民事法情報研究会だよりNo.20(平成28年8月)

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残暑の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。 さて、本年2月から5月にかけて、当法人の設立にあたって、設立時社員として深く関与された清水勲先生と藤谷定勝先生が相次いで逝去されました。両先生とも、永年、法務局の発展と職員の待遇改善に尽力され、多大の成果を上げられましたが、最近は病を得て闘病生活を送られておりました。両先生のこれまでのご業績を偲び、心からご冥福をお祈りする次第です。(NN)

熊本地震 ―2度の震度「7」― (理事 冨永  環) 

はじめに 人は、一生のうちにM(マグニチュード)クラスの大地震を何度経験するのであろうか。100年、200年あるいは400年に一度起こるか起こらないかの大地震と言われるが、近年、20年余りの間に①阪神淡路大震災(1995.1.17)、②新潟県中越地震(2004.10.23)、③東日本大震災(2011.3.11)、そして④2016(平成28)年4月14日及び16日から現在も続いている熊本地震でもって、私共は、すでに4度も経験したことになる。 <熊本地震の特徴> この度の熊本地震は、人々に九州地方における大地震の記憶がない熊本・大分その近隣地域で起こった。4月14日午後9時26分と16日午前1時25分の2度のM7クラスの地震は、熊本県及び大分など隣県の人々を恐怖に引きずり込んだ。 地震の特徴の一つ目は、本震と余震が違っていた。4月14日(木)のM6.5(前震)と16日(土)の7.3(本震)(16日の地震で震度計が壊れ、気象庁のその後の調査でM7.3と判明したようだ。)の数字が表わすとおり、本震が後で起こったことである。一般的な知識として、本震が後にやってくると考えておらず、地震発生後は徐々に収束すると判断し、一旦避難先から自宅に戻った人が次の本震により倒壊した建物の下敷きになったことで人的被害が拡大した、と新聞各紙は報じた。 特徴の二つ目は、最大震度M7クラス2回を経験したこと、さらに余震の回数が多く、その震度が大きいことである。余震(震度1以上)の回数が一か月間で1240回発生しており(①阪神淡路で285回、②中越で877回)、その発生が異常に多いことである。なお、大分では、観測史上最大の震度(震度6弱)であったが、14日から20日の間に震度1以上が715回に及んだ。 なお、熊本では、2か月後の6月12日に八代市で震度5弱など、今も続く余震に不安が募る。また、最大の被災地・益城町では倒壊家屋が今でも手つかずの状況である。 その特徴の3つ目は、くり返す震源の移動である。熊本から隣県の大分へ、再び熊本へ。熊本においても日奈久断層帯から布田川断層帯と、再び大分別府・万年山(はねやま)断層帯(その延長線の四国・本州の中央構造線断層帯へとつながる。)と相互に刺激し合うような、相定外の拡大が連鎖的に起きていることである。 <熊本、大分県の被害状況> 地震発生後の集計では、熊本県が死者49人、関連死19人、不明1人、建物家屋損壊住宅被害14万1970棟、断水39万6600戸、避難生活を余儀なくされた人は18万3882人に及んだ(熊本日日新聞)。熊本では、関連死が19人に及び、車中泊やテント、避難所での生活不安が引き起こすエコノミー症候群での死者が多く、想像を超える余震の影響と言われている(同新聞)。一方、大分県では、1670人が避難し、けが26人、家屋損壊1215棟、断水は、別府、由布、九重など8市町村となっている(大分合同新聞)。 なお、地震発生後2か月後でも、避難所生活者は6400人を超え(熊本日日新聞)、仮設住宅の入居は6月14日(88戸)から始まったばかりである。この時期、九州は梅雨入りしており、高温多湿の日々であり、避難所、テントあるいは車生活をする人の健康が案じられている。一日も早い災害復旧と、日常生活への復帰が急がれる。 なお、被災者等県民に元気と希望が持てる取組みもある。熊本市の“熊本城”は、震災で無残にも壊れ、今なお痕跡が痛々しいが、ようやくライトアップが再開され、人々の希望の灯りになっている。 <大分・自宅での地震の様子> 私が、14日(木)及び16日(土)に震度6弱を体験した状況等は、次のとおりであった。 14日、帰宅後、早目の就寝のため午後9時前に床に就いており、そろそろ“夢の中”に入りかけたころ、携帯“緊急避難メール”がけたたましく鳴り、飛び起きた。以後繰り返す余震の都度、頻繁に鳴る緊急避難メールが家中に異常に響き渡った。家では置物の落下など多少の被害はあったものの、外に避難することもなかったが、結局、出勤までの間は眠れなかった。 15日(金)は、通常より早く出勤し、事務所内の書庫やPC等諸機器の点検を終え、動作が確認できたので、書記ともども安堵した。一部、書籍、簿冊の落下があったものの最少に止まった。 その日は、帰宅後夕食を早めに済ませて、翌16日(土)の県公証人会の定時総会に備え、午後10時には就寝した。ところが、再び、深夜の突然の“緊急避難メール”と同時に大きな音と横揺れで立っておれず、壁に手を当てて、座ったまま揺れの収まるのを待つ状態がどの位続いたか分らないが、一昨日とは全く違う激しさに恐怖を感じ、間断なく続く余震に備えるのみで、避難所へ行けなかった。13階に居住し、初めての大地震を体験した。 その後、間断となく続く余震は、私がこれまで経験したことのない地震であり、この状況では交通機関の不通、道路の寸断が予想され、来賓の出席が危ぶまれたので、直ちに、会員全員で協議の上、午前4時、会議の中止を決定したのは正しかった。 なお、当日は、早くから事務所の整頓に追われた。 結びに この度の熊本地震は、約400年前、1611(慶長16)年の三陸地震があり、その8年後の1619(元和5)年には熊本、八代週辺地震が起こり、麦島城が倒壊し、城下町が全滅して死者も出て、更にその後の1625(寛永2)年に現在の熊本市周辺で断層地震が発生したと記録されていて、これに酷似していると解説する(立命館大学、歴史学、山﨑有恒教授)。また、保立道久(東京大学名誉教授、歴史学)氏は、更にこれよりも1147年前の貞観地震(896年)が起き、その前後に国内外で地震・噴火が相次ぎ、貞観地震の1か月後に肥後国(現在の熊本)で大地震が起きたとする歴史書を発見したとしている。前者の山﨑教授は、文科省の「京都の文化財を災害から守るプロジェクト」に加わっている人であるが、同氏は、当時の記録が少ないので、400年後の検証は不可能としながらも、江戸時代の地震史が参考になると指摘している。そして、地震予知は、極めて難しいとされているが、「正しく怖がることが必要」とも述べている。 日本に住む我々一人一人にとって決して人ごとでないのは、確かである。 要は、これまでに経験したことから学び、現代に生きる以上、防災意識を持ち、これを意識しつつ、日頃からその対策を蓄えておくことが不可欠である。 天災は、忘れた頃にやってくる(寺田寅彦・東京都出身、随筆家)を肝に命じて。

今 日 こ の 頃

このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。 

野鳥観察に狂う(海老原良宗)

私は、野鳥の観察に狂っている。対象は日本国内にいる鳥に絞っている。ただ、日本を通過する鳥のように滞在が一時的である場合も、また、日本列島に沿って北上し、あるいは南下する海鳥は、厳密には日本領海内に入らないときもあるかもしてないが、国内航路の船から観察できる場合は、対象の鳥に含められる。日本には、国内に自然に分布する鳥と外国から持ち込まれ繁殖するに至った外来種とを併せ、約670種の野鳥が記録されているが、その内、今までに私は、約500種の鳥を日本国内で自らの目で確認することができた。 それらの鳥には、大きく分けると、一年中日本にいるスズメのような鳥(留鳥)、冬は南の国等で過ごし夏になると日本に渡ってきて繁殖するツバメのような鳥(夏鳥)、ほとんどのカモの仲間のように夏はシベリヤなど北の地で繁殖し寒さが厳しくなると日本に渡ってきて越冬する鳥(冬鳥)、さらには、シギやチドリの仲間のように、夏シベリヤで繁殖し、冬場オーストラリア大陸を含む南の地で過ごすため、春と秋に日本を通過する鳥(旅鳥)などがある。 私が属している「日本野鳥の会・東京」では、毎月第1日曜日は、船橋海浜公園など3箇所、第2日曜日は、多磨霊園など2箇所、第3日曜日は谷津干潟など2箇所、第4日曜日は、葛西臨海公園など2箇所で、それぞれ定例野鳥観察会が行われ、他にも随時鳥の動きに合わせて観察会が開催されている。私は、それらの観察会を適宜選んで参加するとともに、自分でも、湖沼、河川、湿地、休耕田、蓮田などで水辺の鳥を、大型の公園や霊園、近隣の丘陵や高原などで山林や草地にいる鳥を、それぞれ歩き回って鳥を探しているのである。さらに、年に数度、探鳥ツアーに参加し、北は北海道の岬から南は石垣島・与那国島まで出かけ、より珍しい鳥を探し歩いている。今年は、小笠原海運が企画してくれた小笠原列島の父島・母島並びに北硫黄島・硫黄島・南硫黄島3島周遊の探鳥クルーズにも参加することができた。 その結果、まだこの文章を書いているのが6月半ばだというのに、今年になって鳥見に出歩いていた日数が100日に近づいているという狂いかたなのである。特に、冬の大洗・苫小牧航路のフェリー甲板で完全防寒の出で立ちとはいえ寒風にさらされながら一日中ミズナギドリ類その他の海鳥を探している我が身を、第三者の目で見てみたならば、奇人・変人以外の何者でもない。その私に、野口代表理事から、野鳥観察に関して何らかの文章をまとめよとの命が下りてしまった。目的は会員諸兄の頭の休憩のため以外になく、野鳥のことはあまり知らないという方を想定して、駄文をまとめたところである。 ・・・・・ ① ウグイスは、ウグイス色をしていない。 野鳥観察ではメッカの地ともいう戸隠高原の森林植物園で、私が探鳥しているときである。私より少し前方の遊歩道で、中年女性10名ほどを引率して高原の草花の説明をしていた初老の男性が、急に「ウグイスです。ウグイスが出てきましたよ」と声を張り上げた。女性達も「わー、かわいい」などと喜んでいる。見ると頭からの上面が黄緑色をして、目の周りが白い綺麗な鳥、即ちメジロが2羽、近くの枝先に出てきていた。本物のウグイスの色は、頭から背中など上面が地味な灰色味のある緑褐色、腹など下面が汚白色で、とても綺麗とはいえない。繁殖の時期に、ウグイスの雄は、「ホーホケキョ」と囀り、ときには枝先にも出てくるが、繁殖の時期以外は「ジャッ、ジャッ」と舌打に似た声で鳴きながら公園や庭の藪・笹の中を群れることなく単独で移動し、容易に人前には出てこないのである。これに対して、メジロは、色が、上面が黄緑色でウグイス色に近い色、のどが黄色、腹など下面が白色と綺麗で、庭の梅などの木にも頻繁に群で出てくる。そのため、この事例のようにウグイスと間違われることが非常に多いようである。 ② 若いツバメをつくる話。 ツバメは、日本の暖地で少数が越冬するが、原則的には冬南方の国で過ごし、日本には繁殖のため夏鳥として渡来する。つがいで、巣を造り、比較的低空を飛びまわりながら虫を捕らえ、数羽の雛を必死に育てる姿を見ていると誠にほほえましい。ところが、数年前、これらツバメのつがいの雄とそのつがいの下で育っている雛とのDNA鑑定の調査が行われ、その研究結果が公表された。つがいの育てている数羽の雛の内1羽がつがいの雄の子ではなく、別の雄の子であることが結構多い頻度で存在することが判明したのである。自然界ではより強い、より美しい子孫を残したいという自然な欲求がある。雌の心を迷わすような若くてたくましいイケメンの雄のツバメが結構いるようなのである。 ③ 鳥は雄が綺麗に身を飾る。ただし、例外が2種。 一般的に、野鳥の世界では、雄が美しく羽で身をかざる。例えば、初夏の渓谷に行くと谷にせり出した高い木の頂で、遠くまで良く通る声でさえずるオオルリという小鳥がいる。このように繁殖期にさえずるのは雄で、頭からの上面は紺瑠璃色で、腹部は真っ白の美しい小鳥である。これに対しオオルリの雌はほぼ全身が地味な淡褐色である。また、冬鳥として渡ってくる鴨類も同じ種類の雄と雌とを比べると、雌はほとんどが褐色の羽で覆われ地味な存在であるが、雄の方はより華やかに彩られている。なにせ、鳥の世界では、つがいを形成するときに相手を選ぶことができるのは専ら雌と言ってよく、雌に選んでもらうために美しく、たくましく、長い尾羽はより長くする必要があるのである。コアジサシという日本の海岸や河口付近で子育てする海鳥がいるが、この雄は雌につがいを形成してもらうため小魚を取る能力をも示さねばならず、認められるまで何度も魚をめがけて海に飛び込んでは、捕らえた小魚を雌のところへ運び食べさせるという涙ぐましい努力を払わねばならない。このようにして雌に選ばれた雄のみ自分の子孫を残すことができるのである。鳥の中には葦原で「ギョギョシ、ギョギョシ」と鳴くオオヨシキリのように、たくましくイケメンの雄1羽が自分の縄張り内で数羽の雌とそれぞれ営巣するという鳥もある。必然的に、あぶれた雄は何時までも相手を求めてさえずり続けることとなる。 ところが、日本には、上記雄と雌との関係が反対となる鳥が2種類いる。その一つは、水田・湿地に住むタマシギという鳥である。この鳥は、体長は25cm前後で眼の周囲に目立つ勾玉状の白班がある。雌の羽の色が雄に比べて鮮やかで美しく、繁殖期に連続した鳴声を立てて相手を求めるのも雌の方である。雄と結ばれて巣に3個ほどの卵を産むと、その抱卵・育雛はその雄に任せる。そして雌は他の雌に対する自分の縄張り防衛を担当しながら又自分の縄張り内で別の雄とのつがい形成を目指して動き出す。すなわち、一妻多夫の世界を作り出すのである。そして、タマシギの世界では、あぶれた雌がいつまでも雄を求めて鳴き続けることとなる。同じように、雄が抱卵・育雛をするもう1つの鳥が、南西諸島のサトウキビ畑などに住むミフウズラという14cmほどの小鳥である。 ④ 鳥は、鳥目ではない。 「鳥目」という言葉がある。鳥のように、夜になると目が良く見えなくなるという意味である。この言葉があるためか、野鳥は夜目が見えないと思っている方が多い。しかし、真実は、鳥も人間と同じく夜でもよく目が見えている。勿論、フクロウのように人間より良く見えている夜行性の鳥もある。その他の鳥で見ると、まず、シギやチドリは、満潮のときは堤防などの上で休んでいて、潮が引くと餌をとるため干潟に下りるという潮の干満に従った生活をする。そのため、夜中に潮が引くと、真っ暗な干潟で餌取りをしている。ガン類は、日中田畑で餌をとり、夕方湖沼に戻り、夜をすごすが、それと逆にカモ類の多くは、ガンと入れ替わりに、夕方湖沼から付近の田んぼ等に出かけ夜餌を取るのである。普段は昼間に活動しているヒタキ類、ツグミ類など多くの小鳥達も、渡りの季節となると夜に渡っていくことが確認されている。夜は気流が安定することが多いこと、長距離の渡りは重労働であるが体温の上昇を防げること、星と地磁気を頼りに渡りの方向を定める鳥に好都合なことなどから、夜の渡りが進化したようである。渡りの季節には、酒田市沖の飛島、村上市沖の粟島、トカラ列島の平島などに探鳥に行くが、朝、目を覚ますと昨日見られなかった小鳥の群が夜の間に海を越えて渡って来ていて、疲れを癒し、餌を貪り食っている姿に接することが結構ある。 また、普段日中に活動する鳥も、繁殖期には、夜遅くまで、雄は相手を求めて囀り、雌は雄の縄張りを巡って、お気に入りの相手がいないかと品定めをしていることが報告されている。こんなときは、鳥達も夜更かしになるようである。 ⑤ シギ・チドリの親は、幼鳥を繁殖地に置き去りにして南に旅立つ。 毎年8月に入ると、湿地や干潟では、早くも、シベリヤで子育てをしたシギやチドリが南の国へ渡る途中に立ち寄り、休養し体力をつけると、また、旅立ってゆく姿に会う。ところが、この時期の南へ渡るシギ・チドリ類はみな成鳥で、その年生まれた幼鳥が含まれていない。そして、しばらくして秋の気配が感じられる頃には、幼鳥だけのシギ・チドリの群が、日本の湿地・干潟を通過して行くのである。どうも、シギ・チドリ達は、雛が自分で餌を取れるようになると親鳥達だけで南への渡りを開始し、あとに残された幼鳥は、渡りができるまで自ら餌をとって成長し、その後幼鳥だけで南への渡りを開始するらしいのである。成鳥は、その年の春、南の国から日本を通過してシベリヤへ渡って行ったのだから、秋に南の国へ帰るのに何の問題もないと思われる。しかし、その年、卵からかえって成長しつつある幼鳥は、どこへどのようにして渡ってゆくのかの情報をどのようにして知り得るのだろう。自分達が旅立つ時には、親鳥は既に南下済みなのである。どうもDNAに刷り込まれていると考えるほかないようである。 私が「なぜ、こんなことになったのでしょうね?」と、ある野鳥に関して博学の方に尋ねたところ、「成鳥と幼鳥が同じ餌を奪い合ったら幼鳥に餌が回らなくなるから、親は自分の仕事が終わったらすぐ南下するのでは」とのことであったが、皆さんはいかが思われますか? ⑥ 抱卵・育雛を全て他の鳥任せにする鳥がいる。 皆さんも良く知っているカッコウ、ツツドリ、ホトトギスなどは、托卵といって、オオヨシキリ、ホオジロ、コルリなど(仮親)の巣に自分の卵を産み落とし、その抱卵・育雛もその仮親に任せてしまうのである。自分では抱卵も雛を育てることもしない。例えばカッコウのつがいは、営巣を始めている仮親を物色し、雄がおとりとなって仮親を巣からおびき出すなどし、そのすきに雌が仮親の卵の中に自分の卵を1個産み落とし、以後の抱卵を仮親任せにする。カッコウの雛は仮親らの卵より短期間の10日から12日程度で孵化するため、仮親の卵が孵化する前に、カッコウの雛が孵化することが多い。孵化したカッコウの雛には、孵化後一定時間内に自分の背中に接触した物を自分の背中で全て巣の外に押し出してしまうというDNA情報が組み込まれているため、まだ孵化していない仮親の卵は全て巣の外に落とされ、巣にはカッコウの雛だけが残り、仮親から餌を自分だけで受け、最後には仮親の何倍もの大きなカッコウの雛が、仮親であるオオヨシキリなどから餌をもらうという姿が見られることとなる。こんなに図体の大きな雛ならば、自分の子ではないと容易に分かりそうなものではないかと思うのだが、雛の口を開けたその内側の真っ赤な色を見ると、仮親は必死に餌を運ばざるを得なくなるのだろうとのことなのである。 ・・・・・ 鳥を観察して30年に未だ若干足りないが、長期間を経ても、まだまだ不思議なことが多い。「亭主元気で留守が良い」を言い訳にして、いつも、女房が未だ寝ている早朝にそっと家を抜け出し、マイフィールドへ向かうのである。

「世界で一番貧しい大統領」の来日と我が貧乏学生時代の思い出(渡邊玉五知)

1、「ホセ・ムヒカ」前ウルグアイ大統領が来日 去る4月5日、2010年から昨年2月までウルグアイ大統領を務めたホセ・ムヒカ氏(80歳)が来日しました。  2012年、国連の「持続可能な開発会議」で行った、底を知らない大量消費主義と急速な開発の問題点を指摘、「発展は人類を幸せにするものでなければならない。」「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」とのスピーチは有名です。 貧困家庭に生まれ、花売りなどで家計を助けながら大学を卒業。軍事政権下でゲリラ活動に参加して13年間収監され、その間、母の差し入れる書籍で広範な知識を習得しました。 大統領就任演説で印象的なのは「一番大切なのは教育・教育・そしてまた教育である。」と「教育」を連呼していることです。 大統領になっても国民と同じ暮らしをするため公邸に移らず、トタン葺きの農場に住み、報酬の9割は福祉施設に寄付、愛車は友人からもらった1987年製のフォルクスワーゲン、飛行機はエコノミークラス、時には隣国機に便乗。ノーベル平和賞候補に2度ノミネートされています。(「ホセ・ムヒカ 世界で一番貧しい大統領」訳・大橋美帆 角川文庫) 滞在中、テレビ対談や大学での講演、出版社のサイン会等多くのイベントに出演しましたがすべて無報酬とのこと。残念ながらこうしたニュースは、熊本大震災でかき消されてしまいましたが、来日を機にムヒカ関連本が数社から出版され、書籍ベストセラーランキングの1位~5位を独占し、書店では、こども用絵本版も平積みされていました。 ※ ウルグアイ東方共和国:人口340万人 面積180平方キロ(日本の47%) スペイン語 本年9月・日本人移住110周年記念式典予定 第1回・第4回サッカーワールドカップ優勝 2、夜学生時代の思い出5選 ムヒカの名言集等を読んでいるうち、なぜか、貧乏学生時代のことを思い出しました。私が4年間通ったK大学二部の「天六学舎」は、大阪天神橋商店街の北端にありました。去る4月、造幣局の桜見物の後、天神橋1丁目から7丁目まで、日本一長い商店街2.6キロを家内と共にぶらりと散策、いろんなことが頭を過ぎりました。 (1)忘れられない古書店のおじさんの親切 天六交差点から天六キャンパス跡まで数百メートルの間、今は高層マンション群ですが、当時は古本屋が軒を連ね、貧乏学生にとっては新刊では買えない専門書の貴重な供給源でした。 私はかねてから宮澤俊義の「注釈・日本国憲法」全4巻が欲しかったのですが、買いそびれていました。運よく馴染みの古書店でそれを発見したのですが、その日は持ち合わせが足りません。「あさっての給料日まで待って欲しい」と頼んだところ、店主は黙って棚から降ろし「しばらく預かっておく」と言ってくれました。 2日後に行くと、ちゃんと帳場に置いてあり、値引きまでしてくれました。念願をかなえてくれた無口な店主の親切は、古本屋の前を通る度に思い出します。 (2)中学中退から裁判官になった親友M君 古本情報をよく提供してくれたのは、検察事務官のM君です。彼は中学校を2年で中退して旋盤工となり、中学卒業検定を経て定時制高校を卒業、検察事務官になったのです。 私は3回生の時、大阪地検に隣接する大阪法務局供託課に転任したため、M君とは市電堺筋線で一緒に登校することになり、より親しくなりました。 彼は29歳で大学を卒業し、34歳で司法試験に合格して弁護士になりました。平成6年、法曹3者交流人事で大阪家裁の判事に就任、私は同年に大阪局の民事行政部長に転任したため、戸籍事務の関係で、久々に家裁の判事室で顔を合わせることになりました。 実直で、心優しい信念の人でした。惜しくも平成15年12月、他界しました。 長い間ありがとう。ゆっくり のんびり休んで下さい。 合掌 (3)教育実習で出会った定時制高校生 教員免許取得には、教育関連科目の受講と教育実習が必要です。私は、中学1級と高校2級の社会科免許のため、実習科目は世界史、授業は定時制高校で行うことになりました。 教壇に立って感じたのは、教室が暗いこと、そして学生服にまじり、鉄工所、食堂、パン工場等、社名入りの作業服が目立ち、遅れて入ってくる生徒も多いことです。 実習の最終日、お詫びとお礼を述べた後質問時間を設けたところ、歴史のことではなく、夜間大学の授業時間や授業料、公務員試験等に関する質問が続きました。 うす暗い照明の下、鉄工所の作業服で質問した生徒の、緊張した様子はM君と重なり、今でもはっきり覚えています。彼らのすべてが、大学進学等それぞれの夢を実現し、古稀を過ぎた今、穏やかな日々を送っていることを願っています。 (4)「出世払い」となったレモンスカッシュ 2回生の前期試験が終わった夜、学食でK君と精いっぱい豪華?な夕食を終え、校庭へ出たところで自治委員仲間のY君と出会いました。 試験中の部活等は休止状態のため、一緒に帰ることにしました。駅の近くで喫茶店に入り、その日が給料日のY君に「ここは君のおごりだ。」といったところ彼は、「今日は試験のため会社を休み、定期は持ったが財布を忘れ、夕食も食べていない」というのです。 ところが私とK君の所持金を合わせても、コーヒー3人分には少し足りないのです。そこで、レモンスカッシュ2杯とストロー3本を注文しました。しかしレモンスカッシュは3杯運ばれてきました。「2杯でいいんです。」と言うと、女店員は「1杯はマスターのおごりです。」と笑いながら置いていきました。 それから9時過ぎまで話し込んだ後、レジで「不足分はYが明日持ってきます。」と言うと、カウンターの奥から「社長になってからでいいぞ。」とマスターの声が聞こえてきました。 その喫茶店は、今も同じ場所にありました。 (5)貧しくても活気に満ちていた天六時代 当時は60年安保の最中で、全学連は路線対立から分裂過程にありました。私は1959年(昭和34年)、第14回全国大会(委員長・唐牛健太郎)を、全日本学生新聞連盟(全学新)の記者として取材しました。代議員400名、評議員300名による4日間の大会です。主流派は全学新を批判集団とみなし、撮影禁止、フィルム没収という分科会場もありました。K大でも政権交代が繰り返され、演説、ビラ、立て看板等で騒然としていました。 安保で社会全体が異様な雰囲気に包まれていました。経企庁は「もはや戦後ではない。」と宣言。人々の暮らしは未だ質素でしたが、右肩上がりで、活気に満ちていたように思います。 みんな貧しかったので、夕食は学食の素うどんと前田のランチクラッカーという日が続いても辛いとは思わず、給料日に学友と喫茶店で談笑する、それで十分幸せでした。 大学から二部は消え、「苦学生」「勤労学生」は死語となりましたが、当時の若者たちは、貧しくても将来への希望を胸に、夜の高校や大学でそれぞれ頑張っていました。そして、それが叶えられる時代でもありました。街の人たちが、夜学生に親切だったことも忘れられません。 天六商店街に、フランク永井のSP盤「13,800円」が流れていた頃の話しです。 ムヒカ前大統領は、TV対談で「日本人に問いたい。日本国民は幸せなのかと」

健康管理について(星野英敏)

あらゆる機会に、公証人、特に一人役場の公証人は、健康管理に留意するよう言われています。 お陰様で、私の場合、これまでの約8年間、業務を休まなければならないような健康上の問題はなく、何とかこのまま体が持ってくれればと願っているところです。 健康管理といっても、傍から見ていると不摂生と思われるような生活を続けている人でも健康を保っていたり、日頃から健康には気をつけていた人が健康を害したりすることもあり、持って生まれた体質や運というようなものもあるのではないかと思われます。 私の場合は、これまでのところは親に感謝し、運の良さに感謝し、何よりも私の健康管理に気を配ってくれている妻(毎日愛妻弁当です。)に感謝しなければならないものと思いますが、それなりに留意していることもあります。 それは、公証人となった際に、少し早めに歩いて片道約20分の所に住むこととし、通勤は徒歩にしていることです。 逆に言えば、これ以外は運動らしい運動をしていないということにもなりますが、最近ではこれに加えて、毎朝のラジオ体操(実際は、毎朝6時30分頃からテレビの体操のお姉さんのお手本を見ながらです。)をしています。 多少のことであっても、やらないよりはましと思って続けています。 皆様の御参考になるかどうかはともかく、健康上の問題で最近ちょっと大変だったことについて2点ほど御紹介しますと、まず一つ目は、40年ぶりの尿路結石のことです。 学生時代に一度やったことがあり、その時は激痛の原因が何なのかわからずに下宿で一人でうなっていたところ、心配した下宿の人たちが救急車を呼んでくれて総合病院に運び込まれ、検査の結果尿路結石とわかり、無事に自然排出したということがありました。 それからちょうど40年後の9月下旬の木曜日の朝に、公証役場に出勤してきてビルの前まで来たところ、覚えのある激痛に襲われ、這うようにして公証役場に入って脂汗を流しながら痛みに耐えていましたが、子供を保育園に送ってから出勤してきた妻が到着したころには石の動きが落ち着いて、痛みも峠を越してきました。 腎臓でできた、金平糖のようないがいが付きの石が細い尿管を傷つけながら出てくるので、石が動いているときは激しい痛みがありますが、途中でいったん止まって落ち着いてしまえば、次に動き出すまでは何でもないような状態になります。 その日は朝10時までに遺言公正証書の出張作成に行く予定でしたので、念のため妻の運転で出張先に向かい、出張先に着く頃には大分落ち着いて、いつもどおり証書作成の手続を終え、午後も予定どおり執務しました。 翌日は金曜日だったので、午後から病院に行くこととして、午後に予約をいただいていた方には事情を説明して変更してもらった上で病院に行き、検査してもらった結果、尿路結石であることが確認され、既に1個は膀胱にあり、もう1個が尿管の途中、もう1個は腎臓内にありました。 とりあえず、痛み止めだけもらって、土日の間、痛みに耐えながらひたすら水分(もちろん利尿剤としてのビールも)を取って、安静にしていては石が止まってしまうのでとにかく動き回り、途中にあった石は出してしまいました。 今でもまだ腎臓内に1個持っていますが、これは深いポケットのような所に入りこんでいて、一生出てこないだろうということでした。 それでも、また40年後にあの激痛が来るのではないかと心配している毎日です。 医者の話によれば、夏の間汗をかいて体の水分が奪われ、体内の水分不足の状態が続いていると石ができやすいということでしたので、皆さんも、暑い間はせいぜい積極的に水分を取るように心がけてください。 ついでながら、夜中に起こるこむら返りも、水分不足が原因の一つ(そのほかに、疲れや冷えも)ということで、寝る前にコップ一杯余分に水を飲むように習慣付けてから、起こらなくなりました。 こむら返りが気になる方は試してみてください(ただし、夜中にトイレに起きなければならないことも覚悟してください。)。 二つ目は、毛虫に刺されたことです。 庭に出た時、左脇腹にちくちくするような感じがあったのですが、そのときはあまり気に留めずにいたところ、上半身に発疹が出てきました。 かゆみは何とか我慢できる範囲のものでしたが、腕も顔も発疹であまりにも見苦しい状態(顔は元々?)になってしまったので医者に行ったところ、かなり強いステロイド剤を服用してみることになり、現在どのような薬を飲んでいるのかを聞かれました。 実際、百薬の長以外、薬の類は飲んでいなかったので、正直に言ったところ、同年代の医者からうらやましがられましたが、処方された薬の効き目はすごく、その日のうちにかゆみも無くなり、発疹もおさまってきました。 ところが、その翌日の朝、出勤途上でしゃっくりが出始め、公証役場に着いてから、コップの水を向こう側から飲んでみたり、書記さんに驚かせてもらったりと、色々やってみましたが、何をやっても効果はなく、尋常なものではありませんでした。 その日の午前中は、たまたま離婚に関する公正証書の作成があり、読み聞かせの最中にもしゃっくりが止まりません。 「甲及び乙は、両名間に -ケクッ- 出生した未成年の長男 -ケクッ- ・・・すいません、今、薬の影響だと思うのですが -ケクッ- しゃっくりが止まらなくなってしまって -ケクッ- 」などと、言い訳しながら何とか作成しましたが、薬の副作用ではないかと疑って、昼の空き時間に医者に行ったところ、医者が薬に関する資料を出してきて調べた結果、その副作用に間違いないということで、薬の服用を中止しました。 結局、この日しゃっくりは約8時間続き、へとへとの状態になりました。 ところが、事はこれだけに止まらず、その翌日、普段使っていなかった横隔膜や胸周辺の筋肉の筋肉痛に悩まされることになりました。 子供の頃、しゃっくりが100回続くと死ぬなどと言われたことがありましたが、あれは嘘で、正しくは、しゃっくりが8,000回くらい続くと死ぬほどの筋肉痛になるということでした。 とにかく、薬の副作用というのは怖いものですから、十分な注意が必要で、あやしいと思うような症状が出たらすぐに服用を中止して、専門医の所へ行くことです。

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緑の箱庭 パートⅡ(美ましき国信濃・その一断面)(清水 勲) 《長野地方法務局長随想・法務通信平成元年8月号通巻457号掲載》 「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る・・・・」 なんとも響きの良い言葉である。この童謡を口ずさんでいると、誰しもの心が子供の頃の郷愁に駆り立てられる思いがするのではないであろうか。 長野善光寺から徒歩で約20分、局長官舎からだと約15分のところに、この夕焼け小焼けの童謡のモデルとなった「かるかや堂・往生寺」が建立されている。この一帯を「往生地」と称し、特においしいりんごの産地としても名高い。このりんご畑を左右に見ながら、かなり厳しい勾配の坂を登りつめると、あまり大きくない山寺に行き当たる。ここが往生寺である。鎌倉時代の仁平(1151~1154年)の頃、九州博多の大名で加藤佐衛門尉重氏(刈萱上人)という人がいたが、この人が世の無情を感じ、家を捨てて高野山に入り修行中のところへ、その子石堂丸が頼って来て弟子入りを迫ったので止むなく許したものの、親子の情愛に引かれて修行がおろそかになることを恐れて、ここ信濃の善光寺に来て修行を重ね、83歳でその生涯を閉じたと言われている。この往生寺は、刈萱上人の最後の修行地としての遺跡であるとされている。 この往生寺の建つ高台に立つと善光寺平(長野盆地)の大半が一望の下に見下ろすことができる。早朝に遠望するこの街は、実に静かである。街なかの道路は家並にかくれ、行き交う車の影もみえない。遠くに、道が白く、川が青く延びている。 かつて、私は「緑の箱庭」と題する小文を書いたことがある。小学校の6年生の頃であったろうか。私の生まれ故郷、北海道のほぼ中央部に位置する「和寒(わっさむ)町」の中心部から1.5キロメートル程離れた盆地の田園風景を作文にしたものであった。和寒町は、旭川市から20数キロメートル、宗谷本線を北上した所に所在する静かな田園の町であった。今から40数年も前のことであり田園の中を走る車両とて見当たらない、のどかな時代でもあった。碁盤の目のように整備された道路の中に広がる田園、散在する家、遠くの荷馬車は、見た目には静止しているとしか映らないほどの緩やかさで移動している。 物音一つしないこの田園風景を、山の中腹で眺めていると、まるで手造りの緑の箱庭を眺めているような気がして来る。突然、その静寂を引き裂くように、百舌がギャーという叫びにも似た声で鳴くと、これに応えるかのように山鳩がデデッポーと応じる。更に、他の小鳥達が後を追うように囀る。そして、またしじまが戻る。これらの様は、手造りの箱庭の上空に、鳥達の自由な鳴き声が、縦糸と横糸を交互に織り、模様までつけていくカスリの織物を織っている様にも似て、何とも形容のできない長閑な風景である。・・・という趣旨のことを書いたように思う。 ここ、往生地の高台から眺める箱庭は、40数年という時の経過を反映するかのように、見事に開発され、近代都市に変ぼうしてこの善光寺平(長野盆地)に居を移し、静かに横たわっている。 視界の右手下には、戸隠連山と小谷山地の間を流れ、鬼無里(きなさ)村瀬戸山峡や長野市小鍋峡のように両岸急峻な懸崖をなす景勝地を形成し、この地にたどりついた裾花(すそばな)川が南流下し、長野市内の丹波島附近で犀(さい)川に合流している。犀川は、北アルプスに水源を発し、東流する梓(あずさ)川と、松本平を北流する奈良井川が合流したところから、千曲川に注ぐまでの間であるが、その間に、更に安曇郡を南流して来る高瀬川を合流している。この犀川が、長野市内で千曲川と合流する地帯一帯が川中島と称され、その昔の古戦場を彷彿とさせる。この千曲川と犀川の合流地点には、この二つの河川の出合いにふさわしい落合橋という名の橋が掛けられている。この千曲川は埼玉県境の川上村に水源を求め、小海町、佐久市、小諸市、上田市を流れ、長野市を通り、中野市、飯山市を経てJR飯山線に沿って越後国に入り、信濃川となって日本海に注いでいる。千曲川と信濃川の全長が約376キロメートルであるが、その内長野県内を流れる千曲川の全長は、その58%に相当する215キロメートルにも及び、詩情豊かな数々の景観を造り出している。 善光寺平の箱庭は、これらの川と緑、そして善光寺を中心とする多くのお寺によって形成されている。視界の右手下は、長野市街の北のはずれに当たり、この高台に善光寺が南向きで建っている。私の立っている往生寺の高台は、善光寺の建つ高台より相当高い所であるが、私の視界には、善光寺本堂の屋根のみしか映らない。御本尊がまつられているこの善光寺本堂は、数度の火災に見舞われ、現在の本堂は江戸時代の宝永4年(1707年)に建立されたもので、国宝に指定されている。 正面23.7メートル、奥行き52.8メートル、高さ27メートルという大建築物であり、見るからに力強く安定感があり、参拝者の心をなごませてくれる。御本尊は、百済渡来の阿弥陀如来と、観音・勢至両菩薩を一つにおさめた一光三尊仏で、その昔勅封されて以来誰も見たことがないという秘中の仏像であるとされている。御本尊を安置してある地下は回廊になっており、その中は、正にこの世の闇である。そのまっ暗な中を手さぐりで板廊下をひと回りするのを「御戒壇めぐり」といい、回廊の中程にある板戸に取り付けられている鍵に触れることができれば、誰でもが極楽往生ができるといわれている。 少し遠くへ目を移すと、視界正面に、龍が臥したような山容の臥龍(がりゅう)山と、その山に抱きかかえられているような竜ヶ池のある臥龍公園で有名な須坂市が広がり、左手に小布施町が霞んでみえる。ここ小布施町には、江戸時代後期の代表的浮世絵師・葛飾北斎が88歳当時の作といわれる天井絵大鳳凰図で有名な岩松(がんしょう)院が所在する。岩松院本堂の天井(縦5.4メートル、横6.3メートル)のヒノ木板いっぱいに色鮮やかに描かれている大鳳凰図を御本尊の前に寝ころんで見上げていると、何かしら自分が次元の異なる世代に戻ったようにさえ感じさせられる。 この眼下に広がる長野市、須坂市そして小布施町は、いずれも標高350メートルから380メートルに位置し、善光寺平の一部を形成している。 その善光寺平を遮るように妙徳山(1294メートル)、米子山(1404メートル)、明覚山(958メートル)、奈良山(1639メートル)、紫弥萩山(1113メートル)、三沢山(1505メートル)の山並が青黒く目に迫り、更にこれら山並の上から根子岳(2128メートル)、四阿山(2333メートル)、浦倉山(2091メートル)、土鍋山(1999メートル)、御飯岳(2160メートル)、黒湯山(2007メートル)、横手山(2305メートル)、笠ヶ岳(2076メートル)と続き、かつ、まだまだ続く2000メートル級の山々が白い頭で語りかけてくる。実に雄大な、潤いのある箱庭の景観である。 40数年の時の流れによって、田園風景を模した緑の箱庭は、寺院とビルに囲まれ、名所・旧跡を内蔵した近代都市の箱庭に造りかえられているが、川と緑とそして周囲の山々には、まだまだ大自然の潤いを感じさせ、緑の箱庭にふさわしい景観である。 緑の箱庭は、私の永遠の心の故郷でもある。 ・・・・・・・・ 法務局も、戦後司法事務局と改組されてから既に40数年を経た。私が法務局に奉職したのは33年前であるが、当時は、登記簿への記入にはガラスペンを使用していたが、そのペン先さえ満足に支給されず、自費で購入し、使い勝手の良いペン先に調整し、大切に使ったものであった。複写機とてなく、謄抄本は総て手書きである。昭和34、5年頃であったろうか、日光写真機に毛の生えたようなセミコピーが配付された時の喜びは今でも忘れることができない。庁舎も事務機器も総てにおいて貧しい時代であったが、職員一人一人が生き生きとして仕事に取り組んでいたように思う。今は、物質的にも恵まれ、21世紀に向けての行政需要に対応すべく登記事務処理のコンピュータ化を始め種々の対応策が検討されている。往時とは隔世の感を禁じ得ない。 法務局が名実共に近代化していくことは大変喜ばしいことである。 北海道の片田舎に在った緑の箱庭が、40数年の時を経て、ここ長野善光寺平に居を移し、近代都市に変ぼうしても、田園の中に在った時と同じように、なお緑の箱庭としての潤いを保ち続けているように、法務局がどんなに近代化されても、法務局に働く人々の心の中に、ひたむきな情熱と潤いが保ち続けられることを希うのは、私一人であろうか。 (この随想は、故人となった清水さんを偲んで掲載しました。NN)

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実 務 の 広 場

このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.37 「事業用定期借地権等」について考える。

公正証書作成事務の中で、事業用の借地権設定契約というものがかなりの割合を占めていますが、その根拠となる借地借家法(以下「法」と言います。)第23条の標題には、「事業用定期借地権等」とあります。 法第23条の標題に「等」が付いているのは、第1項の「事業用定期借地権」とは別に、第2項の「事業用借地権」もこの条に含まれているということを表しています(ちなみに、法第22条の標題は「定期借地権」となっていて「等」は付いていません。)。 公正証書作成の際に、「事業用定期借地権」と「事業用借地権」とを使い分けていると、時々嘱託人から、これはどう違うのですかと聞かれることもあります。 この点については、一般的な解説書等(日公連のホームページの解説も含めて。)でも明確に区別されていなかったり、30年未満の事業用借地権設定契約のための覚書の標準的な書式にも「事業用定期借地権」という表現があったりして、二つのものが混同されていることが多いように思われます。 現実には、これらが混同されていたとしても、特にそのことがトラブルの原因になるようなこともないので問題はないのですが、一応、公証人として、「事業用定期借地権等」のことと、関連する事柄について整理しておきたいと思います。 1 「事業用定期借地権」と「事業用借地権」について 法第23条第1項の「事業用定期借地権」は、事業用建物所有を目的とし、かつ、存続期間を30年以上50年未満として借地権を設定する場合、契約の更新及び建物の築造による存続期間の延長がなく、並びに建物の買取り請求をしない旨の特約を定めることができるとしていて、この規定振りは、事業用ということと存続期間以外の点については法第22条の定期借地権の規定と同じです。 これに対して、法第23条第2項の「事業用借地権」は、事業用建物所有を目的とし、かつ、存続期間を10年以上30年未満として借地権を設定する場合には、第3条から第8条まで、第13条及び第18条の規定は適用しないとしていて、当事者間の特約ではなく、法律上当然にこれらの規定(存続期間、契約の更新、建物の再築による存続期間の延長、建物買取請求権等)が適用されないこととされています。 結果的には、「事業用定期借地権」も「事業用借地権」も、存続期間が異なるだけで、実質的に同じような内容の契約となりますが、「事業用定期借地権」は当事者間で契約の更新等について特約ができるというものであるのに対し、「事業用借地権」は当事者の特約を要せず法律上当然に更新等ができないということになっています。 2 「事業用定期借地権」と「事業用借地権」の設定契約に関して公証人として注意すべき事柄について 実質的に違いがないのであれば、これを区別する実益はないように思われますが、いずれもその設定契約は公正証書でしなければならないこととされており(法第23条第3項)、法律上の類型が異なることから、公証人として注意しなければならないことがあります。 その第一は、「事業用定期借地権」設定契約公正証書として30年以上50年未満の存続期間を定めていても、①契約の更新及び②建物の築造による存続期間の延長がなく、並びに③建物の買取り請求をしないこととする旨の特約の定めを欠いた場合(この①から③の3つの特約がセットになりますから、このうちの一つでも欠けた場合を含みます。建物買取請求権排除の特約がなくとも定期借地権と認めるべきであるという学説もありますが、登記実務としては認められていません。)は、「事業用定期借地権」と記載していても、これら3つの特約がすべて効力を生じませんから、一般の借地権(更新等あり)になってしまうということです。 これに対して、「事業用借地権」設定契約公正証書の場合は、A)事業用の建物所有を目的とするものであること、B)存続期間が10年以上30年未満のものであることの二つが明記されていれば、契約の更新等がないことを明記していなくても、法律上当然に「事業用借地権」としての効力が認められることになります。 また、注意すべきことの第二は、法第24条の建物譲渡特約で、「事業用定期借地権」にはこの特約(30年以上経過後は建物を相当の対価で譲渡すること)を付することができますが、「事業用借地権」にはこの特約を付することができないということです(法第24条第1項括弧書き。)。 「事業用借地権」のことを「事業用定期借地権」と書いたとしても違法というほどのことにはなりませんが、「事業用借地権」に法第24条の建物譲渡特約を付してしまうと、公証人法第26条違反ということになってしまいます。 ちなみに、契約が終了した際の原状回復に代えて建物等を借地権設定者に無償譲渡することができるという特約は、法第24条の特約とは異なりますのでいずれに付しても問題ありませんが、土地の明渡しを要件とせず、契約終了時に借地権者が建物等の所有権を放棄したものとみなして借地権設定者がこれを任意に使用、収益、処分できるというような特約は、自力救済になりますから違法です(契約終了後も借地権者が明渡しをせずに居座っているような不法占拠の場合や、借地権者が明渡しをせずに行方不明になってしまったような場合であっても、これを原状回復するには、改めて訴訟を提起し判決を得て強制執行するしかありません。)。 これに対し、土地の明渡し行為があった場合については、原状回復義務に違反して残置された建物等に関して、借地権者がその所有権を放棄したものとみなして借地権設定者がこれを任意に使用・収益・処分できるという特約や、借地権設定者がこれを処分してその処分費用を借地権者に請求できるという特約を付することができます。 ただし、通常「事業用定期借地権等」ではあまり考えられませんが、一般の定期借地権(50年以上)を敷地利用権とする区分建物の場合、区分所有者のうち敷地利用権を失った者があったときは、その専用部分の収去を請求する権利を有する者が区分所有権を時価で売り渡すべきことを請求することができるとされている(建物の区分所有等に関する法律第10条)ことから、上記のように借地権設定者に無償譲渡するとか借地権者がその所有権を放棄したものとみなすというような特約はできません。 3 「事業用定期借地権」と「事業用借地権」の変更契約に関する注意点 いずれも、その設定契約は公正証書でしなければならないとされているところ、その変更等の契約は公正証書でする必要はないことになります(もちろん、当事者がこれを公正証書にしたいということであれば、公正証書にすることができます。)。 変更等の中で特に問題となるのは、期間の延長に関するものです。 この点については、当事者の合意による存続期間の延長は可能と考えられています(東京公証人会「会報」平成26年6月号第31頁参照。ただし、この点については、第三者の利益を侵害することになるので認められないという学説もあります。)。 ちなみに、「建物の築造による」という限定を付すことなく、「存続期間の延長ができない」という特約があった場合でも、そもそも当事者の合意で成立した契約である以上、存続期間の「延長」をするのには文言上問題があっても、存続期間の変更(実質延長)契約は可能と考えられます。 ただし、いずれも法定の存続期間の範囲内に限られ、「事業用定期借地権」の場合は当初の存続期間開始日から50年未満、「事業用借地権」の場合は当初の存続期間開始日から30年未満の範囲内に限られることとなります。 それぞれの規定の構造が違い、異なる類型の借地権である以上、法第23条第2項の「事業用借地権」の存続期間を、同条第1項の30年以上50年未満の範囲内にまで延長することはできません。 4 「事業用定期借地権」と「事業用借地権」の生い立ちについて これらの違いを理解するために、それぞれの生い立ちを見てみますと、法第23条第2項の「事業用借地権」は、最初、現在の借地借家法(平成3年法律第90号。平成4年8月1日施行)の第24条に、標題を「事業用借地権」とし、存続期間10年以上20年以下のものとして定められました。 同時に、法第22条に、現在と同じ「定期借地権」の規定も置かれました。 つまり、「定期借地権」も「事業用借地権」も、一般の借地権の特例として定められたことになります。 これに対して、「事業用定期借地権」は、借地借家法の一部を改正する法律(平成19年法律第132号。平成20年1月1日施行)により新設されたもので、その構造は、一般の「定期借地権」(存続期間50年以上)と同様ですが、目的が事業用建物の所有である場合に、存続期間を30年以上50年未満として設定することができるというものです。 また、その際に、新たな「事業用定期借地権」を第23条第1項とし、旧第24条の「事業用借地権」の存続期間の上限を20年以下から30年未満に伸長して切れ目がないようにした上で第23条第2項として整理し、第23条の標題を、これら二つのものを含む意味で「事業用定期借地権等」としたものです。 このような経緯を見ますと、「定期借地権」と「事業用借地権」は一般の借地権の特例(子)として位置付けられるのに対して、「事業用定期借地権」は、一般の借地権の特例である「定期借地権」の更なる特例(孫)という位置付けになるものと考えられます。 5 そもそも「借地権」とは ところで、借地借家法上の「借地権」というものは、法第2条で「建物の所有を目的とする地上権又は土地の賃借権」と定義されていて、民法上の地上権(地上権に関する法律により地上権と推定されるものも含みます。)及び賃借権の特例として規定されているものです。 従って、建物の所有を目的としない駐車場や資材置場のための地上権又は土地の賃借権は、「借地権」とは言いません。 地上権は物権であり、賃借権は債権で、この性質の違うものが「借地権」としてひとくくりにされています。 これは、旧借地法(大正10年法律第49号)の時からこのように規定されており、建物の所有を目的とする賃借権は、地上権と同等に手厚く保護しようという考え方によるものと思われます。 6 「借地権」の前提となる「建物」とは ここで、「建物」とはどういうものかについて考えておかなければなりませんが、民法第86条第1項で「土地及びその定着物は、不動産とする。」とされ、不動産登記規則第111条で「建物は、屋根及び周壁又はこれらに類するものを有し、土地に定着した構造物であって、その目的とする用途に供し得る状態にあるもの」とされています。 借地権の前提となる建物と登記できる不動産としての建物の定義は必ず一致しなければならないというものではないと考えますが、原則としては、上記不動産登記規則に挙げられた3つの要素①外気分断性、②定着性、③用途性を有する建築物を建物と考えて良いと思います。 現実には建物かどうか判断に迷うような物も多く、その客観的物理的な面だけではなく、一般的に建物として経済的取引(担保設定も含む。)の対象となるようなものかどうかという面も含めて総合的に判断しなければならないものと考えます。 具体的に、建物かどうかでよく問題になるのは、コンテナハウスやトレーラーハウスというようなもので、土地に置いてあるだけで簡単に運べるようなものは建物とは言えませんが、専用の基礎工事を行い、その基礎にしっかりと固定されて容易には運べないような状態のものであって、少なくとも10年以上は一定の用途に使用され得るものであれば、建物として扱うことが可能と思われます。 また、最近問題になっているものとして、ソーラー発電施設があります。 ソーラーパネル自体は建物とは認められず、仮にその敷地内に発電施設用機器の収納箱のようなものが設置されているとしても、ソーラーパネルが主である以上、建物所有を目的としたものとは認め難いと思われます。 ちなみに、ソーラー発電施設設置のための土地賃貸借契約は、借地権設定契約ではなく、民法上の土地賃貸借契約(最長20年で更新可)となりますが、その特約として、契約の更新や存続期間の延長をしないこと、施設の買取り請求をせずに原状回復することなどを定めることができますので、存続期間の上限が20年以下となる以外は、実質的に事業用借地権と同様の契約内容にすることが可能です。 7 借地権が地上権である場合と賃借権である場合の違いについて 借地権は、借地借家法が適用される範囲内では、地上権であっても賃借権であっても変わりありませんが、元々異なる権利ですから、その性質による違いが出てくる場面があります。 一つ目は、借地権の譲渡や転貸の場面です。 地上権の場合には、借地権の譲渡や転貸について地上権設定者の承諾は要件とされていませんが、賃借権の場合には、民法第612条の規定により、賃貸人の承諾が要件とされています。 二つ目は、借地権の登記に関する場面です。 地上権は物権ですから、対抗要件として登記を要することになり(民法第177条)、地上権者には登記請求権があって、地上権設定者には登記義務が生じますが、賃借権の場合、賃借人に登記請求権はありませんので、賃貸人が同意しない限り登記はできないという違いがあります。 これらの結果、賃貸人は借地権が譲渡される場合に承諾が要件となっているので現在の賃借人が誰かを知っているのですが、地上権設定者は、借地権が譲渡されても直接はわからないことになり、地上権設定者が現在の地上権者が誰かを知りたければ、登記を確認する必要があるということになります(もっとも、通常は、地代支払い等の関係で直接連絡があるはずです。)。 三つ目は、第三者が土地の使用を妨害しているような場合、地上権であれば、地上権者の権限として直接その第三者に対して妨害をやめるよう請求する権利(物権的請求権)がありますが、賃借人は、賃貸人に対して土地を賃貸借の目的どおりに使用できるように請求する権利があるだけで、妨害している第三者に対して直接請求する権利はありません(賃貸人が賃貸借契約上の義務として、当該第三者に対して妨害をやめるよう請求することになります。)。 また、四つ目として、地上権の場合には、契約終了時に土地所有者が建物等を時価相当額で買い取る権利を有することになります(民法第269条第1項ただし書き)が、賃借権の場合の土地所有者にはこのような権利はありません。 さらに、五つ目として、これは些細なことですが、地上権の場合に土地使用の対価は「地代」(民法第266条第1項)というのに対して、賃借権の場合には、「賃料」(民法第601条)となります。 8 地上権か賃借権かによって公正証書の作成上注意すべきこと 公正証書作成の際に地上権なのか賃借権なのかによって考えておかなければならないこととして、地上権の場合、地代を支払うときは永小作権の規定が一部準用されることから、不可抗力による地代の減免請求、不可抗力により収益が少なくなった場合の権利放棄、地代の支払を怠ったときの地上権の消滅請求について、どこまで永小作権の規定が準用されるのかという問題があります。 これらの条項は、地上権に準用される場合は強行規定ではないと考えられ、地上権者が地代の支払いを2年以上怠らなければ消滅請求ができないのかという点に関して、期間短縮の特約や催告を不要とする特約も、あながち不合理とは認められない事情が存在する場合には、これらの特約を有効とする裁判例(東京高裁平成4年11月16日判決)もありますので、実質的に賃借権による借地権と同等の内容とする特約をしても問題ないと思われます。 ちなみに、地上権である借地権について、「借地権者が賃料の支払いを3か月以上怠り、その滞納額がその時点の賃料の3か月分相当額に達したときは、借地権設定者は催告を要せずして本契約を解除できる。」という覚書の規定は、「借地権者が地代の支払いを3か月以上怠り、その滞納額がその時点の地代の3か月分相当額に達したときは、借地権設定者は催告を要せずして借地権の消滅請求をすることができる。」ということになりますが、これを消滅請求ではなく契約解除の規定として公正証書に記載したとしても、直ちに違法とまでは言えないものと考えます。 9 敷金、保証金、権利金について 「事業用定期借地権等」設定契約に際して、これらの金員が交付されることがありますので、その違い等について簡単に確認しておきます。 まず、一般的に敷金は、賃借人が賃料等の債務を担保するために賃貸人に預託するもので、賃料等の未払債務がなければ、契約終了の際に全額返還されるものということになります。 保証金と言われているものの中には、敷金と同じ性質のものもありますが、そのほかにも様々なものがあり、中には、借地権設定者が土地を賃貸等するために既存の施設を撤去して土地を造成するための資金として交付し、これを別途借地権者に返済する約定があるものなど、実質的には金銭消費貸借となるものもあり、どのような性質のものか判断が難しいものもあります。 権利金は、返還が予定されていないもので、その性質は、良い場所を貸してもらえたという契約締結の対価であったり、賃料又は地代の一部前払い(その分月々の賃料等を安くしてもらう)であったり、賃借権の譲渡や転貸に対する事前の承諾料であったり、様々な性質のものがあります。 公正証書作成の際に注意すべき点としては、公正証書原本に貼付すべき収入印紙の問題があります(いずれも、印紙税法別表第1の第1号文書となります。また、一つの文書が印紙税法上いくつかの課税事項に該当する場合は、最も税率の高いもの一つの文書として課税されます。)。 全額が返還される予定の敷金あるいは同様の保証金については、その金額にかかわらず、印紙税法上は契約の対価等として課税の対象になるものではありませんから、契約金額の記載のない地上権又は土地の賃借権の設定に関する契約書(印紙税法別表第1の第1号の2)となって、200円の収入印紙を貼付することになります。 保証金の場合は、その性質に応じて、敷金と同じものであれば敷金と同様になりますし、実質的に金銭消費貸借である場合は消費貸借に関する契約書(印紙税法別表第1の第1号の3)として、その金額に応じた額の収入印紙(例えば、その金額が500万円であれば収入印紙は2,000円)を貼付することになります。 権利金の場合は、その金額が印紙税法別表第1の第1号の2文書の契約金額となりますので、その金額に応じた額の収入印紙を貼付することになります。 なお、契約終了時に未払債務等がなかったとしても敷金等の一部を償却する特約がある場合、その償却される部分の金額は、権利金と同様に契約金額ということになります。 実際の状況を見てみますと、賃借権設定の場合には敷金(又はこれに類する保証金)が多く、地上権設定の場合には権利金とする例が多いのですが、地上権設定の場合の権利金は、賃借権よりも有利な権利(借地権譲渡等の承諾がいらず、登記もできる等。)を設定したもらった対価として交付されているようです。 もちろん、賃借権だから敷金、地上権だから権利金ということではなく、当事者の合意次第で、どちらとすることもできます。 (星野英敏)

No.38 共有地賃料の事                      

いうまでもなく、土地を賃貸した場合の賃料は、賃貸地の使用の対価として受けるべき金銭であるから賃貸地の法定果実で(民法第88条第2項)、法定果実は、これを収取する権利の存続期間に応じて日割計算によりこれを取得する(民法第89条第2項)。 土地の共有者がその共有する土地を賃貸したことによる賃料債権については、元物である賃貸地の共有者が、その共有持分の割合により共有することになる。 そして、賃料債権は金銭債権であるので分割可能であるから、別段の意思表示がない限り、賃料債権の各共有者は、その共有持分の割合により分割された単独債権をそれぞれ取得することになる(民法第427条)と考えられる。 しかし、債権の目的がその性質上又は当事者の意思表示によって不可分であるときは不可分債権となる(民法第428条)。 そして、共有地の賃貸借契約においては、賃貸地の共有者が賃貸地を賃借人に使用収益させる義務は性質上不可分の給付を目的とする不可分債務であることから、その対価である賃料債権も特段の事情のない限り性質上の不可分債権となると解する下級審の裁判例や学説があった(大阪高裁平成元年8月29日判決・判例タイムス709号208頁など、谷口知平・加藤一郎編「民法例題解説Ⅱ(債権)」(昭和34年)54頁(椿寿夫執筆)。裁判所職員総合研修所監修「執行文講義案(改訂版)」(平成17年8月財団法人司法協会発行)125頁参照)。 勿論当事者の意思表示により不可分債権とすることは出来るが、性質上の不可分債権と解するときは、当事者の合意がなくとも不可分債権となると解するものである。 しかし、各共有者は、元来、共有物の全部について、その持分に応じて使用することが出来るとされており(民法第249条)、収益についても同様と解されている(我妻榮著有泉亨補訂「新訂物權法(民法講義Ⅱ)」(昭和58年)322頁)。勿論果実の取得は収益に外ならない。 そして、共有地を賃貸した場合の賃料債権について、最高裁第一小法廷平成17年9月8日判決(平成16年(受)第1222号・最高裁判所民事判例集第59巻第7号1931頁)は、各共有者の共有持分の割合に応じた分割単独債権となる旨判示した。 事案は、賃貸人が死亡してその賃貸地を被上告人及び上告人らが共同で相続した場合において、相続開始から遺産分割成立までに生じた賃貸地の賃料の帰属に関するもので、相続開始から遺産分割までに遺産から生ずる果実の帰属、それは遺産の一部となるのかどうか、遺産分割の遡及効との関係が問題となり、同判決は、次のように判示した(この判例の解説として、道垣内弘人「共同相続した賃貸不動産の賃料債権の帰属と遺産分割の効力」・『平成17年度重要判例解説』(ジュリスト1313号・平成18年6月10日)90頁以下、「最高裁判所判例解説民事篇平成17年度(下)」553頁以下(松並重雄執筆)参照)。 (判旨) 遺産は、相続人が数人あるときは、相続開始から遺産分割までの間、共同相続人の共有に属するものであるから、この間に遺産である賃貸不動産を使用管理した結果生ずる金銭債権たる賃料債権は、遺産とは別個の財産というべきであって、各共同相続人がその相続分に応じて分割単独債権として確定的に取得するものと解するのが相当である。遺産分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずるものであるが、各共同相続人がその相続分に応じて分割単独債権として確定的に取得した上記賃料債権の帰属は、後にされた遺産分割の影響を受けないものというべきである。 したがって、相続開始から本件遺産分割決定が確定するまでの間に本件各不動産から生じた賃料債権は、被上告人及び上告人らがその相続分に応じて分割単独債権として取得したものであり、本件口座〈引用者註、本件各不動産の賃料等を管理するために開設され、本件各不動産の賃料が振り込まれ、その管理費等を支出して来た口座を指す。〉の残金は、これを前提として精算されるべきである。 勿論当事者の意思表示により不可分債権とすることは可能であるが、この判例によると、特段の意思表示がない場合は、分割単独債権となることになる。 公正証書に記載された金銭債権に基づく強制執行については裁判所の判断によることになるが、強制執行に関する解説書にあっても、共有地の賃料債権について、従前は不可分債権説を中心に説明していたもの(裁判所職員総合研修所監修「執行文講義案(改訂版)」(平成17年8月財団法人司法協会発行)125頁)でも、後には改訂して、上記平成17年9月8日最高裁判決による分割債権説によって説明している(裁判所職員総合研修所監修「執行文講義案(改訂補訂版)」(平成23年5月一般財団法人司法協会発行)123頁以下)。 なお、因みに共同賃借人の賃料債務について付言すると、判例は、賃借人が死亡して複数の共同相続人がいる場合の賃料債務について、「賃貸人トノ關係ニ於テハ各賃借人ハ目的物ノ全部ニ對スル使用収益ヲ爲シ得ルノ地位」にあることを根拠に、「賃料ノ債務ハ反對ノ事情カ認メラレサル限リ性質上之ヲ不可分債務ト認メサルヘカラス」と判示しており(大審院判決大正11年11月24日・大審院民事判例集第1巻670頁)、学説においても、「数人の者の負担する債務が、各債務者が共同不可分に受ける利益の対価たる意義を有する場合には、原則として不可分債務になると解すべきである」(我妻榮「新訂債権總論(民法講義Ⅳ)」(昭和39年)390頁)として、共同賃借人の賃料債務も、目的物の全部を利用できることの対価であることを根拠に、性質上の不可分債務と解されている(我妻榮「新訂債権總論(民法講義Ⅳ)」(昭和39年)391頁、裁判所職員総合研修所監修「執行文講義案(改訂補訂版)」(平成23年5月一般財団法人司法協会発行)124頁以下)が、学説の中には、黙示の意思表示による不可分債務と解するものもあった(「注釈民法(11)」(昭和40年)38頁(椿寿夫執筆)に紹介されている学説参照)。 (五味髙介)

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