたが、営業を再開する飲食店も徐々に増えだしたこと等々から、給食は終了としました。
 後日になりますが、本間係長のお爺様には、その後、2000キログラムのお米をお願いし、届けていただきました。これは希望する職員が多く、一人10キログラムまでとして、買わせていただきました。お米さえあれば、この先大きな余震が続いても食料は大丈夫と、ずいぶん安心しました。
 本間係長のお爺様とお隣の中華料理店のご主人には、感謝しても感謝しつくせないくらい助けていただき、人の情を感じました。
(気仙沼支局職員の救助・帰還)
 気仙沼支局が入居する港湾合同庁舎が大きな被害を受けたことは前述しましたが、同庁舎の屋上には、勤務する職員のほか、近隣の水産加工場の方々等、100人にも及ぶ方々が、今や遅しと救助を待っておりました。庁舎の周りは、海水や流木、流された工場の残骸や多くの車(後日、状況確認に行った際、逆さになっているバスを見て、驚きました。)が周りを取り囲み、港の中も、多くの瓦礫等が海の中を埋め尽くし、陸地及び船での救助は困難で、ヘリコプターでの救助を待つしかありませんでした。
 発災の翌日からヘリコプターでの救助が始まりましたが、体調を崩された方を優先的に救助するも、対象者が多く、職員が救助されたとの報はなかなか入ってきませんでした。
 法務局は管理庁でもありましたので、東海林支局長をはじめ職員は、入居する他の官署の職員とともに、救助されるまでの間、庁舎内に保管された食料、飲料水を避難者に配布したり、暖をとるための工夫をしたりと、避難者の安全確保に努めておりました。
 東海林支局長ほか職員が救助されたとの報が日曜日(14日)の午後になって入り、直ちに迎えの職員を現地に派遣しました。 
 夜、7時近くに、東海林支局長をはじめ救助された職員が帰庁し、安否を気遣われていた職員の家族や待ち受ける職員が出迎えました。緊張の中にもほっとした東海林支局長、同支局職員の顔を見たとたん、熱いものがこみ上げ、本当に、よく頑張ってくれたと、思わず涙しました。
(ジレンマ)
 法人登記部門の窓口に来られたお客様から、津波で会社の関係書類、印鑑、預金通帳が流失し、預金を下ろしたいが、印鑑がないので改印届ができるか相談があった旨報告がありました。
 本人確認資料をほとんど流失しており、どう対処するか、至急本省と調整するように指示しました。私としては、無謀ではあるが、本人から申述書を提出させ、後日、本人確認資料を提出させるような柔軟な対応がとれないか、被災地である仙台局として、そのように取り扱いをしたい旨伝えて、協議してほしい旨指示しました。
 沿岸部の多くの市町村は庁舎も含めて被災しており、印鑑登録の再提出等の措置が直ちに行えないという事情もありました。また、中小の零細企業者は、資金決済のほか、従業員の生活資金等のやりくりに会社名義の口座を利用している方も多く、来られた相談者の方々には切羽詰まった事情をお持ちの方が多くいらっしゃいました。
 しかしながら、そのような要望は叶えられず、市町村の印鑑証明書の提出を求め、改印届をしていただくより方法がないとの説明を利用者にしなければなりませんでした。
 災害時の資金として、個人に対しては、ゆうちょ銀行が、本人証明がなくても少額を貸し出す制度も設けられています。
 個人事業者に対し、簡易迅速に資金を調達できる制度をどうにかしてほしいと願っているところです。
(本省との電話会議)
 この震災で、電話会議システムの威力を感じました。
 停電が解消したため、訟務部に備え付けられている電話会議システムを利用し、本省民事3局の担当者と会議を行うことができました。文書や電話では伝わらない現地の被害状況、現在の状況など生の声を届けることができました。
 なかなか情報伝達がうまくいかない中、東北全体が孤立しているのではないかとの悲壮な気持ちもあり、余田総括補佐官(現柏公証役場公証人)から、しっかり支援するとのお話をいただき、現地職員一同、大変心強く思いました。
 その後、本省からは、直接担当者の方々が、新潟、山形経由で物資を運んでくださり、加えて多くの法務局から様々なご支援をいただきました。
(戸籍データ)
 この震災では、宮城県南三陸町をはじめ、数町の役場が被災しました。なかでも、南三陸町は、役場全体が流失し、多くのシステムも流失し、その中には戸籍データもありました。
 南三陸町は、町職員をはじめ多くの町民が津波被害に遭遇し、消息不明者も多数に上りましたが、戸籍データ(併せて住基システムも流失したと聞いています。)が紛失したことにより、住民の正確な情報がなく、誰が消息不明なのかが確認できない状況にありました。
 誌友の皆様がご存じのとおり、戸籍データは、定期的にバックアップデータを法務局に提出することになっております。
 しかしながら、戸籍バックアップデータを保管していた気仙沼支局も被災したため、果たしてそのデータが残っているのか確認のため、帰局したばかりの東海林支局長と数名の職員を、気仙沼支局に派遣し、その探索に当たらせました。
 ほぼ壊滅した気仙沼支局2階ではなく、3階倉庫に保管していたとのことから、集中的に3階倉庫を探索しましたが、発見には至りませんでした。
 データが見つからなければ、戸籍回復に要する時間、手続きは膨大になるため、再度、東海林支局長と前任の支局長、職員を派遣し、探索した結果、3階倉庫の中の、ある書庫の中で発見できたとの報告を受けました。無事、発見されたデータをもとに、戸籍簿が復元されたことを後日伺いました。
 この経験を受け、全国的な戸籍データのバックアップ措置が実施されたことは、誌友の皆様ご存じのとおりです。
(職員の出勤、交代要員の配置)
 仙台法務局では、BCP(業務継続計画)の一端として、災害時において交通手段が遮断された際には最寄りの職場に出勤し、安否確認を行い、その後の指示に従い職務に従事することと定められており、その定めに従って、職員個々は、最寄りの職場に出勤していました。
 仙台局の職員の住居分布は、仙台市を中心に特定地方に集中しており、北沿岸部の気仙沼支局、石巻支局付近の居住者は少なく、現勤務者においても、宿舎に入居しておりました。
 気仙沼支局職員については、救助後本局へ避難しておりましたが、石巻支局職員は、発災以来、交代もせず、また、本局同様、避難所ではないものの多くの被災者が避難しており、わずか5名ほどで、執務しながら、避難者の休息場の確保から物資の調達等、避難者への対応に取り組んでくれていました。
 発災以来、石巻支局には、物資を運びこむなどの支援をしておりましたが、交代要員の派遣も考えなければならないことから、現入居者の宿舎を借り受け、休憩、宿泊することの了解を得て、交代職員5名を派遣することとしました。大河原支局についても同様に交代要員を派遣し、詰めていた職員には、少しの間でしたが、休息をとっていただきました。
(幻に終わった米軍のトモダチ作戦)
 発災後数日して、本省担当官から、石巻市の日和山公園周辺の避難者に米軍が救援物資をヘリコプターで投下したいとの話がありました。
 日和山公園は、石巻市の海岸近くにあり東側は太平洋を望み、北側は旧北上川を眼下に置く、石巻市のシンボル的公園で、発災後に幾度もテレビ放映された公園です。
 石巻市の被災状況は、後ほど述べますが、本省係官からの話では、日和山地区において、学校などの施設は避難所として使用されおり、他に投下場所がないので、法務合同庁舎の駐車場に投下したいとのことでした。
 現地局としては、万全を整えて準備する旨回答しましたが、後日、作戦中止の話があり、一同、肩を落としたことを鮮明に記憶しています。
 数年後、米軍のトモダチ作戦を巡っては、当時の政府と米軍との意思疎通の問題等があったこと等々報道で知り、この作戦もその一環で中止となったのかと、非常に暗い気持ちになりました。
 蛇足ですが、この震災時の政府の対応を巡っては、追悼する報道番組等の中で、度々議論がなされましたが、政府としての意思決定プロセス、優先すべき対応策の選択順位、その周知手段・方法等々、多くの問題が積み残されたと思います。未だその総括がされたとはいいがたいと感じております。近い将来発生する可能性が大きい大災害に対し、国民として、国が危機管理にどう対処していくのか、あるべき姿を国として早急に示してもらいたいと考えるのは、私だけでしょうか。
6 被災状況確認の旅
 発災後、1週間余が経過し、被災各地も少し落ち着きを取り戻し始めたところ、本省から現地調査のため係官が来仙されることになり、私も発災後初めて被災状況確認に各地へ伺いました。
 沿岸部の道路は、各地で寸断され、沿岸部に向かうには、内陸部の登米市、一関市を起点に、行っては戻り、行っては戻りを繰り返す旅となりました。
(登米市・登米支局付近)
 登米市は、古くは行政の中心であり、明治時代の木造建築の小学校が保存されているなど文化的にも繁栄をしたことが色濃く残る静かな田園都市です。
 登米支局の周辺には、立派な黒塀や門構えの屋敷がいくつも立ち並んでいました。
 国道から登米支局に通じる道沿いのいつも見ていた屋敷の黒塀が崩れ、門も見るも無残に潰れていました。
 幸いにも登米市は内陸部でしたので、津波の被害は免れましたが、文化遺産とも思われる建物がいくつも被災したと聞いています。その後、訪れたことはございませんが、あの建物群が復元されていることを願わずにはいられません。
(南三陸町)
 登米市から南三陸町へは、北上山地の下方部分を超えていくようなルートになります。山を越え下りに入って目に飛び込んだのは、水が殆んどない沢に、たくさんの瓦礫が押し寄せていた光景でした。南三陸町から数キロ離れたこの山間の沢のはるか上流まで津波が押し寄せたかと思うと、そのエネルギーの強大さにただ驚くのみでした。
 山を下り視界が開けて見えたのは、一面平原のような光景でした。途中にあったコンビニエンスストアーもありません。
 市街地に入ると、幾度もテレビで映し出された町役場の防災庁舎が、赤い鉄骨をむき出しにして、踏ん張って建っているように見えました。夏のお祭りに来た際に、立ち寄らせていただいた役場庁舎は、跡形もなく流されていました。
 瓦礫が側に寄せられた大通りを慎重に抜け、高台にある南三陸ベイサイドアリーナにある町役場仮庁舎を目指しました。
 途中の街並みはほとんどの建物が流失し、5階建て程度のマンションの屋上に乗用車が乗っかっているのが見えました。その時、道路沿いにコンクリート造りの2階建て建物が目に入ってきました。4月に案内してもらった、旧仙台法務局志津川出張所の建物でした。統合による廃止後は、南三陸町の水道事務所として利用されていたと聞いていました。
 この巨大津波にも立ち向かい、流されないように頑張ったであろう建物に驚くとともに、登記所施設の建築に携わった方々の並々ならぬ思いを感じました。その建物が、登記所の使命を果たした後、地域のために立派に貢献してくれていることに胸が熱くなりました。
 役場仮庁舎では、副町長と面会することができ、戸籍関係図書類など支援物資をお渡しし、少しの時間お話をすることができました。
 未だ安否確認できない不明者が多く被災者がどのくらいになるのか、把握できていないこと、役場の事務も、すべての情報、データが流失したことから、すべて手作業で行っていること等々、置かれている状況について説明をいただきました。法務局に対する支援要請については、責任をもって支えていく旨お話をしました。その際、副町長がポツリと漏らした一言が、被災者のこの大きな災害に対する偽らざる思いなのだと実感しました。
 それは、「南三陸は、半消滅したが、俺たちや息子たちの代では復興は無理でも、孫の代には元の南三陸になる。そう思って、これから頑張る。」という言葉でした。
(石巻市)
 南三陸から登米市に戻り、北上して山を越え石巻市に向かいました。
 石巻市に入り、港のそばにある日本製紙の工場付近を通過中に目に入った光景は、引き込み線の線路が大きく波打って曲がっており、そこで積み下ろしをしていた貨車が流され、工場の内陸よりの住宅街の建物を次から次へと破壊した凄まじい状況が広がっているものでした。それは広角レンズで見るような端から端まで、一様に同じ景色となって迫ってきました。
 中心部の駅前、市役所(廃業したデパートを利用している)付近は、津波の高さもそれほどではなく、建物の流失もありませんでした。
 公証人不在の石巻公証役場に行ってみると、隙間から事務室内のキャビネットが倒れているのが見えました。そこで家主に連絡を取り、開けてもらい、急遽、事務室内の確認を行いました。キャビネット等が倒れてはいるものの、書類等は水には浸かっていないことが確認でき、とりあえず、キャビネットやロッカーをもとの位置に戻し、書記の方にその旨連絡し、公証役場を後にしました。
 石巻支局は、日和山地区の高台にあり、津波の被害は受けておりませんでした。同支局へは、瓦礫でふさがった道をさけるように坂を上っていった記憶があります。
 石巻支局に着いてみると、そこには子供たちを含め多くの被災者がおり、妻が持たせてくれた「折り紙」や絵本を子供たちのお土産に持っていきました。コンピュータ室や人権相談室を工夫して避難生活を送っていらっしゃいました。
 皆さんにお声がけするとともに、職員には、申し訳ないが交代制での執務になること、それまでの間はなんとか頑張ってほしい旨お願いいたしました。
 支局職員から、40キロメートル先の陸前高田市出身の職員が、親の安否確認のために、自転車で向かったけれどもいまだ連絡がないとの話を聞き、携帯での連絡はどうしたと聞きましたが、携帯が不通になっているので困難とのことでした。ここは無事を祈るしかないと思い、職員が帰庁したら連絡をするようお願いしました。親を思う子の気持ちは、十分すぎるほどわかりました。その職員が親の無事を確認して帰庁した旨の連絡を受け、安堵しました。
 支局職員から事務の状況を伺った際に、1件の婚姻届の受理伺いが、石巻市から来ている旨話がありました。
 その受理伺いは、婚姻届を提出するために、発災後、石巻市北上出張所へ向かうといって自宅を出たご主人が、帰ってこない、行方不明になっている。加えて、石巻市北上出張所が津波に飲み込まれ流失し、出張所職員も行方不明となり、その生存も確認できないことから、届出の事実を確認できない。家族からの申し出のみで、受理してよいかどうかの指示を求めるものでした。その方の奥様は妊娠中であり、近く出産予定であるとのことでした。
 届出事実を確認できる届出人、受理する側の町職員のいずれもが行方不明の中、出張所庁舎も流失し資料の存在を確認することはほぼ不可能であることから、受理することで指示を検討してはどうかと、支局職員に話し、その後は戸籍課長と相談するよう指示したと記憶しております。
 その後、この受理伺いの結果を承知することなく、他の仕事に忙殺されていたと思います。
 この受理伺いによる婚姻届が受理されたことを知るのは(私が、そう思いこんでいるのかもしれませんが、私はこのご家族のことと確信しましたので、その時の気持ちを書きとどめました。)、翌年3月11日に、日本武道館で行われた「東日本大地震追悼式典」での「宮城県代表のことば」を聞いたときで、「あぁ このご家族だったのか」と思いました。受理伺いに関しての直接的なことばはありませんが、息子さんご夫婦は、発災の1週間前に結婚式を挙げられ、3月11日に婚姻届けをすることを決めていたとのこと。発災後、ご主人は、祖父母と妹が避難している避難所に向かい、その後、北上出張所に向かう予定のようでした。北上出張所に着いたのか、その途中で津波に遭遇したのかわかりませんが、お亡くなりになり、数日後にご遺体が発見されたようです。
 発災後の7月に無事、お孫さんが生まれ、元気に育っており、今は孫を中心に家族頑張っていこうと思っていると話されておりました。
 受理伺いの当事者名の記憶はありませんが、私の頭の中にははっきりとあの時の受理伺いが受理され、無事、忘れ形見のお孫さんが出産されて、本当に良かったと思いました。残された家族にとっても、明日への希望となられることだろうと思いました。
 話は戻りますが、日和山公園に入り眼下をみると、海沿いは、真下にあるお寺が形を留めているものの、そのほかは目立った建物がなく、瓦礫が日和山の麓、参道(階段)の下までびっしりと埋め尽くしていました。
 目を転じて、旧北上川流域をみると、川の中の砂洲に建つ登米市出身で石巻市に縁のある石ノ森章太郎萬画館の建物が、気のせいか、心持ち方向が変わっているように見えた感じがしました。萬画館は、サイボーク999の宇宙船のような形で、宙に浮いているような構造になっていましたので、津波に向かって立ち向かって行ったように思えました。
 石巻支局は、既に新庁舎が完成し、新年度に引っ越し予定でした。
 新庁舎は、市街地より内陸に所在しており、被害の程度が軽微であるよう祈りながら行ってみると、駐車場は、液状化しており、車が進入できない状況でした。中に入ってみると、そう被害もなさそうに見えましたが、床下を覗くと海水に浸かっており、電気設備(配線)が使用不能ということが分かりました。残念としか言いようがありませんでした。
(大船渡)
 一関市経由で、盛岡地方法務局大船渡出張所へ向かいました。
 同出張所は、市街地の小高いところにあったと記憶しています。しかしながら、津波の勢いは、その丘の上まで押し寄せ、同出張所も床上浸水しており、書庫の登記簿、地図類も冠水しておりました。
 その状況を確認し、庁舎の周りに出てみると、直径が1メートル超、長さが10メートルを超える巨木が、隣のアパートの1階部分を貫いていました。その奥にある裁判所の宿舎は、かろうじて巨木の直撃は受けなかったものの、すぐ傍に大量の巨木が流れついておりました。
 大船渡港は、漁業のほか外材の輸入港としても利用されています。
 米国・アラスカ等から輸入され貯木された大量の外材の原木が、津波とともに市街地を襲い、流失した家屋や自動車なども加わり、さらに多くの家屋を倒壊、流失させました。私事ですが、好物の「かもめの玉子」のお菓子本舗も被害を受けました。
 この地震の大津波の被害については、多くの報道、映像で、その恐ろしさを多くの国民が実感したと思います。被災地の一部ではありますが、実際に見てみると、地形による被害の格差に驚きを禁じ得ませんでした。
 仙台市の荒浜、名取市の閖上のように平坦な沿岸部と、南三陸より北部のリアス海岸地域。山間の小川にまで押し寄せていた大量の瓦礫を残し、貨車や巨木を凶器に変え多くの人命、家屋を奪っていきました。ただただ、驚愕と、嘆き悲しむ人々を見るにつけ、人間の無力さを感じました。
7 福島
 福島第一原子力発電所の事故による放射能被害が筆舌に尽くしがたい想像を超えるものとなったのは、誌友の皆様ご承知のとおりです。
 放射能漏れによる避難命令が出されても、病院を閉鎖せず診療を続けられた先生や飼育していた家族同様の牛を見殺しにできないと残った農家の方、その苦境に立ち向かう中「残念」と書き残し、自から縊死した方など、放射能被害がもたらした生活破壊は、計り知れません。
 津波被害を受けていないにもかかわらず、故郷に住むことが叶わない人々の心情に、どう心を寄せていくか、私たち国民が問われていると思います。
 NHK総合テレビの日曜日10過ぎに、東日本大震災の被災地域や大規模災害による被災地域において、復興に向けて黙々と歩み続けている人たちやそれを応援・支援する人たちの取り組み等が放送されています。
 11月18日の放映は、作家柳美里さんが、縁のあった南相馬市に移住し、共に生活する中で、地域の人たちが主役となって演劇を上演するまでの取り組みが放映されていました。
 演劇の中では、原発事故で避難を余儀なくされ、江戸時代に建てられ、家族が代々守ってきた家屋を取り壊さざるを得なくなった農家の方の悲痛な叫びが耳に残りました。この理不尽さをどこにぶつければいいのかわからない苛立ちを自身が演じておりました。
 被災された方にとってみれば、自然災害なら諦めもするが、二次災害ともいえる目に見えない放射能によって、自身では昔(当時)を取り戻せない、やり場のない憤りを感じました。
8 忘れてはならない地域
 東北の沿岸部を中心に述べてきましたが、忘れてはならないのは、茨城県、千葉県も地震と津波被害に遭っていることです。
 美空ひばりさんの歌「みだれ髪」に登場する塩屋崎付近も建物が流失していました(何年か前のNHK「こころ旅」で見たことがありました。)。
 その後、各地で避難を余儀なくされた方の中でも、首都圏を含めた避難先の仮設住宅等において多くの人々の尊い命が失われている(関連死)ということを、しっかりと心にとめておきたいと思います。
9 その後の復興事業
 発災から7年余が経過し、新聞報道、テレビのニュース等により被災各地の復興状況も徐々に目に見えるものになってきました。
 しかしながら、被災地それぞれの事情、復興に対する考え方により、その進み具合、方法も随分と違いがあるように思います。
 高い防潮堤を海岸線いっぱいに造る街、市街地全体の土地を底上げして、住居地区と商業地区を区分けする町等々、その地域に見合った復興が進んでいることは喜ばしいことと思います。
 仮設商店街から復興後の商業地への移転が行われた町や、徐々に商店や住宅が建てられ活気が戻りつつある町、福島においても、帰宅困難地域が徐々に解除され、戻られる住民の方々も、町の再生のため頑張っている姿が放映されています。
 釜石市では、流失した鵜住居小学校と釜石東中学校の跡地に、今年、「釜石鵜住居復興スタジアム」が完成しました。名門ラクビーチームであった新日鉄釜石の本拠地であった釜石市にラクビー場を造ろうと市民が立ち上がり、実現しました。来年開かれるワールドカップの試合場となることが予定されています。復興のシンボル的な競技場です。素晴らしい試合を見せてくれるだろうと、期待が膨らみます。
 どの地域においても、当時居住していた住民のほとんどが戻ってきたわけではなく、それぞれの地域で、工夫を凝らして、生活環境の整備に力を注ぎながら、住民の帰還を願っているように思います。
10 振り返って今思うこと
 私は、平成22年4月に仙台へ赴任する機会をいただき、公務員生活最後の1年をどのように過ごすかという確固たる考えもなく、いつもの転勤時のように、新任地での職員やそこで暮らす人たちとの出会いが始まるのを楽しみに赴任したことが、昨日のことのように思い出されます。
 着任後、建設工事が着々と進む新庁舎の視察、管内視察では東北6県の職員との懇談等のほか、私的には国分町をはじめ市内の美味しいどころでの食べ飲み歩きと、楽しいことばかりの日々を過ごしていました。
 遊んでばかりいた付けが回ったのでしょうか、9月に開いたソフトボール大会&芋煮会の初戦の試合で、アキレス腱を完全断裂するという大失態を演じてしまいました。当時の福島人事係長(現仙台法務局職員課長)に負ぶってもらい、あえなく退場という次第になりました。それから約3か月、ギブスでの生活となり、盛岡市で開かれた人権擁護委員の会議(本省から、石井人権擁護局長が出席されました。)にも出席できず、多くの方々にご迷惑をおかけしました。申し訳なく思っております。これまで、好きな野球で何度か骨折などしたことがありますが、公務員生活で最大の不覚でした。
 その後、翌年2月には、無事、新庁舎の落成式を終え、怪我を除き、そのほかは、職員みなさんの協力を得て滞りなく終わるかと思っていた矢先の大震災でした。私にとって、人生最大の出来事といっても過言ではありません。
 私自身は被災者とは思いませんが、多くの職員が多かれ少なかれ被災し、心に負った傷も大きかったろうと思います。そのような環境にありながら、黙々と復旧に励み、また、被災者の支援に労を惜しむこともなく、率先して行動する職員に本当に頭が下がりました。法務局職員の心根の優しさを十分感じたところです。
 また、全国の法務局、OBからの温かい激励や数々の支援に、大変大きな勇気をいただきました。紙面をお借りして、改めて御礼申し上げます。
 この東日本大地震は、被災者のみならず多くの日本国民に、深い悲しみと失望感を与えました。
 東日本大震災以後、国内においては次から次と大きな災害が発生しています。
 大震災が起こったその年の秋には、紀伊半島に大きな被害をもたらした平成23年台風12号、伊豆大島で39人が死亡、行方不明になった平成25年台風26号、平成26年8月20日広島市安佐北区・安佐南区で発生した大規模土砂災害(死者74人)、同年9月27日御嶽山噴火(死者57人)、平成28年4月14日熊本地震、この地震は、4月16日に阿蘇地震を、同日大分県中部地震を誘発しました。今年(平成30年)6月の大阪北部地震、7月の西日本豪雨に、関西空港が被害を受けた台風21号、冒頭部分に書いた北海道胆振東部地震など枚挙にいとまがありません。これらの大規模災害以外にも、地震は、ほぼ毎日、日本のどこかで発生しています。
 幾多の人々が、その都度、悲しみにくれたことでしょう。
 しかしながら、時の過ぎゆくスピードの速い時代、ともすれば、私たちは、地震国、火山国、台風などの災害発生国「日本」に住んでいることを忘れがちです。
 なんでも欲しいものは、手を伸ばすと必ず手に入る今の生活に慣れ親しみすぎていないかと、ときどき自分自身不安に駆られることがあります。
 私自身、あの大震災を経験したにもかかわらず、今住んでいるこの町で、あの大震災が発生したらと、頭の片隅にいつも置いておかなければならないとは思うのですが、普段は、なかなかそのように生活はできません。
 南海トラフがいつ動くのか等々、地震学者の間では、多方面からの議論がされているようですが、庶民にはなかなか実感がないのが現実であろうと思います。
 大震災の後、岩手県を中心に、なぜ、津波から助かったのかという検証報道がありました。そこには古くから「命てんでんこ」、「津波てんでんこ」の教えがあったといいます。
 自らの命は、自らが守るということです。
 津波の警報が遅かった、適切でなかった等々、行政に対する批判、非難があったのも事実です。ある町では、町長はじめ多くの町役場職員が、海岸近くの役場庁舎前広場で対策を話し合っているうちに津波に流され、町長はじめ多くの職員が亡くなり、司令塔不在の状態になったところもありました。
 「いざ」というときは、小さい子供から大人まで、まずは自分自身が安全なところに「逃げる」、非情であっても自身が「逃げる」それがわが身を守る術であるとの古からの教えに倣うべきではないかと思っています。どのような災害にも当てはまる教えと思います。
 「命てんでんこ」忘れない言葉として、自覚したいと思います。
 11月26日の週放送のNHK「こころ旅」の火野正平さんは、茨城県を超え、一休みをしています。12月1週目からは、千葉県に入り、視聴者の皆さんから寄せられた「心に残る地」、「忘れられない地」「思い出の地」を、静岡県まで69歳の身で頑張って自転車で訪れます。
 彼の飾らない人柄、優しさに元気、勇気をもらっているのは、私だけではないと思います。
 全国の視聴者が彼に勇気と元気をもらい、また、彼を通して、自分の人生を振り返り、また、各地の被災地に心を寄せる。それが被災者、視聴者の心の復興の一助になっていると思います。
 来春には、また新しい「春の「こころ旅」」が始まることと思います。火野正平さんの体が続く限り、続けてほしいと願っている視聴者は数知れないと思います。
 秋の旅が無事、静岡県にてゴールし、来春も新しい「こころ旅」がスタートすることを祈念して筆を置かせてもらいます。
(平成30年11月30日記す)

  二つの法律雑感(藤原勇喜)  

1 はじめに
 私は現役時代に登記事務を経験し、退職してから公証事務に従事した。この二つの仕事に関係する法律は、前者は不動産登記法であり、後者は公証人法である。ちなみにこの両法の沿革をみると登記法は明治19年法律第1号として、公証人規則は同年法律第2号として制定されている。明治政府は登記手続のための登記法を制定し、あわせて公証人規則を制定したことになる。1886年、明治19年のことである。この二つの法律が同時期にしかも法律第1号、第2号として成立したのは偶然なのか、まさに雑感としてまとまらない感想をおもいつくままに綴ってみたいと思う。
 不動産登記法は、平成17年に改正されて今日に至っているが、その前は明治32年に制定された不動産登記法、そしてさらに10年余をさかのぼる登記法の制定に端を発している。
 それ以前の明治維新前ということになると、封建制のもとで土地の永代売買は原則禁止されていたが、例外的にその支配権と考えられるものの移転は認められていたようであり、その権利者の把握手段として名寄帳等とよばれる公簿も設けられていたといわれる。ただ取引自体が村役人である名主の奥書割印とその管理に係る名寄帳等への記入という手続をもって成り立つものとされており、全体としては役人による貢納徴取のための権利者の把握を念頭においた公的な色彩の強い仕組みの一環をなすものであったといわれる。
 明治維新により成立した新政府は、明治5年の太政官布告をもって土地の売買禁止を解除して私的所有権と取引の自由を認めた。しかし、ここでの土地売買は、土地税制を金銭納付の仕組みに改めるために作られた地券制度のもとにおいて発行される地券の交付ないしは裏書と結びついており、地券は府県庁ないしは郡役所が管理する地券台帳により管理されていたから、税制から独立した公示制度が設けられていたわけではなかった。
 ところが、経済の発展に欠かせない金融の整備のためには、土地の売買にとどまらず、むしろその担保制度の整備が欠かせない。明治政府は、引き続き、土地・建物の質入れ及び書入れ(抵当権の設定に相当)の制度の整備を図る必要に迫られ、明治6年の地所質入書入規則の制定をはじめとする一連の規則の制定を実施している。これらの規則のもとでは、戸長役場の公証とともにされる公簿(奥書割印帳)への記載により権利関係を公示する仕組みがとられたたが、この仕組み(奥書割印制度)こそ、我が国における登記制度の萌芽というべきもので、その後明治13年になって、土地売買譲渡規則が制定されて、この仕組みの対象が地券のみに頼っていた土地所有権の移転にも拡げられ、権利の公示制度が税制から独立した存在となったのである。
2 登記法の制定(明治19年)
 奥書割印制度は、権利公示の機能を有していたとはいえ、その中心は権利の移転を証文への奥書割印によって効力あらしめるという公証的側面であり、公示制度としてはいささか機能的な不備があった。肝心の公簿である奥書割印帳に規格がないためその様式が戸長役場によって異なり、また編成も年代順で、見出帳もなく、特定の不動産の権利関係を容易に把握することができなかったからである。これに加えて、戸長役場における公簿保管や事務処理の不備、さらには役場自体が絡んだ不正事件の発生も加わって、増大する不動産取引の中、間もなく制度の抜本的改革が求められるようになった。
 政府は明治14年から諸外国の登記制度の調査を含めて検討を行い、その結果、前述のごとく明治19年に法律第1号として登記法を制定し公布した。他方、奥書割印制度を定めた土地売買譲渡規則等はこの法律に抵触する範囲で廃止され、この登記法は明治20年2月1日に施行された。
 このように明治政府は明治19年に登記手続のための登記法を制定し、あわせて同年に公証人規則を制定している。
 その後、明治32年2月24日法律第24号として改正前不動産登記法が制定されている。永きにわたり慣れ親しんだ法律であったが、小生にとってはただ一点どうしても気になる点があった。同法第40条に規定する申請書副本制度である。昭和30年代後半から昭和40年代、50年代にかけての日本の経済の高度成長時代に、激増する登記事件を当時の厳しい処理体制の中で乗り切ることができたのは、この申請書副本制度によるところが極めて大きいということは身をもって感じているが、ただ一方では実際の物権変動を如実に登記簿(登記記録)に公示し、不動産取引の安全と円滑を図るという不動産登記制度の理想から考えると、やはり現実の物権変動を如実に公示するための登記原因証書(登記原因証明書(情報))の提供が望まれるところである。そういう意味では平成17年の不動産登記法の改正においてこの点がどうなるか、もし副本制度が継続するということであれば私個人としては不動産登記法の研究はやめようという気持でかたずを呑む思いでいたが、改正についての検討状況としては、当初の情報としては副本制度が存続しそうであるということであったので、ああ・・これで不動産登記法ともお別れだな!?と思ってがっかりした日々を過ごしていたところ、後半になって、藤原さん、登記原因証明情報の必須化ということで登記原因証書が残りそうだよ!!という情報が入り、これで不動産登記制度はよくなる。国民の皆様方の不動産に対する権利保全を図る制度として絶対にお役に立てる登記制度を実現できる。ヤッター・・という気持で一杯になったことを今さらのように思い起こすことができる。
 そして、その後の状況は小生がまさに考えていたような形で不動産登記の充実・強化が図られ、さらには筆界特定制度というまさに表示登記の充実と強化という側面からのすばらしい制度がスタートし、不動産登記制度は国民の皆様のお役に立てるすばらしい充実した制度となっているというのが小生の実感である。
3 司法職務定制
 ところで、今度は公証制度の沿革についてであるが、日本における公証制度の創設は1872年(明治5年)8月3日に太政官無号達によって制定された司法職務定制に始まるといわれる。この司法職務定制はその第10章に「証書人、代書人、代言人職制」を定め、この証書人が現在の公証人であり、代書人(司法書士)、代言人(弁護士)とともに現在に至る法制度の萌芽であるといわれる。
 司法職務定制が制定された当時、明治政府は田畑永代売買禁止令(江戸幕府が1643年に出した田畑の永代売買を禁止した法令で、本百姓の没落防止を図ったが、質流れによる移動は合法であったので実効性はなかったともいわれる。)を1872年(明治5年)に解禁し、土地の売買を認めたが、売買の際に地券を交付することとし、証書人に役所で奥印させるという方式をとったといわれる。この証書人は常設の機関ではなく、臨時に戸長、副戸長が証書人になっていたようである。
 しかし、公証の手続をとるためには、当事者が役場に出かけていって戸長の面前で名前を自署しなければならず、手続の煩雑さからか活用はさほどされなかったといわれる。
 その後、明治政府は1886年(明治19年)に登記手続のための登記法を制定し、あわせて公証人規則を制定している。
4 公証制度の創設
 我が国においては、前述のごとく西欧の法制度が導入される前から、建物譲渡などの重大な契約の証書には、名主・組頭・百姓代官などの奥印や親類などの加判を付けて、契約の実行を保証し、その権威付けが行われていた。
 当時はまだ不動産登記制度はできておらず、地券制度、公証制度が所有権の移転制度を担っていた。
 まず、明治4年4月10日の太政官布告第53号は、従来の名主・組頭に代わって戸長、区長の制度を設け、戸長役場に「奥書割印帳」が置かれた。
 明治6年1月太政官布告第18号をもって制定された地所質入書入規則は、戸長をして奥書証印せしめ、奥書証印のないものは無効とし、その後明治8年第48号布告、同10年第28号布告、同13年第52号布告などは、土地・建物売買などの契約書に戸長の奥書証印を求めさせ、それがないものを無効としている。
 このような奥書割印によって権威付けされた証書を明治8年4月10日の太政官布告第53号は、「公証ノ証書」と名付け、この証書には、通常の契約と異なり、債務者の身代限り、競売代金中から利息を含めて優先弁済を受けることができることとされていた。この「公正ノ証書」が我が国における公証制度の明文上のスタートといわれている。
 この公証制度は、近代的な土地所有制度の創設と結びついている。すなわち、明治以前においては、土地について私人の所有制度はなく、売買も禁じられていた(土地永代売買の禁)。明治政府は、土地永代売買の禁を解いたが、その当時は、不動産登記の制度が整備されていなかったため、地券の発行と地券の授受による譲渡の制度を設けている。しかし、地券の発行は、土地の地番、地目等の特定を前提とするものであるが、その前提が容易に整わないため、戸長役場等で二重公証や偽造公証もあったといわれ、土地の取引が混乱をする事態を招いたといわれる。
 また、前述のとおり、明治時代には「証書人」の制度があり(明治5年8月3日公布の太政官無号達司法職務定制)、区戸長役場で公証の仕事をしていたということは前述のとおりである。
 明治19年8月11日公証人規則が制定公布され(法律第2号)、同年8月30日公証人規則施行条例(司法省令甲第2号)が制定公布されている。そして明治19年8月13日には登記法(旧登記法)(法律第1号)が制定公布され、裁判所の所管する登記制度が創設された(法務省という組織ができるのは昭和20年代前半である。)。
 明治41年4月14日に法律第53号として公証人法が制定公布され、翌明治42年に施行された。そして同時に公証人規則は廃止された。この法律が現行の公証制度の基礎をなす法律である。
 このように両制度の沿革を振り返ってみると、それぞれの時代背景をもとにそれぞれ必要な時期に必要な法律(法令)を制定し、また改正をしているということのようであるが、双方の仕事を経験し、双方の法律に親しんだ者としてはいささか必要以上の親近感を抱き、もしかすると法律(法令)1号、2号というのは偶然ではなく、必然かも・・・といった深追いをしているのかも知れない。公証人の皆様には私と同じように双方を経験している方が多いのではないかと思いますが、いかに感じておられるでしょうか?。総会、研究会などの時の話題の一つにでもしていただければ大変うれしく思います。

  縮む・伸びる(由良卓郎)  

 はっきりとした記憶はないが、昨年4月ころには、歩行時等に、右足かかと(くるぶしの下付近やその最後部)に痛みを感ずるようになっていた。日々の生活に支障がある程ではなく、立っているときや歩行時など右足に体重がかかったときに、少し鈍痛を感ずるといった程度であったので、そのままにしていたが、自然治癒の兆しがないので、昨年秋頃から近くの整形外科医院に通い始めた。
 昨年12月のある日、3回目の診察に同整形外科医院を訪れ、待合室で診察の順番待っていた際に、椅子の横のカウンターの側面に貼られたポスターが目に入った。それは骨粗しょう症に関するポスターで、次のように書かれていた。
 「20歳のころと比べて身長が縮んでいませんか。2センチ以上縮んでいたら、骨そしょう症により背骨が骨折しているかも知れません」
 ポスターは、主に女性を対象としたもののように思われたが、ひょっとすれば自分もそうなっているかも知れないと思ってしまう。
 成長期には毎年のように身長を測定していたが、社会人になると身長測定の機会といえば、人間ドックか健康診断くらいである。
 ここ数年人間ドックも受けていなかったが、一昨年は、9月と10月の2か月の間に人間ドックを含め身長を測定する機会が複数回あった。そして、そのいずれの測定結果も、数年前までは身長の伸びが止まってから変化のなかった身長が丁度1センチ低くなっていたのである。複数の測定結果が一致していることから、何かの間違いではないのかとの言い逃れはできない。私は何とか身長を元に戻したいと思いつつ、これといった対策もせず1年が経過したが、先ほどの整形外科医院での3回目の診断の結果、リハビリ(右足首からふくらはぎにかけての電気治療とマッサージ)をすることとなり、必要性は分からないが、リハビリの前に、身長、体重、握力を測定することとなった。その結果、身長は、昨年の測定結果より更に5ミリ低いという衝撃的なものであった。数年前までは変化のなかった身長が、この数年間で1.5センチも低くなっていたのである。私にとっては、決して小さくない数字である。この早さで身長が縮み続けることはないは思うが、気分のよいものではないし、後5ミリ低くなると背骨の骨折を心配しないといけなくなりかねない。
 ところで、親父の背中が小さくなったなどと言うことがあるが、これは、自分が成長するに従って相対的に親が小さく見えるようになることや、親の姿勢が悪くなって小さく見えることを言うのだろうと思っていたが、私自身が小さくなっていたのである。
 このように身長が縮む傾向の中で、逆に増加傾向のものもある。胴回りは、公証人を拝命したころに緩めに調整していたベルトの穴が二つ三つベルトの先端方向に移動してしまったのである。もちろん体重もである。胴回りや体重は、自らの努力次第で縮め、下げることができるはずだが、生涯を通じて減少傾向に転じた記憶はない。
 ちなみに、今年に入って腰の診断のためレントゲンを撮ってもらったところ、私の場合は、骨折でも腰椎椎間板ヘルニアでもなく、背骨の間が狭くなっているとのことであった。加えて、予期しない通告は、背骨が少し曲がっている(前後ではなく左右方向に)とのことで、これらが身長低下の原因のようだ。
 なお、先ほどの握力測定の結果は、左右とも若い頃から大きな減少はなかった。
 加齢による体力の低下や体の変化には抗えないものの、最近は何かと健康寿命が叫ばれる中、これからは、適度な運動に努め、暴飲暴食を慎みながら、縮んだものを伸ばし、伸びたものを縮める努力をしつつ、1年1年を大切に健康で過ごしたいと願う今日このごろである。
 皆様方は、私のようなことはないと思いますが、体重ばかりでなく、身長の低下にも注意を払って下さい。


実 務 の 広 場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.67 弁護士法第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについて                  

1 はじめに
 弁護士法(以下「法」という。)第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについては、照会があった都度、参考となる前例や協議結果の有無の調査から始まり、回答までに相当な負担となっていました。また、回答相当な案件を回答拒否すると弁護士会から損害賠償請求されかねないし、他方、回答拒否相当な案件を回答すると守秘義務違反ということで損害賠償請求されるといった、難しい事態となっていました。
 一度、考え方の整理をしたい(誰かやってくれないかな)と考えていたところ、昨年末、最高裁判決がありましたので、紹介を兼ねて、論旨1から4までに分けて整理してみました。
2 論旨1について
 (論旨1)法第23条の2第2項に基づく照会をした弁護士会が、その相手方に対し、当該照会に対する報告をする義務があることの確認を求める訴えは、確認の利益を欠くものとして不適法である。
(最高裁平成30年12月21日第二小法廷判決・平成29年(受)第1793号損害賠償請求事件)
 本件は、郵便事業株式会社に対して法第23条の2第2項に基づき照会をした弁護士会である被上告人が、上記会社を吸収合併した上告人に対し、当該照会についての報告義務があることの確認を求める事案です(事案の概要は、会報28年12月号12頁、会報29年5月号4頁、及び会報29年11月号17頁を参照ください。これらに紹介された事案の、法23条の照会についての報告義務があることの確認請求についての判決です。)。
 この判決では、「弁護士法23条の2第2項に基づく照会(以下「23条照会」という。)の制度は、弁護士の職務の公共性に鑑み、公務所のみならず広く公私の団体に対して広範な事項の報告を求めることができるものとして設けられたことなどからすれば、弁護士会に23条照会の相手方に対して報告を求める私法上の権利を付与したものとはいえず、23条照会に対する報告を拒絶する行為は、23条照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはない(最高裁平成27年(受)第1036号同28年10月18日第三小法廷判決・民集70巻7号1725頁)。これに加え、23条照会に対する報告の拒絶について制裁の定めがないこと等にも照らすと、23条照会の相手方に報告義務があることを確認する判決が確定しても、弁護士会は、専ら当該相手方による任意の履行を期待するほかはないといえる。そして、確認の利益は、確認判決を求める法律上の利益であるところ、上記に照らせば、23条照会の相手方に報告義務があることを確認する判決の効力は、上記報告義務に関する法律上の紛争の解決に資するものとはいえないから、23条照会をした弁護士会に、上記判決を求める法律上の利益はないというべきである。
 したがって、23条照会をした弁護士会が、その相手方に対し、当該照会に対する報告をする義務があることの確認を求める訴えは、確認の利益を欠くものとして不適法であるというべきである。」と判示して、訴えを却下しました。
3 論旨2について
 (論旨2)法第23条の2第2項に基づく照会に対する報告を拒絶する行為が、同照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはない。
(最高裁平成28年10月18日第三小法廷判決・平成27年(受)第1036号損害賠償請求事件)
 本件は、23条照会を本件会社に対してした弁護士会である被上告人が、本件会社を吸収合併した上告人に対し、主位的に、本件会社が23条照会に対する報告を拒絶したことにより被上告人の法律上保護される利益が侵害されたと主張して、不法行為に基づく損害賠償を求め、予備的に、上告人が23条照会に対する報告をする義務を負うことの確認を求める事案(項番2の判例と同じ事案です。)において、主位的請求について判決されたものです。
 この判決では、「23条照会の制度は、弁護士が受任している事件を処理するために必要な事実の調査等をすることを容易にするために設けられたものである。そして、23条照会を受けた公務所又は公私の団体は、正当な理由がない限り、照会された事項について報告をすべきものと解されるのであり、23条照会をすることが上記の公務所又は公私の団体の利害に重大な影響を及ぼし得ることなどに鑑み、弁護士法23条の2は、上記制度の適正な運用を図るために、照会権限を弁護士会に付与し、個々の弁護士の申出が上記制度の趣旨に照らして適切であるか否かの判断を当該弁護士会に委ねているものである。そうすると、弁護士会が23条照会の権限を付与されているのは飽くまで制度の適正な運用を図るためにすぎないのであって、23条照会に対する報告を受けることについて弁護士会が法律上保護される利益を有するものとは解されない。
 したがって、23条照会に対する報告を拒絶する行為が、23条照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはないというべきである。」と判示して、原判決の上告人敗訴部分を破棄し、被上告人の控訴を棄却しました。
4 論旨3について
 (論旨3)公証人は、法第23条の2第2項に基づく照会事項が報告されることにより得られる利益と、報告により秘密帰属主体が受ける不利益とを慎重に利益衡量した上で、報告するか、拒絶するかを判断するのが相当である。
⑴ 次に、公証実務の取扱いを見てみます。
 まず、刑事訴訟法第197条第2項に基づく照会の取扱いについて、見てみましょう(新訂法規委員会協議結果要録266頁以下)。
 「公証人法以外の法律の規定に基づく照会等を受けた場合において、これに応ずる義務が公証人にあるか否かは、①公証人が照会に応じることにより充足される法益と失われる法益とを比較考量し、いずれを優先させるべきか、②公証人が守秘義務を理由に照会等に応じない場合に、照会等の目的を達成するための代償措置が法によって保障されているか否か等を検討した上で決せられるべきものであろう。」
 また、その協議結果については、第1説から第4説までがあるものの、「いずれの説によっても、
ア 検察官の証書閲覧請求によって照会の目的を達することができる場合には、公証人は回答を拒絶し得ること、
イ 証書作成の有無、事件番号その他証書閲覧請求をする手掛かりとして必要な事項について照会があった場合には、これに応じて差し支えないこと
 については特に異論はなかった。」とされています。
⑵ 次に、法第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについて、見てみましょう(新訂法規委員会協議結果要録272頁以下)。
ア 某弁護士会から、訴訟上の必要があるとして(具体的理由は記載されていない)、某公証人に対し、当該公証人が昭和43年1月1日以降現在までの間に行った、某税理士が代理人となって認証の嘱託をした会社定款の認証の件数及びその年月日、会社名について、照会し報告を求めたのに対し、協議結果は、このような照会は、受任事件の事件名も、また照会の必要性も不明であり、また、調査に多大の労力を要すると思われるのでこれに応ずる義務はないというのが全員一致の意見であったとされています(昭和52・1・27日公連法規小委協議(公証47号66頁))。
イ 弁護士会長から遺言の証人の氏名、住所等につき法23条の2に基づく報告依頼を受けたのに対し、協議結果は、遺言者の死亡前であるならば、断るべきことはいうまでもない。問題とすべきは遺言者の死亡後であるが、公証人の守秘義務に違反するので応じられない(公証人法第4条)。例えば、相続人のように、証書原本の閲覧申請なり、謄本の交付申請なりができるものは、それで対応する。なお、裁判所からの記録取寄せに対しては、公証人法第25条で応ずることとなるが、裁判所に対しても、取寄書類によって判明する以上の秘密についての証言などは、応ずることができない(民訴法第197条第1項第2号、刑訴法第149条)とされています(昭和59・7・3東京会法規委協議(会報59年8月号21頁))。
5 論旨4について
 (論旨4)法第23条の2の規定に基づく照会で遺留分減殺請求権の消滅時効の始期の確認のためであっても公正証書の謄本交付・閲覧申請書の閲覧、謄本の交付の請求及びその内容の回答はできない。
(当役場であった事例で、公証業務照会センターの支援を得て対処した事案です。)
⑴ 弁護士会長からの照会の概要
 弁護士会長から、法第23条の2の規定に基づき、おおむね次のとおりの照会がありました。
 遺留分減殺請求事件に関し、被相続人である甲が平成〇年〇月〇日に遺言公正証書を作成した後、平成〇年〇月〇日に死亡し、相続が開始したところ、その死亡の日から約1年3か月が経過して、他の相続人から遺留分減殺請求があった。
 そこで、他の相続人による遺留分減殺請求は、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間が経過するまでの間にされているかどうかを確認するため、当該遺言公正証書について閲覧又は謄本の交付の請求をした者がいるかどうかを確認するために、①公正証書作成日である平成〇年〇月〇日から本件照会時までの間に、当該遺言公正証書について閲覧又は謄本の交付の請求をした者がいるか、②いる場合は、その請求の日付、請求者の住所・氏名を回答されたいというものです。
⑵ これに対し、まず、次のとおり前提の整理をしました。
 まず、公正証書の閲覧等申請書の閲覧等の取扱いについて確認します。
ア 公正証書の閲覧等申請書の保存期間について、法務省民事局総務課長から通知がされており(平成28年2月15日付け法務省民総第77号民事局総務課長通知)、同通知によるとこれらの申請書は、公証人法施行規則(以下「規則」という。)第27条第1項第3号に当たり、保存期間は7年とされています。
 これらの申請書は、同号に掲げられている認証簿、確定日付簿及び計算簿に該当しないことは明らかであるので、規則第25条第2項の書類に該当することになります。
イ ところで、従来の公証実務では、証書原簿、認証簿、確定日付簿等についても閲覧を請求することができると解され、閲覧請求に応じていたものと思われます(平成22年6月29日法規委員会協議(公証161号202頁)、新版法規委員会協議結果集録・平成8年~平成24年178頁、新訂公証人法115頁)。
ウ これに対し、規則第25条第2項の書類については、閲覧又は謄本の交付の請求を認める規定は存在せず、閲覧又は謄本の交付の請求に応ずることはできないと通達されました(平成19年3月15日付け民総第586号民事局長通達記の第2の4、公証事務先例集122頁)。
 したがって、照会の対象となっている書類(公正証書の正本・謄本交付閲覧申請書(規則第25条第2項の書類))については、公証人法及び規則等の規定に基づく閲覧又は謄本の交付の請求に応ずることはできないということになります。
⑶ 次に、⑵の前提を踏まえて、本件の取扱いについて検討します。
 公正証書の正本・謄本交付閲覧申請書は、本人であっても閲覧又は謄本の交付の請求に応じない書類であることを前提として、さらに項番4(論旨3)の考え方に従って、①公証人が照会に応じることにより充足される法益と失われる法益とを比較考量し、いずれを優先させるべきか、②公証人が守秘義務を理由に照会等に応じない場合に、照会等の目的を達成するための代償措置が法によって保障されているか否か等を踏まえた上で、回答することは相当でないと処理しました。
 なお、公証人法第4条の規定からすると、「嘱託人(本件ではこの嘱託人とは、正本・謄本の交付又は閲覧の申請をした者に当たる。)ノ同意」があれば、回答できるということでしょう。
 また、裁判所から送付嘱託、取寄せ依頼等があった場合は、応ずることができるでしょう。
6 まとめ
 項番3(論旨2)の最高裁平成28年10月18日第三小法廷判決の判例紹介において、新橋公証役場の石原直樹公証人による、「思うところ」のコメントがあります。今般、いろいろ調べたり、検討した中でこのコメントが弁護士法照会の取扱いの指針であろうと考えます。本稿のまとめとして、同コメントを紹介して、この稿を終わります。
 「最後に、仮に、具体的な公証業務に関して、公証人(公証役場)が23条照会を受けた場合の対処の仕方について、思うところを多少述べておくことにする。
 この場合に、23条照会に応じた報告だからといって、必ずしも損害賠償義務を免れるわけではなく(前掲最高裁昭和56年4月11日第3小法廷判決参照)、他方、報告を拒絶した場合に、法律上保護される利益を有するとして損害賠償(国家賠償)請求をし得る者が誰もいないという可能性が大きいのであれば、リスクを回避するために、報告を拒絶した方が良いという声も聞こえるところである。
 しかし、仮に、法律上保護される利益を有する者がいないということになったとしても、それは、損害賠償(国家賠償)請求という局面における事態であって、23条照会を受けた公務所又は公私の団体は、正当な理由がない限り、照会された事項について報告をすべき公法上の義務を負っていることに変わりはないのである。このような公法上の義務を最初から無視するようなことは、公証人として取るべき態度とは思われない。
 無論、公証人は、公証人法4条により守秘義務を負うものであるが、秘密といっても、その内容によって秘匿すべき度合いには強弱があるのであり、これに23条照会に対する報告義務の趣旨を併せ考えれば、公証人法上の守秘義務が、いかなる場合であっても23条照会に対する報告義務に優先するとはいえないと思われる。照会事項の内容と照会書に記載された照会を必要とする理由とに基づき、報告を拒絶する正当な理由があるかどうか、すなわち、照会事項が報告されることにより得られる利益と、報告により秘密帰属主体が受ける不利益とを慎重に利益衡量した上で、報告するか、拒絶するかを判断することになろう。」(会報平成29年5月号4頁)
(中垣治夫)

民事法情報研究会だよりNo.36(平成30年12月)

歳末の候、会員の皆様におかれましては何かと心せわしい日々をお過ごしのことと存じます。
さて、平成23年3月の東日本大震災発生当時、仙台法務局長をしていた橘田会員(厚木公証人)にそのときの様子を、本号と次号の2回に分けて、寄稿していただきました。災害は忘れた頃にやってくる・・・時が経つと災害の記憶や助け合いの気持ちは薄れがちですが、昨今の次から次に発生する地震・豪雨・台風等の悲惨なニュースを見るにつけ、決して他人事にしてはならないという思いを新たにする今日この頃です。(NN)

今 日 こ の 頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

あの日 それから7年余を経て(その1)(橘田 博)

平成23年3月11日午後2時46分、多くの犠牲者と多くの街を壊滅させ、福島の原発事故の引き金となった、あの日あの時から7年余の歳月が流れました。
今般、本誌編集幹事から、あの時の様子など書いていただけたらとのお話があり、筆をとることにいたしました。
あの日から一月余りは、すべてが無我夢中の中で過ごした日々であり、退職後、当時を記録したデータが引っ越し荷物にまぎれ紛失したことから、曖昧な記憶に基づく回顧になっています。また、とりとめのない話や情緒的な表現が多々登場しますが、寛容な読者の皆様ゆえお許しいただきたくお願いいたします。
この原稿を書き始めようと重い腰を上げたころ、BSNHKの「心旅・2018秋」が始まりました。
毎朝、8時45分から楽しみに視聴している番組です。
今回は、北海道から静岡県までの旅です。その放送の開始直後、北海道胆振東部大地震が発生しました。
地震は、一行が襟裳から帯広に抜け、厚岸に着いた日の夜半に発災し、翌日の行程は、電気、鉄道も止まっているため、中止となった旨、放送は伝えていました。
翌日以降の放送を見ると、その後、旅は続けられ、青森県にわたり、10月中旬には、岩手県、下旬には宮城県を火野正平さんは、走り続けています。
しばらく訪れていない東北の地をテレビで見させていただき、また海岸線の町々の映像を見るたびに、当時のことが昨日のように蘇ってきて、なかなか進まない復興の難しさを感じるとともに、しかしながら、そこに暮らす人々の笑顔に救われる思いをしています。
前書きが長くなりましたが、当時のことを思い返しながら、筆を進めたいと思います。

1 二日前(その前日から)
発災3日前の3月8日、あと数日で、法務局生活にピリオドを打つ最後の職場視察に朝から出かけ、県北の登米支局、気仙沼支局に伺う。気仙沼市にて、いつもの常宿に宿泊。
気仙沼支局において、当時の東海林支局長と地震・津波に備えた防災訓練が話題となり、気仙沼支局が入居する国の港湾合同庁舎では、机上訓練は行っているが、実地訓練は未実施と伺いました。
気仙沼の港周辺の港湾施設の中の中高層ビルは、港湾合同庁舎と県合同庁舎のみであり、付近には缶詰工場など水産加工場が多数あることから、いざというときには、2棟の合同庁舎に避難者が予想されるが、国合同庁舎の出入り口は自動ドアのため、停電により開閉が困難になるので、1階の入居庁に速やかに開けてもらう必要がある等々意見交換をし、できれば実地訓練を行っていくのが管理庁としてベストである旨をお話ししたと記憶しています。
その夜は、支局の皆様と、来るたびにお邪魔する居酒屋「ぴんぽん」さんにて、珍味に舌鼓をうち、楽しい夜をすごしました。
翌日、気仙沼支局から仙台本局への帰途、正午前であったと記憶しています。三陸道を南下中、妻からメールが入り、「今、震度5強の地震があった。どこを走っているか?」とのこと。急ぎ、官用者車備え付けのテレビを見ると、大きな被害はないものの、相当大きな地震のようでありました。私たちは高速道路上(高架ではない)にいたため、気が付かなかったようでした。
東北では、30数年に1度、宮城沖地震が発生すると予測されており、国等の機関の長が集まる月曜会(毎月1度、幹事は持ち回り)においては、必ず地震の話題が出され、参加者も意見交換を行っておりました。私も着任以来、その備えに取り組んでいました。
職場に戻り、地震の様子や庁舎の被害状況等を管内にも照会をし、ほとんど被害がないことを確認しました。
これが宮城県沖地震であったとしても、昔と違い、建物の新営等されたのであるから、大丈夫であろうと、このとき、私自身、都合よく、思いこんでしまった感じがありました。
規模も小さくはありませんでしたが、それほど大きくもありませんでした。それでも震度は5強でしたので、宮城県沖地震が発生したのではないかと思い込んでしまったような気がします。
相当程度地震エネルギーが放出されれば、しばらくは大丈夫かと思い、二日後の大地震について、思いを巡らすことはありませんでした。

2 当日の朝から発災前
当日の朝から発災前にかけての記憶は、あまり鮮明に覚えていませんが、お昼は、奥山技官の案内で、美味しいお蕎麦をいただい後、大河原支局を視察し、大河原公証役場に伺い、前島公証人(当時)にご挨拶し、夕方の会食での再会を約して、大河原から亘理町、岩沼市を経て、名取出張所へ向かう途中でした。
前島公証人、木島公証人(当時古川公証役場公証人)のお二人には、石巻公証役場井上公証人が急逝されたことから、長らく石巻公証役場の代理公証人をお願いしており、夕方、仙台駅前の某所で、お二人に対する御礼とお別れの会食予定でした。
また、会食後、夜半には、当時、東京局総務部長であった西川現所沢公証人と仙台において、一献酌み交わす予定でした。
勤務中ながら、私の気持ちは、早く帰庁し、その準備にと、そちらに傾いていたように思います。

3 発災
亘理町、岩沼市を抜け名取市に入り、国道から法務局に向かう交差点の手前に差し掛かった時、テレビで緊急地震速報がながれ、奥山技官の機転で、交差点を急ぎ抜け、名取出張所へあと数十メートルという地点についたとき、経験のない激しい揺れに襲われ、私たちは官用者の中でしがみついているのが精一杯でした。防いでいても車の天井に頭を何度もぶつけているのが、わかりました。
ゆれる車窓から周りを見ると、車が揺れているせいもあるあったのでしょうが、道路が波を打っているように感じ、横に建つホテルルートインの建物が、右に左に撓るように揺れ、今にも横倒れになるような恐怖感を覚えました。
(名取出張所の事務室内)
少し、揺れが収まり、車外へ出ると、名取出張所から飛び出した人たちが、ある人は街路樹につかまり、ある人は地べたに座りこみ、自分の体を支えるのに必死の状態でした。
当時、名取出張所は、3月下旬の本局への統合を控え、管内から応援職員を派遣し、未済解消に向けて取り組んでいる最中でした。
その中の職員が、「局長、しばらくは車内にいたほうが安全ですよ。」と大きな声で、私たちに車に留まるよう声を張り上げていたのを覚えています。
私としては、とにかく、出張所の中の様子を確認することが大事と思い、中に入りましたが、待合室の記載台はことごとく転倒し、足の踏み場もない状態でした。受付カウンターをはじめ、卓上の端末のほとんどは、落下し、書庫をみれば、これもほとんどの簿冊が落下し、到底、速やかな原状回復は困難なことが確認できました。
名取出張所は、旧バックアップセンターの建物であり、他の施設からみると、強靭に造られた建物であるにも関わらず、これほどのダメージを受けるのかと、大きなショックと他の建物の被害がいかばかりかと、思わず身が震えた記憶があります。
車中のテレビでは、大きな津波が予想される旨、速やかに非難するよう繰り返し伝えておりました。
私としては、本局との連絡がままならない状態の中、とにかく帰庁することを優先し、名取出張所の職員には、速やかに事務所を閉鎖して、最上階へ避難することを指示し、本局への帰途につきました。このときには、津波からの避難を優先するが先と思い、職員には帰宅せず、状況が判明するまで待機すること、併せて、職員個々の単独行動は控え、できる限り情報収集にあたるよう指示し、仙台に向かいました。
(名取から仙台本局まで)
名取出張所を発ったのは、午後3時半過ぎだったと記憶しています。文化会館を回り国道へ出た途端、停電のため信号機が作動せず、大渋滞の中に身を置かざるを得ませんでした。
車窓からは、屋根が大きく壊れ落下している大手電機メーカーの工場、外壁が崩れ落ちている数々のビルが見え、地震エネルギーの凄まじさを感じずにはいられませんでした。
車内テレビでは、自衛隊(若しくは海上保安庁)の航空機が三陸沖に巨大津波が発生し、陸地に向かって押し寄せている様が映し出されました。その時の海側の空は、見たこともない灰色とも黒色ともつかない、濃い群青色に染まっておりました。
私たちは、車の窓を開け、大渋滞に巻き込まれている多くの車に「津波が来るぞー」と山側へ逃げるよう大声で叫びましたが、他の車に届いたどうかわかりません。
仙台に戻るには名取川を越えなければ戻れません。しかし、これは危険と考え、山側へ逃避することにしました。途中、ホームセンターの屋上駐車場に入り、海側を見てみましたが、名取市内までは、相当距離があること、途中高速道路(三陸道東道路)が縦に連なっていることから、幾ばくの安心はありましたが、とにかく山側を通り、八木山を回って仙台市内に戻ることにしました。
幸いにも、同乗者は、名取市在住の石川庶務課長と地理にめっぽう詳しい奥山技官でしたので、道案内に戸惑うことはありませんでした。
帰路の途中、農家の納屋がぺちゃんこに潰れていたり、14条地図を作成した緑ケ丘地区においては、道路が地滑りを起こして迂回を余儀なくされたり等々しながら、渋滞する中、3時間余をかけて、6時半過ぎ仙台本局に到着しました。

4 帰庁
3時間余をかけて到着した本局庁舎は、周囲が停電する中、自家発電を稼働させてひときわ明るく地震がなかったように堂々としておりました。
話はそれますが、本局庁舎新営は仙台局の念願であり、2年余の歳月をかけて、3月14日に落成したばかりでありました。
外観に被害はなく、安堵したのを覚えております。
(安否確認)
庶務課においては、沢藤庶務課長補佐をはじめ多くの職員が、本局、管内支局出張所、ブロック内各局の被害状況、職員及び家族の安否確認に奔走しておりました。
停電の下、安否確認がままならず、頼りは、職員の携帯電話という状況であったと思います。全員無事の報告の度に、安どの声が漏れていました。
しかし、携帯電話の電源も心もとない状況下での、被害状況の確認、安否確認の困難さを実感しました。
戸津統括登記官(現盛岡地方法務局首席登記官)が自家用車を庁内駐車場に持ち込んで来られたので、車載テレビで、沿岸部の被害状況をみていると、気仙沼支局が入居する港湾合同庁舎が周りを火の海に囲まれ、その屋上からは救助を待ちわびる多くの人々が手を振っているのが映し出され、よく見ると、気仙沼支局が所在する2階フロアーは、無残にも大津波の直撃を受けておりました。
気仙沼支局との通信は確保できておらず、ただただ職員の無事を祈ることしかできませんでした。
庶務課、会計課、職員課の職員をはじめ、徹夜での安否確認作業となりました。
(対策本部の立ち上げ)
当日は、人権擁護部長、総務管理官、職員課長、首席登記官をはじめ多くの幹部が、本省等への出張のため不在でありました。
各部課室、各部門から部課長のほか、筆頭の代理者を集め、現在までに収集できた被害状況等、情報の共有化を図るとともに、1日3回(午前8時30分、午後1時、午後5時)の本部会議を行うこととし、当該時間までに収集した情報の共有化、各課室の所掌事務のうち急ぎ取り組まなければならない事項の洗い出し、翌週月曜日からの各所掌事務の復旧の可否、それに向けた取り組み及びその状況を報告することを指示し、毎回の会議においては、報告を受け、私が具体的な指示(短期的なこと、中期的こと)を行う、それを具体的に取り組んでもらい、次の会議において、その取り組み状況の報告を受け、また指示を行うということを繰り返し、徐々にではありますが、数日たち被害の全容と、課題が見えてまいりました。
本来であれば、会議をし、議論することも大事でありますが、今まで誰もが経験のしたことのない事態に遭遇し、また、職員自身が被災者でもあります。会議において各方面の課題を議論すれば、なかなか前向きになれないのが心情かと思い、ここは、とにかく今は私の指示に従い、目鼻が立つまで、頑張ってほしい旨お願いをいたしました。
幹部の皆さん、職員の皆さんの中には、ご親族をこの災害で亡くされた方も少なくなく、心中を察するとおかけする言葉もありませんでしたが、そこを何とか奮い立って頑張っていただき、あの時を乗り越えられたと、感謝の気持ちでいっぱいです。
(気仙沼支局に関する対応)
テレビ映像で、気仙沼支局の被災をみて、至急、気仙沼支局の事務停止と本局への事務の委任措置を行うよう、併せて、名取出張所の本局統合も取り急ぎ延期すること(この時点では、官報公告の準備が進んでいたと記憶しています。)を高橋民事行政調査官(現仙台法務局不動産首席登記官)に指示し、本省と緊密な連絡を取るようお願いしました。
気仙沼支局の状況等については、別途記述したいと思います。
(避難者)
話は前後しますが、帰庁し駐車場を経て、1階ロビーに向かうと多くの避難者の方々がいらっしゃいました。災害時の避難所は、近くの小学校が指定されており、当局庁舎は避難所に指定されてはおりませんでしたが、避難所には大勢の避難者がいて入ることができない等々、当局へ来られた方々には様々な理由があったろうと思います。
当局には、避難所に対応する備品が備わっていないこと等から、職員が避難所に移動されるよう説得をしておりましたが、険悪な状況も見られたことから、当局は避難所でないが、現在来られている方は受け入れる、しかし、物資は備蓄していないので満足なものは供給できないこと等を説明し、大会議室へ案内するともに、自家発電の停止を指示しました。
非常灯以外は、明かりがなくなった庁舎は、災害が嘘のように静寂につつまれ、余震の度に、建物のきしむ音のみが響いていました。
避難者への対応は、避難された方が相当数いたことから、その中から代表を決めていただき、当局も担当者を決め、そこを窓口として要望事項を伺い、また、当方が規律ある避難生活をするために従っていただきたいルール等、お互いの信頼を確保する作業から始めました。
幸いにも、仙台局には、宮城沖地震に備え、水、アルファ米、簡易トイレ、携帯コンロ等、職員数に相当する備蓄をしておりました。
発災翌日の土曜日の朝から、避難者への食事を考えなければならず、とりあえず、水とアルファ米を人数分提供すること、石油ストーブ(1個しかなかった)を提供し、お湯を沸かしてポットにためてもらい、それを避難者で飲料してもらう等々の対応を行いました。
(電源の確保)
仙台本局には、真新しい自家発電があり、この地震対応が初の稼働となるとは思いもよりませんでした。
しかしながら、その発電能力は4時間までで、発災直後に2時間ほど使用してしまっており、重油の残量は2時間分しかない状況でした。その電源は、月曜日各種システムの立ち上げ、点検に要することから、各種通信手段確保のために無駄に使用することはできませんでした。
発電機を探したところ、簡易ボンベの発電機があり使用してみましたが、発電量が小さく、携帯電源程度しかないことがわかり、次に灯油発電機を見つけ、それを使用しようとしたところ、ブースターケーブルがない等々いろいろありましたが、当時の堀内会計課長の自家車用ケーブルを拝借して何とか発電にこぎつけ、人権局との電話及びパソコン回線を確保することができました。この間、職員には、ガソリンスタンドへ灯油の買い出しに何度も往復をお願いしまた。
(被災職員家族の本局への避難)
これは賛否があると思われますが、私の妻も含め職員の家族も本局庁舎へ避難させることを決めました。その際に、冷蔵庫の中のものはできる限り持参してもらうようお願いをしました。これが、その後の籠城に大いに役に立ちました。
発災の夜は、余震が収まらず、震度4を超える大きなものがたびたび発生し、不安もあり寝付かれぬ夜をみんなで過ごしていました。ただ、長丁場になることが予想されたので、できる限り睡眠をとることをみんなに伝えましたが、一睡もできない人々がほとんどであり、不安な夜を過ごしました。
(窓から見る停電した街並み)
東北の大都市仙台も、一帯が暗闇となり舞う小雪に寒さが一段とつのりました。
窓から見える街並みは、建物の外観が、車が通る際のライトに照らされる際に浮かび上がるだけで、加えて寒さも手伝い、知らず知らずに不安感が押し寄せてくるそんな夜でした。
津波の大きさは、車載テレビで見ているものの、どれだけの被害が出ているのか、翌日以降に次々に明らかになる被害の大きさに想像も及びませんでした。
(以下 次号)

世代間のギャップを考える(尾﨑一雄)

いささか旧聞に属するが、世代間ギャップの現状を特集した新聞記事があり、
「そりゃー大変だ」と思ったり、「自分ならどうする」と、思わず引き込まれた。
まず、「先輩のおどろき」ランキングの第1位は、「友達感覚でなれなれしいときがある。」、「何でもマジですかと返してくる。」、「まじめな話をしている時の受け答えが軽い。」などであり、「新人のおどろき」ランキングの第1位は、「余計なことを言うと変な空気になる。」、「事前の根回しで方向性が決まっている。」、「有給があるのに取ってはいけない暗黙のルールがある。」、「休むときは一人一人に理由を説明しなければならない。」などである。
多くの職場は人的な資源が限られており、限られた人員で最も効率的に機能するようにそれぞれの職責が定まっているが、スマホで人と人が直接つながっていることを実感している世代には、なかなか理解しがたいのかもしれない。
限られた人員で構成されるが故に、他人への思いやり、あるいは「忖度」などが不可欠にならざるを得ないが、幼い頃から大事にされて育ってくると、ある日、「あなたは世界の中心ではない。」と突然言われても、「そんな馬鹿な。」ということになるのかもしれない。
次に、「先輩のおどろき」ランキングの第2位は、「会議で突然指名されても堂々と意見を言う。」、「自分が同じ年の頃はそんなにはきはき答えられなかった。」であるのに対し、「新人のおどろき」ランキングの第2位は、「マニュアルがないことでミスが改善されない。」「いちいち口で説明して非効率」、「文字で見た方が覚えやすいのでやりずらい。」というものである。
先輩としては、好意的に教えてあげているのに、非効率とは何だ、「私たちは教えてさえもらえなかった。」と意気込む人も多いのではないかと思う。
「仕事は盗んで覚えろ」と言われて生きてきた我々としては、マニュアルどおりに繰り返されるコンビニのレジ等の味気ない応対に辟易しているので、「マニュアルにない事態が起こったときも、本当に大丈夫?」といらざる心配をしてしまう。
予算担当から事件担当の部署に異動し、判決の要旨を書くことになったときのこと、何度起案しても、係長から返され、4・5回目に「掲載されているものをよく見ろ。」と教えていただいたが、確かに掲載されているものは数行であるのに対し、私のものは、その3・4倍に及ぶものであった。要は判決の前提となった要件事実を書けば良かったものを、事案の概要を書いていたということになる。
当時は、起案文書を放り投げる怖い先輩も皆無ではなかったことなど、今の若い人からは想像もできないかもしれないが、もちろん四六時中怖いわけではなく、飲みに連れて行って、いろいろアドバイスをしていただくなど、優しい面もあるわけで、そういう環境の中で我々はある意味大事に育てられた。
要は人を育てるための手段・方法の違いということであろうが、今にして思えば、何より情が通っていたというのは間違いのないところである。
「要件事実を書くように」と結論だけを明示し、その通りにやれば効率も上がるし,間違いもないというのは、一見素晴らしい手法のように見えるが、長い目で見たときにはどうであろうか。
長い目などと言っている余裕がないと言ってはばからず、効率のみを追求する組織には人も育たず、将来がないように思えるが、いかがであろうか。
「先輩のおどろき」ランキングの第3位は、「トラブルが発生して大変なときに休みを取る。」、「男同士で月1回行く飲み会に誘ったら、きっぱり断った。」などであるのに対し、「新人のおどろき」第3位は、「大きな地震があったが出勤した。」、「台風直撃でも定時に出勤した。」というものである。
いずれもプライベートに関わるものであるが、私の出張所勤務時代を思い出すと、少なくとも週に2・3回は近くの立ち飲み屋、居酒屋などに出かけており、安月給の新人がお金を払うことは、まずなかった。
大げさに言えば、職場の人間関係や、仕事の進め方を理解する場としては、時間中(当時は乙号担当で、一日中、倉庫と閲覧席との間を行ったり来たりしていた。)より、アフター5の方が、大事だったような気がする。
私が係員、係長の時代は、各職場に旅行会があり、給料から天引きされて、年1回近くの温泉地などに出かけたものであった。
関西であれば、白浜温泉など紀伊半島の温泉地、また、芦原温泉など北陸温泉郷がその主な候補地で、電車に乗るなり飲み始め、到着する頃にはすっかりできあがっていて、降りるのはイヤと駄々をこね、幹事を困らせた先輩も今では懐かしい思い出になっている。
こういう飲み会・旅行の場を通じて日頃じっくり話す機会のない職員間・組織のコミュニケーションが図られていたように思う。
できの悪い私などは、係長の前に座らされ、お説教されるのはいつものことで、当時口癖のようになっていた「絶対・・・・・・」についても、世の中に絶対というものはないから、軽々しく口にしてはいけないと指導を受け、その後、気を付けるようになった。
いつの頃からか、旅行会が食事会になったことを覚えているが、今は月1回の飲み会も難しくなっているようで、寂しい限りである。
台風時の出勤なども幾度となく経験したが、公務という仕事の性格からか、皆、普段と同じように対応していたような気がしている。
以下4位以下6位までを見てみると次のとおりである。
「先輩のおどろき」ランキングの第4位は、「覇気がなく平均で満足している感じがする。」、同第5位は、「1から10まで伝えないと理解しない。」「先輩の仕事ぶりを盗もうという姿勢がない。」、同第6位は、「何の努力や工夫もなくできないと平気でいう。」、これに対して、「新人のおどろき」ランキングの第4位は、「飲みに誘われない。」、同第5位は、「残業が美徳と思っている先輩が多く、ちっとも効率を考えて仕事をしない。」、「低賃金だったので、残業代で稼ぐために定時過ぎまで残る先輩がかなりいた。」、同第6位は、「個人の直感的な対応が最終的な対応策になることが多い。」、「長く仕事をしているのに説明が下手だったり、機器が使いこなせていなかったりする。」というものである。
「俺たちが若い頃は、・・・」という言い古された慣用句を待つまでもなく、世代間のギャップはいつの時代にもあったが、情報化が進展し、ありとあらゆる情報が簡単なキィ操作で入手できるようになった今日、それも違った様相を呈しているような気がしてならない。
仕事を進めるに当たって、先輩の経験と実績の重みが昔ほど重要視されなくなってきたのかも知れないが、実際には、経験と実績に裏打ちされたものでなければ使い物にならないような気がするのは、私だけだろうか。
ここまで書いてきて、今から50年ほど前、「珍しい事件だから、記載例をあげる。」と言って、先輩から手刷りの登記記載例を分けていただいたことをふと思い出した。
今、法務局では新規採用が再開され、職場には20代の職員が増えていると聞く、先輩と後輩を繋ぐ絆はどうなっているのか、気になるところである。

主夫、調停委員になる(星野英敏)

―調停委員になる―
昨年9月に公証人を退任後、早く一人前の主夫となれるようにと考えていたところ、認知症予防のためにも何か仕事をしてはどうかという勧めを受けたこともあり、調停委員であれば主夫とも両立可能なことから、自宅から近い家庭裁判所支部の家事調停委員になることにしました。
自宅から一番近い家庭裁判所支部に出向き、家事調停委員になりたい旨を告げると、家事調停委員の任期は2年で、更新はあるけれども70歳になると更新はされないので、私の場合既に66歳でしたから、更新は1回のみで、最長でも4年間ということでした。
70歳近くの方は、任期が短くなってしまうことから、採用が難しくなるようです。
それでも、面接試験を受けた結果採用となり、今年の4月1日付けで家事調停委員の任命を受けることになったのですが、突発的な事情により今年の1月末から5月いっぱいまでは半田公証役場の公証人を勤めなければならないこととなったので、裁判所の方はそれまで待ってもらうこととしました。
6月からは裁判所に行くことができるようになったので、最初に2日間、午前・午後の2期日ずつ先輩調停委員が実際に調停を行っているところを見学させていただき、その後は、ベテランの家事調停委員とのペアで調停を進めることとなりました。
最初のうちは、事件の配分もあまりなかったので、週に1日か2日裁判所に行く程度でしたが、次第に事件の配分が増え、新規事件のほかに継続して2回目、3回目となる事件もあることから、毎週3日は午前と午後に期日が入るという状況になりました。
また、10月からは、家事以外に、地方裁判所の民事事件と簡易裁判所の調停委員にも任命され(そのための面接試験も別途受けました。)、平日はほぼ毎日裁判所に行くことになってきました。

―主夫の朝は大変―
主夫の仕事もあまり手を抜くわけにはいきませんので、特に朝の時間配分が大変です。
毎朝5時ころには起きて薪ストーブに火をつけ(寒い時期のみですが)、みそ汁を作り、猫たちに餌をやり、洗濯をして干し、ラジオ体操をし(腰痛予防のために始めましたが、もう5~6年続けています。)、ふとんを上げ、ゴミの日にはゴミを出し、というところで、朝食(おかずは妻が作ってくれます。)を食べて出勤となってしまいます。
午前中に期日が入っていない日には、朝のうちに掃除機かけもできるのですが、これをサボると部屋の中を猫の毛のかたまりが漂い始めてしまいます。
何よりも、主夫の一番の悩みは、水仕事による手荒れです。
いつの間にか指にひび割れができ、水がしみて痛くなりますので、炊事用手袋や洗濯掃除用手袋のお世話になったり、色々な塗り薬やハンドクリームなどを試してみていますが、思うようには効果がありません。
また、地元の町内会長も引き受けてしまったことから、土日の半分くらいは町内会の行事等でとられてしまい、平日手抜きをした掃除などの穴埋めも難しく、子供たちと遊ぶ時間もなかなか取れません(だんだん子供たちも遊んでくれなくなってきました。)。

―通勤―
下の子が生まれ、それまでのアパートが手狭になってきたことから、西尾市内に家を建ててしまいましたが、アパートも家も、その当時の勤務先であった西尾駅前から徒歩約20分のところを選びました。
健康維持のため、徒歩通勤と考えたことによるのですが、片道30分ではくじけてしまいそうですし、あまり短いのでは意味がないということで、この距離にしました。
現在は、家から駅まで徒歩約20分、駅から電車約40分で裁判所支部の最寄駅、そこからまた徒歩約20分ということになりますが、暑さの酷い時期や悪天候の際には、裁判所支部の最寄駅からはバスを使うこともあります。

―調停委員会―
調停委員は、兼務の制限はないので、別に本業としての仕事を持っている方も多く、弁護士や司法書士、税理士、不動産鑑定士などの専門家もいて、その専門知識が生かされています。
民事や簡易裁判所の事件では、女性の調停委員が少ないことから、男性の調停委員2名と担当裁判官による調停委員会が多くなりますが、家事調停の場合は、原則として女性の家事調停委員と男性の家事調停委員各1名と担当裁判官の3名で調停委員会を組織します。
担当裁判官は、同時に複数の調停委員会を持っていますので、通常の調停の進行は2名の調停委員で行い、随時裁判官と相談しながら進めて、成立時等必要な時には裁判官に出席してもらいます。
本業が忙しい調停委員は、月に1,2回しか調停委員としての仕事ができないという方もおいでになりますので、日常的に裁判所に来ている調停委員は、退職者や主婦(夫)が多くなります。

―調停―
調停は、裁判官が判断を示すというものではなく、当事者間の話し合いによる合意を目指す制度ですが、そもそも当事者どうしでの話し合いがうまくいかないことから調停を利用しているので、双方の当事者を直接話し合わせても非難の応酬となってしまうことが多く、調停委員が間に入って交互に各当事者の話を聞きながら進めていくことになります。
なお、最初に各当事者に調停制度について説明しますが、金銭の支払いについて合意が成立した場合、確定判決と同じ効力を持つことから、強制執行の対象となることも注意しておきます。
離婚等の場合、「相手の方が悪い」という点だけ双方の意見が一致して、真っ向から対立することが多いのですが、それぞれの言い分を十分に聞き、信頼関係を築いてから法制度の考え方を説明し、あなたの気持ちは良くわかるけれども法的には直接それを通すことは難しいので、この点は譲る代わりにこのような方向で合意を目指してはどうかというような提案をしていくことになります。
中には、とにかく早く離婚したいという一心で、支払い不可能と思われる法外な給付を提案したり、相手方の無茶な申し入れに合意しようとしたりということもありますが、すぐに破綻してしまうことにならないか、子供の今後の生活は本当に大丈夫なのかなどの観点から再考を促したり、納得のいかないまま合意を急いではいけませんなどと注意をすることもあります。
また、相手や子供の気持ちを察するよりも、自分の主張に固執する当事者がおり、離婚に当たって子供の親権をどちらが取るかで深刻な争いになることもあります(大岡裁きのように、双方に子供の手を引っ張らせるというわけにはいきません。)。
このような場合、父親も母親もどちらも好きなのにその二人が争っていることで心を痛めている子供の気持ちを察するように促すと、気持ちが動く場合もあり、このような時に調停委員としてのやりがいを感じます。
離婚に関する事件では、双方とも外国人で、それもそれぞれ国籍が違うという場合もあります。
そのような場合は、法の適用に関する通則法や扶養義務の準拠法に関する法律によって適用する法を定め、外国法が適用される場合には関係する外国法を書記官に調べてもらって判断することになりますが、そもそも親権や監護権というような概念自体が日本とは異なっているのではないかと思われる場合もあります。

―算定表―
家事調停では、別居中の夫婦の婚姻費用や子の養育費が問題となることが多く、家庭裁判所のホームページで公開されている「養育費・婚姻費用の算定表」がその目安として使われています。
この算定表は、「新版 証書の作成と文例 家事関係編〔改訂版〕」34ページ以下及び85ページ以下にも掲載されているので、公証人の皆様はご存知と思いますが、その考え方の詳細については、別途実務の広場等でご説明したいと思います。
ここでは、養育費等の算定表で、子の年齢により0~14歳の表と15~19歳の表とに分かれている理由についてだけ指摘しておきます。
これは、公立の中学校までの平均的学費と公立の高等学校の平均的学費の差に基づくもので、本来は、子が高等学校に進学する時点で、適用される算定表が切り替わるのです。
したがって、0~14歳の表に基づいて養育費等の額を定める場合には、「進学に伴う特別な費用については別途協議する」というような条項が必要となりますので、公正証書作成相談の場合にも、別途協議するという条項の追加を助言していただきたいと思います。

―婚姻費用又は養育費に関する合意―
調停では、できるだけ当事者の合意を尊重することから、審判や裁判による裁判官の判断よりは合意の効力が認められる幅は広くなりますが、算定表の目安よりも大幅に低い金額で当事者が合意する場合、子供の将来の生活に支障がないかという観点から再考を促すことになりますし、大幅に高い金額となる場合には、本当に支障なく支払えるのか、破綻してしまうことにならないのか確認することとなります。
また、婚姻費用も養育費も、直面する生活費の問題ですから、その解決は早急にしなければなりませんし、すぐに合意できない場合には、暫定的な支払いを促すことになります。
最終的な金額が決まっていない段階でも、暫定的に一定の金額を支払ってもらい、後日金額が決まった時に、不足していた場合には未払い分の追加支払いということになりますし、過剰だった場合には清算となりますが、支払う側としても暫定的に一部でも支払っておけば、後日の追加未払い分は少なくなりますし、支払いを受ける側としても当面の生活費が確保できることで、双方の利益につながります。

―日々反省―
期日が終わると、もっとこのように説明した方が良かったのではないかとか、あの当事者はこんなことを考えていたのではないかなど、日々反省と新たな気付きの連続で、確かに認知症予防には効果がありそうです(そうは言っても、確実に認知症が進行していることを自覚せざるを得ない毎日です。)。
公証人経験者が調停委員となるには、最初に述べたとおり、年齢的な問題がありますが、可能であれば退職後の認知症予防のための選択肢の一つとして考えてみてはいかがでしょうか。
また、戸籍や登記、訟務、人権などの経験が役立つ仕事で、司法書士等の業務と両立させることも可能ですので、機会がありましたら、後輩の法務局退職者にも声をかけていただければと思います。
ただし、報酬は、週3~4日出勤したとして、月額10万円程度です。


実 務 の 広 場

このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.65 甲・乙共有地の乙の持分に甲が賃借権を設定したいという事例について

本件については,本紙No.29(平成29年10月)において,3つの事例に絞って検討を試みたもののうち,事例1について再掲するものである。
原稿掲載後いくつかの意見をいただいた。説明不足の感も否めないので,改めて以下のとおり文案を修正して紹介したい。
記載が重複する部分も多いと思うが,書直しなのでご容赦願いたい。また,本稿の内容については,引用文以外筆者の個人的見解であることを,あらかじめお断りしておきたい。
事例1 甲・乙共有地の乙の持分に甲が賃借権を設定したいという事例
概要:甲は,ある事業目的で,乙単独所有地(A地)と甲・乙共有地(B地)を乙から借り受けて一体として使用したい。賃料は,A地とB地(乙持分)併せて金〇〇万円と決めた。この内容で不動産賃貸借契約公正証書を作成して欲しい。
検討:このような事案は、実例としては、ありそうな気がする。例えば、親兄弟で共同相続したB土地全体を、共同相続人の一人が賃貸用駐車場用地として使用し、他の2名には賃料相当額を支払うといった場合などである。
本事例は、法律的には、甲・乙共有のB地について、乙持分を甲が乙から借りるべく、甲・乙間で賃貸借契約を締結することができるかという問題である。
甲・乙共有地に第三者である丙が賃借権を設定できることについては,異論はないであろう。
しかし、甲又は乙の共有持分の全部又はその一部に賃借権の設定ができるかということについては、肯定論もあるようであるが、実務は否定的に運用されていると思われる。なぜなら、賃貸借について、民法601条は、「賃貸借は、当事者の一方がある物の使用及び収益を相手方にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うことを約することによって、その効力を生ずる」と規定し、賃貸借の成立要件の一つとして「物の使用・・・を約すこと」を掲げている。すなわち、対象が物であることを前提としており、土地であれば当該土地が対象物となり、共有持分権という権利を対象としていないからである。また、民法249条は、「各共有者は、共有物の全部について、その持分に応じた使用をすることができる」とし、「持分に応じた使用」とはしているものの、(共有)物の全部の使用を前提としている。そうすると、乙の持分に賃借権を設定することはできないことになる。登記実務においても、共有持分についての賃借権設定登記を否定している(昭和37年3月26日民甲844号通達・登記研究320-63ページ参照、昭和48年10月13日民三7694号回答)。
それでは、甲がB地全部をある程度長期間使用したい場合、どのような契約を結ぶことができるのかということであるが、大別して以下の3つの方法が考えられる。
①  共有物を現物分割し、分筆して乙所有部分として特定した箇所を甲が賃借する方法
この方法は、甲及び乙が合意しなければできないし、本問では、甲・乙共有のまま甲が使用することを前提としているので、本問の回答にはならない。
②  貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約を締結する方法
この方法は、甲が貸主であるとともに借主になることから、借地借家法15条のような自己借地権の規定がない限り、また、混同の原則により難しいという意見がある。
③ 甲・乙間において、その共有するB土地を甲のみが使用することについての,共有土地の使用に関する合意契約のような契約を締結する方法
債権については、物権法定主義のような縛りはないから、このような契約も可能と考える。
以下において、②、③の説について、共有持分の賃貸借という観点から若干検討してみたい。
まず、共有物の賃貸借が、共有物の変更、管理、保存(民法251条,252条)のいずれに該当するかという問題がある。多少見解の相違もあるようであるが、短期賃貸借はともかく、長期間の賃貸借の場合は、共有物の変更として共有者全員の同意が必要と解されている。したがって、本事例のようにB地を賃貸用駐車場としてある程度長期間にわたり賃貸借する場合も、共有物の変更に当たり、共有者全員の同意が必要と解される。
本事例の場合、乙の同意が得られれば、B地を賃貸借契約の対象とすることには何ら問題がない。ただ、借主がB土地の共有者の一人である甲であっても問題がないかということである。
まず、前記②は、貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約ができないかという問題提起である。この場合、甲は貸主と借主の双方の立場にあるが、貸主は、甲だけではなく甲及び乙であり、しかもその対象は、甲の共有持分権ではなく甲及び乙の共有地という物であることから、単に甲が甲の土地を借りるということではなく、この意味において自己の所有地に自ら権利を設定する混同には必ずしも該当しないと理解することで差し支えないのではないかというものである。
しかし,この意見については,前記②のとおりの問題が指摘される。
ところで、借地借家法第15条(自己借地権)は,借地権設定者が他の者とともに借地権者となれる旨の規定であるが、この法改正(新設)の理由として以下のとおり説明されている。
「建物が区分所有建物である場合あるいは共有にかかる建物である場合には、建物所有者のなかに土地所有者である者とない者が混在するという状況がしばしば生ずる。この場合に建物を建てるための占有権原として借地権を設定しようとしても、現行法体系のもとでは認められない。土地所有者が自らを権利者とする借地権をその所有地に設定することが混同の原則により許されていない(民法179条1項,520条)ということがその基本にある。しかし、法律上、土地と建物とを別個の所有権の対象とし、建物を所有する権利として典型的に借地権を認めておきながら、しばしば生ずる土地所有者が建物所有者の一人であるという状況に対応した借地権を認めないのは不都合である。そこで、新法15条1項では、このような不便を解消するため、他人と共に借地権者となる場合に限り、自己を借地権者として借地権を設定することを認めることとした。」(寺田逸郎・新借地借家法の解説(4)NBL494号28ページ)
私がこの問題を取り上げたのは、借地権者が複数の場合には、自己借地権を創設するという借地借家法の改正により問題解決が図られたが、その逆、すなわち、(借地借家法の適用の有無にかかわらず)共有地を当該共有者の一部の者が使用する場合について、しばしば生ずる問題であるにもかかわらず、法規上明確な方策が示されてないように思われたことによるものである。
この点については、前記、借地借家法の解説(4)において、「借地権者となる者に借地権設定者でない者がいない場合、たとえばA・Bが所有する土地をAだけが使用するような場合には、15条の規定による借地権の設定が認められることはない。この場合には、共有者間の土地利用の合意という形で占有権原が存在するのである」と説明されている。(NBL494号29ページ)
これは、建物の共同所有を目的とする借地権設定については、建物共有事例の不都合を救済するため法15条のような規定を設ける必要があるものの、共有土地の利用にあっては、共有者間の土地利用の合意ということで対応することで足り、特別な規定は必要ないことを前提としたものと解される。
そうであるならば、②の考え方に対する前述の疑問は解消されたことになるが、「貸主を甲及び乙とし、借主を甲とする賃貸借契約」とするよりも、「甲及び乙の共有地を甲が利用する合意契約」とするのが、より的を得た契約であると思われる。
そうすると、このことを明らかにした③の考え方が相当であると思われるが、これには、次の3つの説があり、契約を締結する場合、かかる議論に留意する必要があるとされる(齋藤理・宮城栄司、共有・分有土地上に存在する建物に係る土地利用権について(上)、ARES不動産証券化ジャーナルVol.10,120ページ以下)。
ア:共有者間における共有物利用に関する合意と考える見解
イ:甲を一方当事者とし、甲及び乙を他方当事者とする土地利用の設定契約 と考える見解
ウ:乙の土地共有持分について甲に利用権を設定する合意と考える見解
これらの考え方は、前記②で説明したとおり、共有土地の利用は、「共有者間の土地利用の合意という形で占有権原が存在するのである。」との解説に沿った考え方であり、上記ア、イ、ウは、説明の仕方の相違に過ぎず、いずれの説が正しいということではなく、いずれの考え方によったとしても、具体的な契約方法に変わりはないものと思われる。
それでは、この考えによるとしても、甲が乙に対して、一定額の利用料を支払うということになれば、そのことを決めなければならず、そうなると、合意内容といっても賃貸借契約と同様の内容の契約となってしまうこととなろう。
(結論)
以上のことを踏まえて、本件の契約内容をいかにすべきか考えるに、「共有者間の土地利用の合意」というのは、「甲及び乙の共有地(B地)を甲が単独で利用することに甲と乙が合意し、その利用期間は〇年、利用対価は毎月金〇円、支払時期は月末まで等」を定めることになるものと思われる。
そうであるならば、契約書は「甲乙間における共有物利用の合意」とし、共有地(B地)を甲が単独で使用することに甲及び乙が合意した旨と利用対価等を記載し、公正証書とすることが最も相当な方法であろう。
しかしながら、結局のところ、上記の合意内容は、甲・乙共有地の乙持分に甲が賃借権を設定するのと実質的には同様の結果となるものであり、当事者の意に沿うものであると考えるがいかがであろうか。
(由良卓郎)

No.66 地方自治体と市中銀行が発起人となって株式会社を設立することの可否について(質問箱より)

【質 問】
今般、地方自治体と市中銀行が発起人となって株式会社を設立したいとの相談がありました。
当職といたしましては、昭和42・1・21法規委協議結果(新訂法規委員会協議結果要録(362ページ))を踏まえて、地方自治体については、当該地方自治体の長の会社の発起人となることが地方自治体の目的の範囲内である理由を付した証明書の添付があれば、発起人となることは、可能であると考えます。
一方、昭和42・1・21法規委協議結果(新訂法規委員会協議結果要録(365ページ))においては、市中銀行等が観光開発会社の発起人になることについては、消極とされています。
しかし、現在、産官学連携による地産地消の推進等、地域の活性化が図られているところ、市中銀行が発起人となることについても可能であると考えますが、いささか疑義がありますので照会させていただきます。
併せて、相談時における設立予定の会社の目的は、次のとおりです。当職といたしましては、この内容では、営利事業を行う法人と何ら変わりなく、私人の営業と競争的に営利事業を行うと解される(前掲、新訂法規委員会協議結果要録(363ページ))ので、許可できないと考えますが、一方で、この協議結果は50年以上も前のものであり、特に官民が一体となって地域の活性化を図ることが普及している現在の社会経済に適応していないのではないかとも考えられますので、併せてご教示願います。
(設立予定の会社の目的)
第 条 当会社は、次の事業を営むことを目的とする。
1 発電事業及びその管理・運営並びに電気の売電に関する事業
2 インターネット及び情報サービスに関する事業
3 各種イベントの企画及び運営に関する事業
4 各種研修、教育、セミナー等の企画及び運営に関する事業
5 企業向けの相談窓口に関する事業
6 人材派遣及び雇用支援に関する事業
7 コンサルティングに関する事業
8 不動産、動産管理及びリースに関する事業
9 広告及び宣伝に関する事業
10 食品等販売に関する事業
11 上記各号に附帯する一切の事業

【質問箱委員会回答】
1 法人の行為能力について
法人は、民法第34条に定められているとおり、「定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し義務を負う」ことから、その目的の範囲外の行為はできません。
したがって、新設株式会社の発起人としての権利義務を有することができるかどうかは、新設株式会社の目的が、発起人となる法人の目的の範囲内のものであるかどうかで判断されることとなります。
その判断基準について、判例は、営利法人の場合「定款に記載された目的自体に包含されない行為であっても目的遂行に必要な行為は、社団の目的の範囲に属するものと解すべきであり、その目的遂行に必要かどうかは、問題となっている行為が、会社の定款記載の目的に現実に必要かどうかの基準によるべきでなく、定款の記載自体から観察して、客観的・抽象的に必要となり得るかどうかの基準に従って決すべきものである。」(最判昭和27.2.15)と、非営利法人の場合「法人の行為が法人の目的の範囲内に属するかどうかは、その行為が法人としての活動上必要な行為であり得るかどうかを客観的・抽象的に観察して判断すべきである。」(最判昭和44.4.3)と示しています。
また、具体的な目的の範囲の判断においては、非営利法人より営利法人の方が、比較的広く認められているようにも思われます(他人の債務引き受けに関する大判昭和10.4.13と大判昭和16.3.25等)。
2 地方公共団体の目的について
前記1の観点から、地方公共団体の目的について検討してみますと、地方公共団体は、地方自治法第1条の2第1項の「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」という規定を基本とし、同法第2条で規定されている自治事務及び法定受託事務を行うものとされていますが、自治事務については定款等その目的を個別具体的に記載したものは存在しません。
このようなことから、地方自治体が特定の新設株式会社の発起人となり得るかどうかについては、それが当該地方自治体の目的の範囲内である理由を付した当該地方自治体の長の証明書によって個別に判断せざるを得ないものと考えられます。
なお、御意見のとおり、地方自治体の目的は、社会経済情勢の変化に応じて変化していくものと考えられますので、地方自治体の目的の範囲外であることが明らかでない限りは、定款の認証を拒むことはできないものと考えます。
おって、地方自治体が発起人となった株式会社が、単に営利を目的として民業を圧迫するようなことをするのは好ましくないと思われますが、定款認証の際に公証人がこの点をチェックしなければならないものではなく、実際に新設株式会社が営業を開始してから、地域住民によってチェックされるべきものと考えます。
3 銀行の目的について
銀行は、株式会社(営利法人)であり(銀行法第4条の2)、その目的は登記されていますので、当該銀行が新設株式会社の発起人となれるかどうかについては、現に登記されている当該銀行の目的の記載自体から観察して、客観的・抽象的に必要となり得るかどうかを判断することになります。
そして、この判断においては、銀行法第1条第1項の「この法律は、銀行の業務の公共性にかんがみ、信用を維持し、預金者等の保護を確保するとともに金融の円滑を図るため、銀行の業務の健全かつ適切な運営を期し、もって国民経済の健全な発展に資することを目的とする。」という規定や、銀行が子会社とすることのできる会社(銀行法第16条の2)及び銀行持株会社が子会社とすることのできる会社(銀行法第52条の23)に関する規定が手掛かりになるものと思われますが、銀行等が子会社とすることのできる子会社対象会社には、社会経済情勢の変化に応じて、いわゆるベンチャー企業等が追加されています。
具体的に当該銀行の目的を確認する必要はありますが、このようなことを前提に、質問箱検討委員の間でも見解が分かれたところです。
一つは、一定の融資先の支援等は銀行の目的に含まれるものの、自ら起業するという前提でご質問の新設会社の目的を見る限り、金融取引で構成された銀行の目的の範囲を超え、また、その目的に関連しているとも言えないのではないかという見解です。
他方は、現在の社会経済情勢を踏まえると、市中銀行が出資して発起人となり、様々な事業を活性化させることも広い意味で銀行の目的と考えて、ご質問の新設会社の目的5、7等がこれに該当するものと考えて差し支えないのではないかという見解です。
質問箱検討委員の間でも見解の分かれているところですので、当該銀行の目的を確認し、不明確なところがあれば嘱託人から説明を求めるなどして、各公証人において判断していただくこととなります。
なお、銀行の出資比率が50%を超えたり、出資比率は少なくても役員を送り込むなど財務及び事業の方針の決定を支配している場合(会社法施行規則第3条第1項)に該当しますと、会社法第2条第3号にいう「子会社」となり、銀行法第16条の2に限定列挙された子会社対象会社であるかどうかも確認しなければなりませんので、銀行の目的の範囲内と判断する場合には、念のためこの点にもご注意願います。