民事法情報研究会だよりNo.37(平成31年2月)

立春の候、会員の皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 さて、平成の時代もまもなく終わります。先頃読売新聞社が全国の18歳以上の3千人を対象に実施した平成時代に関する世論調査によると、平成を象徴すると考える国内の出来事のトップは東日本大震災で、第3位が阪神淡路大震災だったようです。あの日何が起きて人はどのように行動したのか、私たちはそこから得た教訓をこれからの時代に生かして行くために知っておくことが重要ではないでしょうか。
 おって、4月に入りましたら、新年度の会費納入のご案内をお送りいたしますが、都合により本年度限り退会を希望される会員は、3月末日までに郵便・ファックス等でお知らせください。(NN)


今 日 こ の 頃

   このページには、会員の近況を伝える投稿記事等を掲載します。

  あの日 それから7年余を経て(その2)(橘田 博)  

【前号から続く】

5 発災二日目以降の生活(3月12日からの数日)

(じっと待つ夜明け)
 局長室のソファーで、毛布と防寒具で身を纏いながら、  じっ と夜が明けるのを待つ。眠れない中、大きな余震の度に   揺れと建物の軋み音に、飛び起き、書棚を抑える。
 発災直後、私は外出先であったので、この本局庁舎が、どのように揺れ、きしむ音がどれほどであったかは体験していなかったので、震度5強程度の地震にも、身体が大きく反応しているのがわかる。職員に聞くと、この程度は大丈夫との返事が返ってくる。
 春三月とは言え、東北の春はまだ遠く、外は寒く、眠れずたばこを吸う手も悴むなか、避難者も含め、職員の朝食が気になる。
 発災以来、食物を口にしていない職員も大勢いたと思うが、誰もそのことを口にする者はおりませんでした。
 アルファー米を配布することは決めていましたが、いざ食してみると何とも味気ない。そこで、職員が自宅から持ち寄った魚の切り身をフレークにして、塩、唐辛子などで味付けし、「ふりかけ」をつくることにし、おしんこ等をおかずに朝食を用意しました。
(窓からの眺め)
 一夜明けた窓の外の景色は、普段と変わりなく、大きな災害の直後とは思えない静けさでした。
 晩翠通りの銀杏並木も変わりなく、ただいつもの出勤時間が迫るも人通りはまばらで、行きかう車も少なく、大きな街が活動を停止したような感じでした。
(明らかになる被害状況)
 気仙沼支局職員の安否が確認できたのがいつであったか記憶が定かではありませんが、職員全員が無事であったと安堵し、次の目の前のことに集中しようとしていたと思います。
 誌友の皆様が、テレビで放映された被害状況を見つめると同様に、私たちも車載テレビ、携帯電話のテレビで、津波の威力の凄まじさ、そして被害の大きさを知ることになります。
 紙面の都合上、あえて被害状況は記載しませんが、多くの人命が危険にさらされ、帰らぬ人になるであろうことは想像に難くありませんでした。
 驚愕のあまり声も出ない。すぐにでも、各職場へ出向き、状況確認したい衝動に駆られましたが、交通遮断がそれを許しません。また、ガソリンの供給も不明でした(ガソリンは、各官公署の緊急車両は優先的に給油を受けられることとなりましたが、それも乗用車は不可で、当局では、物資を運ぶライトバン2台とされました。)。
 職員にも、海岸近くに住む親族の安否がわからない、津波に流されたとの情報もある等々、被害状況がわが身に降りかかってくる実感があったと思います。その中で、懸命に仕事をしている職員に慰める言葉もありませんでした。
(避難所)
 仙台法務局に一番近い仙台市が設置する避難所は「市立木町通小学校」でした。
 当局は、市が設置する避難場所ではありませんでしたので、市からの支援は難しいと思っておりましたが、石川庶務課長に、避難所の責任者に対し、当局にも避難者が数十名いるので、食事の支援をお願いできないか、折衝に行ってもらったものの、答えは、難しいとのこと。また、市立木町通小学校は避難者であふれており、これ以上の受け入れは困難であるとのこと。再度、要請に行ってもらい、ようやく、避難者一人当たり「バナナ1本」の配給を受けました。
 避難者へはその旨をお知らせし、自宅に戻り食事を確保できる方は、自身で確保していただくようお願いをし、確保できない方については、アルファー米にお塩、乾パン等を提供することとしました。
(商人の逞しさ(国分町の焼き肉屋さん))
 近所のスーパーやコンビニをみると、商品はほとんどなく、私もコンビニに売れ残っていたタバコを数個、被害状況確認の途中で見つけた煎餅屋さんの「おかき」を買いましたが、大型スーパーには、食料を買い求める数百メートルにわたる長蛇の列ができ、それでも食料を手に入れられない多くの人々がおりました。
 そのような中、一部の職員が昼に焼き肉を食べてきたとの話。どこか尋ねると、国分町(東北一の繁華街)の焼き肉屋さんが、停電のため、肉の鮮度が持たないので食べ放題1000円で営業しているとのこと。プロパンガスなのでコンロは使えるから廃棄するよりは食べてもらおうと営業したようでした。そして肉がなくなり次第終了と言っていましたので、話を聞いたときは、時はすでに遅し、だったような気がしました。仙台商人の逞しさと心意気を見たような気がしました。
(各地からのお見舞いと励まし)
 各局からのお見舞い、励ましのお電話をたくさん頂戴しました。誌友の皆様からもたくさん頂戴しました。改めて御礼申し上げます。
 最初に電話がつながったのが、金子富山局長(現高山公証役場公証人)でした。金子局長からは、お見舞いの言葉とともに、「何でも言ってほしい、できる限りのことはするから」と気持ちのこもった言葉をいただき、その時に一番不足し、今後も不足が見込まれる「ガソリンをお願いしたい」と話しました。ガソリンは専用携行缶でなければ持ち運びができず、一定量を超えると、火気取扱責任者が同乗しなければなりません。その手配ができるなら、富山から新潟を経由してできる限りガソリンを運んでほしい、途中、山形局に物資輸送用として一部をおろし、残りを仙台まで運んでほしいと伝えました。
 金子局長からは、「大丈夫、必ず運ぶので待っていてください。」と力強い言葉をいただき、また励まされ、法務局の絆、仲間を思いやる気持ち、心意気を本当にうれしく思いました。
 その後、本省を含め全国各地の法務局、OBの皆様方等々、たくさんのお見舞いの物資や励ましをいただき、職員も大きな励みになりました。
(壁新聞と河北新報)
 避難所ではないものの、何かしらの情報を求めて玄関ホールに来られる方が増えだし、各種案内や情報提供のため、交代で職員数名を配置しました。玄関ホールは、施錠することなく24時間開放することにしたと記憶しています。職員には交替で深夜も配置についていただいと記憶しています。
 その中で、帰宅が困難な方々から安否を確認する方法はないかとのお尋ねも多く、NTTの安否確認サービスをご案内するも要を得ない方もおりました。
 そこで、庁舎の前面のガラスに大型の模造紙を張り、臨時の伝言板を設け、どなたにでも書き込めるようマジックを用意しました。時折、状況をみると、多くの方々が、自身の安否や連絡先を書き込んでおり、少しはお手伝いができたのかと思いました。日を追うごとにそのスペースは大きくなっていきましたが、それに対する苦情は一つもありませんでした。
 東北の地元紙「河北新報」は、発災の翌日も輪転機を回し、休むことなく新聞を発行し続けました。被災地の石巻では、手書きの壁新聞を発行し続けた新聞社もありました。報道機関のあるべき姿として賞賛の声が上がったのは、当然のことと思います。
 河北新報社が毎朝、朝刊を100部超、無料で持ち込んでくれました。
 玄関ホールにコーナーを設け、河北新報の朝刊が届いている旨、無料で配布している旨来局者にわかるようにし、自由にお取りいただきました。午後には、すべての新聞が来られた市民の方々の手に渡りました。災害時にいかに的確な情報が必要かを痛感しました。河北新報社には感謝の気持ちでいっぱいでした。
(各所掌事務の被害状況の確認)
 帰庁後、一度は本局庁舎内の被害状況を確認しましたが、改めて庁舎内をまわってみると、各事務室の端末は、ほとんどが落下したものの、元に戻されており、配線等の各作業がされているところでした。一番大きな被害は、不動産登記部門の書庫で、書庫面積が大きく空間も大きいことから、中に壁がなく、大きな鉄製の書棚が長い列を組んでいるため(どこの庁舎の登記書庫も同じような作りと思います。)、その書棚が「ぐにゃり」と捻じれて、ほとんどの簿冊が落下していました。また、コンクリート壁と接する棚の端がその壁に何度もぶち当たり、壁のコンクリートが破壊されていました。地震エネルギーが巨大なものであったことが分かりました。
 私は発災時には、この建物の揺れを経験していませんので、新庁舎とはいえ、ダメージは相当なものであったろうと思います。
 庁舎に「よく頑張りましたね」とねぎらいの声をかけてあげたい心境になりました。
 各課室の職員には、それぞれの所管の事務の稼働準備(電源が来ておりませんので、電源が確保できない場合の事務処理方法等)、被害状況のさらなる確認、玄関ホールでの案内、自家発電機用の灯油の買い出し等々、懸命に仕事をしていただきました。(停電の解消)
 発災後3日目の日曜の夕方だったと思います。
 窓から外を見ると、晩翠通りを挟んだ向かい側のビル群に明かりが灯っているのが分かりました。「停電が解消された。」と、その時みんな大喜びをしたのですが、本局庁舎の街区はまだ、明かりが灯っているところがありませんでした。今か今かと待つことどれくらいだったでしょうか、ようやく、通電しました。その時は、歓声が上がったと思います。
 これで、水道が出る、トイレの水が流せる、炊事も容易になる等、不自由さがいっぺんに吹き飛んだ気がしました。しかしながら、インフラで解消されたのは、その時は電気のみで、水は貯水槽の水のみ、ガスは未通の状態でした。電気の有難さを実感しましたが、それに頼り過ぎの生活を危うくも思いました。
(籠城・神様からの贈り物・兵糧攻めの回避)
 これまで繋がらなかったメールや電話が少しずつ繋がり、食品卸に勤める娘の配偶者からのメールが届きました。仙台港にある自社の卸センターと隣接する生協(コープ)の卸センター(この2センターで、宮城県を含めた東北6県の食品を扱っていました。)が津波で壊滅したこと、仙台に入る陸路も限られるためしばらくは物資が届かないので、早めに現地での調達を考えたほうが良いとの内容でした。
 食品の流通がままならないことが分かり、多くの職員(100人余り)の食事の確保をどうするか、大きな課題となりました。
 そこで、私としては、1週間の籠城を覚悟したと思います。
 山形県との交通ルートはどうにか確保されていることがわかりましたので、食料の調達は、山形局にお願いをすることに決め、高村局長(現八戸公証役場公証人)に電話をし、ガソリン付きの車(ワゴン)の確保を依頼し、山形市内で食料品の調達をお願いしましたが、山形市内も不足がちだという返事でした。
 その相談をするうち、本間庶務係長(現甲府局総務課長)が、祖父が農家をしており、米と野菜なら調達できるとのこと。藁にも縋る思いで、取り急ぎ、本間係長のお爺様に、1週間分の米600キログラムと野菜の調達を依頼し、山形局がチャーターしたワゴンで、翌日には届けていただきました。
 幸いにも、本局庁舎のお隣の中華料理屋さんのご主人が、プロパンガスなので、ご飯なら炊いてあげてもよいと言っていると職員が話をもってきてくれ、早速、ご主人に、お願いいたしました。
 本間係長のお爺様から届いたお米を託し、1日60キログラム(毎食20キログラム)程度を炊いてもらい、それを職員がパレットに入れて持ち帰り、紙皿にサランラップを被せ、ご飯と、少々のおかずとみそ汁(これは、簡易ガスコンロで調理)の、本当に一汁一菜の食事で、二口三口で食べ終わりそうな食事でしたが、温かいご飯と温かいみそ汁に、高ぶる気持ちをずいぶん癒されました。
 この生活が、ほぼ1週間続きましたが、営業を再開する飲食店も徐々に増えだしたこと等々から、給食は終了としました。
 後日になりますが、本間係長のお爺様には、その後、2000キログラムのお米をお願いし、届けていただきました。これは希望する職員が多く、一人10キログラムまでとして、買わせていただきました。お米さえあれば、この先大きな余震が続いても食料は大丈夫と、ずいぶん安心しました。
 本間係長のお爺様とお隣の中華料理店のご主人には、感謝しても感謝しつくせないくらい助けていただき、人の情を感じました。
(気仙沼支局職員の救助・帰還)
 気仙沼支局が入居する港湾合同庁舎が大きな被害を受けたことは前述しましたが、同庁舎の屋上には、勤務する職員のほか、近隣の水産加工場の方々等、100人にも及ぶ方々が、今や遅しと救助を待っておりました。庁舎の周りは、海水や流木、流された工場の残骸や多くの車(後日、状況確認に行った際、逆さになっているバスを見て、驚きました。)が周りを取り囲み、港の中も、多くの瓦礫等が海の中を埋め尽くし、陸地及び船での救助は困難で、ヘリコプターでの救助を待つしかありませんでした。
 発災の翌日からヘリコプターでの救助が始まりましたが、体調を崩された方を優先的に救助するも、対象者が多く、職員が救助されたとの報はなかなか入ってきませんでした。
 法務局は管理庁でもありましたので、東海林支局長をはじめ職員は、入居する他の官署の職員とともに、救助されるまでの間、庁舎内に保管された食料、飲料水を避難者に配布したり、暖をとるための工夫をしたりと、避難者の安全確保に努めておりました。
 東海林支局長ほか職員が救助されたとの報が日曜日(14日)の午後になって入り、直ちに迎えの職員を現地に派遣しました。 
 夜、7時近くに、東海林支局長をはじめ救助された職員が帰庁し、安否を気遣われていた職員の家族や待ち受ける職員が出迎えました。緊張の中にもほっとした東海林支局長、同支局職員の顔を見たとたん、熱いものがこみ上げ、本当に、よく頑張ってくれたと、思わず涙しました。
(ジレンマ)
 法人登記部門の窓口に来られたお客様から、津波で会社の関係書類、印鑑、預金通帳が流失し、預金を下ろしたいが、印鑑がないので改印届ができるか相談があった旨報告がありました。
 本人確認資料をほとんど流失しており、どう対処するか、至急本省と調整するように指示しました。私としては、無謀ではあるが、本人から申述書を提出させ、後日、本人確認資料を提出させるような柔軟な対応がとれないか、被災地である仙台局として、そのように取り扱いをしたい旨伝えて、協議してほしい旨指示しました。
 沿岸部の多くの市町村は庁舎も含めて被災しており、印鑑登録の再提出等の措置が直ちに行えないという事情もありました。また、中小の零細企業者は、資金決済のほか、従業員の生活資金等のやりくりに会社名義の口座を利用している方も多く、来られた相談者の方々には切羽詰まった事情をお持ちの方が多くいらっしゃいました。
 しかしながら、そのような要望は叶えられず、市町村の印鑑証明書の提出を求め、改印届をしていただくより方法がないとの説明を利用者にしなければなりませんでした。
 災害時の資金として、個人に対しては、ゆうちょ銀行が、本人証明がなくても少額を貸し出す制度も設けられています。
 個人事業者に対し、簡易迅速に資金を調達できる制度をどうにかしてほしいと願っているところです。
(本省との電話会議)
 この震災で、電話会議システムの威力を感じました。
 停電が解消したため、訟務部に備え付けられている電話会議システムを利用し、本省民事3局の担当者と会議を行うことができました。文書や電話では伝わらない現地の被害状況、現在の状況など生の声を届けることができました。
 なかなか情報伝達がうまくいかない中、東北全体が孤立しているのではないかとの悲壮な気持ちもあり、余田総括補佐官(現柏公証役場公証人)から、しっかり支援するとのお話をいただき、現地職員一同、大変心強く思いました。
 その後、本省からは、直接担当者の方々が、新潟、山形経由で物資を運んでくださり、加えて多くの法務局から様々なご支援をいただきました。
(戸籍データ)
 この震災では、宮城県南三陸町をはじめ、数町の役場が被災しました。なかでも、南三陸町は、役場全体が流失し、多くのシステムも流失し、その中には戸籍データもありました。
 南三陸町は、町職員をはじめ多くの町民が津波被害に遭遇し、消息不明者も多数に上りましたが、戸籍データ(併せて住基システムも流失したと聞いています。)が紛失したことにより、住民の正確な情報がなく、誰が消息不明なのかが確認できない状況にありました。
 誌友の皆様がご存じのとおり、戸籍データは、定期的にバックアップデータを法務局に提出することになっております。
 しかしながら、戸籍バックアップデータを保管していた気仙沼支局も被災したため、果たしてそのデータが残っているのか確認のため、帰局したばかりの東海林支局長と数名の職員を、気仙沼支局に派遣し、その探索に当たらせました。
 ほぼ壊滅した気仙沼支局2階ではなく、3階倉庫に保管していたとのことから、集中的に3階倉庫を探索しましたが、発見には至りませんでした。
 データが見つからなければ、戸籍回復に要する時間、手続きは膨大になるため、再度、東海林支局長と前任の支局長、職員を派遣し、探索した結果、3階倉庫の中の、ある書庫の中で発見できたとの報告を受けました。無事、発見されたデータをもとに、戸籍簿が復元されたことを後日伺いました。
 この経験を受け、全国的な戸籍データのバックアップ措置が実施されたことは、誌友の皆様ご存じのとおりです。
(職員の出勤、交代要員の配置)
 仙台法務局では、BCP(業務継続計画)の一端として、災害時において交通手段が遮断された際には最寄りの職場に出勤し、安否確認を行い、その後の指示に従い職務に従事することと定められており、その定めに従って、職員個々は、最寄りの職場に出勤していました。
 仙台局の職員の住居分布は、仙台市を中心に特定地方に集中しており、北沿岸部の気仙沼支局、石巻支局付近の居住者は少なく、現勤務者においても、宿舎に入居しておりました。
 気仙沼支局職員については、救助後本局へ避難しておりましたが、石巻支局職員は、発災以来、交代もせず、また、本局同様、避難所ではないものの多くの被災者が避難しており、わずか5名ほどで、執務しながら、避難者の休息場の確保から物資の調達等、避難者への対応に取り組んでくれていました。
 発災以来、石巻支局には、物資を運びこむなどの支援をしておりましたが、交代要員の派遣も考えなければならないことから、現入居者の宿舎を借り受け、休憩、宿泊することの了解を得て、交代職員5名を派遣することとしました。大河原支局についても同様に交代要員を派遣し、詰めていた職員には、少しの間でしたが、休息をとっていただきました。
(幻に終わった米軍のトモダチ作戦)
 発災後数日して、本省担当官から、石巻市の日和山公園周辺の避難者に米軍が救援物資をヘリコプターで投下したいとの話がありました。
 日和山公園は、石巻市の海岸近くにあり東側は太平洋を望み、北側は旧北上川を眼下に置く、石巻市のシンボル的公園で、発災後に幾度もテレビ放映された公園です。
 石巻市の被災状況は、後ほど述べますが、本省係官からの話では、日和山地区において、学校などの施設は避難所として使用されおり、他に投下場所がないので、法務合同庁舎の駐車場に投下したいとのことでした。
 現地局としては、万全を整えて準備する旨回答しましたが、後日、作戦中止の話があり、一同、肩を落としたことを鮮明に記憶しています。
 数年後、米軍のトモダチ作戦を巡っては、当時の政府と米軍との意思疎通の問題等があったこと等々報道で知り、この作戦もその一環で中止となったのかと、非常に暗い気持ちになりました。
 蛇足ですが、この震災時の政府の対応を巡っては、追悼する報道番組等の中で、度々議論がなされましたが、政府としての意思決定プロセス、優先すべき対応策の選択順位、その周知手段・方法等々、多くの問題が積み残されたと思います。未だその総括がされたとはいいがたいと感じております。近い将来発生する可能性が大きい大災害に対し、国民として、国が危機管理にどう対処していくのか、あるべき姿を国として早急に示してもらいたいと考えるのは、私だけでしょうか。
6 被災状況確認の旅
 発災後、1週間余が経過し、被災各地も少し落ち着きを取り戻し始めたところ、本省から現地調査のため係官が来仙されることになり、私も発災後初めて被災状況確認に各地へ伺いました。
 沿岸部の道路は、各地で寸断され、沿岸部に向かうには、内陸部の登米市、一関市を起点に、行っては戻り、行っては戻りを繰り返す旅となりました。
(登米市・登米支局付近)
 登米市は、古くは行政の中心であり、明治時代の木造建築の小学校が保存されているなど文化的にも繁栄をしたことが色濃く残る静かな田園都市です。
 登米支局の周辺には、立派な黒塀や門構えの屋敷がいくつも立ち並んでいました。
 国道から登米支局に通じる道沿いのいつも見ていた屋敷の黒塀が崩れ、門も見るも無残に潰れていました。
 幸いにも登米市は内陸部でしたので、津波の被害は免れましたが、文化遺産とも思われる建物がいくつも被災したと聞いています。その後、訪れたことはございませんが、あの建物群が復元されていることを願わずにはいられません。
(南三陸町)
 登米市から南三陸町へは、北上山地の下方部分を超えていくようなルートになります。山を越え下りに入って目に飛び込んだのは、水が殆んどない沢に、たくさんの瓦礫が押し寄せていた光景でした。南三陸町から数キロ離れたこの山間の沢のはるか上流まで津波が押し寄せたかと思うと、そのエネルギーの強大さにただ驚くのみでした。
 山を下り視界が開けて見えたのは、一面平原のような光景でした。途中にあったコンビニエンスストアーもありません。
 市街地に入ると、幾度もテレビで映し出された町役場の防災庁舎が、赤い鉄骨をむき出しにして、踏ん張って建っているように見えました。夏のお祭りに来た際に、立ち寄らせていただいた役場庁舎は、跡形もなく流されていました。
 瓦礫が側に寄せられた大通りを慎重に抜け、高台にある南三陸ベイサイドアリーナにある町役場仮庁舎を目指しました。
 途中の街並みはほとんどの建物が流失し、5階建て程度のマンションの屋上に乗用車が乗っかっているのが見えました。その時、道路沿いにコンクリート造りの2階建て建物が目に入ってきました。4月に案内してもらった、旧仙台法務局志津川出張所の建物でした。統合による廃止後は、南三陸町の水道事務所として利用されていたと聞いていました。
 この巨大津波にも立ち向かい、流されないように頑張ったであろう建物に驚くとともに、登記所施設の建築に携わった方々の並々ならぬ思いを感じました。その建物が、登記所の使命を果たした後、地域のために立派に貢献してくれていることに胸が熱くなりました。
 役場仮庁舎では、副町長と面会することができ、戸籍関係図書類など支援物資をお渡しし、少しの時間お話をすることができました。
 未だ安否確認できない不明者が多く被災者がどのくらいになるのか、把握できていないこと、役場の事務も、すべての情報、データが流失したことから、すべて手作業で行っていること等々、置かれている状況について説明をいただきました。法務局に対する支援要請については、責任をもって支えていく旨お話をしました。その際、副町長がポツリと漏らした一言が、被災者のこの大きな災害に対する偽らざる思いなのだと実感しました。
 それは、「南三陸は、半消滅したが、俺たちや息子たちの代では復興は無理でも、孫の代には元の南三陸になる。そう思って、これから頑張る。」という言葉でした。
(石巻市)
 南三陸から登米市に戻り、北上して山を越え石巻市に向かいました。
 石巻市に入り、港のそばにある日本製紙の工場付近を通過中に目に入った光景は、引き込み線の線路が大きく波打って曲がっており、そこで積み下ろしをしていた貨車が流され、工場の内陸よりの住宅街の建物を次から次へと破壊した凄まじい状況が広がっているものでした。それは広角レンズで見るような端から端まで、一様に同じ景色となって迫ってきました。
 中心部の駅前、市役所(廃業したデパートを利用している)付近は、津波の高さもそれほどではなく、建物の流失もありませんでした。
 公証人不在の石巻公証役場に行ってみると、隙間から事務室内のキャビネットが倒れているのが見えました。そこで家主に連絡を取り、開けてもらい、急遽、事務室内の確認を行いました。キャビネット等が倒れてはいるものの、書類等は水には浸かっていないことが確認でき、とりあえず、キャビネットやロッカーをもとの位置に戻し、書記の方にその旨連絡し、公証役場を後にしました。
 石巻支局は、日和山地区の高台にあり、津波の被害は受けておりませんでした。同支局へは、瓦礫でふさがった道をさけるように坂を上っていった記憶があります。
 石巻支局に着いてみると、そこには子供たちを含め多くの被災者がおり、妻が持たせてくれた「折り紙」や絵本を子供たちのお土産に持っていきました。コンピュータ室や人権相談室を工夫して避難生活を送っていらっしゃいました。
 皆さんにお声がけするとともに、職員には、申し訳ないが交代制での執務になること、それまでの間はなんとか頑張ってほしい旨お願いいたしました。
 支局職員から、40キロメートル先の陸前高田市出身の職員が、親の安否確認のために、自転車で向かったけれどもいまだ連絡がないとの話を聞き、携帯での連絡はどうしたと聞きましたが、携帯が不通になっているので困難とのことでした。ここは無事を祈るしかないと思い、職員が帰庁したら連絡をするようお願いしました。親を思う子の気持ちは、十分すぎるほどわかりました。その職員が親の無事を確認して帰庁した旨の連絡を受け、安堵しました。
 支局職員から事務の状況を伺った際に、1件の婚姻届の受理伺いが、石巻市から来ている旨話がありました。
 その受理伺いは、婚姻届を提出するために、発災後、石巻市北上出張所へ向かうといって自宅を出たご主人が、帰ってこない、行方不明になっている。加えて、石巻市北上出張所が津波に飲み込まれ流失し、出張所職員も行方不明となり、その生存も確認できないことから、届出の事実を確認できない。家族からの申し出のみで、受理してよいかどうかの指示を求めるものでした。その方の奥様は妊娠中であり、近く出産予定であるとのことでした。
 届出事実を確認できる届出人、受理する側の町職員のいずれもが行方不明の中、出張所庁舎も流失し資料の存在を確認することはほぼ不可能であることから、受理することで指示を検討してはどうかと、支局職員に話し、その後は戸籍課長と相談するよう指示したと記憶しております。
 その後、この受理伺いの結果を承知することなく、他の仕事に忙殺されていたと思います。
 この受理伺いによる婚姻届が受理されたことを知るのは(私が、そう思いこんでいるのかもしれませんが、私はこのご家族のことと確信しましたので、その時の気持ちを書きとどめました。)、翌年3月11日に、日本武道館で行われた「東日本大地震追悼式典」での「宮城県代表のことば」を聞いたときで、「あぁ このご家族だったのか」と思いました。受理伺いに関しての直接的なことばはありませんが、息子さんご夫婦は、発災の1週間前に結婚式を挙げられ、3月11日に婚姻届けをすることを決めていたとのこと。発災後、ご主人は、祖父母と妹が避難している避難所に向かい、その後、北上出張所に向かう予定のようでした。北上出張所に着いたのか、その途中で津波に遭遇したのかわかりませんが、お亡くなりになり、数日後にご遺体が発見されたようです。
 発災後の7月に無事、お孫さんが生まれ、元気に育っており、今は孫を中心に家族頑張っていこうと思っていると話されておりました。
 受理伺いの当事者名の記憶はありませんが、私の頭の中にははっきりとあの時の受理伺いが受理され、無事、忘れ形見のお孫さんが出産されて、本当に良かったと思いました。残された家族にとっても、明日への希望となられることだろうと思いました。
 話は戻りますが、日和山公園に入り眼下をみると、海沿いは、真下にあるお寺が形を留めているものの、そのほかは目立った建物がなく、瓦礫が日和山の麓、参道(階段)の下までびっしりと埋め尽くしていました。
 目を転じて、旧北上川流域をみると、川の中の砂洲に建つ登米市出身で石巻市に縁のある石ノ森章太郎萬画館の建物が、気のせいか、心持ち方向が変わっているように見えた感じがしました。萬画館は、サイボーク999の宇宙船のような形で、宙に浮いているような構造になっていましたので、津波に向かって立ち向かって行ったように思えました。
 石巻支局は、既に新庁舎が完成し、新年度に引っ越し予定でした。
 新庁舎は、市街地より内陸に所在しており、被害の程度が軽微であるよう祈りながら行ってみると、駐車場は、液状化しており、車が進入できない状況でした。中に入ってみると、そう被害もなさそうに見えましたが、床下を覗くと海水に浸かっており、電気設備(配線)が使用不能ということが分かりました。残念としか言いようがありませんでした。
(大船渡)
 一関市経由で、盛岡地方法務局大船渡出張所へ向かいました。
 同出張所は、市街地の小高いところにあったと記憶しています。しかしながら、津波の勢いは、その丘の上まで押し寄せ、同出張所も床上浸水しており、書庫の登記簿、地図類も冠水しておりました。
 その状況を確認し、庁舎の周りに出てみると、直径が1メートル超、長さが10メートルを超える巨木が、隣のアパートの1階部分を貫いていました。その奥にある裁判所の宿舎は、かろうじて巨木の直撃は受けなかったものの、すぐ傍に大量の巨木が流れついておりました。
 大船渡港は、漁業のほか外材の輸入港としても利用されています。
 米国・アラスカ等から輸入され貯木された大量の外材の原木が、津波とともに市街地を襲い、流失した家屋や自動車なども加わり、さらに多くの家屋を倒壊、流失させました。私事ですが、好物の「かもめの玉子」のお菓子本舗も被害を受けました。
 この地震の大津波の被害については、多くの報道、映像で、その恐ろしさを多くの国民が実感したと思います。被災地の一部ではありますが、実際に見てみると、地形による被害の格差に驚きを禁じ得ませんでした。
 仙台市の荒浜、名取市の閖上のように平坦な沿岸部と、南三陸より北部のリアス海岸地域。山間の小川にまで押し寄せていた大量の瓦礫を残し、貨車や巨木を凶器に変え多くの人命、家屋を奪っていきました。ただただ、驚愕と、嘆き悲しむ人々を見るにつけ、人間の無力さを感じました。
7 福島
 福島第一原子力発電所の事故による放射能被害が筆舌に尽くしがたい想像を超えるものとなったのは、誌友の皆様ご承知のとおりです。
 放射能漏れによる避難命令が出されても、病院を閉鎖せず診療を続けられた先生や飼育していた家族同様の牛を見殺しにできないと残った農家の方、その苦境に立ち向かう中「残念」と書き残し、自から縊死した方など、放射能被害がもたらした生活破壊は、計り知れません。
 津波被害を受けていないにもかかわらず、故郷に住むことが叶わない人々の心情に、どう心を寄せていくか、私たち国民が問われていると思います。
 NHK総合テレビの日曜日10過ぎに、東日本大震災の被災地域や大規模災害による被災地域において、復興に向けて黙々と歩み続けている人たちやそれを応援・支援する人たちの取り組み等が放送されています。
 11月18日の放映は、作家柳美里さんが、縁のあった南相馬市に移住し、共に生活する中で、地域の人たちが主役となって演劇を上演するまでの取り組みが放映されていました。
 演劇の中では、原発事故で避難を余儀なくされ、江戸時代に建てられ、家族が代々守ってきた家屋を取り壊さざるを得なくなった農家の方の悲痛な叫びが耳に残りました。この理不尽さをどこにぶつければいいのかわからない苛立ちを自身が演じておりました。
 被災された方にとってみれば、自然災害なら諦めもするが、二次災害ともいえる目に見えない放射能によって、自身では昔(当時)を取り戻せない、やり場のない憤りを感じました。
8 忘れてはならない地域
 東北の沿岸部を中心に述べてきましたが、忘れてはならないのは、茨城県、千葉県も地震と津波被害に遭っていることです。
 美空ひばりさんの歌「みだれ髪」に登場する塩屋崎付近も建物が流失していました(何年か前のNHK「こころ旅」で見たことがありました。)。
 その後、各地で避難を余儀なくされた方の中でも、首都圏を含めた避難先の仮設住宅等において多くの人々の尊い命が失われている(関連死)ということを、しっかりと心にとめておきたいと思います。
9 その後の復興事業
 発災から7年余が経過し、新聞報道、テレビのニュース等により被災各地の復興状況も徐々に目に見えるものになってきました。
 しかしながら、被災地それぞれの事情、復興に対する考え方により、その進み具合、方法も随分と違いがあるように思います。
 高い防潮堤を海岸線いっぱいに造る街、市街地全体の土地を底上げして、住居地区と商業地区を区分けする町等々、その地域に見合った復興が進んでいることは喜ばしいことと思います。
 仮設商店街から復興後の商業地への移転が行われた町や、徐々に商店や住宅が建てられ活気が戻りつつある町、福島においても、帰宅困難地域が徐々に解除され、戻られる住民の方々も、町の再生のため頑張っている姿が放映されています。
 釜石市では、流失した鵜住居小学校と釜石東中学校の跡地に、今年、「釜石鵜住居復興スタジアム」が完成しました。名門ラクビーチームであった新日鉄釜石の本拠地であった釜石市にラクビー場を造ろうと市民が立ち上がり、実現しました。来年開かれるワールドカップの試合場となることが予定されています。復興のシンボル的な競技場です。素晴らしい試合を見せてくれるだろうと、期待が膨らみます。
 どの地域においても、当時居住していた住民のほとんどが戻ってきたわけではなく、それぞれの地域で、工夫を凝らして、生活環境の整備に力を注ぎながら、住民の帰還を願っているように思います。
10 振り返って今思うこと
 私は、平成22年4月に仙台へ赴任する機会をいただき、公務員生活最後の1年をどのように過ごすかという確固たる考えもなく、いつもの転勤時のように、新任地での職員やそこで暮らす人たちとの出会いが始まるのを楽しみに赴任したことが、昨日のことのように思い出されます。
 着任後、建設工事が着々と進む新庁舎の視察、管内視察では東北6県の職員との懇談等のほか、私的には国分町をはじめ市内の美味しいどころでの食べ飲み歩きと、楽しいことばかりの日々を過ごしていました。
 遊んでばかりいた付けが回ったのでしょうか、9月に開いたソフトボール大会&芋煮会の初戦の試合で、アキレス腱を完全断裂するという大失態を演じてしまいました。当時の福島人事係長(現仙台法務局職員課長)に負ぶってもらい、あえなく退場という次第になりました。それから約3か月、ギブスでの生活となり、盛岡市で開かれた人権擁護委員の会議(本省から、石井人権擁護局長が出席されました。)にも出席できず、多くの方々にご迷惑をおかけしました。申し訳なく思っております。これまで、好きな野球で何度か骨折などしたことがありますが、公務員生活で最大の不覚でした。
 その後、翌年2月には、無事、新庁舎の落成式を終え、怪我を除き、そのほかは、職員みなさんの協力を得て滞りなく終わるかと思っていた矢先の大震災でした。私にとって、人生最大の出来事といっても過言ではありません。
 私自身は被災者とは思いませんが、多くの職員が多かれ少なかれ被災し、心に負った傷も大きかったろうと思います。そのような環境にありながら、黙々と復旧に励み、また、被災者の支援に労を惜しむこともなく、率先して行動する職員に本当に頭が下がりました。法務局職員の心根の優しさを十分感じたところです。
 また、全国の法務局、OBからの温かい激励や数々の支援に、大変大きな勇気をいただきました。紙面をお借りして、改めて御礼申し上げます。
 この東日本大地震は、被災者のみならず多くの日本国民に、深い悲しみと失望感を与えました。
 東日本大震災以後、国内においては次から次と大きな災害が発生しています。
 大震災が起こったその年の秋には、紀伊半島に大きな被害をもたらした平成23年台風12号、伊豆大島で39人が死亡、行方不明になった平成25年台風26号、平成26年8月20日広島市安佐北区・安佐南区で発生した大規模土砂災害(死者74人)、同年9月27日御嶽山噴火(死者57人)、平成28年4月14日熊本地震、この地震は、4月16日に阿蘇地震を、同日大分県中部地震を誘発しました。今年(平成30年)6月の大阪北部地震、7月の西日本豪雨に、関西空港が被害を受けた台風21号、冒頭部分に書いた北海道胆振東部地震など枚挙にいとまがありません。これらの大規模災害以外にも、地震は、ほぼ毎日、日本のどこかで発生しています。
 幾多の人々が、その都度、悲しみにくれたことでしょう。
 しかしながら、時の過ぎゆくスピードの速い時代、ともすれば、私たちは、地震国、火山国、台風などの災害発生国「日本」に住んでいることを忘れがちです。
 なんでも欲しいものは、手を伸ばすと必ず手に入る今の生活に慣れ親しみすぎていないかと、ときどき自分自身不安に駆られることがあります。
 私自身、あの大震災を経験したにもかかわらず、今住んでいるこの町で、あの大震災が発生したらと、頭の片隅にいつも置いておかなければならないとは思うのですが、普段は、なかなかそのように生活はできません。
 南海トラフがいつ動くのか等々、地震学者の間では、多方面からの議論がされているようですが、庶民にはなかなか実感がないのが現実であろうと思います。
 大震災の後、岩手県を中心に、なぜ、津波から助かったのかという検証報道がありました。そこには古くから「命てんでんこ」、「津波てんでんこ」の教えがあったといいます。
 自らの命は、自らが守るということです。
 津波の警報が遅かった、適切でなかった等々、行政に対する批判、非難があったのも事実です。ある町では、町長はじめ多くの町役場職員が、海岸近くの役場庁舎前広場で対策を話し合っているうちに津波に流され、町長はじめ多くの職員が亡くなり、司令塔不在の状態になったところもありました。
 「いざ」というときは、小さい子供から大人まで、まずは自分自身が安全なところに「逃げる」、非情であっても自身が「逃げる」それがわが身を守る術であるとの古からの教えに倣うべきではないかと思っています。どのような災害にも当てはまる教えと思います。
 「命てんでんこ」忘れない言葉として、自覚したいと思います。
 11月26日の週放送のNHK「こころ旅」の火野正平さんは、茨城県を超え、一休みをしています。12月1週目からは、千葉県に入り、視聴者の皆さんから寄せられた「心に残る地」、「忘れられない地」「思い出の地」を、静岡県まで69歳の身で頑張って自転車で訪れます。
 彼の飾らない人柄、優しさに元気、勇気をもらっているのは、私だけではないと思います。
 全国の視聴者が彼に勇気と元気をもらい、また、彼を通して、自分の人生を振り返り、また、各地の被災地に心を寄せる。それが被災者、視聴者の心の復興の一助になっていると思います。
 来春には、また新しい「春の「こころ旅」」が始まることと思います。火野正平さんの体が続く限り、続けてほしいと願っている視聴者は数知れないと思います。
 秋の旅が無事、静岡県にてゴールし、来春も新しい「こころ旅」がスタートすることを祈念して筆を置かせてもらいます。
(平成30年11月30日記す)

  二つの法律雑感(藤原勇喜)  

1 はじめに
 私は現役時代に登記事務を経験し、退職してから公証事務に従事した。この二つの仕事に関係する法律は、前者は不動産登記法であり、後者は公証人法である。ちなみにこの両法の沿革をみると登記法は明治19年法律第1号として、公証人規則は同年法律第2号として制定されている。明治政府は登記手続のための登記法を制定し、あわせて公証人規則を制定したことになる。1886年、明治19年のことである。この二つの法律が同時期にしかも法律第1号、第2号として成立したのは偶然なのか、まさに雑感としてまとまらない感想をおもいつくままに綴ってみたいと思う。
 不動産登記法は、平成17年に改正されて今日に至っているが、その前は明治32年に制定された不動産登記法、そしてさらに10年余をさかのぼる登記法の制定に端を発している。
 それ以前の明治維新前ということになると、封建制のもとで土地の永代売買は原則禁止されていたが、例外的にその支配権と考えられるものの移転は認められていたようであり、その権利者の把握手段として名寄帳等とよばれる公簿も設けられていたといわれる。ただ取引自体が村役人である名主の奥書割印とその管理に係る名寄帳等への記入という手続をもって成り立つものとされており、全体としては役人による貢納徴取のための権利者の把握を念頭においた公的な色彩の強い仕組みの一環をなすものであったといわれる。
 明治維新により成立した新政府は、明治5年の太政官布告をもって土地の売買禁止を解除して私的所有権と取引の自由を認めた。しかし、ここでの土地売買は、土地税制を金銭納付の仕組みに改めるために作られた地券制度のもとにおいて発行される地券の交付ないしは裏書と結びついており、地券は府県庁ないしは郡役所が管理する地券台帳により管理されていたから、税制から独立した公示制度が設けられていたわけではなかった。
 ところが、経済の発展に欠かせない金融の整備のためには、土地の売買にとどまらず、むしろその担保制度の整備が欠かせない。明治政府は、引き続き、土地・建物の質入れ及び書入れ(抵当権の設定に相当)の制度の整備を図る必要に迫られ、明治6年の地所質入書入規則の制定をはじめとする一連の規則の制定を実施している。これらの規則のもとでは、戸長役場の公証とともにされる公簿(奥書割印帳)への記載により権利関係を公示する仕組みがとられたたが、この仕組み(奥書割印制度)こそ、我が国における登記制度の萌芽というべきもので、その後明治13年になって、土地売買譲渡規則が制定されて、この仕組みの対象が地券のみに頼っていた土地所有権の移転にも拡げられ、権利の公示制度が税制から独立した存在となったのである。
2 登記法の制定(明治19年)
 奥書割印制度は、権利公示の機能を有していたとはいえ、その中心は権利の移転を証文への奥書割印によって効力あらしめるという公証的側面であり、公示制度としてはいささか機能的な不備があった。肝心の公簿である奥書割印帳に規格がないためその様式が戸長役場によって異なり、また編成も年代順で、見出帳もなく、特定の不動産の権利関係を容易に把握することができなかったからである。これに加えて、戸長役場における公簿保管や事務処理の不備、さらには役場自体が絡んだ不正事件の発生も加わって、増大する不動産取引の中、間もなく制度の抜本的改革が求められるようになった。
 政府は明治14年から諸外国の登記制度の調査を含めて検討を行い、その結果、前述のごとく明治19年に法律第1号として登記法を制定し公布した。他方、奥書割印制度を定めた土地売買譲渡規則等はこの法律に抵触する範囲で廃止され、この登記法は明治20年2月1日に施行された。
 このように明治政府は明治19年に登記手続のための登記法を制定し、あわせて同年に公証人規則を制定している。
 その後、明治32年2月24日法律第24号として改正前不動産登記法が制定されている。永きにわたり慣れ親しんだ法律であったが、小生にとってはただ一点どうしても気になる点があった。同法第40条に規定する申請書副本制度である。昭和30年代後半から昭和40年代、50年代にかけての日本の経済の高度成長時代に、激増する登記事件を当時の厳しい処理体制の中で乗り切ることができたのは、この申請書副本制度によるところが極めて大きいということは身をもって感じているが、ただ一方では実際の物権変動を如実に登記簿(登記記録)に公示し、不動産取引の安全と円滑を図るという不動産登記制度の理想から考えると、やはり現実の物権変動を如実に公示するための登記原因証書(登記原因証明書(情報))の提供が望まれるところである。そういう意味では平成17年の不動産登記法の改正においてこの点がどうなるか、もし副本制度が継続するということであれば私個人としては不動産登記法の研究はやめようという気持でかたずを呑む思いでいたが、改正についての検討状況としては、当初の情報としては副本制度が存続しそうであるということであったので、ああ・・これで不動産登記法ともお別れだな!?と思ってがっかりした日々を過ごしていたところ、後半になって、藤原さん、登記原因証明情報の必須化ということで登記原因証書が残りそうだよ!!という情報が入り、これで不動産登記制度はよくなる。国民の皆様方の不動産に対する権利保全を図る制度として絶対にお役に立てる登記制度を実現できる。ヤッター・・という気持で一杯になったことを今さらのように思い起こすことができる。
 そして、その後の状況は小生がまさに考えていたような形で不動産登記の充実・強化が図られ、さらには筆界特定制度というまさに表示登記の充実と強化という側面からのすばらしい制度がスタートし、不動産登記制度は国民の皆様のお役に立てるすばらしい充実した制度となっているというのが小生の実感である。
3 司法職務定制
 ところで、今度は公証制度の沿革についてであるが、日本における公証制度の創設は1872年(明治5年)8月3日に太政官無号達によって制定された司法職務定制に始まるといわれる。この司法職務定制はその第10章に「証書人、代書人、代言人職制」を定め、この証書人が現在の公証人であり、代書人(司法書士)、代言人(弁護士)とともに現在に至る法制度の萌芽であるといわれる。
 司法職務定制が制定された当時、明治政府は田畑永代売買禁止令(江戸幕府が1643年に出した田畑の永代売買を禁止した法令で、本百姓の没落防止を図ったが、質流れによる移動は合法であったので実効性はなかったともいわれる。)を1872年(明治5年)に解禁し、土地の売買を認めたが、売買の際に地券を交付することとし、証書人に役所で奥印させるという方式をとったといわれる。この証書人は常設の機関ではなく、臨時に戸長、副戸長が証書人になっていたようである。
 しかし、公証の手続をとるためには、当事者が役場に出かけていって戸長の面前で名前を自署しなければならず、手続の煩雑さからか活用はさほどされなかったといわれる。
 その後、明治政府は1886年(明治19年)に登記手続のための登記法を制定し、あわせて公証人規則を制定している。
4 公証制度の創設
 我が国においては、前述のごとく西欧の法制度が導入される前から、建物譲渡などの重大な契約の証書には、名主・組頭・百姓代官などの奥印や親類などの加判を付けて、契約の実行を保証し、その権威付けが行われていた。
 当時はまだ不動産登記制度はできておらず、地券制度、公証制度が所有権の移転制度を担っていた。
 まず、明治4年4月10日の太政官布告第53号は、従来の名主・組頭に代わって戸長、区長の制度を設け、戸長役場に「奥書割印帳」が置かれた。
 明治6年1月太政官布告第18号をもって制定された地所質入書入規則は、戸長をして奥書証印せしめ、奥書証印のないものは無効とし、その後明治8年第48号布告、同10年第28号布告、同13年第52号布告などは、土地・建物売買などの契約書に戸長の奥書証印を求めさせ、それがないものを無効としている。
 このような奥書割印によって権威付けされた証書を明治8年4月10日の太政官布告第53号は、「公証ノ証書」と名付け、この証書には、通常の契約と異なり、債務者の身代限り、競売代金中から利息を含めて優先弁済を受けることができることとされていた。この「公正ノ証書」が我が国における公証制度の明文上のスタートといわれている。
 この公証制度は、近代的な土地所有制度の創設と結びついている。すなわち、明治以前においては、土地について私人の所有制度はなく、売買も禁じられていた(土地永代売買の禁)。明治政府は、土地永代売買の禁を解いたが、その当時は、不動産登記の制度が整備されていなかったため、地券の発行と地券の授受による譲渡の制度を設けている。しかし、地券の発行は、土地の地番、地目等の特定を前提とするものであるが、その前提が容易に整わないため、戸長役場等で二重公証や偽造公証もあったといわれ、土地の取引が混乱をする事態を招いたといわれる。
 また、前述のとおり、明治時代には「証書人」の制度があり(明治5年8月3日公布の太政官無号達司法職務定制)、区戸長役場で公証の仕事をしていたということは前述のとおりである。
 明治19年8月11日公証人規則が制定公布され(法律第2号)、同年8月30日公証人規則施行条例(司法省令甲第2号)が制定公布されている。そして明治19年8月13日には登記法(旧登記法)(法律第1号)が制定公布され、裁判所の所管する登記制度が創設された(法務省という組織ができるのは昭和20年代前半である。)。
 明治41年4月14日に法律第53号として公証人法が制定公布され、翌明治42年に施行された。そして同時に公証人規則は廃止された。この法律が現行の公証制度の基礎をなす法律である。
 このように両制度の沿革を振り返ってみると、それぞれの時代背景をもとにそれぞれ必要な時期に必要な法律(法令)を制定し、また改正をしているということのようであるが、双方の仕事を経験し、双方の法律に親しんだ者としてはいささか必要以上の親近感を抱き、もしかすると法律(法令)1号、2号というのは偶然ではなく、必然かも・・・といった深追いをしているのかも知れない。公証人の皆様には私と同じように双方を経験している方が多いのではないかと思いますが、いかに感じておられるでしょうか?。総会、研究会などの時の話題の一つにでもしていただければ大変うれしく思います。

  縮む・伸びる(由良卓郎)  

 はっきりとした記憶はないが、昨年4月ころには、歩行時等に、右足かかと(くるぶしの下付近やその最後部)に痛みを感ずるようになっていた。日々の生活に支障がある程ではなく、立っているときや歩行時など右足に体重がかかったときに、少し鈍痛を感ずるといった程度であったので、そのままにしていたが、自然治癒の兆しがないので、昨年秋頃から近くの整形外科医院に通い始めた。
 昨年12月のある日、3回目の診察に同整形外科医院を訪れ、待合室で診察の順番待っていた際に、椅子の横のカウンターの側面に貼られたポスターが目に入った。それは骨粗しょう症に関するポスターで、次のように書かれていた。
 「20歳のころと比べて身長が縮んでいませんか。2センチ以上縮んでいたら、骨そしょう症により背骨が骨折しているかも知れません」
 ポスターは、主に女性を対象としたもののように思われたが、ひょっとすれば自分もそうなっているかも知れないと思ってしまう。
 成長期には毎年のように身長を測定していたが、社会人になると身長測定の機会といえば、人間ドックか健康診断くらいである。
 ここ数年人間ドックも受けていなかったが、一昨年は、9月と10月の2か月の間に人間ドックを含め身長を測定する機会が複数回あった。そして、そのいずれの測定結果も、数年前までは身長の伸びが止まってから変化のなかった身長が丁度1センチ低くなっていたのである。複数の測定結果が一致していることから、何かの間違いではないのかとの言い逃れはできない。私は何とか身長を元に戻したいと思いつつ、これといった対策もせず1年が経過したが、先ほどの整形外科医院での3回目の診断の結果、リハビリ(右足首からふくらはぎにかけての電気治療とマッサージ)をすることとなり、必要性は分からないが、リハビリの前に、身長、体重、握力を測定することとなった。その結果、身長は、昨年の測定結果より更に5ミリ低いという衝撃的なものであった。数年前までは変化のなかった身長が、この数年間で1.5センチも低くなっていたのである。私にとっては、決して小さくない数字である。この早さで身長が縮み続けることはないは思うが、気分のよいものではないし、後5ミリ低くなると背骨の骨折を心配しないといけなくなりかねない。
 ところで、親父の背中が小さくなったなどと言うことがあるが、これは、自分が成長するに従って相対的に親が小さく見えるようになることや、親の姿勢が悪くなって小さく見えることを言うのだろうと思っていたが、私自身が小さくなっていたのである。
 このように身長が縮む傾向の中で、逆に増加傾向のものもある。胴回りは、公証人を拝命したころに緩めに調整していたベルトの穴が二つ三つベルトの先端方向に移動してしまったのである。もちろん体重もである。胴回りや体重は、自らの努力次第で縮め、下げることができるはずだが、生涯を通じて減少傾向に転じた記憶はない。
 ちなみに、今年に入って腰の診断のためレントゲンを撮ってもらったところ、私の場合は、骨折でも腰椎椎間板ヘルニアでもなく、背骨の間が狭くなっているとのことであった。加えて、予期しない通告は、背骨が少し曲がっている(前後ではなく左右方向に)とのことで、これらが身長低下の原因のようだ。
 なお、先ほどの握力測定の結果は、左右とも若い頃から大きな減少はなかった。
 加齢による体力の低下や体の変化には抗えないものの、最近は何かと健康寿命が叫ばれる中、これからは、適度な運動に努め、暴飲暴食を慎みながら、縮んだものを伸ばし、伸びたものを縮める努力をしつつ、1年1年を大切に健康で過ごしたいと願う今日このごろである。
 皆様方は、私のようなことはないと思いますが、体重ばかりでなく、身長の低下にも注意を払って下さい。


実 務 の 広 場

 このページは、公証人等に参考になると思われる事例を紹介するものであり、意見にわたる個所は筆者の個人的見解です。

No.67 弁護士法第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについて                  

1 はじめに
 弁護士法(以下「法」という。)第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについては、照会があった都度、参考となる前例や協議結果の有無の調査から始まり、回答までに相当な負担となっていました。また、回答相当な案件を回答拒否すると弁護士会から損害賠償請求されかねないし、他方、回答拒否相当な案件を回答すると守秘義務違反ということで損害賠償請求されるといった、難しい事態となっていました。
 一度、考え方の整理をしたい(誰かやってくれないかな)と考えていたところ、昨年末、最高裁判決がありましたので、紹介を兼ねて、論旨1から4までに分けて整理してみました。
2 論旨1について
 (論旨1)法第23条の2第2項に基づく照会をした弁護士会が、その相手方に対し、当該照会に対する報告をする義務があることの確認を求める訴えは、確認の利益を欠くものとして不適法である。
(最高裁平成30年12月21日第二小法廷判決・平成29年(受)第1793号損害賠償請求事件)
 本件は、郵便事業株式会社に対して法第23条の2第2項に基づき照会をした弁護士会である被上告人が、上記会社を吸収合併した上告人に対し、当該照会についての報告義務があることの確認を求める事案です(事案の概要は、会報28年12月号12頁、会報29年5月号4頁、及び会報29年11月号17頁を参照ください。これらに紹介された事案の、法23条の照会についての報告義務があることの確認請求についての判決です。)。
 この判決では、「弁護士法23条の2第2項に基づく照会(以下「23条照会」という。)の制度は、弁護士の職務の公共性に鑑み、公務所のみならず広く公私の団体に対して広範な事項の報告を求めることができるものとして設けられたことなどからすれば、弁護士会に23条照会の相手方に対して報告を求める私法上の権利を付与したものとはいえず、23条照会に対する報告を拒絶する行為は、23条照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはない(最高裁平成27年(受)第1036号同28年10月18日第三小法廷判決・民集70巻7号1725頁)。これに加え、23条照会に対する報告の拒絶について制裁の定めがないこと等にも照らすと、23条照会の相手方に報告義務があることを確認する判決が確定しても、弁護士会は、専ら当該相手方による任意の履行を期待するほかはないといえる。そして、確認の利益は、確認判決を求める法律上の利益であるところ、上記に照らせば、23条照会の相手方に報告義務があることを確認する判決の効力は、上記報告義務に関する法律上の紛争の解決に資するものとはいえないから、23条照会をした弁護士会に、上記判決を求める法律上の利益はないというべきである。
 したがって、23条照会をした弁護士会が、その相手方に対し、当該照会に対する報告をする義務があることの確認を求める訴えは、確認の利益を欠くものとして不適法であるというべきである。」と判示して、訴えを却下しました。
3 論旨2について
 (論旨2)法第23条の2第2項に基づく照会に対する報告を拒絶する行為が、同照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはない。
(最高裁平成28年10月18日第三小法廷判決・平成27年(受)第1036号損害賠償請求事件)
 本件は、23条照会を本件会社に対してした弁護士会である被上告人が、本件会社を吸収合併した上告人に対し、主位的に、本件会社が23条照会に対する報告を拒絶したことにより被上告人の法律上保護される利益が侵害されたと主張して、不法行為に基づく損害賠償を求め、予備的に、上告人が23条照会に対する報告をする義務を負うことの確認を求める事案(項番2の判例と同じ事案です。)において、主位的請求について判決されたものです。
 この判決では、「23条照会の制度は、弁護士が受任している事件を処理するために必要な事実の調査等をすることを容易にするために設けられたものである。そして、23条照会を受けた公務所又は公私の団体は、正当な理由がない限り、照会された事項について報告をすべきものと解されるのであり、23条照会をすることが上記の公務所又は公私の団体の利害に重大な影響を及ぼし得ることなどに鑑み、弁護士法23条の2は、上記制度の適正な運用を図るために、照会権限を弁護士会に付与し、個々の弁護士の申出が上記制度の趣旨に照らして適切であるか否かの判断を当該弁護士会に委ねているものである。そうすると、弁護士会が23条照会の権限を付与されているのは飽くまで制度の適正な運用を図るためにすぎないのであって、23条照会に対する報告を受けることについて弁護士会が法律上保護される利益を有するものとは解されない。
 したがって、23条照会に対する報告を拒絶する行為が、23条照会をした弁護士会の法律上保護される利益を侵害するものとして当該弁護士会に対する不法行為を構成することはないというべきである。」と判示して、原判決の上告人敗訴部分を破棄し、被上告人の控訴を棄却しました。
4 論旨3について
 (論旨3)公証人は、法第23条の2第2項に基づく照会事項が報告されることにより得られる利益と、報告により秘密帰属主体が受ける不利益とを慎重に利益衡量した上で、報告するか、拒絶するかを判断するのが相当である。
⑴ 次に、公証実務の取扱いを見てみます。
 まず、刑事訴訟法第197条第2項に基づく照会の取扱いについて、見てみましょう(新訂法規委員会協議結果要録266頁以下)。
 「公証人法以外の法律の規定に基づく照会等を受けた場合において、これに応ずる義務が公証人にあるか否かは、①公証人が照会に応じることにより充足される法益と失われる法益とを比較考量し、いずれを優先させるべきか、②公証人が守秘義務を理由に照会等に応じない場合に、照会等の目的を達成するための代償措置が法によって保障されているか否か等を検討した上で決せられるべきものであろう。」
 また、その協議結果については、第1説から第4説までがあるものの、「いずれの説によっても、
ア 検察官の証書閲覧請求によって照会の目的を達することができる場合には、公証人は回答を拒絶し得ること、
イ 証書作成の有無、事件番号その他証書閲覧請求をする手掛かりとして必要な事項について照会があった場合には、これに応じて差し支えないこと
 については特に異論はなかった。」とされています。
⑵ 次に、法第23条の2第2項の規定に基づく照会の取扱いについて、見てみましょう(新訂法規委員会協議結果要録272頁以下)。
ア 某弁護士会から、訴訟上の必要があるとして(具体的理由は記載されていない)、某公証人に対し、当該公証人が昭和43年1月1日以降現在までの間に行った、某税理士が代理人となって認証の嘱託をした会社定款の認証の件数及びその年月日、会社名について、照会し報告を求めたのに対し、協議結果は、このような照会は、受任事件の事件名も、また照会の必要性も不明であり、また、調査に多大の労力を要すると思われるのでこれに応ずる義務はないというのが全員一致の意見であったとされています(昭和52・1・27日公連法規小委協議(公証47号66頁))。
イ 弁護士会長から遺言の証人の氏名、住所等につき法23条の2に基づく報告依頼を受けたのに対し、協議結果は、遺言者の死亡前であるならば、断るべきことはいうまでもない。問題とすべきは遺言者の死亡後であるが、公証人の守秘義務に違反するので応じられない(公証人法第4条)。例えば、相続人のように、証書原本の閲覧申請なり、謄本の交付申請なりができるものは、それで対応する。なお、裁判所からの記録取寄せに対しては、公証人法第25条で応ずることとなるが、裁判所に対しても、取寄書類によって判明する以上の秘密についての証言などは、応ずることができない(民訴法第197条第1項第2号、刑訴法第149条)とされています(昭和59・7・3東京会法規委協議(会報59年8月号21頁))。
5 論旨4について
 (論旨4)法第23条の2の規定に基づく照会で遺留分減殺請求権の消滅時効の始期の確認のためであっても公正証書の謄本交付・閲覧申請書の閲覧、謄本の交付の請求及びその内容の回答はできない。
(当役場であった事例で、公証業務照会センターの支援を得て対処した事案です。)
⑴ 弁護士会長からの照会の概要
 弁護士会長から、法第23条の2の規定に基づき、おおむね次のとおりの照会がありました。
 遺留分減殺請求事件に関し、被相続人である甲が平成〇年〇月〇日に遺言公正証書を作成した後、平成〇年〇月〇日に死亡し、相続が開始したところ、その死亡の日から約1年3か月が経過して、他の相続人から遺留分減殺請求があった。
 そこで、他の相続人による遺留分減殺請求は、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間が経過するまでの間にされているかどうかを確認するため、当該遺言公正証書について閲覧又は謄本の交付の請求をした者がいるかどうかを確認するために、①公正証書作成日である平成〇年〇月〇日から本件照会時までの間に、当該遺言公正証書について閲覧又は謄本の交付の請求をした者がいるか、②いる場合は、その請求の日付、請求者の住所・氏名を回答されたいというものです。
⑵ これに対し、まず、次のとおり前提の整理をしました。
 まず、公正証書の閲覧等申請書の閲覧等の取扱いについて確認します。
ア 公正証書の閲覧等申請書の保存期間について、法務省民事局総務課長から通知がされており(平成28年2月15日付け法務省民総第77号民事局総務課長通知)、同通知によるとこれらの申請書は、公証人法施行規則(以下「規則」という。)第27条第1項第3号に当たり、保存期間は7年とされています。
 これらの申請書は、同号に掲げられている認証簿、確定日付簿及び計算簿に該当しないことは明らかであるので、規則第25条第2項の書類に該当することになります。
イ ところで、従来の公証実務では、証書原簿、認証簿、確定日付簿等についても閲覧を請求することができると解され、閲覧請求に応じていたものと思われます(平成22年6月29日法規委員会協議(公証161号202頁)、新版法規委員会協議結果集録・平成8年~平成24年178頁、新訂公証人法115頁)。
ウ これに対し、規則第25条第2項の書類については、閲覧又は謄本の交付の請求を認める規定は存在せず、閲覧又は謄本の交付の請求に応ずることはできないと通達されました(平成19年3月15日付け民総第586号民事局長通達記の第2の4、公証事務先例集122頁)。
 したがって、照会の対象となっている書類(公正証書の正本・謄本交付閲覧申請書(規則第25条第2項の書類))については、公証人法及び規則等の規定に基づく閲覧又は謄本の交付の請求に応ずることはできないということになります。
⑶ 次に、⑵の前提を踏まえて、本件の取扱いについて検討します。
 公正証書の正本・謄本交付閲覧申請書は、本人であっても閲覧又は謄本の交付の請求に応じない書類であることを前提として、さらに項番4(論旨3)の考え方に従って、①公証人が照会に応じることにより充足される法益と失われる法益とを比較考量し、いずれを優先させるべきか、②公証人が守秘義務を理由に照会等に応じない場合に、照会等の目的を達成するための代償措置が法によって保障されているか否か等を踏まえた上で、回答することは相当でないと処理しました。
 なお、公証人法第4条の規定からすると、「嘱託人(本件ではこの嘱託人とは、正本・謄本の交付又は閲覧の申請をした者に当たる。)ノ同意」があれば、回答できるということでしょう。
 また、裁判所から送付嘱託、取寄せ依頼等があった場合は、応ずることができるでしょう。
6 まとめ
 項番3(論旨2)の最高裁平成28年10月18日第三小法廷判決の判例紹介において、新橋公証役場の石原直樹公証人による、「思うところ」のコメントがあります。今般、いろいろ調べたり、検討した中でこのコメントが弁護士法照会の取扱いの指針であろうと考えます。本稿のまとめとして、同コメントを紹介して、この稿を終わります。
 「最後に、仮に、具体的な公証業務に関して、公証人(公証役場)が23条照会を受けた場合の対処の仕方について、思うところを多少述べておくことにする。
 この場合に、23条照会に応じた報告だからといって、必ずしも損害賠償義務を免れるわけではなく(前掲最高裁昭和56年4月11日第3小法廷判決参照)、他方、報告を拒絶した場合に、法律上保護される利益を有するとして損害賠償(国家賠償)請求をし得る者が誰もいないという可能性が大きいのであれば、リスクを回避するために、報告を拒絶した方が良いという声も聞こえるところである。
 しかし、仮に、法律上保護される利益を有する者がいないということになったとしても、それは、損害賠償(国家賠償)請求という局面における事態であって、23条照会を受けた公務所又は公私の団体は、正当な理由がない限り、照会された事項について報告をすべき公法上の義務を負っていることに変わりはないのである。このような公法上の義務を最初から無視するようなことは、公証人として取るべき態度とは思われない。
 無論、公証人は、公証人法4条により守秘義務を負うものであるが、秘密といっても、その内容によって秘匿すべき度合いには強弱があるのであり、これに23条照会に対する報告義務の趣旨を併せ考えれば、公証人法上の守秘義務が、いかなる場合であっても23条照会に対する報告義務に優先するとはいえないと思われる。照会事項の内容と照会書に記載された照会を必要とする理由とに基づき、報告を拒絶する正当な理由があるかどうか、すなわち、照会事項が報告されることにより得られる利益と、報告により秘密帰属主体が受ける不利益とを慎重に利益衡量した上で、報告するか、拒絶するかを判断することになろう。」(会報平成29年5月号4頁)
(中垣治夫)

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